「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『神仏分離の功罪』アマゾン電子書籍紹介 日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像

2019-11-29 05:11:34 | 温故知新
『神仏分離の功罪』アマゾン電子書籍紹介
日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像と神道祭神は混在して祭られ、明治維新の神仏分離令まで神仏習合として共存してきたのが「日本の宗教」であった。山岳信仰で各地に霊場・霊峰に神々に役小角の密教系仏像が信仰され、権現や明神が信仰された。また、浄土系や禅宗系や日蓮宗系以外は習合は拒否され、神社では、伊勢神宮や出雲大社や大神神社など純粋な神道以外は習合され、平安時代の熊野詣の様に神仏一体として神秘的霊場として、北は出羽三山から富士山御岳山、大峰山から伯耆大山から石槌から英彦山まで全国に広まって行った山伏の霊地聖地巡拝が神仏分離令で一番被害を被った。また、一般神社や寺院にも神仏に境なく一緒に祀られ、有力神社、寺院は神宮寺や神護寺が境内に祀られ、明治維新まで共栄共存で日本人の伝承文化として続けられたが、明治維新の王政復古の嵐に「廃仏毀釈」によって仏像の四割は破壊されて、分離された。一般寺院も門前に鳥居を立て、本尊を蔵に隠し、御神体前面にして、廃仏毀釈の嵐をやり過ごすした。日本中に道一つ隔てて神社と寺院が見受けられるのはその名残である。
本来は別な宗教が急激に分離する事で大混乱に陥ったのは確かである。
本来は別物の宗教が習合によって存続し付けたが、明治の神仏分離令は余りにも急激な分離政策であった。

「日本二十三大師の足跡」アマゾン電子書籍紹介  日本では「大師」と言えば弘法大師を指す場合が多い。正式な大師号の勅贈は、清和天皇の貞観八年(866)

2019-11-29 05:07:42 | 温故知新
「日本二十三大師の足跡」アマゾン電子書籍紹介
 日本では「大師」と言えば弘法大師を指す場合が多い。正式な大師号の勅贈は、清和天皇の貞観八年(866)七月、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が初めて贈られた。僧に贈られる位号としては、他にも国師号、禅師号などがある。
現在の日本では、特に空海を指す事が多く、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言も残っている。
円光大師法然房源空(1133~1213)浄土宗開祖。元祖大師。土佐配流された後、帰京。布教に努める。『選択本願念仏集』などを撰述。加諡された正確な大師号は、 円光(東山天皇・1697)東漸(中御門天皇1711)五百回忌)・慧成(桃園天皇・171)五五〇回忌)・弘覚(光格天皇・1811)六〇〇回忌)・慈教(孝明天皇・(1861)六五〇回忌)・明照(明治天皇・(1911)・七〇〇回忌)・和順(昭和天皇・1961)・七五〇回忌)・法爾(今上天皇・2011)・八百回忌)大師(八つ)。
ここに「日本二十三大師の足跡」として取り上げて記してみたが、また一宗派の尊称として大師と呼ばれている場合もあり、他にも記録的に曖昧な表記で大師と記されている者もあるが、宗派間の争いで尊称として贈られた場合もある。特に近世で明治天皇・大正天皇・今上天皇も大師号を勅贈されている場合もあり、定めらえた大師号の数を捉えるのは難し。
【十八大師】
朝廷から大師号を贈られた一八人の高僧。天台宗の伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)・慈慧大師(良源)・慈摂大師(真盛)・慈眼大師(天海)、真言宗の弘法大師(空海)・道興大師(実慧)・法光大師(真雅)・本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師(覚鑁・月輪大師(俊芿、浄土真宗の見真大師(親鸞・慧灯大師(蓮如、曹洞宗(そうとうしゅう)の承陽大師(道元)、浄土宗の円光大師(源空)、融通念仏宗の聖応大師(良忍)の各大師。



「長屋王の失脚と陰謀」アマゾン電子書籍紹介 長屋王(684~729) 奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石

2019-11-29 05:05:02 | 温故知新
「長屋王の失脚と陰謀」アマゾン電子書籍紹介
長屋王(684~729)
奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自など。慶雲1(704)年,無位から正四位へ昇進し,以後宮内卿,式部卿,大納言を歴任。藤原不比等没後の養老5(721)年右大臣,神亀1(724)年2月,聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり,王族政治家として政界を主導するとともに,有力な皇位継承候補者でもあったとみられる。聖武が母藤原宮子の称号を大夫人とする勅を出したことに対し,同年3月,大宝令では「皇太夫人」とあるべきで,勅と令のいずれをとるべきかと奏言した結果,聖武は勅を撤回し,書くときは皇太夫人,いうときは大御祖とすると改めた。同6年2月,国家を傾けようとしていると密告され,糺問を受け自尽。吉備内親王および子の膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王らも自殺(長屋王の変)。夫妻は生駒山に葬られた。この事件は,光明子を聖武の皇后にしようとした藤原氏による企てとみられている。時に46歳とする所伝と54歳説とがある。和銅5(712)年文武天皇の死を悼み,また神亀5年父母,天皇などのため,それぞれ大般若経600巻を書写させた。 その宅は佐保の地にあり,佐保宅,作宝楼などと称され,しばしば宴が催され,王自身のものも含めそこで詠まれた多くの漢詩が『懐風藻』にみえる。また『万葉集』にも王の歌が収められている。『唐大和上東征伝』によると,唐の鑑真が日本への渡来を決意したのは,王が仏法を崇敬し,1000の袈裟を作り唐僧に施したことに感じたためという。近年奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地のうちの4坪(古代の土地区画)分,約6万m2を占める邸宅跡から「長屋親王宮鮑 大 贄十編」と記す木簡をはじめ,約3万6000点の木簡が出土し,そこに王邸があったことが判明した。木簡には吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自などの王の妻をはじめとする王の一族の名が多くみえる。また写経にかかわる書法模人,書写人,帙師や医者,僧尼のほかに,鍛冶,鋳物師,画師などの技術者や帳内(親王,内親王に与えられる従者),少子らの従者,山背御田,耳梨御田,大庭御薗,都祁氷室などの所領の存在がわかった。ただし佐保宅とこの邸宅跡の異同については議論がある。奈良県平群町に長屋王夫妻の墓と伝える2基の円墳がある。