「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。菅原道真と乳母多治比文子を祀る

2016-11-14 04:18:54 | 京都古社寺探訪
「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。菅原道真と乳母多治比文子を祀る。天神信仰発祥の神社、上京区にある北野天満宮の前身と伝えられる。社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903年)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7年(1918年)に造営されたものである。毎年4月16日に近い第3日曜日に、例祭が執り行われる。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「菅原院天満宮神社」京都府京都市上京区にある神社(天満宮)。菅原道真とその父是善、祖父清公を祀る。親子三代の邸宅

2016-11-12 04:15:41 | 京都古社寺探訪

「菅原院天満宮神社」京都府京都市上京区にある神社(天満宮)。菅原道真とその父是善、祖父清公を祀る。親子三代の邸宅、道真公生誕の地と伝えられる(生誕の地には異説もあり、菅原道真#生涯を参照)。菅公聖蹟二十五拝の第1番。通称烏丸の天神さん。親子三代の邸宅で菅原院(すがわらいん)がその前身。左大臣・藤原時平によって大宰府に左遷させられた道真は都に戻ることなく延喜3年(903年)に薨去。その後、京の都には異変が相次いだ。その菩提を弔うためにこの地に歓喜光寺が建立された。寺は後「六条道場」と称し、移転している。道真公生誕の地といわれる関わりの深いこの地に社殿を配し、相殿神に父是善、祖父清公を祀るようになった。境内には『菅公御産湯の井』や『菅公御遺愛の石灯籠』がある。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「厳島神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社。堺町御門の西側、九条池の中島に鎮座し

2016-11-11 04:25:18 | 京都古社寺探訪
「厳島神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社。堺町御門の西側、九条池の中島に鎮座し、「池の弁天さん」と称される。旧社格は無格社。市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を主祭神に、祇園女御を配祀する。配祀神は下述するように本来は平清盛の母の霊であったと思われるが、後に著名なその姉(つまり清盛の伯母)の祇園女御に変えられたようである。社伝によれば、安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものという。鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなった。明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築されたが、当神社はそのまま残された。昭和2年(1927年)には社殿が改築されている。なお現在の景観であるが、当神社が当初から池中の中島に鎮座していたかは不明であるものの、下述する社前の鳥居が移築された明和8年(1771年)には池は穿たれていたので、その頃までには遡れる。社前に至る擬宝珠欄干付きの「高倉橋」は九条家移築後に架橋されたものという。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。

2016-11-07 04:08:28 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。主祭神・大山咋命・大己貴命・玉依比売命・大山咋命荒魂・田心比売命・菊理比売命・玉依比売命荒魂・後白河天皇・相殿・素盞嗚尊・大年神。社伝によれば、永暦元年(1160)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、比叡山は東坂本の日吉大社から迎え祀ったのが始まりと言う。桃山時代になって秀吉は三十三間堂(蓮華院)方広寺の境内に含められた。新日吉社は現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治三十年(1897)になってからである。昭和三十三年(1958)、後白河天皇を増祀し、翌昭和三十四年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「京都古社寺探訪」興聖寺・京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院で僧堂がある

2016-11-06 04:13:16 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」興聖寺・京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院で僧堂がある。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の1つに数えられている。道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236)に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽藍が完成していたとは考えられないとしている。興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「京都古社寺探訪」宇治上神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は村社。

2016-11-06 04:07:59 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」宇治上神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は村社。隣接する宇治神社とは対をなす。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。中殿:応神天皇・第15代天皇。菟道稚郎子命の父。右殿:仁徳天皇第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説がある[2]。創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があるが、宇治上神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある(3棟の建築年代については後述)。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。明治に入って宇治上神社とは分離し、近代社格制度では村社に列した。2004年2月の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。社殿のうち本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である。この本殿は国宝に指定されている。本殿前に建てられている拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。この拝殿は、本殿同様に国宝に指定されている。また境内には「桐原水」と称される湧き水があり、「宇治七名水」のうちでは唯一現存するものになる。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「京都古社寺探訪」宇治神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治上神社とは対をなす

2016-11-05 04:49:37 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」宇治神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治上神社とは対をなす。祭神は次の1柱。菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説がある。創建年代などの起源は明らかではない。宇治神社のすぐ近くには宇治上神社があるが、宇治神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる[1]。宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]。明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。

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パワースッポト京都・奈良。「梨木神社」祭神三條実萬公・三條実美公・ 京都市上京区寺町通りの梨木神社の祭神実萬公の三條家は五摂家

2016-11-04 04:14:07 | 京都古社寺探訪

パワースッポト京都・奈良。「梨木神社」祭神三條実萬公・三條実美公・
京都市上京区寺町通りの梨木神社の祭神実萬公の三條家は五摂家に次ぐ公卿の名家で、代々質素を旨として学問を修め養う家風であった。菅原道真公の生まれ変わりと崇められ学者を輩出した家系で賢才偉人を多く出した。幕末の光格・仁孝・孝明天皇の三帝にお仕えをした。その功績をたたえて明治天皇より「忠成公」贈り名を賜った。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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パワースッポト京都・奈良。「晴明神社」祭神安倍晴明公・ 京都市上京区清明町に鎮座する晴明神社

2016-11-03 05:05:39 | 京都古社寺探訪
パワースッポト京都・奈良。「晴明神社」祭神安倍晴明公・
京都市上京区清明町に鎮座する晴明神社は、平安時代の中期天文学者の安倍晴明公をお祀りした神社である。創建は寛弘4年(1007)に晴明公の偉業をたたえて一条天皇の命により、その御霊を鎮めるために晴明公の屋敷である当地に社殿が設けられた。
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「京都古社寺探訪」智恩寺・日本三大文殊の智恩寺は京都府宮津市、宗派臨済宗妙心寺派、本尊文殊菩薩は秘仏

2016-11-02 04:05:30 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」智恩寺・日本三大文殊の智恩寺は京都府宮津市、宗派臨済宗妙心寺派、本尊文殊菩薩は秘仏とされ、正月三が日、1月10日、7月24日の年に5日開帳される。寺伝に依れば大同三年(808)の平城天皇の勅願寺として創建されたと言う。中世まで真言宗の寺院であったが、南北朝以降禅宗寺院になったと言う。古くより文殊信仰の霊場として知られ、謡曲「九世戸」の題材となった。境内の多宝塔は室町時代のものだが、本堂、山門、方丈は近世以降のものである。

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「京都古社寺探訪」建仁寺・京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する

2016-10-29 04:10:02 | 京都古社寺探訪

「古社寺探訪」建仁寺・京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第三位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。十三歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安三年(1168年)と文治三年(1187年)の二回、南宋に渡航した。一度目の渡宋はわずか半年であったが、二度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久二年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治二年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その二年後の建仁二年(1202年)、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永四年(1397年)、文明十三年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「京都古社寺探訪」東福寺・京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来、開基は、九条道家、開山は円爾である

2016-10-28 04:26:49 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」東福寺・京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来、開基は、九条道家、開山は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。この地には延長二年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった。嘉禎二年(1236年)、九条道家(摂政)は、この地に高さ五丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から一字ずつ取って「東福寺」とした。五丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長七年(1255年)であった。高さ五丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、十四世紀半ば頃に再興されるが、明治十四年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。]これは創建時の本尊ではなく、十四世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ五丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。円爾は駿河国栃沢の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山・興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門。印可を得て仁治二年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。東福寺の建設工事は三〇年以上に亘って続き、法堂が完成したのは文永十年(1273年)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。近代に入って明治十四年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「神仏霊場巡り」天龍寺・京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町・臨済宗天龍寺派大本山の寺院

2016-10-27 04:06:16 | 京都古社寺探訪
「神仏霊場巡り」天龍寺・京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町・臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約四世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 -1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元三年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応二年/延元四年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永四年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院一五〇か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文三年(1358年)、貞治六年(1367年)、応安六年(1373年)、康暦二年(1380年)、文安四年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化十二年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「神仏霊場巡り」天龍寺・京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町・臨済宗天龍寺派大本山の寺院

2016-10-27 04:06:16 | 京都古社寺探訪
「神仏霊場巡り」天龍寺・京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町・臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約四世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 -1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元三年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応二年/延元四年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永四年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院一五〇か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文三年(1358年)、貞治六年(1367年)、応安六年(1373年)、康暦二年(1380年)、文安四年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化十二年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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京都十六社巡り・豊国神社・祭神関白太政大臣豊臣秀吉公・ 京都市東山区大和大路通正面茶屋町5

2016-10-27 04:00:45 | 京都古社寺探訪
京都十六社巡り・豊国神社・祭神関白太政大臣豊臣秀吉公・
京都市東山区大和大路通正面茶屋町530・慶長3(1598)年8月18日、天下統一を果たした英傑豊臣秀吉公は伏見城においてその波乱に満ちた生涯を終えられた。御遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌慶長4年、中腹に秀吉公を祀る豊国社が創建された。朝廷からは正一位の神階と「豊国大明神」の御神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。毎年4月と8月に行われた豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次いだ。特に慶長9年の秀吉公七回忌にあたり斎行された豊国大明神臨時祭は空前絶後の大祭礼であったと諸記録に伝えられている。しかしこのように繁栄を極めた豊国社も慶長20(1615)年、大坂夏の陣において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀。以後江戸時代を通じ草叢に埋もれてしまっていたが、明治元(1868)年、明治天皇の御沙汰により再興が決定。同6年、別格官弊社に列し、同13年には方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興された。境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が聳え、また北政所豊臣吉子方を祀る貞照神社や秀吉公の遺品・豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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