「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『秀次切腹事件』アマゾン電子書籍紹介。 豊臣秀次は、秀吉の甥である、若くして人質同様に養継子に送られ、武士として一人前になって秀吉引取られた。

2019-11-30 05:04:12 | 温故知新
『秀次切腹事件』アマゾン電子書籍紹介。
豊臣秀次は、秀吉の甥である、若くして人質同様に養継子に送られ、武士として一人前になって秀吉引取られた。秀吉に継子が居なかったために、秀長、秀次は重用された。秀吉は継子を諦めたかのように、秀次を関白の位を譲り、ゆるみと驕りの素行の見受けられ世間の冷ややかな評価の最中、秀吉に待望の秀頼が誕生した。秀次の事態は急変、謀反の疑いが巷に広まった。秀吉に弁明をするが、高野に行くこと命じられ、警護は解かれて、賜死を命じられ、家臣共々切腹を強いられた。事は家臣だけではなく、一族眷属、老若なんよ死罪、遺体は四条河原に掘られた溝に打ち捨てられて、秀次は晒し首にされた。非情な秀吉の仕打ちには多くの謎が秘められて、秀吉の晩成を汚す大きな出来事であった。







『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。  戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国

2019-11-30 05:01:16 | 温故知新
『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。
 戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国大名の台頭によって紀州などの僻地に追いやられ、宗教集団の根来衆や寺社勢力の総国が勢力が台頭し、紀伊半島に雑賀衆や泉南地域の一向宗や紀州半島の奥地の熊野などに独自の集団を作りあげた。また湯河一族なども独自の自治国を作りあげた。
 信長と秀吉は三好一族などの一掃したあと紀州征伐に取り掛かったが、信長は本能寺で横死、秀吉が紀州征伐に根来寺、粉河寺、高野山など雑賀衆・根来衆の鉄砲に武装化した集団で天下統一の目前に向かって来た。根来寺、粉河寺は秀吉軍の18000人兵士に大炎上し灰塵と化した。 高野山は攻撃前に降伏し、武装解除し秀吉軍に帰順の意を表し高野山の焼討は免れた。
 岸和田城を中心に戦いが繰り広げられ大坂襲撃、和泉の戦、千石堀攻撃は大規模で熾烈を極めた。太田城の水攻めは長時間んを要し秀吉軍10万の兵力を持って陥落させた。その後は紀伊半島の奥地の紀伊国一揆など地侍反乱で鎮圧で南紀攻略を持って紀州征伐に収束を見た。
「保科氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
中世から近世の武家。平安末期に信濃国高井郡保科に発祥。養和元年(1181)横田河原の合戦で、保科権八が越後平氏方に、保科太郎が源義仲方に属した。その後、御家人になり、承久の乱に活躍した。中先代の乱では北条時行方の大将として船山守護所を攻撃した。室町時代には高井郡河田に保科長光・長経・信光、伊那郡藤沢に高遠諏訪継宗の代官として保科家親・貞親らが活躍。高遠諏訪氏が武田信玄に滅ぼされると、武田家臣だった保科正俊・正直らが台頭、徳川家康の下で大名化し、下総多古に移った。正光の代に高遠藩主となり将軍秀忠の子幸松を養育した。正之は出羽20万石から会津藩主となり、正直の三男正貞は上総飯野藩主になった。京都守護職就任し保科氏から「松平容〇」の改姓をするが、自身は保科氏として振る舞い、幕政の要職を求められる大名に変化していった。その見返りに優遇されたが、幕末には長州征伐に動員される。




「戦国九州覇権の興亡」アマゾン電子書籍紹介。  戦国の世に有って、九州には島津氏と大友氏の両

2019-11-30 04:58:02 | 温故知新

「戦国九州覇権の興亡」アマゾン電子書籍紹介。
 戦国の世に有って、九州には島津氏と大友氏の両者九州の盟主として対峙し続ける中、「九州に両雄並び立たず」の諺の通り、豊薩合戦が天正15年に勃発、これを「天正の役」と言う。
 父宗麟から引き継いだ義統は戸次川の戦で味方の離反、重臣の寝返りで大敗を期した。信長を絡んで事態が動いたが、信長の横死で秀吉が九州勢伐に乗り出し複雑化していった。
島津軍が大友失墜に総力戦で大友最後の砦、岩屋城に猛攻を懸けたが、予想以上の抵抗に遭い多大な損害を受けて島津軍は終結させたが、その後の九州制覇に後れを取ってしまった。島津軍は筑前・肥前に軍を進め九州制覇かかに見えた時に、秀吉は島津氏に向かって軍を差し向けることにんった。
大友宗麟に毛利元輝に国分令の執行を命令し、検視として黒田孝高・宮城堅甫・安国寺恵瓊に任じた。その他、吉川晴元・小早川隆景・仙石秀久・長曾我部元親らに渡海を命じ、毛利軍に先導役を命じ、十河・長曾我部・豊後に向かって大友軍と合流し進軍した。九州に乗り込んだ黒田孝高は島津方面の武将に調略を行った。
一方島津軍も豊後に兵を進めた。吉川元春は島津方の宮山城を攻略、次々と島津軍拠点に攻撃をかけ、一方秀吉は諸国より20万の兵と30万人の一年分の兵糧米を集めるように命じた。各戦場で激戦が繰り広げられ、島津軍も反撃をかけて秀吉軍の予想以上の損害を見て、宗麟は秀吉直々の出馬を促した。
3月1日、秀吉自身も出陣し、秀吉軍の総力戦となった。秀吉は悠然と山陽道を下り、事の推移を見守った。島津軍は徐々に後退、秀吉は築後に到着、秀吉の大軍の到着に、島津義久は豊臣秀長に和睦を申し込んだ。鹿児島に戻った義久は出家して秀吉に降伏し、一命は赦免された。島津には侵略した領地は没収され、義久に薩摩一国と義弘に大隅と日向の一部を安堵された。
他の侵略地は秀吉に従軍した大名に戦果功労を鑑み国分の褒賞分置を不満の出ないように安堵させて九州征伐と統一をさせた。





『神仏分離の功罪』アマゾン電子書籍紹介 日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像

2019-11-29 05:11:34 | 温故知新
『神仏分離の功罪』アマゾン電子書籍紹介
日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像と神道祭神は混在して祭られ、明治維新の神仏分離令まで神仏習合として共存してきたのが「日本の宗教」であった。山岳信仰で各地に霊場・霊峰に神々に役小角の密教系仏像が信仰され、権現や明神が信仰された。また、浄土系や禅宗系や日蓮宗系以外は習合は拒否され、神社では、伊勢神宮や出雲大社や大神神社など純粋な神道以外は習合され、平安時代の熊野詣の様に神仏一体として神秘的霊場として、北は出羽三山から富士山御岳山、大峰山から伯耆大山から石槌から英彦山まで全国に広まって行った山伏の霊地聖地巡拝が神仏分離令で一番被害を被った。また、一般神社や寺院にも神仏に境なく一緒に祀られ、有力神社、寺院は神宮寺や神護寺が境内に祀られ、明治維新まで共栄共存で日本人の伝承文化として続けられたが、明治維新の王政復古の嵐に「廃仏毀釈」によって仏像の四割は破壊されて、分離された。一般寺院も門前に鳥居を立て、本尊を蔵に隠し、御神体前面にして、廃仏毀釈の嵐をやり過ごすした。日本中に道一つ隔てて神社と寺院が見受けられるのはその名残である。
本来は別な宗教が急激に分離する事で大混乱に陥ったのは確かである。
本来は別物の宗教が習合によって存続し付けたが、明治の神仏分離令は余りにも急激な分離政策であった。

「日本二十三大師の足跡」アマゾン電子書籍紹介  日本では「大師」と言えば弘法大師を指す場合が多い。正式な大師号の勅贈は、清和天皇の貞観八年(866)

2019-11-29 05:07:42 | 温故知新
「日本二十三大師の足跡」アマゾン電子書籍紹介
 日本では「大師」と言えば弘法大師を指す場合が多い。正式な大師号の勅贈は、清和天皇の貞観八年(866)七月、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が初めて贈られた。僧に贈られる位号としては、他にも国師号、禅師号などがある。
現在の日本では、特に空海を指す事が多く、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言も残っている。
円光大師法然房源空(1133~1213)浄土宗開祖。元祖大師。土佐配流された後、帰京。布教に努める。『選択本願念仏集』などを撰述。加諡された正確な大師号は、 円光(東山天皇・1697)東漸(中御門天皇1711)五百回忌)・慧成(桃園天皇・171)五五〇回忌)・弘覚(光格天皇・1811)六〇〇回忌)・慈教(孝明天皇・(1861)六五〇回忌)・明照(明治天皇・(1911)・七〇〇回忌)・和順(昭和天皇・1961)・七五〇回忌)・法爾(今上天皇・2011)・八百回忌)大師(八つ)。
ここに「日本二十三大師の足跡」として取り上げて記してみたが、また一宗派の尊称として大師と呼ばれている場合もあり、他にも記録的に曖昧な表記で大師と記されている者もあるが、宗派間の争いで尊称として贈られた場合もある。特に近世で明治天皇・大正天皇・今上天皇も大師号を勅贈されている場合もあり、定めらえた大師号の数を捉えるのは難し。
【十八大師】
朝廷から大師号を贈られた一八人の高僧。天台宗の伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)・慈慧大師(良源)・慈摂大師(真盛)・慈眼大師(天海)、真言宗の弘法大師(空海)・道興大師(実慧)・法光大師(真雅)・本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師(覚鑁・月輪大師(俊芿、浄土真宗の見真大師(親鸞・慧灯大師(蓮如、曹洞宗(そうとうしゅう)の承陽大師(道元)、浄土宗の円光大師(源空)、融通念仏宗の聖応大師(良忍)の各大師。



「長屋王の失脚と陰謀」アマゾン電子書籍紹介 長屋王(684~729) 奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石

2019-11-29 05:05:02 | 温故知新
「長屋王の失脚と陰謀」アマゾン電子書籍紹介
長屋王(684~729)
奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自など。慶雲1(704)年,無位から正四位へ昇進し,以後宮内卿,式部卿,大納言を歴任。藤原不比等没後の養老5(721)年右大臣,神亀1(724)年2月,聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり,王族政治家として政界を主導するとともに,有力な皇位継承候補者でもあったとみられる。聖武が母藤原宮子の称号を大夫人とする勅を出したことに対し,同年3月,大宝令では「皇太夫人」とあるべきで,勅と令のいずれをとるべきかと奏言した結果,聖武は勅を撤回し,書くときは皇太夫人,いうときは大御祖とすると改めた。同6年2月,国家を傾けようとしていると密告され,糺問を受け自尽。吉備内親王および子の膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王らも自殺(長屋王の変)。夫妻は生駒山に葬られた。この事件は,光明子を聖武の皇后にしようとした藤原氏による企てとみられている。時に46歳とする所伝と54歳説とがある。和銅5(712)年文武天皇の死を悼み,また神亀5年父母,天皇などのため,それぞれ大般若経600巻を書写させた。 その宅は佐保の地にあり,佐保宅,作宝楼などと称され,しばしば宴が催され,王自身のものも含めそこで詠まれた多くの漢詩が『懐風藻』にみえる。また『万葉集』にも王の歌が収められている。『唐大和上東征伝』によると,唐の鑑真が日本への渡来を決意したのは,王が仏法を崇敬し,1000の袈裟を作り唐僧に施したことに感じたためという。近年奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地のうちの4坪(古代の土地区画)分,約6万m2を占める邸宅跡から「長屋親王宮鮑 大 贄十編」と記す木簡をはじめ,約3万6000点の木簡が出土し,そこに王邸があったことが判明した。木簡には吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自などの王の妻をはじめとする王の一族の名が多くみえる。また写経にかかわる書法模人,書写人,帙師や医者,僧尼のほかに,鍛冶,鋳物師,画師などの技術者や帳内(親王,内親王に与えられる従者),少子らの従者,山背御田,耳梨御田,大庭御薗,都祁氷室などの所領の存在がわかった。ただし佐保宅とこの邸宅跡の異同については議論がある。奈良県平群町に長屋王夫妻の墓と伝える2基の円墳がある。





「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。 弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛

2019-11-28 05:31:15 | 温故知新
「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。


『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円 『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。

2019-11-28 05:26:14 | 温故知新
『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。



『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。 一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、

2019-11-28 05:23:09 | 温故知新
『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。
一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、伊予に戻って豊後,大隅に山陽道の安芸に厳島神社から備前に、東北の白河の関から江差、平泉から松島に、美濃から伊勢神宮に参籠し但馬、因幡、大和当麻から、京都の石清水に、さらに播磨円教寺に、そして伊予大山三島神社に参拝し、終焉の地は播磨は兵庫は和田岬の真光寺で長い流浪の念仏布教の行脚の遊行を終えた。高潔な信念の念仏僧である。
 【銅鑼、太鼓、鉦をたたきながら、節を付けながら踊りながら一遍の後に弟子たち信者が続く「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマイダー」村々を巡り、念仏勧進の功徳を説きまわり、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算の配り札を諸国に配り巡った、文字も読めない農民や庶民にひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、西方浄土の阿弥陀様を信じる者は、来世には極楽浄土に住むことが許されるのじゃ、弥陀を称えてナンマイダー、ナンマイダーと村々の信者の弟子とどこまでも一遍と諸国を巡る、時宗(出家)と時衆(在家)が、日々の苦しさにあえぐ、農民や商人らを安心と銅鑼や太鼓、鉦に合わせて興じる庶民の、この世の極楽を作り出して安堵と平穏を農民に与えた、念仏踊りが西方浄土への道しるべとして、一時代の信仰の救世主となった】


『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介。 仏教伝来以来、日本古来の古神道との仏教の目立った争いは無かった。当初、官寺としての仏教による鎮護国家の

2019-11-27 05:38:05 | 温故知新
『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介。
仏教伝来以来、日本古来の古神道との仏教の目立った争いは無かった。当初、官寺としての仏教による鎮護国家の色彩が強かったので、神仏の競うことはなかった。
 そんな中で人里離れた山岳に神秘的支配に求める人々に古神道の神々と、仏教の密教的諸仏が融合して、独自な神仏習合の「修験道」が誕生していった。
その代表的山岳信仰の先駆者こそ「役小角」で近畿地方から九州から、四国、中国と方から東北地方まで影響され伝播されていった。九州は善正、白山は泰澄、日光は勝道、東北は能登が未開の峰々を切り開き聖地・霊地の聖域を広めていった。近畿地方の役行者を心棒する修験者は真言系と天台系に凌ぎを削り、大峰山から熊野三山まで朝野の別なく、神仏習合の権現として崇敬されていった。伊勢神宮、出雲大社、大神神社に仏教では禅宗系、日蓮宗系、浄土宗系以外は神仏混在で諸国に広まって行った。ところが、明治の神仏分離令以降、廃仏運動で分離され、仏教は被害を受けて衰退していった。中でも修験道は往時に比べて、各地に細々伝承されて行っている状態である。改めて、修験道の歩んだ歴史を振り返って見たのである。

『徐福・神仙郷に消える』アマゾン電子書籍紹介。 徐福伝説には諸説ある。秦始皇帝に近づき、東方の蓬莱山(日本)の神仙郷に不老不死の妙薬をあると振れ込み、

2019-11-27 05:35:51 | 温故知新
『徐福・神仙郷に消える』アマゾン電子書籍紹介。
徐福伝説には諸説ある。秦始皇帝に近づき、東方の蓬莱山(日本)の神仙郷に不老不死の妙薬をあると振れ込み、渡航の費用を設備を準備させて五千人といいう男女の乗り組員を乗せて浙江省から巨大な船で出航し、神仙郷の日本を目指した、第一船団に総指揮者寿福が乗って指揮し、各船団二五〇人乗りの船に五穀の種と農機具などを積み込み、まるでノアの箱舟のような人類の大移動を計画した。
蓬莱山に到着すると、以前より噂に聞いていた不老不死の妙薬の生えているというところを目指して五船団で探索した。第一船団は東海は駿河湾の見える富士山が噴火する付近に、拠点を置き活動を始めるが、近隣に部族の兼ね合いで移動、一方、第二遠征団は九州と四国の間を航行し、四国西岸で拠点を作ったが当初先住も上手くいかず、その内、接触を図り融和し土着していった。第三遠征団は朴という男の反乱で理やり日本海の出雲に上陸し、厳寒の、越冬に失敗し、命からがら中国山脈を越えて山陽地方の部族に救援し助けられた。第五遠征団は熊本に拠点に勢力を拡大し、九国の盟主となっていく。第二遠征団は紀州半島に上陸を試みるが失敗し、半島を迂回し浪速津から河内周辺で拠点作り、やがて先住部族と河内連合軍を結成し、圧迫する巨大国家大和軍と戦争し激戦の末全滅した。一方、徐福の第一遠征団は火山に見舞われ悲惨な状況の上に地震の津波で徐福の第一遠征団は海の藻屑と消え去った。

『風雲三好一族の攻防』アマゾン電子書籍紹介。 下剋上の風雲児三好長慶が京都を支配し、一時期政権を掌握した。父の主人細川晴元と対立したが和解して晴元と

2019-11-27 05:32:44 | 温故知新
『風雲三好一族の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
下剋上の風雲児三好長慶が京都を支配し、一時期政権を掌握した。父の主人細川晴元と対立したが和解して晴元と戦ったが、叔父政長と対立を機に、晴元と決裂し戦う、晴元と傀儡将軍足利義輝は敗れ京都を離脱、細川氏綱を擁して上洛、京都を支配した。摂津国芥川城を本拠に政権絶叫期を迎えるが、一族の相次ぐ戦死に自身も河内国飯森山で病死した。後を引き継いだ三好三人衆が長慶の家臣松永久秀と畿内で抗争し、一向宗らと連携したが、内紛化や信長の台頭に弱体化し離合集散を繰り返し、歴史の舞台消えていった。風雲三好一族の攻防』

日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。 日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞

2019-11-26 05:37:55 | 温故知新
『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。
日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化

歴史の回想・「加藤氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介・

2019-11-26 05:36:45 | 温故知新

「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

加藤氏については、大きく分けて①近江国加藤氏。伊予国大洲藩主の加藤氏。肥後国熊本城主の三つに分けられる。近江国の加藤氏は水口藩主。三河国生まれた。加藤嘉明は豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)当初淡路国で1万5000石を宛がわれた。後に伊予国松前へ転封となり6万2000石を領有。10万石加増される。席が蠅らの戦後、10万石を加増され松山城に入った。寛永4年(1627)20万石加増されて陸奥国会津に転封。1643年明成のとき、領地を返上した(会津騒動)が、孫明友に石見国吉永で1万石が宛がわれた。天和2年(1696)1万石加増されて近江国水口へ移り、元禄8年下野国壬生に転封となり3万5000石を領有した。4代明英は、寺社奉行、奏番者、若年寄りを歴任して、更に正徳2年(1712)5代嘉矩のとき、近江国水口に戻り明治に至った。

②加藤氏に伊予国大洲藩主。家祖加藤光泰の父景泰は家電によると、藤原鎌足12代目の末裔とされる。光泰はその嫡男で美濃国生まれの斎藤龍興の武将、のち豊臣秀吉に仕え美濃国大垣に城主4万石に立身する。一時秀吉の勘気に触れて、近江国佐和山城主になり、小田原攻めの後、甲斐24万石に減封されたが、関ケ原の戦い後、徳川氏から伯耆国米子6万石を得、大坂の陣の戦功で元和3年(1617)大洲藩6万石に転封、以後廃藩置県まで13代続いた。

③もう一つの加藤氏は肥後熊本城主加藤清正、子の加藤忠広を中心とした姓氏、藤原北家道長流と言うが不明。清正の祖父が斉藤道三の家臣で尾張国愛知郡中村に住したのが始まり、清正の父清忠に継嗣されたという。清正は幼少期より秀吉に仕え、豊臣の武将として成長し天正16年(1588)肥後半国19万5000石の大名と秀吉蔵入り地の代官となり。関ケ原戦い後は肥後52万石となり、熊本城主となったが1611年に没後、1611年三男忠広が襲封したが、1632年に失政し出羽国庄内1万石に没落、その後飛騨国高山に流され、加藤家は消滅した。


「井伊氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-11-26 05:31:31 | 温故知新

「井伊氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
江戸時代の普代大名。遠江国引佐郡井伊谷(現、静岡引佐町井伊谷)を本貫地とする氏族。藤原冬嗣の末裔とする氏族、藤原共資が平安時代後期に遠江守に任じられ敷知郡村櫛に来往、その子、共保が井伊谷に住み井伊氏を称したとする。「吾妻鏡」などに「井伊介」として記されるのがその子孫とみられるが、鎌倉時代以降、多くの分家を発生。江戸時代の井伊氏につながる一派は、室町期に遠江守護斯波氏の配下にあり勢力をもった井伊直貞・直秀・直幸らで渋川を拠点とした井伊氏が滅亡したのちに台頭。歴史上、井伊谷の井伊氏の活動が具体的になるのには、戦国時代に今川氏に仕えた直平以降で、直宗、直盛は今川氏に従軍し戦死。直盛の養子直親は家臣小野氏の讒言により今川氏により謀殺され、家督を女子の治郎法師直虎が継ぎ、直親の幼子虎松(直政)は親類の新野親矩らによりかくまわれた。のち井伊直政が浜松で徳川家康に取りたてられ井伊氏を再興。直政は家康の関東入部の際は家臣中再興の12万石を与えられた。関ケ原戦い後に、近江国佐和山城に配置され西国の押さえとなる。
直政没後、彦根城を築いた嫡男井伊直継(1590~1662)は家中を取りまとめられず、家康の命令により大坂冬の陣後、彦根藩の家督を異母弟井伊直孝に譲り、上野国安中藩3万石に、後に西尾、掛川・与板藩の転封に分置された。宗家の彦根藩井伊家は普代大名の筆頭大名で、常に幕政の中枢にあり、井伊直弼ら5人の大老を出している。