「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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『浪速史跡めぐり』大阪証券取引所・

2016-12-20 04:56:22 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』大阪証券取引所・
船場、北浜は江戸時代より両替所や米問屋が集まる金融の中心地だった。明治十一年(1894)に五代友厚、鴻池善右衛門、住友吉衛門らが発起にとなって「大坂株式取引所」を設立した。明治二十七年(1935)には赤レンガ造りの3階建ての取引所が建てられた。後に手狭になったので昭和十年に新古典主義様式の新館が完成、設計は武腰建造氏によるものである。平成十四年に前面改修されたが、玄関ホールや貴賓室は保存されている。五代友厚は鹿児島藩士として長崎海軍伝習所で学び、後に欧州諸国を視察、維新後、判事や参与などの官職を辞し、実業界にその名を馳せる。東の渋沢、西の五代と称された。
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「浪速史跡巡り」釣り鐘屋敷跡・大阪市中央区に釣鐘町という町があるが、この町の名前の由来となった釣鐘が現存している。

2016-12-16 04:38:03 | 浪速史跡巡り
「浪速史跡巡り」釣り鐘屋敷跡・大阪市中央区に釣鐘町という町があるが、この町の名前の由来となった釣鐘が現存している。1634年(寛永11年)、3代将軍徳川家光が上洛の折、二条城から淀に至り、船で大坂城へ入った。この時、三郷惣年寄などが相率いて将軍を今市(現旭区今市町)に迎え、酒樽・鰹節を献じ、祝賀の意を表したところ、悉く城中に召され、各々紋服三領を賜り、加えて大坂町中の地子銀(現在で言うところの固定資産税)の永代赦免が達せられた。 当時三郷の地子銀数は1ヶ年178貫934匁で、この巨額の地子銀を永代に免除された郷民はその恩恵に感謝したことは言うまででもない。後世子孫までこの恩恵を忘れないためにて、惣年寄達が協議した結果、釣鐘をつくり町中に時を知らせることとした。 鐘は同年9月に完成。その銘文は谷町筋寺町西側(現谷町9丁目)の大仙寺の龍巌和尚が書き、開眼供養は一心寺の在牟上人が導師となって執り行われた。 この釣鐘屋敷の鐘は2時間おきの1日12回撞かれたが、その鐘の音は近松門左衛門の『曽根崎心中』の最後の道行の場面でも書かれている。 鐘楼は江戸時代を通じて、4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に見舞われたが、これをくぐり抜けたが、1870年(明治3年)に撤去され、釣鐘はその後、幾度か場所を移動し、1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていた。1985年(昭和60年)地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、現在に至っ(大阪再発見より)
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『浪速史跡めぐり』四天王寺石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門

2016-12-12 04:34:47 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』四天王寺石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を忍性上人が勅を奉じて石鳥居にあらためたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と浮彫風に鋳出してあり、釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
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『浪速史跡めぐり』安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区に

2016-12-09 04:31:54 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合わせにある。

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『浪速史跡めぐり』渡辺綱駒つなぎの樟・都島神社を更に西に行くと、公園と隣り合わせに

2016-12-05 04:52:55 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』渡辺綱駒つなぎの樟・都島神社を更に西に行くと、公園と隣り合わせに、森が見える。その中で一際大きく見えるオオクノキが見える。この辺りは大江山の鬼退治で有名な、源頼光の領地であった。長徳年間に頼光は一族の武神八幡大神を祀り、産土神社を創建した。その時に頼光このクスノキ植えたと言う。その後頼光の四天王と言われる、渡辺綱がこの地を管理を任され、この神社に参拝するときには、いつもこの木に馬を繋いだので「渡辺綱駒」と言われるようになったという。樹齢900年と言うクスノキは戦前は天然記念物として指定されたが、外二次世界大戦で戦災に遭い、枯れた。産土神社は明治42年に近くの桜ノ宮神社に合祀された。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』野江水神社と榎並城跡・地下鉄は野江内代駅

2016-12-04 05:27:11 | 浪速史跡巡り

『浪速史跡めぐり』野江水神社と榎並城跡・地下鉄は野江内代駅から南に榎並小学校がある。榎並庄は古来城東区から都島区にかけ摂関家の広大な荘園であった。また榎並猿楽発祥の地として、榎並城跡伝承の地としての碑が建つ、榎並城は江口の戦いで三好政長が築き、小城ながら淀川、旧大和川に包まれた天然の要塞で、ちょうど今の「野江水神社」辺りが僅かに高台になっており周りの河川に三好政長が度々水害に遭い、それを鎮めるために、守護神を城内に祭ったのが始まりという。祭神は水火厄除けの「水波女大神」である。榎並の地名は「石山合戦」「南北朝時代」にも城、要塞として登場する。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「近畿三十六不動巡り」清水寺・大阪市天王寺区伶人町にある仏教寺院

2016-12-03 04:35:03 | 浪速史跡巡り
「近畿三十六不動巡り」清水寺・大阪市天王寺区伶人町にある仏教寺院。宗派は天台系の和宗に属する。山号は有栖山であり、詳名は有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこういん きよみずでら)である。和宗総本山・四天王寺支院。宗教法人としては清光院で登録されている。大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」があることでも知られている。京都の清水寺を模して建立されたために、新清水寺とも呼ばれる。境内の西側の崖に柱を組み上げて作った舞台があり、京都の清水寺を彷彿とさせる。創建の時期や事情については判然としない。もとは有栖寺と称していた。寛永十七年(1640年)に延海阿闍梨により中興された。延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像(聖徳太子作の伝承をもつ)を安置した。当寺の境内は北・西・南の三方が崖になっており、往時は大坂の街や大阪湾を見渡す眺望の地であった。 本尊 - 納経所の2階が仮本堂となっており、堂内には本尊として十一面千手観世音菩薩、脇侍として阿弥陀如来像と勢至菩薩像を安置する。風天像 - 風天は仏法を守護する十二天の内の一つである。地蔵菩薩像 - 境内墓地のはずれに安置。昔、毎夜、池の上に浮かび上がる霊木があり、その霊木から赤子の泣き声が聞こえるので、ある人が不思議に思い、これこそ衆生を加護するために出世した地蔵菩薩であるとして、その霊木に地蔵菩薩像を刻み、現在地に安置したと伝えられている。玉出の滝、 境内南側の谷には大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」がある。四天王寺金堂地下にあると伝えられる青龍池から流れ出ているとされている白石玉出の霊水が300m離れた地下を流れて滝になっているという。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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速史跡めぐり』露天神社(お初天神)・大阪梅田は曽根崎、

2016-12-02 04:28:00 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』露天神社(お初天神)・大阪梅田は曽根崎、「誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞え、取伝え貴賎郡集の回向の種、未来成仏、仏疑ひなき、恋の手本と成りにけり」この近松門左衛門の「曽根崎心中」は元禄十六年に露天神社の境内の「天神の森」で遊女のお初と手代の徳兵衛が非業の死を遂げた、心中事件にまつわる悲恋物語である。以後三百年参拝する老若男女が絶えず「お初天神」と親しまれている。
露天神社の創建は古く、平安時代は初期の文徳天皇の時代に「難波八十島祭」の「浪華の古図」にも記載されているようで、当寺は曽根崎辺りまで海が迫り、海に浮かぶ「曽根崎洲」まで遡れるという。祭神としては少名彦(医学、薬学)大己貴(大国さん)天照大神、豊受大神、菅原道真が祀られている。菅原道真が大宰府に流される折に大阪の港に停泊し「太融寺」により露天神社により歌を詠んだと伝えられており、南北朝辺りには曽根崎中州も拡大し、太融寺の源融の末裔で土豪の渡辺氏も、この地の開発に寄与している。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』四天王寺八角亭・明治三十六年(1903)現在の天王寺公園付近に「第五回内国勧業博覧会」

2016-12-01 04:36:56 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』四天王寺八角亭・明治三十六年(1903)現在の天王寺公園付近に「第五回内国勧業博覧会」が開催された。その建造物を現在地に移したもので、柱はギリシャ建築の柱頭飾りを施した明治時代の貴重な洋風建築物である。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』法善寺横町と水掛不動・歌に小説に大阪南の名所は「法善寺横町と水掛不動

2016-11-30 04:29:36 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』法善寺横町と水掛不動・歌に小説に大阪南の名所は「法善寺横町と水掛不動」である。夫婦善哉で馴染みの細い路地は法善寺に続気、飲食店街が軒を連ね夜ともなれば人の賑わいは、何処からともなく法善寺「水掛不動」願掛け、願を込めて夜のネオンに消えて行く、浪速の風情である。今も夫婦善哉の店といっても、今では善哉(善哉)を出す店は少ない一人前と注文しても二杯分をお客に出す、それは夫婦で一客で一対のぜんざいを出す、縁起の意味で出していた。横丁の呼び名は元々法善寺の境内で露店をしていた飲食店が定着したもので昭和十五年に長谷川幸延「オール読み物で同名の小説があって、また浪速の小説家織田作之助の小説が法善寺横丁を有名にさせた。また水掛け不動と言えば法善寺の境内の苔生した水掛け不動で苔が覆いつくし実際の不動が見えない。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ
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速史跡めぐり』福沢諭吉誕生の地・ 堂島川に架かる玉江橋の北詰めに

2016-11-29 04:22:35 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』福沢諭吉誕生の地・
堂島川に架かる玉江橋の北詰めに、福沢諭吉の誕生地の碑が建つ、天保5年(1834)中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助急死の後、母と兄姉とも中津に帰ったが,兄の薦めで緒方洪庵の適塾に入門し蘭学を学んだ、後に塾頭になり、江戸幕府の海外使節団に随行し慶応義塾を開設した。明治時代を代表する啓蒙思想家として活躍した。また福澤諭吉の碑と共に豊前国中津藩蔵屋敷跡の碑も建っている。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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『浪速史跡めぐり』四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界

2016-11-28 04:32:22 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界を想定して作られた「極楽浄土の庭」として公開されている。自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m²の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。 造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。
「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたものである。
長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。
★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』大依おおよさみ羅神社じんじゃ・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。

2016-11-27 04:58:21 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』大依(おおよさみ)羅神社(じんじゃ)・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。祭神は開化天皇の第四皇子の豊波豆羅和気王を主神に住吉三神を合祀する。主神の依羅吾彦男垂見が、仲哀天皇の熊襲征伐に従ったこともあり、依羅氏は代々神官を勤め、南北朝の動乱で依羅氏が滅亡すると、社殿も焼失したと言う。現在の社殿は昭和四十六年に再建されたもので、本殿西北側にある、古井戸は「雨乞いの井戸」「摂津名所絵図会」にも「庭井に泉」と記されていて庭井の泉の石碑が残っている。この神社の南門を出て参道を進むと、大和川の堤防沿いに行くと、依羅池跡の石碑が立ち「日本書紀」に河内狭山の水が少ないので、勅によって造られた。勿論大和川は江戸時代造られたので古代には池が必要だったのだろう。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』善福寺(どんどろ大師)・JR玉造駅から西、真田山の上町台地の凹凸の丘陵の坂を下った所の角に善福寺

2016-11-26 04:28:50 | 浪速史跡巡り
浪速史跡めぐり』善福寺(どんどろ大師)・JR玉造駅から西、真田山の上町台地の凹凸の丘陵の坂を下った所の角に善福寺がある。真言宗で本尊は弘法大師であるが本来は薬師如来と不動尊であったが戦災や戦国の戦乱で、この寺も点々としたらしく、狭い境内ではあるが由緒と歴史にその足跡が残っている寺である。創建は聖徳太子である。元和元年の夏の陣でその霊を弔うために「どんどろ大師」善福寺引き続き開創された、当初は鏡如庵大師堂といって、「浪華大師」巡りの道順に当たり、その賑わいは特に二十一日のお大師参りは「摂津名所図」にも記されている。江戸時代徳川四天王と言われた、大老土井利勝の孫の利位が大阪城に拝命を受け、この地の玉造の辺りに屋敷を構え厚く当庵の大師に帰依し、誰言うともなく「どんどろ大師」と云う様に成った。その後大坂夏の陣に廃仏毀釈で一時廃寺になったが、能勢の善福寺をこの地移し現代に至っている。境内には勝軍地蔵尊(青銅製)があり、大師堂に修行大師像があるが、修行大師には笠がないのは戦時中に供出したためと言う。*鏡如庵(どんどろ大師)は大坂夏の陣でこの辺りは真田幸村が真田丸を築き激戦地であった。その戦いで亡くなった戦死者の霊を弔うために「鏡如庵大師堂」と称して二十一日の大師の縁日に多くの参拝者があったという。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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『浪速史跡めぐり』五智光院・文治三年(1187)後白河法皇が四天王寺に於いて灌頂を受けた

2016-11-25 04:42:35 | 浪速史跡巡り

『浪速史跡めぐり』五智光院・文治三年(1187)後白河法皇が四天王寺に於いて灌頂を受けた。その際に灌頂堂として建立したのが始まりとされ、元和九年(1623)に徳川秀忠公が再建をした。元は極楽門の南側に、現在は弘法大師像付近に位置し、明治三四年(1901)現在の地に移築した。本尊五智如来・(阿閦如来・阿弥陀如来・宝生如来・大日如来・不空成就如来)
★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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