「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「観音紀行」粉河寺

2016-06-10 04:16:58 | 観音巡拝紀行

「観音紀行」粉河寺“西国3番札所”・天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺は西国観音三番札所、本尊は千所観音菩薩。伝承によれば宝亀元年(770)大伴孔子古によるとされている。「粉河縁起」には二つの説があって一つ目は千手観音の由来する紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を結んだ。それが粉河寺の始まりと云う説とある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねてきて、今晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、七日かけて千手観音菩薩を刻んだ。八日目に孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は猟師の仕事を辞め殺生をやめて観音を信仰するようになった。二つ目は千手観音の霊験説話で、河内国の長者左大夫の娘は重い病で明日をも知れない命、そこの現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷した所、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと差し出した財宝に童行者は受け取らず、娘の小太刀の紐だけ受け取り「私は紀伊国那賀郡に居ります」言って立ち去った。長者が那賀郡に尋ね小さな庵に千手観音像と娘の小太刀の紐だけが残され、長者は観音の化身と知ってその場で出家し、孔子古と共に粉河寺を祀り繁栄をさせた。この説話に拠ってか平安時代には朝廷や貴族の信仰の加護で大いに栄えたという。天正時代には豊臣秀吉の根来攻めで、あおりを受けて全山伽藍の全てが焼失した。その後江戸時代になって再建された。
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「古社寺探訪」誓願寺

2016-05-28 04:05:44 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」誓願寺”新西国一五番札所“京都市中京区新京極通にある寺院。浄土宗西山深草派の総本山である。本尊は阿弥陀如来、依拠の経典は浄土三部経である。天智天皇6年(667年)、天皇の勅願により奈良に創建。平安遷都後、西山上人証空の弟子円空(1213年-1284年)が京都の深草に寺を建て布教したのが始まりである。日本各地に無住の寺を含めて400か寺余りの末寺がある。愛知県の三河地方を中心に四国や兵庫、京都に多くの末寺が存在している。歴代の管長は三河地方から多く出ている。本寺のある場所は京都の中心街である新京極にある。御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している。天明、弘化、元治年間に三度大火に罹り、さらに明治維新とそれに続く廃仏毀釈で寺地を公収され境内は狭隘となったが、扇の塚のある寺として芸能関係にはよく知られた寺である。説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として知られている。また、落語発祥の寺とも言われている。今でも関西地方の芸人たちがこの寺で練習会を営んでいる。戦前は西山三派と言われている深草派(誓願寺)、禅林寺派(禅林寺、通称永観堂)、光明寺派(光明寺)の浄土宗の寺が一緒になって運営されていた時代がある。戦後は、それぞれの派に別れ、独自の布教活動を行っている。浄土宗西山深草派の総本山が誓願寺である。



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「観音巡拝紀行」一乗寺

2016-05-26 04:04:05 | 観音巡拝紀行

「観音巡拝紀行」一乗寺・兵庫県加西市にある天台宗の寺院。西国三十三所第二十六番。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡に八葉蓮華の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏六躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永五年(1628年)に建てられたものである。
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観音巡拝紀行」圓教寺

2016-05-25 04:21:26 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」圓教寺・兵庫県姫路市の書写山に位置する寺院で、天台宗の別格本山である。山号は書写山。西国三十三所第二十七番。現住職は第百四十世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、三つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される[6]。伽藍がある標高371mにある。山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。室町時代の応永五年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。書写山の山上にあり、康保三年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる[15]。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる。性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが、『性空上人伝記遺続集』によれば、性空は延喜十年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる。入山して4年目の天禄元年(970年)、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に三間四方の堂を建てた。これが如意輪堂の創建であるという。
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「観音巡拝紀行」宝亀院

2016-05-24 04:12:07 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」宝亀院〝新西国六番札所“高野山真言宗 別格本山・和歌山県伊都郡高野町高野山・本尊十一面観世音・観賢僧正・由緒は宝亀院は、永遠に生き、永遠に働き続けている弘法大師に仕える寺で、毎年、3月21日に弘法大師の衣替の儀式を司っており、延喜二十一年(921)、醍醐天皇の勅願により創建され、弘法大師生誕の年号を以って寺号としている。承和二年(835)3月穀奨を断つ事21ケ日、3月21日寅の刻(午前4時)62歳で、弘法大師はこの世の続く限り生き長らえて苦しみ悩む人々のためにその身を捧げんとして、永遠の禅定に入られた。悽絶なまでの衆生愛に燃える大師の精神力は、今もなお生き続け、人々に慈愛の手を差し伸べているのである。そして、この寺は、弘法大師に御衣を奉る寺であり、その衣を染める霊井は、生命の泉として清冽に湧出し、福智円満の功徳が授かると伝えられ、深い緑と清かな泉の宝亀院は、正に魂の憩め場として、他に類を見ないものである。本尊十一面観世音(重文)/辨財宇賀神/弘法大師御影/不動明王/厄除弘法大師/御衣唐樋等、重文多し ※その他に応挙、雪舟、英一蝶らの筆致は高野山最古の名刹の風格を偲ばせるに充分である。 弘法大師の没後86年目にあたる延喜21年(921年)10月のある夜のこと、醍醐天皇の枕元に弘法大師が立った。天皇は直ちに勅使を高野山に向かわせたところ、延喜21年11月のある明け方、御廟に弘法大師が現れたが、その衣はひどく汚れていたので、勅使に同行していた観賢僧正は大師の汚れた衣を替えたという。  このことが基になり延喜21年(921年)に醍醐天皇の勅命により観賢僧正はこの寺を開いたとされ、弘法大師の誕生が宝亀5年(774年)であることから、宝亀院と命名されたと伝えられている。以来毎年、大師の命日である3月21日には新しい衣を弘法大師御廟前に御供えするようになった。
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「観音巡拝紀行」おふさ観音・

2016-05-22 05:21:12 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」おふさ観音・(一般信仰の人が多く提灯と花が境内にあふれていた)奈良県橿原市小房(おうさ)町にある寺院の通称名である。山号は十無量山。正式名称は高野山真言宗別格本山 十無量山 観音寺。イングリッシュローズが境内に所狭しとあふれる寺院として知られている。大和三山の耳成山と畝傍山のほぼ中央に位置する寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。1650年(慶安三年)、この辺りにあった鯉ヶ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現れ、それを発見した付近に住む娘おふさが小さな堂を建立して観音を祀ったことが起源とされている。
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「観音巡拝紀行」頂法寺”(六角堂)

2016-05-19 04:06:12 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。天治二年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、明治十年(1877年)に再建されたものである。
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「観音巡拝紀行」楊谷寺

2016-05-15 04:57:55 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」楊谷寺”新西国17番札所“京都府長岡京市にある西山浄土宗の寺院。独鈷水(おこうずい)の寺として、また近年は紫陽花の寺としても知られている。通称柳谷観音(やなぎだにかんのん、楊はヤナギ)。縁日(命日)は毎月十七日。寺伝では清水寺の開祖延鎮が806年に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観世音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。 その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をした。その際に猿が瞑れた目をここの湧き水で洗っていたのを見た空海が眼病に効く独鈷水として広めたという。    
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「観音巡拝紀行」水間観音

2016-04-28 04:21:19 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、「水間観音」の水間寺は南海貝塚駅より水間鉄道で終点水間駅下車五百メートル 高速阪和道貝塚インターすぐにある。泉州は和泉葛城山を背になだらかな山間にあって、和泉随一を思わせる堂々たる伽藍の水間寺の創建は古く、寺伝に縁れば、奈良時代は聖武天皇が病気になった時、夢に観音のお告げを受けられたと言う。その事を行基に話し現地に赴くように命じたという。行基はお告げに随い当地を訪れた所、観音さんの化身である白髪の仙人と16人の童子が現れた。導かれ裏山の滝に向かうと、身の丈一寸八分の聖観世音菩薩を見たという、聖武天皇の勅命によって行基は滝の傍らにお堂を建て、完成するまで16人の童子と共にしたという。近郷近在から遠方の願を掛ける人々に「水間観音さん」と親しまれ、初午の日には「厄除け観音」として厄年のお参詣の人が絶えない。その後、天正十三年に豊臣秀吉の、根来攻めの折り際その下臣堀秀政の軍勢によって火が放たれて、七重伽藍を始め坊舎などが火焔に包まれ灰塵と化したのである。その後、徳川時代岸和田城主の岡部美濃守は名刹水間寺を亡びることを惜しみ本堂と三重の塔などを再建されていった。水間寺は前後に川が流れ山門が無く、何時でも誰でも何処からでも入れる、自由豪放さは訪れる者はいつでも観音様に願いが掛けられる。川に架けられた「厄除け橋」に天台宗別格本山の石碑があって、参道で本堂より三重塔が中央に見える。元は多宝塔で多宝如来が安置されていたが、天正の戦乱で焼失したために「三重塔」を建立し釈迦如来が安置されている。水間の三重塔は再建は天保年かにもかかわらず昭和に修理が成されたと思われる、優美で新しさを思わせる塔で井原西鶴の作品のモデルになったと言われている。
本堂は二百年前に再建された大阪府か最大級の重厚な二重屋根のお堂である。本堂裏の小川に龍神より授けられた観音出現の滝、渓谷には観音像が降臨した石に伝教大師が刻んだ不動尊や、弘法大師の刻んだ名号石もあるという。水間寺は新西国四番札所として地元に及ばず遠方からの参拝の人の途切れは無い。境内の裏を川を隔て「行基堂」の南側に「鏡池」がありその池に中に「瑞泉堂」があって余りにも聖なる水で、清らかで澄み切って帰るも住めないと伝えられている。「薬師堂」「「弁財天堂」本堂の東に「愛染堂」に愛染明王は行基が椿の木刻んだものと言われ、その愛染堂の前に近松門左衛門の「お夏清十郎笠物狂」などで有名な「お夏、清十郎の墓」がある。水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に恋を成就を祈願した縁で「お夏清十郎」の墓が立てられたと言う。また与謝野蕪村も「ここに今日、お馬水かえ、水間寺」と句を残している
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「観音巡拝紀行」花岳寺

2016-04-15 04:14:18 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」花岳寺”新西国31番札所“・兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山。現在の住職はパーリ仏教研究者で駒澤大学仏教学部教授の片山一良。赤穂義士祭 - 12月14日播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。江戸時代初期の正保二年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した。元禄十四年(1701年)、浅野長矩による江戸城松之大廊下での吉良義央に対する刃傷事件が起こり、浅野家は改易となった。翌、元禄十五年(1702年)赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起きた。(赤穂事件)その後、赤穂藩には永井家が入り、宝永三年(1706年)には森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めた。赤穂浪士三七回忌にあたる元文四年(1739年)には境内に有志により義士墓が建立された。ここには遺髪が納められているとされる。また、宝暦二年(1752年)は赤穂浪士五十回忌にあたり、大石良金(主税)と関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。明治維新後、赤穂城が解体され塩屋惣門が花岳寺の山門として移築されたとされる。現在山門は、赤穂市文化財に指定されている。
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「観音巡拝紀行」浄土寺

2016-04-13 03:51:53 | 観音巡拝紀行

「観音巡拝紀行」浄土寺・“新西国札所客番”兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。浄土寺の建つ地には、奈良時代の僧・行基の建立した前身寺院があったとも言われるが、実質的な開山は平安時代末~鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼き討ちで、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進となったのが、当時六十一歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀、周防など日本の七か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を播磨国大部荘といい、東大寺領であった。境内には池を中心にして、西に重源当時の建築である浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の薬師堂(本堂)が建つ。この配置は偶然ではなく、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している。浄土寺浄土堂は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久五年(1194年)に上棟し、同八年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。堂は方三間の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。作風には当時流行の宋風が顕著である。 浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸を開け放つと背後からの光が入るようになっており、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することまで、作者重源は巧みに計算していたという意見もある。
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「古社寺探訪」長命寺

2016-04-11 06:21:33 | 観音巡拝紀行

「観音巡拝紀行」長命寺・滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る八〇〇段余の長い階段で知られる。伝承によれば、第十二代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は三百歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)「奥島庄司土師宿禰助正解文」という文書である。長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正十三年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。長命寺山の麓の船着場は安土への水路(長命寺川)の入口にもあたり、交通の要衝でもあった。長命寺本堂へは、湖岸から「八百八段」と呼ばれる石段の参道があり、登りには約二十分を要するが、現在は本堂近くまで自動車道も整備されている。石段下の右には穀屋寺、左には日吉神社がある。穀屋寺は、かつて寺領から上がる米を納めたところである。石段途中に冠木門があるのみで、山門はない。石段の途中左手に妙覚院と真静院、さらに上ると右手に禅林院、金乗院があるが、元禄五年(1692年)の記録によると、当時は上述の四か院を含め十九の子院が存在した[2]。石段を登りきったところが本堂の縁下である。南に面した境内には本堂のほか、右方に三重塔と護摩堂、左方に三仏堂、護法権現社、鐘楼、やや離れて太郎坊権現社がある。主要堂宇は屋根を瓦葺きでなく檜皮葺きまたはこけら葺きとしており、独特の境内風景を形成している。本堂裏の「六所権現影向石」をはじめ、境内各所に巨岩が露出しており、かつての巨石信仰の名残と考えられている。
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古社寺探訪・忉利天上寺

2016-04-09 03:50:29 | 観音巡拝紀行

「古社寺探訪」忉利天上寺”新西国22番札所“神戸市は摩耶山にある通称天上寺の宗派は高野山真言宗。本尊は十一面観音菩薩で体内仏として摩耶夫人で日本の寺院で唯一の寺院である。創建は大化二年(646)孝徳天皇の勅願に開創された。開基はインドから渡来した法道上人である。摩耶山は古くより山全体が御神体として崇められ、六甲山・再度山などの神仏を廻る回峰行が盛んに行われてきた。ここの寺には珍しい摩耶夫人堂があって、堂内には祀られている摩耶夫人像は空海によって持たされた。また山号は「仏母摩耶山」寺号を摩耶夫人が昇天した忉利天の名を取って「忉利天上寺」と名付けた。天上寺の最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱え三千人の僧を擁する摂津地方の屈指の寺院であった。また宗派を超えて皇族、武将などの崇敬を受け、花山・正親町両天皇の祈願所となった。摩耶夫人を祀ることから「女人高野」と称され、安産祈願、女性の信仰を集めている。
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「観音巡拝紀行」満願寺

2016-03-28 04:10:16 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」満願寺”新西国一三番札所“兵庫県川西市にある仏教寺院。山号は神秀山 、宗派は高野山真言宗。本尊は千手観音菩薩。寺伝によれば奈良時代、聖武天皇の勅願により勝道上人が創建したという。平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えた。

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「観音巡拝紀行」満願寺

2016-03-21 05:10:49 | 観音巡拝紀行
「観音巡拝紀行」満願寺”新西国一三番札所“兵庫県川西市にある仏教寺院。山号は神秀山 、宗派は高野山真言宗。本尊は千手観音菩薩。寺伝によれば奈良時代、聖武天皇の勅願により勝道上人が創建したという。平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えた。
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