「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。 弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛

2019-11-28 05:31:15 | 温故知新
「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。


『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円 『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。

2019-11-28 05:26:14 | 温故知新
『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。



『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。 一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、

2019-11-28 05:23:09 | 温故知新
『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。
一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、伊予に戻って豊後,大隅に山陽道の安芸に厳島神社から備前に、東北の白河の関から江差、平泉から松島に、美濃から伊勢神宮に参籠し但馬、因幡、大和当麻から、京都の石清水に、さらに播磨円教寺に、そして伊予大山三島神社に参拝し、終焉の地は播磨は兵庫は和田岬の真光寺で長い流浪の念仏布教の行脚の遊行を終えた。高潔な信念の念仏僧である。
 【銅鑼、太鼓、鉦をたたきながら、節を付けながら踊りながら一遍の後に弟子たち信者が続く「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマイダー」村々を巡り、念仏勧進の功徳を説きまわり、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算の配り札を諸国に配り巡った、文字も読めない農民や庶民にひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、西方浄土の阿弥陀様を信じる者は、来世には極楽浄土に住むことが許されるのじゃ、弥陀を称えてナンマイダー、ナンマイダーと村々の信者の弟子とどこまでも一遍と諸国を巡る、時宗(出家)と時衆(在家)が、日々の苦しさにあえぐ、農民や商人らを安心と銅鑼や太鼓、鉦に合わせて興じる庶民の、この世の極楽を作り出して安堵と平穏を農民に与えた、念仏踊りが西方浄土への道しるべとして、一時代の信仰の救世主となった】