「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「古代史群像の標榜」 五十七、清盛と後白河上皇

2016-08-06 04:29:41 | 古代史群像の標榜
「古代史群像の標榜」
五十七、清盛と後白河上皇

保元の乱・平治の乱で源平興亡を見て、両合戦で一旦坂東に活路を求めた源氏は頼義(よりよし)・義家(よしいえ)の築いた血脈を温存することが出来た。
一方、平氏は伊勢国に拠点を置いていた伊勢平氏が登場する。平維衡(これひら)は諸国に受領を歴任し四位まで昇った。京に於いては一条天皇を支える在京武士だったが、平致頼との合戦に移郷の処分を受けたので、長子正輔も致頼の子致経と合戦をしたために京に武士として生き残れなかった。
正度の子の三人の維盛、秀衡(ひでひら)、正衡は検非違使(けびいし)に起用され南都北嶺に動員された。やがて正衡の長男正盛は白河院の恩恵で北面武士になった。
正盛はその後在京で数々の働きの功績が認められ、鳥羽院北面・院別当を務め昇進していった。正盛の子の忠盛も諸国の受領を万遍なく巨万の富を成した。この様に正盛・忠盛親子は京に於いて着実に実績を子孫に残し、領地を子孫に残した。またその蓄財した財源を惜しみなく造寺・造仏に注ぎ込んで行った。
また白河・鳥羽への忠義の働きは意図的に演出させた一面あって、京の人々にいぶかったこともあったが、源氏の追討には武名を挙げた。
こうして白河院の演出によって一躍、躍り出た伊勢平氏は「武家の棟梁(とうりょう)」脱皮するまで実績を積まなければならなかった。院の要請で海賊征伐にもその威力を発揮、華々しく京に凱旋をして人目を引いた。こう言った華々しい正盛(まさもり)から忠盛に引き継がれ、その長子清盛に加階されていった。
永歴元年(1160)清盛は正三位参議に昇進し武士として公卿に列し、応保元年(1161)権中納言になり、四年後には嫡男重盛が参議になった。
一門の受領は六~八カ国に増え武蔵・尾張・越前・など獲得をして行った。
平氏の隆盛は、清盛と後白河上皇との不思議な関係から互に協調と対立を重ねながら利害が一致した。
後白河上皇は傍流(ぼうりゅう)の払拭に熾烈な二条天皇との駆け引きを重ねた。重病の二条天皇は二歳の順仁親王(六条天皇)を立太子を待たず、譲位し二十三歳にして死去した。二条天皇はあくまでに直系の親政の意思を示し亡くなった。
所が後白河上皇は鳥羽上皇の定めた直系の親政の呪縛から解放され、時忠を配流から召還し、翌年の仁安二年に滋子が生んだ憲(のり)仁(にん)親王(高倉天皇)を皇太子とした。
二歳の天皇に六歳の皇太子随分矛盾をした天皇と皇太子であった。六条天皇に対して皇太子憲仁親王の後白河上皇の扱いと対応は著しく違っていた。
本来厳密に言えば二条天皇の皇子は後白河上皇に取り孫、憲仁親王皇太子は清盛の妹の滋子と後白河上皇との生まれた皇子、二条天皇の直系の継嗣を考えれば六条天皇の即位は当然であった。だが老いて孫と同年の御子の憲仁親王が可愛い、寵愛(ちょうあい)は当然である上に、後鳥羽上皇のジレンマである自分も傍流、もし皇太子の憲仁親王が即位すれば傍流が即位する事態に二条天皇は先々を予測して自分の御子の二歳の六条天皇を即位させた。
それをまた覆そうとする後鳥羽上皇は拝賀する六条天皇の朝覲(ちょうきん)行幸(ぎょうこう)は皇太子の拝覲行啓の露骨に後回しにしたのである。
即位した六条天皇は身分が低かったので中宮・育子養母になって、摂政・近衛基実らによって体制の維持が図られていた。
しかし六条親政も不安定で次第に後白河院政派が復活し、後白河院は憲(けん)仁(にん)親王(しんのう)に親王宣下を行なった。しかも外戚に当る清盛を親王勅別当とした。何もかも異例ずくめで摂関家と平氏が入れ替わって直系の二条親政派は瓦解(がかい)をした。
後白河院政派は二条親政派を切り崩し自派の公家の起用を押し進めて勢力拡大に務め、源資賢を参議に補された。翌月には藤原成親・光隆が参議に藤原成範・平頼成が従三位として、院政の近臣には厚遇し、閑院流には冷淡な扱いをした。
後白河上皇は人事の刷新を済ませると、御所の拡充と軍事の整備に乗り出し、これは清盛の長子の重盛の持つ軍事力を視野に入れて東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊の追討の宣下を行い、重盛に軍事の維持を負託した。
重盛は儀式や熊野詣などの警護にも当たり、後白河に最も近い人物になった。
所が仁安三年(1169)に清盛は病に倒れ後白河は急ぎ六波羅に駆けつけ見舞い、その狼狽ぶりは清盛だよりの王権と廻りに思わせた。
全勢力の封じ目の為に急遽六条天皇から憲仁への譲位が慌ただしく行われた。
ここに高倉天皇が即位した。翌年嘉応(かおう)と改元され、後白河は法住寺に於いて出家し法王となり授戒には多くの園城寺の僧侶を中心に行われた。
出家後の直後延暦寺の僧兵が藤原成親の配流を求めて傲訴し、法王は理解を示したのに対して平氏は否定的態度をとり事態は紛糾した。(嘉応(かおう)の傲訴(ごうそ))
平氏と比叡山の僧兵は犬猿の仲、その一例に清盛が祇園社(ぎおんしゃ)(延暦寺の管理下)で田楽を奉納した時に平氏の郎党と神人とが乱闘になったその処遇を巡って紛糾したことがあって、仲が芳しくなかった。
平安末期には朝廷の弱体化と同時に有力寺院の発言と実力行使に後白河院もその調整に苦慮していた。
それが寺門派の園城寺(おんじょうじ)の僧侶を主導の儀式に、南都は黙ってはいない、そこで東大寺で再度授戒を済まさなければならなかった。今度は清盛も合流し並んで授戒をした。
行幸から帰ると後白河院は重盛を権大納言に、延暦寺といざこざを起こした成親を権中納言に・検非違使別当(軍事警護を担当)に任命をした。
その後は清盛との考えの違いの「日宋貿易」も南都、北嶺の扱いの差に軋みが見られたが互いの利害の前に消化されていった。
後白河院は寵愛する滋子の意に応えて新御堂が建立し、諸国からはこういった御願寺造営に賦課の軽減の訴えが相次いだ。(院政時代に六勝寺がその例)
承安四年(1174)に後白河院は滋子を伴って厳島神社に参詣し、安元二年(1176)には五十歳を迎え盛大な祝賀が開かれた。
この祝宴の後滋子を伴って有馬温泉に行幸し帰って直ぐに愛妻滋子は病に倒れ、看護の甲斐も無く死去した。
滋子の死後は清盛と後白河院との関係が悪化し、今度後白河院の高倉天皇の退位工作まで飛び出す始末、高倉退位は猶予となって平氏対立を先送りにしたが軋轢は徐々に深まって人事の起用でも後白河院の人脈で固めて行った。
その後後白河院と比叡山延暦寺との僧兵を持っての紛争、傲訴に重盛が神輿に矢いる失態に延暦寺は処罰を要求、重盛の家人の処罰で事は治まらなかった。
四月二十八日に安元の大火が起こり、大内裏・京中を焼きつくした。これに後白河院は天台座主明雲を逮捕し解任をした。
延暦寺の所領と座主の流罪を決定し、延暦寺の宗徒は座主を奪還した。比叡山の事態の決着を見ない間に高倉帝の退位工作も進まぬ間に、衝撃的事態が起こりつつあった。
それは高倉帝は十七歳になり自分で自立の方向性を見いだし、後白河院の指導力低下は高倉帝との二頭体制になりかねない状況になって来た。
そこに高倉帝に徳子の懐妊を伝える。その皇子は無事誕生し、そこで九条兼実に諮問すると、二,三歳では遅いとその年の内に立太子され、その儀式にも後白河院は呼ばれなかった。
そんな折温厚な重盛が病に倒れた、清盛と後白河院の仲立ちがいなくなれば衝突は必死と考えらえていた。
そんな時に清盛は治承三年の変を起こした。清盛の強硬姿勢は後白河院は住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行され幽閉された。
そして今日中に平氏の武士が充満する中、後白河院は三百騎の護衛によって八条坊門烏丸邸に還った。この時すでに清原包囲網が敷かれ、不利な京都を棄て平氏の本拠地・福原の行幸を強行する。当然後白河院も同行させられた。
新都建設は貴族だけでなく、平氏一門はもとより・高倉帝・延暦寺からも反対の声が上がった。
清盛が福原遷都を急がせる要因に富士川の戦いの大敗を期し諸情勢が悪化、東国の反乱の報せを受け増々弱気になって行った。
そんな折悪い事に高倉上皇が危篤になって、容態は急変ついに崩御になった。その間も相も変わらず後白河院と清盛の丁々発止のやり取りが瓦解寸前まで繰り広げられた。
清盛も体調を崩し恨み言を残しながら死去した。
京の六波羅の南では「うれしや水、なるは滝の水」とどっと笑う声がしたと言う。こう言った京中の今様乱舞の喜び以上に、後白河院の安堵と開放感はそれ以上だったかもしれない。
以後平氏の威信は崩れ、平氏の総大将維盛は十万の大軍で北陸道に下向するが、倶利伽羅峠の戦いで壊滅し、木曽義仲軍が東塔に城郭を構えた知らせがあって、平氏は西国に退去する方針を決定していた。

★平清盛(1118~1181)日本最初の武家政権の樹立者、刑部卿、平忠盛の嫡男、実は白河院の落胤。母は白河法自身の女性で、解任後忠盛に下賜された。一説に祇園女御と言う。武家として初めて太政大臣に昇った。六波羅殿、六波羅入道とも呼ばれ、保元の乱では後白河方に勝利に貢献し、乱後は藤原頼通・信西と組んで勢力を伸ばす。平治の乱では源義朝を破り、圧倒的軍事力を背景に政局を左右する勢力に成長した。清盛の妻の妹の滋子が建春門院を母とする高倉天皇が即位し娘徳子も後宮に入れて、摂関家に近づく、天皇の外戚になった。晩年は都を福原に遷都したが病に倒れ死去した。
★平重盛(1138~1179)平清盛の長男、母は右近将監高階基章の女、小松内府、灯篭大臣とも称し、蔵人・従五位下と昇進士し、参議から父が太政大臣になると権大納言になって、平氏の末期には東海道・東山・南海道・山陽道の海賊(かいぞく)追悼使(ついとうし)に補任、清盛が福原に引退すると、平氏の総師になった。また文武に優れ後白河院と清盛との対立と軋轢に融和を図った。
★平維盛(1157~1184?)*小松内府・平重盛の長男、父重盛の死によって小松家の権勢は衰退するが1181年に公卿に列したが家督を継いだ宗盛の息清宗に遅れ子と一年であった。治承・寿永の内乱には東国追討の大将になったが、富士川の戦に惨敗、北陸道の遠征にも大敗し、都落ちの辺りから立場が微妙になって、元歴元年(1184)一の谷の敗戦後は分派行動をとり、熊野で入水したとも、頼朝に頼って鎌倉に行ったとかその終末は不明である。
★二条天皇(1143~1165)名は守仁、父は後白河天皇、母は大納言藤原経(つね)実(ざね)の女、母が出産直後に没したために、美福門の藤原得子に育てられる。
親王宣下で父後白河天皇の即位は二条天皇の中継ぎで父後白河との確執が絶えなかった。平治の乱では内裏に幽閉され流、清盛の計画で脱出した。
★六条天皇(1164~1176)二条天皇の皇子、順(のぶ)仁(ひと)。父二条天皇の病気の為に即位であったが、父は間もなく亡くなり後ろ盾失う。三歳の幼少にして即位、五歳で退位、十三歳で没した。
★高倉天皇(1161~1181)後白河天皇の第七子・母は平滋子・憲仁。仁安三年(1168)に即位した。清の娘徳子を皇后に立てた、皇子言仁(安徳天皇)が誕生した。後白河法皇と清盛が対立し幽閉され院政を停止をした。高倉天皇は子の両者の対立に深く憂い政情不安の中で翌年に没した。
★藤原成親(1138~1177)平安時代の公卿、父は中納言家成、母は中納言経忠の女、後白河院の側近。平治の乱では信頼と組んで敗れ、乱の後に処刑される処を重盛によって救われる。後に二条天皇派や延暦寺と衝突を繰り返し、その度復帰し後白河院の庇護を受けて昇った。鹿ケ谷での平氏打倒の謀議に加わったとして捕えられ、配流の途中に殺害される。
★明雲(1115=1183)天台僧、村上源氏の久我顕通の子、最雲法規王の弟子で梶井門跡出身。六条・高倉・安徳天皇の護持僧、後白河院の戒師務める。清盛の戒師を務めて平氏とのかかわりが深い。
◆福原遷都*治承四年(1180)行われた平氏による摂津国八部(やたべ)郡(ぐん)和田(現の兵庫区の一部)清盛は病気引退した以後福原の別荘住み、何度か改修し、治承・寿永の内乱が始まった以後、平氏は安徳天皇・高倉上皇・後白河院を奉じて福原の邸宅に入った。土地が狭く都の適さず、実際は都として機能していたかは不明、新内裏に移って間もなく天皇や清盛らは帰京している。
◆法住寺*京都東山は三十三間堂の近くにあった寺院、藤原爲実が創建し、長元五年(一〇三二)火災に遭い寺は廃絶になった。後白河院の応保元年以後「法住寺」は御所の名称となった。法住寺御所は賀茂川西の七条から八条坊門の及ぶ十町余りを有する七条殿東御所・西御所・南御所などの殿所が存在をした。

◆日(にっ)宋(そう)貿易(ぼうえき)*中国宋との間での貿易は十世紀から十三世紀に行われた。高級織物・陶磁器・書籍・香木・などの中国文物の南海産物は貴族の間で唐物と呼ばれ珍重され、その代価として金・水銀・真珠・刀剣などに支払われた。

※平氏の「おごる平氏」の晩期は身内ばかりの起用で源氏蜂起に無力であった。後白河院の執拗な執権に対する貪欲さは院政の維持に心血が注がれて、清盛との駆け引きに費やされる。検非違使を持っての不満者に圧力と実力行使、後白河院の皇位継承の正統性に於いて皇族らにもその傍流は拭えきれなかった。平氏と持ちつ持たれつの関係で平氏時代は切り抜けた老獪な一面を持っての清盛と後白河院であった。





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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十六、平治の乱

2016-08-05 04:13:05 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
五十六、平治の乱

保元元年(1156)保元の乱で勝利した後白河天皇は同年に『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。
「保元の乱」にせよ「平治の乱」にせよ荘園制度で没収するなど、蓄財、私有財産をどう多く保有するかが貴族や官職に必要であった。新制制度では王土思想を宣言したもので全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたものである。その政治への辣腕を振るったのが後白河天皇の側近の信西であった。
まず取り掛かったのは荘園の記録所を設置し二十一人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査など荘園の整理にあった。信西は経済基盤の確保のためには保元の乱の所領を没収し王土思想の基、公領の蓄財に余念が無かった。
国政改革の為には平清盛を厚遇した。平氏一門は北面武士の中で最大の勢力を保持し、清盛が播磨守・頼盛が安芸守・教盛が淡路守・経盛が常陸介と兄弟で四ヵ国の受領に拡大し、京では神人,悪僧の統制に治安維持に武力の勢力は不可欠だった。
またもう一つの勢力が二条親政の攻勢があった。美福門院を中心とした東宮・守仁親王の擁立を計る親政派である。
もともと後白河即位は守仁親王の即位までの中継ぎであったはず、信西と美福門院協議の結果後白河天皇は守仁親王に譲位し、ここに二条天皇が出現をした。
それは新たに後白河院政派と二条親政派に別れることになり、近衛天皇崩御に俄作りの天皇の即位になって信西頼みの在位であった。
そこで信頼できる側近の育成に武蔵守の藤原信頼を抜擢し、信頼は昇進を重ね、地盤である武蔵・陸奥の知行国として、深いつながりを持つ源義明と連携をして行った。
義明の武蔵国の大蔵合戦にも信頼の支援があって、義明は宮中では軍馬を管理する左馬頭で同盟関係が結ばれ血縁関係も結ばれ保元の乱で源氏の勢力後退を義明は復活させ後白河近臣として固められていった。
ここに信西派・二条親政派と後白河院政派・平氏一門と二派に別れ権力闘争になった。問題発端は清盛が熊野詣に赴き軍事的空白に事が起こった。
十二月九日の深夜、藤原信頼とその同心が武将は院御所・三条殿を襲撃をした。後白河上皇の姉の身柄を確保すると、三条殿に火を付けて警備のものなどを殺害をした。信西一門はすでに逃亡した後であった。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇の居る内裏に移し軟禁状態にした。
一方事前に知っていて逃亡した信西は山城国の田原に非難、三条殿襲撃を知って逃れることは出来ないと諦めて、藤原師光ら郎党に命じて自ら地中に埋めさせて自害をした。
一方追手は地中から掘り起し、首を切って今日に戻った。首は西の獄門に棟木にさらされた。信西の子らも信頼の命令によって流罪となった。

★後白河天皇(1127~1192)雅(まさ)仁(にん)親王・在位は三年であるが院政は長い。鳥羽天皇の第四子、母は待(たい)賢門院(けんもんいん)藤原璋子(ふじわらしょうこ)、鳥羽法皇は籠妃美(び)福門(ふくもん)の意向により近衛天皇の没後、践祚(せんそ)。しかしこの践祚は自分の御子の重仁親王即位までの中継ぎの天皇として意図された。同母兄の崇徳天皇との対立の要因になった。保元元年に後白河・忠通方と崇徳・頼長方の武力で争う保元の乱を引き起こし、後白河は義朝、清盛を味方につけ勝利し、実権者信西の新制の制定、荘園整理令など行なわせた。以降五代に渡る院政を開始した。
平治の乱では信西を討ったものの、清盛が実権を握った。以後清盛とは丁々発止のやり取りで、清盛に幽閉されたり、清盛の死後復活したりした。
源氏蜂起で平氏の以後の京での源氏の身内同士の覇権(はけん)を廻り巧みに使い分けた。晩年は崇徳・頼長・安徳の怨霊をおびえながら六条院で没した。
★信西(しんぜい)1106~1160)貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名が円空、俗名藤原通憲で藤原南家。信西の家系は曽祖父実範以来、代々学者(儒官)七歳で父が死去し縁戚の高階経敏の養子になる。
博識を買われて待(じげいん)賢門院(もんいん)判官代・鳥羽判官代になる。官職は少納言止まり、藤原姓に戻して出家した。
出家後の活躍は目覚ましく、鳥羽院の側近として院領神埼壮の知行を命じられた。保元の乱では後白河天皇方の総師として、源義朝の意見を入れ、崇徳方の白河北殿を急襲し、乱の勝利に導いた。
後妻が後白河天皇の乳母であった為に、乱後の政治的主導の論功行賞を行い、長く死刑が途絶えていたが復活させ、上皇方の武士の多くを処刑をした。
その後信頼との対立を深めて、信頼・義朝らの挙兵に京を脱出したが宇治田原で自害の後に斬首された。
★藤原(ふじわら)信頼(のぶより)(1133~1159)公卿。後白河院の近臣。父は鳥羽院の近臣藤原忠隆、母は藤原顕頼に娘、後白河天皇の寵愛を受け「あさましき程に御籠ありけり」と言われた。参議・中納言と出世し、後白河院の近臣として保元の乱後権勢を振るった。
清盛の熊野詣中に挙兵し、信西を打ち、一時成功したかに見えたが清盛の巧みな手法によって情勢は一変し、敗北に終わり捕えられ六条の河原で斬られた。
◆北面武士*院の親衛隊の役割を果たした武力組織。白河天皇が寛治元年(1087)ことに創設されたと言う。北面の内、五位から六位の武官からなる下北面に含まれる。
創設時北面武士には藤原盛重・平爲(ため)俊(とし)以下院の籠童出身者が多く、儀仗兵(ぎじょうへい)的性格であった。その後頻繁に起こる傲訴や防禦(ぼうぎょ)や院御所の警護に当たった爲、院武者所の機能を引き継ながら本格的武力となった。
その中心は伊勢平氏の平正盛・忠盛親子で他に美濃源氏・坂戸源氏などが当たった。北面の地位は重代相伝される傾向があった
白河天皇が死去した当時は八十人を数えた。その郎党を加えると千人は下らないだろうと言われている。
※後白河院の人事の起用で側近臣に当初信西を重用した。鳥羽天皇の時代からで白河天皇の擁立の功労者、教育も受け親密な仲だったが、その後信頼を起用し院の立場を強力にしたが、信西、信頼は互いに対立し、信西は信頼の急襲にあって滅亡し、信頼もその後の情勢で失脚した。後白河系と二条系の覇権廻り争いが繰り広げられた。





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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十四、院政の連脈

2016-08-03 04:20:45 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
五十四、院政の連脈
院政時代は後三条天皇の即位から、白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・崇(す)徳(とく)天皇・近衛天皇・後白河天皇・二条天皇・六条天皇・高倉天皇へと続いて行ったが、必ずしも親、祖父の上皇・法王が政務を執れたわけでもないが、摂関家に権力を引き渡さなかった。
親政の新制は天皇が自ら政権を執る。それは摂関時代からの脱却にあった。親政は時として直系の親政に継がれなかった点があるが基本的に直系が優先され、その順位が狂った時に、特に後白河天皇から二派に別れ紛争の要因になった。
治暦四年((1068)後(ご)冷泉(れいぜい)天皇(てんのう)が死去し、長き四年間の皇太子の地位にあった尊(たか)仁(ひと)親王が三十五歳で後三条天皇として即位をした。
また長きに渡って藤原家の摂政から百七十年ぶりに親政が行われ長年の摂関に終始符が打たれた。
摂政は常習化された天皇家に対し藤原家の縁戚を結び政権に関与し続けた構図があった。
それには従来通りの外戚頼通(がいせきよりみち)の皇位継承に親政への妨害を潜り抜けて、尊仁親王の立太子を擁立を強行し、ここに後三条天皇の誕生を見た。
後三条天皇の即位後は。摂関家は新たに次の外戚を画策、それも聡明な後三条天皇は対立することなく、皇太子時代から有能な近臣集団を形成し、摂関家と対立することなく懸案の「荘園整理令」など施策を講じて、生前幼い皇子に譲位をさせてすぐその直後に亡くなった。
次に皇位を継承した白河天皇も母を摂関家に持たない天皇であった。(摂関家の干渉を受けないためにも母が摂関家でない事が第一で、また摂関家でない妃から生まれた皇子の立太子擁立こそ難航を極めたようである。)
閑院流出身の中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女藤原茂子であったが、白河天皇は関白を置いたものの親政を行なったのは後三条天皇同様であった。
白河天皇は応徳三年(1086)に当時八歳の善仁(堀河天皇)に譲位して自ら白河院と称して、引き続き政務を執った。これが一般的に院政の始まりとされている。
嘉承二年(1107)に堀河天皇が没すると、その皇子四歳にして即位させ、自分の思い切った政務を執り行い、独自の院政を白河上皇は成功させた。
白河上皇以降、皇子は「治天の君」と言われた。
白河上皇の院政は幼く即位した皇子が早世し結果的にそうなっただけで、それを意図したことでない事は確かであろう。
院政時代は比較的に皇位が穏健に進められたのは、父権を持って皇位を決定できる点で、摂政による権力の思惑が働かない面が円滑に継承が行われた観がある。
白河上皇は鳥羽天皇の第一子(崇徳天皇)を皇位に就けた後に没し、今度は鳥羽上皇が院政を敷き、継ぐことになった。
鳥羽上皇は崇徳天皇と相性が合わず、疎んじ、第九子(近衛天皇)を継がせた。近衛天皇が没すると、今度は近衛天皇の兄の後白河天皇を立てた。
鳥羽天皇が没すると、譲位させられた兄の崇徳上皇と後白河天皇の間に戦闘が起こり、後白河天皇が勝利したのが「保元の乱」であった。
後白河天皇は保元三年(1158)は二条天皇に譲位すると院政を開始した。皇統の正統を意識した二条天皇は天皇の親政をめざし、後白河院と二条親政は生じた。強固でない院政を始めた後白河院政は二条天皇の時代には発言は強いものではなかった。
病に侵された二条天皇は永万元年(1165)に幼い六条天皇に譲位をした。二条天皇譲位直後に没してしまった。
ここに後白河上皇の院政が始まったが、結果武士の台頭を許し、平治の乱の清盛の登場に崩壊し、治承・寿永の内乱によって源氏の鎌倉幕府誕生を生む結果となった。
後年後白河上皇は清盛と対立し、鳥羽殿に幽閉をされ院政を停止されてしまった。この時点で高倉天皇が親政を成立させたが、高倉天皇は治承四年(1180)に安徳天皇に譲位し高倉院政が成立したが、その院政下で清盛に福原遷都をされて病弱な高倉天皇は帰京し直ぐに没した。
その後清盛が世を去って、清盛の後継者の平宗盛りは再び後白河院政を復活させた。
後白河法皇後は孫の後鳥羽上皇が院政を行ったが、時は鎌倉時代、将軍源実朝が暗殺されたことを好機と見て鎌倉幕府の討幕を試みたが自身が流罪になって執権北条氏の介入を招いてしまった。
その後の院政は皇権の威光も薄れ、南北朝の時代へと移って行き形だけの院政が試みられたがかえって複雑な構成と後継に弱体化していった。

★後三条天皇(1034~1073)享年四十歳・後朱雀天皇の第二子、尊仁(たかひと)親王。母は三条天皇の皇女陽明門院禎子内親王。長元九年(1036)親王宣下。父後朱雀天皇の譲位後兄後冷泉天皇の即位と同時に皇太弟に立てられる。
関白頼通は後冷泉天皇の皇統を維持しょうと後三条の皇大弟に反対したが、後冷泉天皇に嗣子がいなかったために唯一の後継者として強い立場で即位する。
即位後は関白との改善に后妃を摂関家に養育された馨子(かおる)内親王(後一条天皇の皇女)を妃にすることで改善しその後も摂関家系の妃をするなど融和図った。政策としては荘園整理令を発布など荘園公領政策などを展開をした。在位四年目で譲位し、長子貞仁親王に譲位をした。同時に次男の実仁に皇大弟とした。後三条はこの譲位半年後に四十歳で死去した。
★白河天皇(1053~1129)後三条天皇の第一子。生母は藤原茂子は実父は藤原公成、養父が藤原能信、摂関家の娘ではない。
白河天皇は即位後、譲位後も天皇三代に渡り長く大上天皇(上皇)として君臨し、院政の基礎を作った。父後三条から譲位されたと同時に異母弟の実仁親王が皇太弟に立てられた。この時点で自分の直系の天皇を立てられない状況になった。
即位後の翌年に後三条上皇が死去し、実仁が応徳二年(1085)に病死し、翌年に嫡男善仁を皇太子として擁立した。皇太子に立てたその日に譲位(堀河天皇)する異例のやり方であった。何故そのように急いだのか、それはなくなった実仁の弟の輔仁の存在があってのことである。
永長元年(1096)自ら出家し法王となった。
白河法皇の宿願の堀河天皇に嫡男(後の崇徳天皇)が生まれ安堵となって、鳥羽から崇徳へと筋道をつけることに実現させた。生涯通じて皇位継承を自分の意志で貫徹させた所に院政の本質があった。
白河法王は摂関家の協力なしでは政務は進まないことを熟知、摂関家に協力者には緊密な関係を保ちながら、関白藤原忠実を失脚させ排除したが、それも鳥羽天皇が忠実と連携し自立を目指したため危機の回避のため、息子の関白忠通とは良好な関係を修復させた。
白河法王は荘園制度の改革に財源をうまく活用し、頻繁な熊野詣や、鳥羽殿の造営、北面武士の起用なども始めた。生涯思った政治と朝廷内を運用させ院政を運用した天皇の生涯を満足させつつ、大治四年(1129)死去した。
★堀河天皇(1079~1107)在位二十八年間。善仁親王、白河天皇の第二子、母は関白藤原師実の養女賢子(実父源顕房)親王宣下で父白河天皇より立太子即日践祚という異例の形で譲位された。最初の結婚十九歳年上の篤子内親王(白河の同母妹)が中宮としたが嗣子に恵まれず、藤原苡子を女御に男子(鳥羽天皇)が生まれる。1107年在位のままに死去。
★鳥羽天皇((1103~1156)堀河天皇の第一子。母は藤原実季の女苡子。誕生から7カ月で立太子、祖父の白河に養育され、父の死によって五歳で即位。永久五年(1117)に白河の養育されていた藤原璋子を女御とし、長男(崇徳天皇)が誕生した。その後藤原忠実の女泰子の入内を廻り白河と対立し忠実を失脚させたが、その後白河上皇に従ったが白河上皇の死後院政を開始、反白河の態度をあらわにした。藤原得子に男子が生まれると、生後三ヶ月で皇太子に立て、永治元年(1141)に崇徳に譲位した。その後崇徳から近衛に譲位させて、崇徳を排除した。近衛が死去すると後白河を譲位させ「保元の乱」を引き起こす要因になった。
★崇徳天皇(1119~11164)保安四年~永治元年(1123~1141)四歳で即位して十八年間在位した。鳥羽天皇の第一子、顕仁親王、母は藤原璋子(しょうし)曽祖父の白河法王の意向で即位したが白河法王が死去すると、たちまち立場が厳しくなって父の鳥羽上皇の愛妃美福門院が生んだ近衛天皇への譲位を余儀なくされた。
崇徳の皇子重仁に皇位に望みをかけるが、近衛天皇の死後は後白河が即位して立場はますます不利に、鳥羽法皇の死後を契機に挙兵するが破れ讃岐の国に流される。配流地での無念の最期に怨霊が余人に恐れられた。
★後白河天皇(1127~1192)久寿二年~保元三年(1155~1158)の三年間の在位、崇徳の自分の重仁皇子に継がせたい思いと藤原忠通と頼長が絡んで後継を廻る戦いで保元の乱を引き起こし、平清盛を味方につけ勝利をした。
三年間の在位後二条天皇に皇位を譲り、六条・高倉・安徳・後鳥羽と五代に渡って院政を揮った。
その後清盛の権力にしたたかに立ち振る舞い、源氏の挙兵で院政を画策するが清盛の死後、平氏・頼朝・義仲の使い分けで生き残りを模索するが、晩年は孤独で崇徳・頼長・安徳の怨霊に際悩まれ、建久三年(1192)六条院で念仏を唱えながら没した。
★二条天皇(1143~1165)父は後白河天皇、母は大納言藤原経実の娘懿子(いし)
在位七年間、母が出産直後没したために、美福門院得子に育てられる。久寿二年(1155)親王宣下、即日立太子。父後白河の即位は二条への中継ぎ、と云う鳥羽院と美福門院の意向が流布したため、即位以降父後白河院とは確執が絶えなかった。
★六条天皇(1164~1176)在位三年間。名は順(ぼぶ)仁(ひと)、二条天皇の皇子、母は伊岐致遠、1165年親王宣下、即日践祚(即位)父二条天皇が病気のための即位であったが、父二条天皇も亡くなり庇護者を失う。わずか三歳で即位五歳で退位、清盛の義理妹建春門院平滋子を母とする叔父高倉天皇が即位をした。六条天皇は十三歳で没し、二条天皇皇統が消えた。また元服以前の太上天皇は初例である。
★高倉天皇(1161~1181)在位十二年間、憲(のり)仁(ひの)。後白河天皇の第七皇子。母は平滋子。平清盛の娘徳子を皇后に立て、皇子は言仁親王(安徳天皇)後白河院と清盛の対立に融和を図り深く憂いた。治承の乱の寿永の乱の勃発で政情不安の中、二十一歳で没した。

※摂関時代からの脱却は、親政による政務と新制を施行にあった。それには摂関家とは摩擦を生まないように融和を持ってなされていった。摂関家の発言力の低下と逆の武士の台頭と活用によって、その存在が無視できなくなって来た。
「保元の乱」にしても「平治の乱」も武士団の活躍は顕著に表れている。一つに「検非違使」であり、「北面(ほくめん)武士(ぶし)」の存在である。
平氏の台頭で、また清盛と後白河院との駆け引きで摂関家より武家との覇権を廻り、源氏・平氏と使い分けるが、源氏頼朝の鎌倉幕府の樹立で武布の時代に移って行った。


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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十三、後三年の役

2016-08-02 04:56:16 | 古代史群像の標榜

『古代史群像の標榜』(全58回)
五十三、後三年の役

「前九年の役」が沈静してから二十一年ご陸奥では再び不穏な動きが現れたのが永保三年(1083)の「後三年の役」である。
前九年の役も、後三年の役も紛争は複雑な人間関係から成り立ち主従と氏族内の関係に官職の任命と複雑に状況が変わる。
出羽国の清原氏に対して、陸奥国の安倍氏の巨大な豪族の勢力図、後三年の役の変動を要約すれば清原氏嫡流真衡の養子成衡の婚儀に際し、真衡の傲慢な態度に激高した一族の吉彦秀武が挙兵した。これに異母弟家衡、家衡の異父兄の藤原清衡の親族が呼応した。
背景は嫡流に地位強化にあって、一族の不満を買ったらしい。
家衡については前九年の変の後で武貞は安倍一門の藤原経清(敗戦後処刑)の妻を自らの妻としていた。
この女の連れ子が武貞の養子となって清原清衡を名乗った。その後武貞と女との間に家衡が生まれた。
この家衡こそ清原氏と安倍氏の惣領の血を引いた家衡である。
武貞の死後、清原氏の惣領を継いだのは真衡であったが継嗣に恵まれなかった。そこで真衡は海道小太郎(一説に平繁盛の子安忠)なる人物を養子に迎えた。これが成衡である。
ここに清原氏は桓武平家と縁戚関係を結んだことになった。
更に真衡は源氏との関係の構築を目論み永保三年(1083)常陸国から源頼義の娘の女性を迎えて成衡の嫁とした。
この出自に関して頼義平国香の流れの平宗基の娘と一夜を共にして生まれた娘とされ、清原氏にとって常陸平氏、河内源氏の惣領の血を引く系統が生まれたことになる。
一方、これに対して家衡は清原氏、安倍氏の血を引く家衡は清原氏から一歩嫡流から外れることになった。
そんな折に起きた聖衡の婚礼で清原氏の長老的存在の吉彦秀武に祝いの席での無礼で婚礼の席に砂金をぶち撒いて帰ってしまった。これに怒った真衡は吉彦に軍を差し向けた。
一方吉彦は同じく真衡と不仲であった家衡に密使を送って連携することを申し入れ、これを知った真衡は戦いを起こし家均と藤原清衡討とうとした。
二人は一旦戦いを避け退却し本拠地に帰って行った。
真衡は戦わずして退却させたのに勢いに乗って吉彦を討つ用意の最中、源頼義の嫡男が源義家が陸奥守を拝命し赴任し歓迎の宴席で争いは中断した。
その後好機を見ては家衡と清衡は出羽に攻め入ったが、その内陸奥守の源義家が真衡に加勢したために、家衡、清衡は降伏をした。
しかし真衡が移動中に急死したために、その後は義家二人に真衡の所領、奥六郷を三郡づつ分け与えた。
所がその配分を不服として家衡は清衡の館を攻めて妻子一族は殺され清衡は生き延びた。再び清衡は義家に救援を求め対抗した。
清衡と義家軍は家衡に攻め入ってこれを破った。
この陸奥での清原氏、安倍氏両氏入り乱れた戦いで、最後に勝利したのは清衡であった。
この戦い後清衡は旧清原氏の領地をすべて手に入れることになって、清衡は実父である藤原経清に復し奥州藤原氏となり、清原氏は消滅をした。
★清原家衡(?~1087)陸奥の武将、武貞の子、母は安倍頼時の女、四郎と称した。木原氏の同族争いに端を発した後三年の役では、当初異父兄の清衡と結び、真衡(さねひら)の病死後は、陸奥守義家の支援を受けて清衡と戦った。出羽国の沼柵の戦いで勝利を収めたが、その後叔父武衡の援助で金沢柵に戦い翌年攻略され斬殺された。
★源義家(1039~1106)河内源氏。父は頼義、母は平直方の女、石清水八幡で元服し、八幡太郎と号す。前九年の役で父頼義に従って参戦し、乱の平定の功のよって出羽守になる、後三年の役に介入。義家の調停に反抗した豪族清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令に従わず、この合戦は私的な戦いと見なされ恩賞もなかった。その後摂関家に近従したが弟の義綱と対立した反面比叡山の悪僧の取締に活躍した。嫡男義(よし)視(ちか)が九州で乱行で不祥事の最中死去した。
★藤原清衡(1056~1128)陸奥の武将、奥州藤原氏初代。父は陸奥権守藤原経(つね)清(きよ)、母は奥六郡の俘囚長安倍頼時の女。前九年の役で父は殺され、母は清原武貞に再婚をしたために、清原一族として成長した。後三年の役で真衡・家衡(異父母兄弟)が死んだ結果、清原一族の唯一の後継者になり、奥六郡・山北三郡を領有。その後「俘囚之上頭」の地位に付き南奥州にも勢力を伸ばし,白河院や摂関家と結び本姓藤原に改姓をした。
★清原真衡(?~1083)陸奥の武将、武貞の子、父と同様出羽国の奥六郡に勢力を拡大
し清原氏の最盛期を迎える。しかし独裁支配を行なった為に弟の清衡・家衡らの同属の反発を受けて、後三年の役では真衡側には不利だった。義家の支援を受けるが陣中で病死をした。

※陸奥地方の覇権(はけん)を廻り、複雑な家督争いに、俘囚の民の中に土着をした清原氏、安倍氏は平氏、源氏の血脈を我氏族に入れ込まんとして、その威光と正統性を主張する手法に、家督争いに奔走(ほんそう)して来たが、都より源義家の陸奥守の軍門に下ったが、その陸奥を平定した源義家も京の朝廷からはその功を認められず、単なる私戦と決めつけられ再三の論功(ろんこう)行賞(こうしょう)は得られず、受領功過定は退けられた。また新たな官職にもつけず、その後十年間に渡って受領功過定を請求し続けた。
結果、坂東から参集した武士たちには私有財から払わなければならず、これが返って河内源氏の鎌倉幕府への基盤作りの基礎を成したと言う。
この清衡の勝利によって奥州藤原の基礎が築かれた。





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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十一、平忠常の乱

2016-07-31 04:21:53 | 古代史群像の標榜

『古代史群像の標榜』(全58回)
五十一、平忠常の乱

東国で将門(まさかど)の乱から一世紀近く経って、万寿五年(1028)上総権介平忠常が安房守惟(これ)忠の館を襲撃して惟忠を焼き殺し、続いて忠常は上総国の国衙を占拠してしまう。上野介県犬養(あがたいぬかい)爲(ため)政(まさ)の館を占拠して受領を軟禁した。
県犬養爲政の妻子が都に逃れ、これを見て上総国の民は忠常に加担し反乱は房総三国に広まった。
これは上総の「国人」「州民」が受領の妻子の帰京に反発をして起きた事態だった。
この事件は広範な在官人などが参加し凶党の蜂起であった。これを平忠常が住国上総を越えて反受領の指揮をしたのは上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)など数カ国に広まっていた。
坂東諸国は将門の乱以来荒廃し、受領たちの使命は公田の復興、荒廃公田の再開発に反発をしたのは国衙役人や在庁官人・田堵(平安時代の荘園を荘田や公田を経営し年貢・公事を納付する農民)らの反発を吸収し平忠常が蜂起した。
しかし平忠常は朝廷に敵対する意思はなかったと思われる。蜂起をしたものの何らかの妥協案を模索し朝廷の出方を見守っていた。
一方平忠常の蜂起の知らせを聞いた朝廷は驚き、直ちに追補の決断、公卿たちの会議で伊勢前司源頼信を推挙、受領としての実績と、武勇の名声、行動の慎重さが公卿たちの信頼を得ていたのだろう。
所が後で一条天皇の追討の勅定によって検非違使の検非違使平直方であった。追討次官に中原成通に任じられ、多数の公卿を抑え変更されたか、追討には二派の意向が働いた。関白頼通の強い働きかけ、もう一つは政界の長老右大臣実資の意向、二人は一応協調関係であった。
実資が天皇、頼通、が直方を指しそれを同意して勅定となった。
こうして追討に任命された平直方・中原成通は国衙指揮(地方の国の役人)・兵糧米徴収権等九か条に及ぶ権限の付与を求めた。
それに対して実資は申請項目を短く三箇条に短縮することを求めた。こう言った申請には自分も私腹を肥やせる機会とみて好条件を引き出そうとしたからである。それを熟知をしていた実資は権限を抑制したのである。
実資の指示を拒んだ成通と、指示に従った直方は不和となって、成通は母の病状を理由に追討使の返上をした。この間に平忠常の複数の密使が宮廷工作に密書を持って入京した。検非違使の尋問に密使は、忠常は二、三〇騎程の兵力で夷灊山(いしみやま)に立て籠もっている情報を得た。またその密使は忠常が籠る夷灊山の届けて欲しいと言った。
朝廷側は交渉などする気が無く、それに対して『小右記』には追討の成通と直方は二百人の随兵を引き連れて熱狂の中、坂東に向かった。また成功すれ英雄の内に熱狂的に迎えられるはずだった。
朝廷は同時に追討軍の支援の手立てを打った。上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅の孫致方、甲府守に支援されるべく候補の頼信、安房守に維衡(これひら)の子平公雅とそうそうたる陣営である。
二度目の追討に直方軍は房総三カ国で激しく戦ったが、なかなか決着がつかなく直方は更迭が決まった。立て籠もった平忠常は消息が分からなくなって出家をしたとか噂が流れ、人伝に直方に「志」の贈り物送ってくる始末、おまけに坂東の有力武士たちは追討官符にも応じず、その間平忠常は夷灊山に籠って神出鬼没で追討軍をほんろうした。
二年間合戦らしい合戦をせず、坂東の追討の為に公田は荒廃し、兵糧米は底をつき疲弊をして行った。
平忠常の蜂起勃発後、三年にして改めて長元三年(1030)甲斐守源頼信が追討使に任命された。
追討に赴いた頼信は忠常の子息法師を使者を立て粘り強く説得をした。そこで忠常は四則法師ともなって甲斐の頼信の許に来て降伏し、名簿を捧げて従者になる事を誓いった。
忠常は上洛する途中で重病になり、美濃国で死去した。頼信は国衙に検視をさせて、首を切り忠常の従者に持たせて入京させた。
この乱の処理に朝廷は頼信に恩賞を与え、常昌らの追討の赦免を決定された。

★平忠常(?~1031)葛原親王の曾孫村岡五郎平良文を祖父に、陸奥介忠頼を父とする。下総に多くの領地を所有、上総介、武蔵国押領使(おうりょうし)となって勢力を上総・下総・安房に伸ばした。藤原教通の従者に、平頼義の家人(けにん)となるが国衙に敵対し、安房国司を殺害、追討使平直方と三年間戦った。その後頼義の追討に降伏し護送の途中で病死をした。子孫は処罰を受けず千葉氏・上総氏として繁栄をした。
★平直方(生没年月日不詳)惟時の子、摂関家の家人として武力を担う。桓武平氏北条流、上総介、従五位上・検非違使右衛門尉(うえもんじょう)、平忠常の追討使に任じられた、三年に渡る忠常との戦いに激しい抵抗に遭い鎮圧が出来ず更迭された。変わって忠常を鎮圧した源頼信の子、頼義を婿とし、東国経営の拠点の鎌倉を譲る。義家の外孫にあたる。

※平忠常の乱は上総・下総・安房の国々の国衙への不満と将門の乱から荒廃し統制の執れない事態に、国衙役人の妻子が京に逃れようとしたことに端を発した。不満は国人、洲民から農民や荘園に従事する者から官庁官人までの不満を吸収した忠常は遂に蜂起をした。
当初事の次第によっては妥協し事の治まることを模索していたが、この事態に朝廷は忠常の反乱と決めて追討使に平直方を派遣した所が、平直方を派遣しても成果が上がらず、逆に坂東武士の反目に遭い協力が得有られず、更迭をさせられた。
次に派遣されたのは甲斐国源頼信であった。頼信は粘り強く説得した結果、降伏に応じた。忠常は京に護送される途中尾張で病死をした。
奥州経営は土着の民、俘囚の民から豪族の意向を無視しては統治はできないことを思い知らされた。
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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十、平安文学の清少納言・和泉式部・紫式部

2016-07-30 04:16:45 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)

五十、平安文学の清少納言(せいしょうなごん)・和泉式部(いずみしきぶ)・紫式部(むらさきしきぶ)

平安時代の代表文学の才女は清少納言と和泉式部と紫式部である。三人は女官として、身分は女房、式部省で、特に公家に住持した女性で女房の房は部屋付を表わし、身分の高い出自の宮廷につかえる女官である。女房について何人位いてどの役職に仕えていたのか資料が乏しく解ってはいない。
そんな女房の中に和歌に精通し物語として清少納言の『枕草子』と『和泉式部(いずみしきぶ)日記(にっき)』と紫式部の『源氏物語』が代表的である。
もしこの女流作家が宮廷に在って和歌や散文風の文集を顕さければ平安時代の“つま美やかな”『平安絵巻』を今日で我々は知ることが出来なかった。
そう言った意味で彼女らのこした貴重な、文学は重要な記述なのである。

清少納言は皇后定子に仕えた女房である。その出没についての詳細は分ってはいない。
父は肥後守清原元輔で和歌の道では知られた人物である。天暦の時代に『後撰和歌集』を選集した梨壺(天暦五年梨壺に置かれた和歌所の寄人(よううど)。)元輔(もとすけ)が亡くなった時には清少納言はすでに結婚をしていたがその夫も定かではないが橘則光とも言われている。その結婚が失敗に終わって宮廷勤めに入ったようである。
清少納言の使えていた中宮定子に強く影響され、定子の理解がなければとても『枕草子』を書くこともままならなかっただろう。
また宮廷での高尚な和歌や文学をたしなむに、多分定子から受けた教養が大きく影響されている。
当時中宮定子は十七歳、関白道隆(みちたか)を父として、学者の家として有名な高階氏出身の貴子を母とする定子ついて『枕草子』の中で語っている処によれば、才知優れ、心優しく定子に和歌などの手解きをしたのであろう。
しかし定子が二十五歳でなくなる十年有を宮廷に仕えながら優雅な公家の世界を垣間見た。
清少納言の本には雑纂形態と類纂形態とがあって、宮廷に在った事柄を、外なる事柄、随意生活、四季の情諏、人生などに関する随想・見聞を、歌枕(うたまくら)類聚(るいじゅ)・日記回想などとして記す。鋭い写実と才気煥発の筆政は紫式部の源氏物語と共に平安文学の双璧と言われている。
『枕草子』長短三百からの章段から成り、冒頭の『春あけぼの』の段から、末尾を跋(ばつ)文(ぶん)を置く。内容や形式から、連想された物事を集めた類聚的章段、自然や人事の関する感想を自由に叙実式に、随想的章段、など一条天皇の中宮に仕えた女官の体験を基に記した日記的章段を宮中の有様などを随筆風に書き綴っている

和泉式部は父母は共に高級官職に仕える家柄、長元元年(999)和泉守・橘(たちばな)道(みち)貞(さだ)の妻となり夫と共に和泉国に入り、和泉式部は夫婦二人で合わせた官名である。
生れた娘は母譲りの歌人の才能を発揮している。その後道貞とは離婚し、「和泉式部日記」を地で行く人生を送っているようだ。
宮廷では恋沙汰が多々見られ、冷泉天皇の皇子の為尊親王の熟愛の噂が流れ、身分の差から親から勘当を受け、紫式部を評して、“式部と言う人は書くことは面白く、“生き様はけしからんこと”と評している。
爲尊親王が亡くなると、次に藤原道長の家人の藤原保昌と再婚し丹後に向かった。その後に付いては諸国の伝説にある墓所は岩手・福島・岐阜・堺・岸和田・伊丹・京都太秦・亀岡・山口の小野田市・佐賀、嬉野と職に点在する。
和泉式部伝説は日本諸国に残されている。和泉式部の性格を反映して、行く先々で歌問答歌人と言う立場上、行く先々で歌問答をしたので伝説が生まれたのかも知れない
鎌倉時代には式部が播磨は書写山の性(しょう)空(くう)上人に、その罪を懺悔をし、後に京とは誓願寺に庵を結んで阿弥陀仏を信仰して往生した伝説である。
しかしその詳細は解ってはいない。
何故式部が自分の罪を懺悔したかに付いて、宮廷で浮名を流し、恋愛遍歴が多く「浮かれ女」と処され、その多情の性を悔い改め阿弥陀に信仰の懺悔に繋がったのではないだろうか。
『和泉式部日記』は日記文学、仮名の女流日記。和泉式部の自作と通説。作者が自らを「女」として三人様的の語るからである。歌と散文に濃厚い叙情性、一人称な自照性は日記文学・物語文学と未分化を示すもので、和泉式部が水ら物語した作品する女流日記であると考えられている。
和泉式部と敦道親王(冷泉天皇の皇子)との愛の歴史を二人の贈答歌一四五首を中心にして描く。その前年の夏に爲尊親王を失った女(式部)の元に敦道親王の弟の使者が訪れて始まった二人の関係は夏から秋へ、更に冬に季節の移り変わる中、二人の愛情が急に破局を迎える。



紫式部も出自生没の詳細は解っていないが近年徐々に解き明かされつつあって、紫式部は父は学者で詩人藤原為時の娘で、母は藤原爲信の女であり幼少にして母を亡くし同母兄弟に藤原惟規がいて他に姉がいた。
父方には三条右大臣藤原定方、堤中納言藤原兼(かね)輔(すけ)は父方の曽祖父で家柄は悪くなく、何れをとっても文才ぞろいである。
結婚は藤原宣孝に嫁ぎ一女を生んで夫の死後、宮廷に招かね一条天皇の中宮の藤原彰子に仕えている時に『源氏物語』を執筆したようである。彼女の文才の誉れの高さは、父爲時が何故に男に生れてこなかったのかと嘆いたそうである。
長徳二年(996)父爲時の越前守に赴任をしたが、式部も従って同行したらしく『紫式部集』に道中詠が読み込まれている。
やがて帰京し藤原宣孝と結婚し娘の賢子が生まれた。その後夫は死んでしまい、宮廷勤めは夫と死別後で、最初に仕えたのは道長の正妻の彰子の母の倫子の女房になった。
こうして女房として宮廷仕えで知り得た公家と天皇に取り巻く複雑な人間関係を物語として完成させた。『枕草子』は断片的に随筆風書き綴ったのに対して『源氏物語』筋書きが統一されていて五十四帖に優雅な平安絵巻の如く語り綴られている。
また道長と言う最高権力者の土御門邸の中で繰り広げられる様々な出来事を式部がつぶさに見て知って経験を許に祝宴の模様や親王の出産の光景を書き記している。
彰子の出産後土御門邸から内裏一条院に入った彰子に下でも女房達が手分けをし、『源氏物語』の豪華な清書作りに精を出し制作をしていたらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておくと道長が部屋を探し続けて見つけ出し、三条天皇の妃の姸子に贈ってしまったと言う。
一条天皇が人に読ませて、式部の才能を称賛し、宮廷では人気作家として評判の物語で回し読みする者、書き写しては楽しんだのではないだろうか。
あの強権道長が『源氏物語』のよき理解者で後ろ盾としていたことが窺える。
主人公の光源氏が現実味を帯びて共感を呼んだのではないかと思われる。
『源氏物語』紫式部は一条天皇の中宮彰子に仕えた経験から作成されたと思われ全巻に渡って一人の作かは不明、長文の五十四巻からなっていて。
光源氏が主人公、首巻の「桐壷の巻から最終巻の夢浮橋まで巻名が付けられ、物語は光源氏の在世時代から、死後末裔時代まで展開されている。桐壷と帝の間に生まれた光源氏は帝の寵愛の藤壺に在らぬ関係でその間に男子が生まれる。
その後生まれた皇子が即位し、その密通で苦悩する。光源氏は恋の遍歴を繰り返した。
そんな華やかで宮中の男女の性の光源氏を主人公にして不毛な遍歴を重ねて行く源氏の姿を描写したものである。

★清少納言(966~?)随筆作家、歌人、父は清原元(もと)輔(すけ)は梨壺の五人の一人。清少納言と呼ばれていたかは不明、一条天皇の中宮に仕えていたことから通称「清少納言」と呼ばれているなど由来は不明、父、祖父深養も著名な歌人。そんな環境で教養は育まれた。父は受領階級、そんな悲哀を『枕草子』に書き込まれている。元輔と共に周防(すほう)守に赴任し四年後帰京後、橘則光と結婚し、長子を設けた後離婚し、その後は女官として道隆の娘定子の後宮に仕官し、八年間定子に仕え、この間に『枕草子』を完成したのではないかと思われている。定子の死後、摂津守の藤原棟世と結婚し一女を設けている。

★和泉式部(978~?)平安時代の歌人、和泉とも呼ばれ。童女名は御許(おもと)丸(まる)と伝えられ、父は越前守大江雅政、母は越中平保衡女(やすひらじょ)。父母とも宮廷に仕えていた。父は太皇太后宮大進。
母は太皇太后后に仕えていた。父の官職から推測して和泉式部の結婚相手が太皇太后宮権大進であった和泉守橘道貞と結婚し、一女小式武内待を産む、その後受領階級の道貞に飽き足らず、爲尊親王と恋愛関係になる。またその弟の敦道親王とも求愛され、歌の贈答歌がある。
その親王も若くして亡くなって、藤原保昌五十三歳と結婚をする。情愛の遍歴は宮廷内でも有名であったようである。

★紫式部(970~?)平安期の女流作家、歌人、日記作者。『源氏物語』の作家として知られ、本命は不詳。父は藤原爲時良門流、学者・詩人と知られ、冬嗣の六代孫。母は藤原爲信の女、幼少にして母を亡くし、父爲時が詩句の才能を見いだされ道長の計らいで越前守に任じられ、赴任地に下向する。
その時の体験が紫式部の作風に影響されている。二年後帰京し賀茂際の舞人を務め、山城守に任じられた。その後、紫式部は藤原宣孝と結婚した。紫式部は三十歳前後の晩婚、相手の宣孝は再婚であった。  宣孝の間に一女を設ける。長和四年年(1031)に四十五歳で没した。

※平安時代を代表する文学者の清少納言・和泉式部・紫式部は共に宮廷に仕える、女官「女房」である。それだけ宮廷社会は和歌を通じて文学が盛んで見識も高いものと思われる。
彼女たちの歌、詩文、物語が後世に大きな影響を与え、時代は変わっても人情と憎愛と柵の中で平安時代の人間模様と時代の背景と、詳細な情景が窺えるもので実に貴重な史料である。我々は後世の余すことなく語り継ぎ日本文学の原点を探ることが出来るものである。


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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十九、強権道長の人間像

2016-07-29 04:16:28 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十九、強権道長の人間像

藤原一族の他氏家の追順を許さない独占は、今度は藤原家の摂関の主導権争いは兼通と兼家の兄弟争いへと、身内の勢力争いへと変化をして行った。
中でも緻密(ちみつ)・老練で周到な手法で政権の頂点に上り詰めて行った道長の人物像を検証した。
権力争いは道長の先代の父兼家とその兄兼通の時代から熾烈(しれつ)な戦いで勝利した、道長の父兼家であった。
代が変わって道長は五男でありながら並み居る兄達の有力候補を出し抜いて権力の座に就いた。しかも後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父に当る。
道長の父兼通(かねみち)は兼家より四歳上で当初は年の差だけ昇進をしていたが、冷泉天皇即位の時に兼家は兄を飛び越して参議になった。
そして弟の大納言に対して兄の中納言の、所が形勢逆転、上の兄の伊尹が亡くなると意に反して兼家が関白内大臣になり兼家は据え置かれた。
関白になった兼通はこの時ばかりに弟の兼家の頭越しに従兄に相談したり起用したりして、弟の兼家の昇進を阻害するよう言動にますます溝が深まり増悪ばかり増幅されていった。
その犬猿の仲の例として、或る時に兼通が病に臥していた時に、兼家の行列が兼通の邸の前に差し掛かり、仲たがいをしてもやはり兄弟かと見舞いを期待した。
行列は兼通の邸を通り過ぎ内裏に向かってと言う。兼通はがっかり、今度は兼通が病を押して天皇に次の人事「最後の除目を行います」と言って、兼家の兼職を剥奪(はくだつ)するなどの行為に出て、その後安心してか一カ月後に五十三歳で没した。この仕打ちで兼家は半年は左遷させられて、出仕しなかったと言う。
兼通の後を引継いだ頼忠とは兼家とは摩擦は起こらず、共に娘を後宮に送り込んだが、皇子を生んだのは兼家の娘だけだった。
花山天皇が即位し、新東宮(次期天皇候補)に懐仁親王が選ばれた兼家の未来は外祖父として保障され開かれた。
即位をした花山天皇は寵愛の大納言爲光の娘、忯子が病に臥し失意の中、兼家一家の道隆、道綱、道兼ら子供たちは揃って計画的に、継嗣の懐仁親王の即位をさせるためにも花山天皇の出家を勧めた。
最後には強引に宮廷から誘いだし策略を講じて無理矢理に剃髪し,花山天皇を隔離した形で出家をさせてしまった。時に花山天皇十九歳、即位して在位二年間であった。
こうして権力を手にした兼家は摂関の職に四年間、病気の為に長男道隆に譲って六十二歳にして没した。
家督と権力受け継いだ道隆は酒癖が悪く行儀も品もなく、評判は芳しくなく、露骨に身内ばかりを昇進させた。道隆は身内の重用で地盤固めは万膳と思われていた。
その内、後を継いだ道兼も没し、道隆の子伊周は十九歳権大納言への驚異の昇進をした。伊周と道隆の弟の道長の権力抗争へと移って行った。
病の道隆は子の伊周に関白を譲ろうしたが、十六歳になっていた一条天皇はこれを許さず、その内道隆は四十三歳で没し、後を道兼が引き継いだが、喜んだ道兼はすでに病のおかされ関白になってすぐの没した。
後に残った伊周は内大臣、道長権大納言、両者叔父甥の関係であった。
天皇から見れば道長は叔父に当り、伊周とは従兄に当る。伊周と道長とは相性は悪く、甥が自分より先を越して要職は快いものではない。ここに介入してきたのが一条天皇の母、詮子で道長の姉で道長を指した。
詮子の天皇への進言で道長に内覧(太政大臣に準ずる役職、天皇に替わって代弁し取り次ぐ)になって右大臣に昇進をした。これを見て伊周は不満と反発は尋常ではなかった。
伊周と道長との対立は激しく各公卿前で激しく口論になって、三日後には二人の従者まで乱闘騒ぎを起こしている。
一週間後伊周の外祖父高階が道長呪詛の噂が流れ、その後伊周の軽率な行動、花山上皇との女性関係廻り、誤解から発し、伊周の従者の者が花山上皇の者に弓を引いてしまった。
道長は慎重に事を進め、その後、大がかりな除目が行われ伊周は内大臣の席を外させ、検非違使に命じて伊周の家来を七,八人逮捕させた。
一味の隆家の罪状を決定せよと蔵人頭などの突き上げに、公卿らはとうとう来たかと嘆声を上げた。
しばらくして詮子の病態がにわかに重くなったがこれも伊周の呪詛と決めつけられ、ついに公卿たちは召集され天皇の目の前で除目を行い。伊周を大宰府権に、隆家に出雲権守に流罪、左遷させられた。
甥、叔父の戦いはここに叔父道長の勝利で面目を保てた。
道長を後押ししたのは一条天皇の母后、詮子は弟の道長を寵愛し、甥の伊周を疎んじた。
こうして強権道長は康保三年(966~1027)父兼家、母は藤原中正の娘、一条天皇が即位し父兼家が摂政となって少納言、参議を経ないで権中納言になった。
妻倫子は左大臣源雅信の娘、道子との結婚は道長二十二歳、倫子二十四歳で二歳年上である。左大臣源雅信は、行く行くは女御(天皇の側室に高位な女官)にしたいと思っていたが、その折には適齢の天皇がいなかったところに道長が熱心に通ったので源雅信はこれを許した。
この時代の結婚は通い婚だったので道長は源雅信邸に熱心に通い入り婿の状態だったかもしれない。
だがこの婿徐々に頭角をおあらわし、雅信は由緒ある土御門邸を譲った。道長には他の女に源高明の娘明子がいたが、終生倫子と土御門邸で暮らした。
英明の天子、一条天皇は寛弘八年(1011)発病しそれが悪化するに、ついに東宮居貞親王に譲位して直ぐに三十二歳の若さで亡くなった。
辣腕道長も冷静で思慮深い一条天皇には政権の思惑も慎重に進めなければならなかったし、一条天皇も思った政治を執れなかったと思われる。
元々摂関は天皇が幼くして即位し政治の補助的役柄に、たてられて制度で大人になって、しかも英明な天子と言われた一条天皇は摂関の必要が無く、心の奥底には今までの因習で従ったに過ぎない制度、道長、一条天皇は気付かって、勝手な行動は取れなった。
道長を外祖父でも第一の臣下として扱い、生涯左大臣に遇し関白にはしなった。一条天皇が没し居貞親王が三条天皇として即位をしても関白は固辞をした。
三条天皇との確執があったが直ぐに譲位を仕向けた形で自分の娘彰子の生んだ後一条天皇にすることに成功、こうして意のままに天皇を据え替える道長の強権が後世に是々非々の論議を呼んだ。
何と言っても一条・三条・後一条と中宮を出し絶大な権力をほしいままにした。
彰子を皇后にしたころから病気がちになって仏教に帰依していくようになり、東大寺で授戒金峰山に参詣し近年大峰山頂上に自ら書写した弥勒経などの埋経が史実通り発見された。
生存中にも法性寺・無量寺寿院などの建立に寄与した。強権道長も病死の苦しみにすがったのは仏教であった。

★藤原道長(966~1027)父藤原兼家、母は藤原中正の女、左大臣の源雅信の娘倫子と結婚し、翌年に彰子が生まれた。父兼家が没すると権大納言にその頃疫病で多数死亡し、長兄道隆が没するが、後を継いだ道兼も関白就任後没した。
その後後継で甥の伊周と対立したが、道長は内覧の宣旨を受け、ついに右大臣となった。翌年に伊周・隆家らの花山天皇に矢で射る失態をして左遷、道長の巧みな冷静沈着と周到な手法でライバルを凌ぎながら権力を手にして行った。
関白の地位を固持し、自由な立場で辣腕を振るった。
★藤原兼通(かねみち)(925~977)公卿、堀川殿とも称され、藤原師輔の次男、母は藤原経那の女、三男の兼家と摂関を争った。
出世争いでは弟に先んじられていたが、伊尹がぼっしるとい遺言により関白太政大臣になった。兄弟争いはその後も続き関白も氏長者も頼忠に譲った。
弟兼家を左遷してその後没した。
★藤原兼家(かねいえ)(929~990)公卿、大入道殿とも称され。藤原師(もろ)輔(すけ)の三男、母は藤原経那の女、兄弟に伊尹(これまさ)・兼通がおり、子女に道隆・道兼・道長・道綱・超子・詮子らがいる少納言、蔵人頭、左近衛中将を経て参議を越えて、兄の兼通を追い越して従三位になった。
翌年に中納言、大納言に出世し、摂政太政大臣の伊尹の病気を理由に引退すると、兄兼通と兄弟相克争いをした。兼通が勝利し、兼通が病気で辞した時に関白にはなれず、その後の機会にも関白に成れなかった。一条天皇の即位でやっと関白と氏長者に成れた。
★花山天皇(968~1008)冷泉天皇の第一皇子、母は藤原伊忠の娘懐子、師貞親王、二歳で皇太子、十七歳で即位した。関白藤原頼忠、政治の実権を握ったのは天皇の叔父伊忠の子、藤原義懐らで、その後兼家らの陰謀にかかり、二年足らずで内裏を出て山科の元慶寺に入って出家した。
★藤原(ふじわら)伊尹(これただ)(924~972)公卿、左大臣藤原師輔の第一子。母は藤原経那の女盛子。兄弟には兼通・兼家・安子らがいる、天暦五年(951)撰和歌所が設置され別当になる。以後昇進し、蔵人頭、参議、安和の変で左大臣から右大臣になり、摂政藤原実頼(さねより)が没すると、それを受けて摂政となった。
★藤原頼(より)忠(ただ)(924~989)公卿、父は藤原実頼(さねより)。母は藤原時頼の女。参議・中納言・右大臣になり927年に摂政太政大臣藤原伊尹が辞表をだし頼忠は兼通を支持し伊尹没後兼通が関白となった。今度は兼通が頼忠に関白を譲り、その後太政大臣となり娘遵子(じゅんし)を円融天皇に入内させ、皇子が生まれなく外戚にはならなかった。
★藤原伊周(伊周)(974~1010)公卿、藤原道隆の長子。母は高階成忠の女。父道隆が父兼家に継いで関白になった。叔父道長を越えて内大臣になって確執が続き、父道隆が病気につき、自ら関白の就任を願ったが許されず、病気中のみ内覧を許された。
道隆が没すると叔父道兼に下され、道兼が没ずると、関白は一条天皇の生母詮子の助言で道長に下された。
その後道長と対立が深まったが、自ら起こした不祥事で大宰府に流された、帰京後も呪詛事件の連座で凋落し回復することが無かった。
★藤原道隆(935~995)公卿、藤原兼家の長子、母は藤原中正の女(時姫)道兼・道長・超子・詮子らとは兄妹。花山天皇から一条天皇への譲位により、父兼家が実権を握ったことから昇進、内大臣・左大臣兼任し、定子を入内させ女御になった。
関白に成った後、職を子の伊周に譲ろうとしたが、内覧の代行に認められ、没後は弟道兼が関白となった。
★源雅信(920~993)公卿、宇多源氏。一条左大臣、鷹司殿と称される。宇多天皇の皇子の敦実親王の子、蔵人頭、参議などを経て右大臣になった。
花山天皇・一条天皇・三条天皇の皇太子時代の皇太子傳を務めた。その後左大臣になって重病の為に出家し、まもなく没した。

※摂関時代でも道長が摂関家の主権争うには情けは無用、相剋時代が熾烈で、例え兄弟と言ども突き落とし、策講じては機会を窺い、敵の失態に乗じて地盤を固め、天皇には女御の布石を着実に打つ、用意周到(よういしゅうとう)の者が覇権を握る。優雅な平安絵巻の裏側で繰り広げられたのが限られた藤原摂関一族の覇権(はけん)の争いであった。














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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十八、南都・北嶺の僧兵と朝廷 。

2016-07-28 04:32:14 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十八、南都・北嶺の僧兵と朝廷

僧兵については筆者の著書『平安(へいあん)僧兵(そうへい)奮戦記(ふんせんき)』にも記されているが、僧兵の台頭の初期について書き留めたいと思う。
平安期に入って荘園(しょうえん)制度(せいど)で寺院の寄進が相次ぎ寺領が増大、宗派間の主導権争いが激化し武力を持って朝廷に傲訴争いが五百年間に繰り広げられた。
当初は南都の七大寺対北嶺の戦いが、北嶺の山門派比叡山延暦寺と大津の寺門派園城寺の天台宗の主権争うに転化、朝廷の厚い加護を受けた園城寺の寺門派への山門派の制裁に“血を血で洗う”紛争が繰り返された。
僧兵を持っての紛争となった。
永祚元年(989)に山門派と寺門派の争いは天台宗三座主円仁派と五代座主円珍派の戦いが長年に渡り尾を引き戦われた。
三代座主円仁(慈覚大師)下総国都賀の生まれ、九歳にして大慈寺に出家し、十五歳にして比叡山に上がり最澄の門下に入り、東大寺で授戒、諸国修行のあと承和二年(835)に入唐し、天台山に上がり、長安で学び、大陸でも十四年間の修行教学は『入唐求法巡礼記』に著した。
その後の比叡山に大きな門弟や日本の仏教界に影響を与えた。
五代座主円珍(智証大師)天台宗寺門派の祖、讃岐国は那珂の生まれ、父は和気氏、母は佐伯氏で空海の姪に当る。十歳より学問を学び。十五歳にして叔父に伴って比叡山に上がった。 
座主義真に師事し、仁寿元年(851)に入唐し天台国清寺・越州開元寺などで台密を学び、大小乗律論などの多数の経典を持ち帰り、帰国後翻訳し仏教界に大きな貢献をし、帰国後天台座主として二十四年間にわたり多くの門弟を育て、大きな影響を与えた。
当初座主は円仁派、円珍派が輪番制で交互に出すことによって均衡が保たれていたが、十八代座主良源(りょうげん)の誕生後その均衡(きんこう)は崩れ、悉く円珍派が排除され、その後座主を廻る争いは、山内紛争は円仁派・円珍派の主導権争いに発展をした。
この両者の争いに朝廷は円珍派に加護し均衡を保とうとし円珍派の座主補任をしたがかえって山門派の僧兵を持って襲撃、ついに円珍派は下山を余儀なくされ、かねての円珍が一時住持した園城寺に居を構え寺院を建立し宗派を築いた。
その後両者の争いは熾烈を極め、焼打ち、襲撃の応酬で多数の犠牲者を出した。朝廷は院宣をだし延暦寺僧兵に自制を促したが一向に治まらず、戦いは激しくなったが、そこに南都の興福寺の僧兵が都に春日社の神木を持って大挙押しかけ傲訴し天台宗延暦寺に制裁を賭けるように押しかけた。
これに呼応し延暦寺の僧兵が日吉社の神輿を担ぎ大挙押しかけ傲訴し朝廷に圧力をかけた。その内延暦寺は僧の成るための授戒の戒壇院の設置許可を朝廷に傲訴し、それに対して寺門派が朝廷に傲訴をして押しかける繰り返しになった。

一方奈良仏教の南都七大寺の僧兵は興福寺を頂点に朝廷に傲訴を持って圧力をかけ続け、北嶺の比叡山延暦寺の天台僧兵と争い、過激で武力を持っての紛争に絶え間が無かった。
南都でも内部闘争で藤原氏の氏寺の興福寺と朝廷の鎮護国家の象徴の東大寺の戦いも繰り広げられた。
興福寺の僧兵は春日社の神木を奉じて大挙、京に押しかけ傲訴を賭けた。
朝廷の官人は神罰を恐れ、委縮して執るすべもなくただ見守るだけであった。
南都でも興福寺の目の前の東大寺との諍いの絶え間が無く、朝廷から諌めや制止の歯止めは聞かなかった。
こう言った僧兵は学僧と違って宗派、寺院の警護をする沙弥が俗化し寺院の運営に差支え、影響を与え大きな混乱を巻き起こし、二百年余りの間に百八十回あまり繰り返され消耗戦に何時しか退潮、敗退をして行った。
北嶺の延暦寺にも南都興福寺にも往時には僧兵三千人が妻子を娶り、生ものを食らい、武器を携え横行し、これを持って高僧たちは寺院の維持と宗派の保護に利用をしていた面も否めない一時期であった。
もう一つの理由に仏教宗派の覇権争いに朝廷を舞台に仏事があった。平安時代の国家行事の内で、宮廷内で執り行われる二大行事は、仏教と仏事である。
とりわけ仏事の主導権争いは熾烈を極め、南都対北嶺の争いは奈良仏教と平安仏教の戦いとして長くつけられた。
特に三大仏事とは三法会である。「宮中御斎会」と薬師寺で執り行われる最勝会、興福寺で行われる維摩会でその法会に関わることが僧侶としての権威を知らしめるものである。僧正以下僧官、僧官を上がるには、講師を務めなければ「僧綱」に成れない。
御斎会はもともと大仏殿の廬舎那仏の前で金光最勝王経を講読するものを、奈良ばかりの法会を北嶺の天台僧が摂関時代に宮中仁王会として、天皇即位の一代一度の仁王会を行われ、春秋二回を宮中の大極殿で講座を立て盛大に執り行われた。
仁王会の参加する僧は東大寺・興福寺・延暦寺・法性寺・法勝寺などの僧が講ずるものである。
春秋二回の行われる仁王会は東大寺・興福寺・延暦寺に加えて大安寺・東寺・など有力寺院の三十四カ寺などによって執り行われるものである。
朝廷と仏教は切っても切れないもので、公家や皇族も神を敬い仏には深く帰依をしていた。聖武天皇以来鎮護国家の祈りに五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)、災害に信仰によって克服しょうとしていた。
平安時代に入っても僧兵の傲訴の恐れをなしたのは神輿奉じて入京し何も出来なかったのは神の威光。神罰を恐れたためで、度重なる災害や飢饉に疫病に祈祷や祈願が盛んに行った。菅原道真の祟りを極端に恐れたのは、実際にその怨念の災いに恐れた。
そう言った事の払しょくに大きな法会を行なって平穏を祈願をした。
しかも天皇以下公卿などは出家によって新たな生き方を求めたことにある。
天皇が譲位し上皇に、出家することによって法王に、天皇、摂関が隠遁し、出家をするのが慣例となった院政時代、出家するにも南都の東大寺と北嶺の延暦寺で授戒するのも有力寺院と朝廷の深い関係の上に成立し、栄誉栄華で権力の座に在った者の病死を目前にすがったのも仏教であった。

★良源(912~985)天台僧、比叡山中興の祖と言われ、天台座主一八代座主。元三大師。近江は浅井郡の生まれ。初めは理仙に師事し、のちに尊意に就き授戒、覚恵に顕蜜を学ぶ。
藤原師輔らの摂関家の後援を受け比叡山の横川を整備し、応和宗論で名声を上げた。比叡山の大火で堂塔が焼失したのを再建し、拡張に尽した。公家からの寄進によって、貴族から多くの子弟が入山し、山頂の俗化と円仁派・円珍派の対立を激化させた。

◆僧(そう)綱(ごう)は僧尼を統轄し、法務を統轄する僧職、京や地方の官寺の管理を職務とした僧官、
◆最勝会・金光明最勝王経を講読し、国家安泰・天皇の安穏を祈る法会。薬師寺最勝会は天長七年(830)に始まり毎年三月七日七日間行われ、宮中御斎会と興福寺の維摩会と共に南京三会と称されている。
◆維摩会・奈良興福寺講堂に於いて毎年十月十日より七日間「維摩経」を講説論議する勅会。宮中御斎会と最勝会ともに南京三会の一つ。







僧兵については筆者の著書『平安(へいあん)僧兵(そうへい)奮戦記(ふんせんき)』にも記されているが、僧兵の台頭の初期について書き留めたいと思う。
平安期に入って荘園(しょうえん)制度(せいど)で寺院の寄進が相次ぎ寺領が増大、宗派間の主導権争いが激化し武力を持って朝廷に傲訴争いが五百年間に繰り広げられた。
当初は南都の七大寺対北嶺の戦いが、北嶺の山門派比叡山延暦寺と大津の寺門派園城寺の天台宗の主権争うに転化、朝廷の厚い加護を受けた園城寺の寺門派への山門派の制裁に“血を血で洗う”紛争が繰り返された。
僧兵を持っての紛争となった。
永祚元年(989)に山門派と寺門派の争いは天台宗三座主円仁派と五代座主円珍派の戦いが長年に渡り尾を引き戦われた。
三代座主円仁(慈覚大師)下総国都賀の生まれ、九歳にして大慈寺に出家し、十五歳にして比叡山に上がり最澄の門下に入り、東大寺で授戒、諸国修行のあと承和二年(835)に入唐し、天台山に上がり、長安で学び、大陸でも十四年間の修行教学は『入唐求法巡礼記』に著した。
その後の比叡山に大きな門弟や日本の仏教界に影響を与えた。
五代座主円珍(智証大師)天台宗寺門派の祖、讃岐国は那珂の生まれ、父は和気氏、母は佐伯氏で空海の姪に当る。十歳より学問を学び。十五歳にして叔父に伴って比叡山に上がった。 
座主義真に師事し、仁寿元年(851)に入唐し天台国清寺・越州開元寺などで台密を学び、大小乗律論などの多数の経典を持ち帰り、帰国後翻訳し仏教界に大きな貢献をし、帰国後天台座主として二十四年間にわたり多くの門弟を育て、大きな影響を与えた。
当初座主は円仁派、円珍派が輪番制で交互に出すことによって均衡が保たれていたが、十八代座主良源(りょうげん)の誕生後その均衡(きんこう)は崩れ、悉く円珍派が排除され、その後座主を廻る争いは、山内紛争は円仁派・円珍派の主導権争いに発展をした。
この両者の争いに朝廷は円珍派に加護し均衡を保とうとし円珍派の座主補任をしたがかえって山門派の僧兵を持って襲撃、ついに円珍派は下山を余儀なくされ、かねての円珍が一時住持した園城寺に居を構え寺院を建立し宗派を築いた。
その後両者の争いは熾烈を極め、焼打ち、襲撃の応酬で多数の犠牲者を出した。朝廷は院宣をだし延暦寺僧兵に自制を促したが一向に治まらず、戦いは激しくなったが、そこに南都の興福寺の僧兵が都に春日社の神木を持って大挙押しかけ傲訴し天台宗延暦寺に制裁を賭けるように押しかけた。
これに呼応し延暦寺の僧兵が日吉社の神輿を担ぎ大挙押しかけ傲訴し朝廷に圧力をかけた。その内延暦寺は僧の成るための授戒の戒壇院の設置許可を朝廷に傲訴し、それに対して寺門派が朝廷に傲訴をして押しかける繰り返しになった。

一方奈良仏教の南都七大寺の僧兵は興福寺を頂点に朝廷に傲訴を持って圧力をかけ続け、北嶺の比叡山延暦寺の天台僧兵と争い、過激で武力を持っての紛争に絶え間が無かった。
南都でも内部闘争で藤原氏の氏寺の興福寺と朝廷の鎮護国家の象徴の東大寺の戦いも繰り広げられた。
興福寺の僧兵は春日社の神木を奉じて大挙、京に押しかけ傲訴を賭けた。
朝廷の官人は神罰を恐れ、委縮して執るすべもなくただ見守るだけであった。
南都でも興福寺の目の前の東大寺との諍いの絶え間が無く、朝廷から諌めや制止の歯止めは聞かなかった。
こう言った僧兵は学僧と違って宗派、寺院の警護をする沙弥が俗化し寺院の運営に差支え、影響を与え大きな混乱を巻き起こし、二百年余りの間に百八十回あまり繰り返され消耗戦に何時しか退潮、敗退をして行った。
北嶺の延暦寺にも南都興福寺にも往時には僧兵三千人が妻子を娶り、生ものを食らい、武器を携え横行し、これを持って高僧たちは寺院の維持と宗派の保護に利用をしていた面も否めない一時期であった。
もう一つの理由に仏教宗派の覇権争いに朝廷を舞台に仏事があった。平安時代の国家行事の内で、宮廷内で執り行われる二大行事は、仏教と仏事である。
とりわけ仏事の主導権争いは熾烈を極め、南都対北嶺の争いは奈良仏教と平安仏教の戦いとして長くつけられた。
特に三大仏事とは三法会である。「宮中御斎会」と薬師寺で執り行われる最勝会、興福寺で行われる維摩会でその法会に関わることが僧侶としての権威を知らしめるものである。僧正以下僧官、僧官を上がるには、講師を務めなければ「僧綱」に成れない。
御斎会はもともと大仏殿の廬舎那仏の前で金光最勝王経を講読するものを、奈良ばかりの法会を北嶺の天台僧が摂関時代に宮中仁王会として、天皇即位の一代一度の仁王会を行われ、春秋二回を宮中の大極殿で講座を立て盛大に執り行われた。
仁王会の参加する僧は東大寺・興福寺・延暦寺・法性寺・法勝寺などの僧が講ずるものである。
春秋二回の行われる仁王会は東大寺・興福寺・延暦寺に加えて大安寺・東寺・など有力寺院の三十四カ寺などによって執り行われるものである。
朝廷と仏教は切っても切れないもので、公家や皇族も神を敬い仏には深く帰依をしていた。聖武天皇以来鎮護国家の祈りに五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)、災害に信仰によって克服しょうとしていた。
平安時代に入っても僧兵の傲訴の恐れをなしたのは神輿奉じて入京し何も出来なかったのは神の威光。神罰を恐れたためで、度重なる災害や飢饉に疫病に祈祷や祈願が盛んに行った。菅原道真の祟りを極端に恐れたのは、実際にその怨念の災いに恐れた。
そう言った事の払しょくに大きな法会を行なって平穏を祈願をした。
しかも天皇以下公卿などは出家によって新たな生き方を求めたことにある。
天皇が譲位し上皇に、出家することによって法王に、天皇、摂関が隠遁し、出家をするのが慣例となった院政時代、出家するにも南都の東大寺と北嶺の延暦寺で授戒するのも有力寺院と朝廷の深い関係の上に成立し、栄誉栄華で権力の座に在った者の病死を目前にすがったのも仏教であった。

★良源(912~985)天台僧、比叡山中興の祖と言われ、天台座主一八代座主。元三大師。近江は浅井郡の生まれ。初めは理仙に師事し、のちに尊意に就き授戒、覚恵に顕蜜を学ぶ。
藤原師輔らの摂関家の後援を受け比叡山の横川を整備し、応和宗論で名声を上げた。比叡山の大火で堂塔が焼失したのを再建し、拡張に尽した。公家からの寄進によって、貴族から多くの子弟が入山し、山頂の俗化と円仁派・円珍派の対立を激化させた。

◆僧(そう)綱(ごう)は僧尼を統轄し、法務を統轄する僧職、京や地方の官寺の管理を職務とした僧官、
◆最勝会・金光明最勝王経を講読し、国家安泰・天皇の安穏を祈る法会。薬師寺最勝会は天長七年(830)に始まり毎年三月七日七日間行われ、宮中御斎会と興福寺の維摩会と共に南京三会と称されている。
◆維摩会・奈良興福寺講堂に於いて毎年十月十日より七日間「維摩経」を講説論議する勅会。宮中御斎会と最勝会ともに南京三会の一つ。





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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十七、浄土思想の学僧「源信」

2016-07-27 04:19:34 | 古代史群像の標榜

『古代史群像の標榜』(全58回)
四十七、浄土思想の学僧「源信」
また平安時代に起きた現象には末法思想があって、この世の終わり、刹那観、厭世観が蔓延し無気力な世情が広まって行った。特に都では度重なる疫病や飢饉で人口が減少するほどに打撃を受けた。
特に平安時代丁度末法の時代に当り、飢饉、疫病などで人口が減少するほどの悪影響を受けた。しかも異変が続き火災や地震などは菅原道真の祟り、怨念によるものとして恐れられた。
末法思想とは、仏教的止観。釈迦の滅後に、正法(しょうほう)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)と時代が下がるごとに釈迦の法力が伝わらず、像法の時代には証が欠け、末法の時代には行証がなくなって最後が滅法の時代になる。釈迦滅後の正・像二千後として、1052年入末法説で末法第一年、末法思想が流行をした。
末法思想はすでに八世紀から僧侶の間で意識されていたが、社会階層に危機意識として定着するのは平安中期・後期である。
そんな時代に阿弥陀信仰は釈迦の世界観とは一別し、極楽浄土によって人々は救済される教えが一層朝野の境が無く普及したのであろう。
阿弥陀仏の来世利益で往生できる安心感で、念仏が大衆まで普及していった感がある。
法(ほう)然(ねん)・親鸞(しんらん)は末法思想を根拠に旧仏教による自力の悟りを否定専修念仏を唱えた。末法思想が浄土宗を広める要因の一つになった。
現代日本の仏教の宗派勢力で阿弥陀信仰が全体の四割はあると言われている。
その浄土思想の確立した高僧こそ「源信」である。
それまで阿弥陀信仰は念仏不況の空也や良源、そして天台で源信に影響を与えた良源から源信、源信から源空(法然)そして親鸞や一遍へと阿弥陀信仰が引き継がれていったが、学僧として浄土教、浄土思想へと確立していった箸書こそ『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』であった。
源信は浄土宗の基礎を築き後世に大きな影響を与えた。大和国は当麻郷生まれ、父は卜部正親、母は清原氏。七歳にして父と死別し、九歳にして比叡山の上がり良源に師事した。
顕蜜二教を極め、論に優れ三十七歳の時、叡山の広学竪義(法華経講義の討論会)の論者代表に選ばれた。その後、学匠として多くの著を署し、名声を高めた。もっぱら横川に隠棲し、世俗にまみれて貴族化した比叡山の教団に批判的であった。
源信は比叡山横川中心に念仏結社の運動を始めた。
永観二年(984)源信の代表著書『往生要集』の執筆を始め、翌年に完成をした。
この『往生要集』三巻は浄土教の発展に寄与し、藤原道長・行成もこの書を読んでいたと言う。
日本の仏教で仏・菩薩の清浄な国土の往生する事を求める信仰。その浸透は仏教的未来観の日本社会への定着過程を示す。
阿弥陀仏の極楽浄土、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の兜率天(とそつてん)、観音の補陀落山(ふだらくさん)、釈迦の霊山浄土などがあるが、当初は弥勒度浄土信仰が優勢であったが、奈良後期より阿弥陀信仰が優勢に普及最も広く信仰された。
平安時代に疫病の流行から死者の往生を求め追善供養中心であった。
九世紀後半になって地獄・極楽観が貴族社会に浸透し、自己の極楽浄土願生(がんじょう)が盛んになり、逆修(ぎゃくしょう)や臨終出家が登場する。
そんな時に源信の『往生要集』の影響もあって、十世紀後半には貴族社会に現世(げんせ)安穏(あんのん)・来世極楽往生の信仰が定着をした。
往生講・菩提講・迎講などの法会や浄土信仰に基づく造寺。造仏像が盛んに行われ、臨終に来迎を求める風潮が広まった。
天台の源信を始め・覚運と南都の三論宗の永観、真言の覚鑁などの浄土思想家が誕生し、一方空也をはじめとする「聖」の活動によって多様な浄土信仰が広まった。
院政時代にも貴族、公家にも深く浸透し、藤原道長や藤原行成・藤原宗忠・源義光が読むのを憒いとした。

★源信(942~1017)平安中期の天台宗学僧。生れは大和国葛城下郡出身。延暦寺で出家し、良源に師事した、学際の誉れ高く、名利を嫌って横川の恵心院に隠棲生活を送る、修行と勉学と著述に専念し、そのために恵心僧都に任じられた。翌年には辞退し。その学問は因明・倶舎学から天台教学まで幅広く、浄土信仰を持って知られる。
著書には多くの貴重な文献が残されていている。主著の『往生要集』が代表的著書で浄土教を体系化したことで有名である。もう一つの主著『一乗要決』において、最澄以来の課題であった天台の一乗説を集大成した点も重要である。
★源空(法然(1133~1212)浄土宗の開祖。古代史の末期に生まれた。諡号(しごう)は源空。円光大師・父は美作(みまさか)国(こく)久米郡押領使の漆間時国、母は秦(はた)氏(し)。九歳の時に夜討ちで父を亡くし、菩提寺の観覚のもとに預けられた。
十五歳で比叡山に登って持法房原源光に、功徳院皇円に師事し天台三部経を学ぶ、十八歳にして遁世室に入り、西塔黒谷の別所の叡(えい)空(くう)に室に入った。
叡空は融通念仏宗の良忍の弟子に浄土宗の影響を受け、その後円頓菩薩戒を伝授した。
この時期に法然房源空と称した。やがて源信の『往生要集』が末代の道俗に念仏を勧め、その行相について道綽・善導の著書に導かれ、余行を捨てて専修念仏に至った。その後主署の『選択本願念仏集』を完成させた。
★親鸞(しんらん)(1173~1262)鎌倉時代の僧。浄土真宗の祖。名は始め綽空と名乗り、坊号は善信、明治九年に見真大師の号を与えられる。日野氏の生まれ、九歳にして慈円の坊舎に学び、比叡山で常行三昧堂の堂僧を務め、二十九歳にして迷い山を下り京都六角堂に参篭を試み念仏を歩むことになる。
聖徳太子の夢告を得て法然の門下生になる。念仏集の弾圧で越後に流される。五年後赦免されるが京都には帰らず関東に移る。
その後二十年に渡り関東地方常陸の国は稲田に拠点として活動をする。その後信者は増え続け、その地域に集団を形成、その間『教行信証』を著した。
文暦元年(1234)に京都に帰り五条西洞院に住み、子の善鸞が親鸞の教えに従わず、関東の弟子たちに書簡を送り縁を切った。その後は九十歳まで奇瑞もない暮らし過ごし没した。

◆『往生要集』浄土教の理論書。源信著。三巻からなっていて、本書は全体に厭離(おんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土・極楽(ごくらく)証拠(しょうこ)・正修(しょうしゅう)念仏(ねんぶつ)・助念(じょねん)方法(ほうほう)・別(べつ)時(じ)念仏(ねんぶつ)・念仏利益・念仏証拠・往生諸行・問答(もんどう)料(りょう)簡(けん)の十門から成っている。
◆弥勒信仰は弥勒菩薩に対する信仰、死後に、弥勒が説法をしている兜率天に往生したいと望む上生信仰。釈迦の没後56億7000万年後に弥勒がこの娑婆世界に下生三度説法をして衆生を救済をする。 こう言った考えはインドから中国に伝わり、北魏の則天武后によって盛んになり、奈良時代には上生信仰が盛んになったが、その後阿弥陀信仰の普及で下火となった。


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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十六、安和(あんな)の変

2016-07-26 04:14:28 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十六、安和(あんな)の変

安和二年(969)左大臣源高明が左遷された政変である。藤原頂点の権勢は他の氏への排斥がこの事件が最後になった。
康保四年(967)村上天皇が亡くなって、東宮(皇太子)・憲(のり)平(ひら)親王(冷泉天皇)が即位し太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣に藤原師尹(もろただ)が就任した。
即位した冷泉天皇は病弱であったために早急に東宮を定めなければならなかった。
候補に二人、冷泉天皇の異母弟の為平親王と守平親王であった。
通常考えられるのは兄の為平親王であるが実際には年下の守平親王であった。
爲(ため)平(ひら)親王の妃は高明の娘だった。高明の外戚を警戒した藤原一族の策略で高明は陥れられた。
安和二年事件は突如起こった。左馬助源満仲・前武蔵介善時が中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連(つらめ)らの謀反を密告した。
この報を受けて右大臣藤原師伊以下の参議が公卿は参内し協議に入った。そして素早くこの密告書を関白実頼に送り、検非違使を送るように手配し、橘繁延や連茂と言う僧侶、元相模介藤原千晴とその子らを捕えて訊問に入った。
高明はこの決定が下れる直前に長男と共に出家し京に留まる事を願い出たが、元より変更されることなく予定通りに、藤原千晴らが訊問され、翌日高明は大宰府師に左遷され、かわって師伊が左大臣になり、その後千晴が隠岐に流され、その密告の詳細は分ってはいない。高明の娘は守平親王の兄爲平親王に嫁いでおり、醍醐天皇の皇子で評価の高い高明の失脚狙って仕組んだ陰謀と思えわれている。
密告をし、賞した満仲・善時二人は位が進められた。少し経って橘連延は土佐に流され、藤原千晴は佐渡に流す命が下り、源連・平貞節の追討が五畿七道に下された。
以上菅原道真同様に嫌疑の内容は明確にされずに左遷、流罪が下された。
こう言った仕組まれた陰謀は次期天皇の候補の追い落としで、自分の方の皇継を有利に成せる手立てを工作したのは平安時代の摂関の時代には露骨に仕組まれ、左遷や流罪をさせてわが身の安泰を工夫するものである。
それも天皇の代替わりに起きやすい。また正体不明の不審な者の存在が二、三人いるが、首謀者として源連と言う人物は嵯峨源氏で叔母が高明の母で、妹が高明に嫁いでいる二重の縁故に当る。
こう言った陰謀に巻き込まれた場合、身内が連座して闇に着き落とされるので利点と欠点とがあって、身内の不祥事で奈落の底に突き落とされ、また身内に出世、皇位の関係者になれば恩恵は計り知れないで両刃の件である。運不運が付きまとうのは摂関と言う強権職席が故にある。
首謀者とされる、藤原千春の処遇に対して、将門の乱に功績を立てて東国に強大な勢力を蓄えた藤原秀郷の子で、朝廷でも千春の処分については下野国の秀郷一党の動揺を懸念したようである。
この事件の裏で糸を引き、次期の権力者の地盤造りか藤原師(もろ)輔(すけ)の子伊尹・兼通・兼家らが考えられる。
高明は醍醐天皇系の源氏から降下して臣籍で左大臣として朝廷を支えるに一番邪魔なのは女御として差し出し皇子の出産を待ち望み、外祖父として藤原家北家一族の有力摂関候補の血脈の陰謀に高明は犠牲になったと言えよう。
悲劇の源高明は左遷されてから一週間後、西宮邸は全焼し、燃え盛る様は高明の身そのものを象徴するようであった。
大宰府に二年余り赦免に受け、三年後に帰京し葛野に隠遁(いんとん)し六十九歳の生涯を終えた。彼の出世、境遇、才能は源氏物語のモデルとも言われている。
この云われなき陰謀の犠牲を最後に藤原一族の他氏排斥の運動は終わりを告げた。

※源高明は摂関家の以外の源氏で次期天皇の皇子の母は高明の娘では外戚で藤原家にとって脅威であった。それの阻止にはあらゆる手段を使ってでも防がなければ藤原家の危機意識があったようである。天皇に誰の母の皇子を立てるかによって、権力の浮き沈みがある。
女御に出しても皇子が生まれなければ外戚にならない。運と布石と強固で推挙が必要である。

★源高明(914~982)醍醐天皇の皇子。母は更科源周子(しゅうし)延喜二十年に源氏に賜姓され、中納言から右大臣になり、更に左大臣に、その間に藤原師輔の女、二人を妻にして、師輔との婚姻関係を結び、村上天皇没後に高明が師輔の女の安子所生の為平親王の妻の父であることから警戒され、爲平親王擁立の陰謀と疑念を持たれ大宰府に左遷され、その後帰京を許されたが、再び世に出ることはなかった。(高明についての人物は、源氏物語のモデルと言われた)
★藤原師尹(920~969)小一乗左大臣とも呼ばれ、関白忠平の五男、母は源能有の女、安和の変で左大臣源高明を大宰府に左遷し後任に左大臣に就く。
★藤原実頼(900~970)公卿。小野宮惟喬親王の邸宅に住した爲に、小野宮大臣と呼ばれ、小野宮家の祖となる。藤原忠平の長子。母は源順子。播磨守、蔵(くら)人頭(うどとう)を経て参議にになって、父藤原忠平が関白太政大臣に、左大臣大将に実頼になって父子が廟堂を掌握をする。
父関白忠平が没後、氏長者になり冷泉天皇が即位すると関白に、ついに太政大臣になり円融天皇の摂政となった。
★源満仲(912~997)平安中期の武将。多田源氏の祖で多田満仲を称し、出家して満慶、清和源氏の経基の子。安和の変で発端となった陰謀を密告して従五位下に叙され、藤原兼家・道長と言った摂関家に接近し臣従するようになる。
越前守・武蔵守・摂津守を歴任し、一条天皇時代に優れた武士五人の筆頭に数えられた。

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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十五、阿弥陀聖・市聖の空也

2016-07-25 04:20:19 | 古代史群像の標榜


朝廷や公家が承平・天慶の乱に放浪されている間に民衆の中では市聖(市井)または阿弥陀聖の空也が注目を浴び慕い信望を集めていた。
空也は延喜三年(903)生まれだが出自については詳しく解っていない。諸説があって醍醐天皇第五子の仁明天皇の皇子など皇胤説などがあって伝承は推測の域、二十歳の折り、尾張国の国分寺で出家をしたと言う。
その後行基と同じような流浪行脚を播磨峰合寺や阿波・土佐間の湯島や経論や観音に修行を積み、諸国を更に陸奥、出羽の奥地まで布教し、また社会事業をとして、険阻な所に道を造り、架橋の無い所に橋を架け、井戸を掘って便を図り、荒野に遺棄された死骸を見れば一カ所に集め火葬し『阿弥陀仏』を唱え供養をした。
各地を流浪行脚し民衆の中に入って説教をし、彼の事を市中廻り民衆に念仏を勧め廻ったので世人は阿弥陀聖、市聖とも呼んだ。
天暦二年(948)比叡山の上がり延暦寺座主延昌から戒を受けた。その頃から空也を名乗るようになった。
それからの空也の活動は既成仏教集団には入らず民衆布教活動を「聖」を続ける一方貴族社会にも教化活動を図り、空也は遊行の僧であって、寺院の奥深く座して安逸をむさぼる僧徒ではなかった。
貴族や民衆から寄付を募って、金色の一丈の観音像、六尺の梵天・帝釈天・四天王の像を作っており、空也の民間布教では「空也上人の為に金字の大般若経を供養をする願文」によれば、空也は天暦四年(950)金字(金泥)の大般若経一部六百巻の書写を達成するために活動を開始、十四年間に及ぶ、願文は完成をした。
応和三年(963)賀茂川の東岸の洪水で流され亡くなった人々の為に、西に宝塔を造り、六百人の高僧を招き供養を行なっている。
京に於いては左大臣藤原実頼以下多くの人々に結縁を結び、天禄元年(970)大納言藤原師氏の死に際し、閻魔王宮に送る牒状を書いたと伝える。
空也は貴族、民衆の隔たり無く仏の救いを布教し続けた。説話に空也が京都の民衆に深く尊敬されていたかを物語がある。
一人の鍛冶工が金を懐に帰る時に空也に逢って言うに、日が暮れて路遠く不安で恐ろしい気がすると言った。
そこで空也は阿弥陀仏を念じる様に教えた。鍛冶工は帰る途中に盗賊に遭ったので空也に言われた通り念仏を唱えた所、盗賊はこれは市聖に違いないと立ち去ったと言う。
空也の布教の姿は特異なもので、口には南無阿弥陀仏の名号を唱え、仏像を背負い、錫杖をつき、金鼓をたたき。法螺を吹くものある。
空也の与えた影響はその後の念仏から、阿弥陀信仰、浄土宗に、一遍の踊念仏から、遊行へと引き継がれていった。
天禄三年九月十一日、東山の西光寺で没した。享年七十歳だったと言う。これはもと空也が建立した寺で後の六波羅蜜寺と呼ばれている。

★空也(903~972)自称空也、出自については生前から皇統説の噂があるが不詳。二十歳余りで尾張の国分寺で自ら剃髪し空也と名乗った。
後に播磨峰合(はりまみねあい)寺や阿波・土佐間の湯島で経論や観音による修行を積み、諸国を舞わって陸奥、出羽の奥地まで布教したと言われている。
天慶元年(938)京都に現れ、東山西光寺(六波羅蜜寺)で没するまで市中に活動の場所とした。その後比叡山延暦寺で座主延昌に授戒し光勝の名を得たが終生、空也の名で過ごした。
空也の伝説は諸国に残り、空也の最も影響を受けた師は行基のよう生き方求めて社会事業、橋やため池、井戸を掘り、念仏を唱える流浪僧として布教行脚「阿弥陀仏」を進めて廻った。
また空也の装束は背に仏像を背負い、錫杖をつき、金鼓をたたき、法螺を吹くものであった。また後世、空也の影響を受けた流浪僧が一遍であった。その意味に於いては諸国行脚の思想は後々の高僧に引き継がれていった。
◆六波羅蜜寺は京都東山区轆轤(ろくろ)町にある真言宗の智山派の寺で西国三十三所第十七番札所。起源は平安中期、疫病祈願の為に天暦五年(951)空也が十一面観音像を刻んで安置したと言われている。
一説に十三年掛かって完成した大般若経の書写供養を賀茂の河岸に小堂を建てた説と、もう一説応和年間に建てた説がある。
空也の活動拠点がやがて寺院になって行った。その後空也の死後に衰退し、再興されて六波羅蜜寺になり天台別院にとして、法華経と念仏を行い、迎講・勧学会・地蔵講などが行われた。真言宗となったのは文禄四年(1595)の頃と思われている。

※平安時代には優雅な平安絵巻の様な王朝文化がある一面、人が集まる京都だが一歩筋を出れば田舎、地方と変わらない情景があったようだ。
疫病、飢餓で庶民は飢えていた時代でもあった。空也は諸国を行脚巡り布教を終えて戻った都でも餓死や疫病で疲弊する人々の救済に奔走し仏教の弥陀の救済を訴えた。
来世の極楽浄土は人々にある意味で安心を与えた。難しい修行や理屈を抜きにしてただ派手な装束に銅鑼(どら)の鐘をたたき、ほら貝を吹き、錫杖でじゃらじゃらと鳴らして農民や京の人々に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば来世は約束される。また行基のように社会事業にも積極的に整備をした。


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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十三、「承平・天慶の乱」将門の乱

2016-07-23 04:27:36 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十三、「承(じょう)平(へい)・天慶(てんぎょう)の乱(らん)」将門(まさかど)の乱(らん)

平安中期、ほぼ同時に起きた関東での平将門の乱、瀬戸内海で起きた藤原純友の乱が起きた。
関東に起きた乱は、当初身内同士、平一族の私闘(土着豪族同士の勢力争い)からから端を発した。
桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)は平姓を賜わって臣籍に降下した。平は都にいても何の展望もないので活路を見いだすために下総介になって関東に下った。
この将門の乱は活劇を見るような奇想天外な展開をして将門が敗れて幕を閉じるが、この混乱を見ても如何に、この時代に朝廷の東国の統治が未整備かが窺い知れ、受領と国衙の軋轢が複雑な利害関係が生じていたかが窺える。
この上に複雑な荘園(しょうえん)制度(せいど)と重なって、国衙の力が低下していたか理解が出来る。
その頃は受領に対して地方の富豪層の抵抗への鎮圧の任に当り、その武功を朝廷に認めさせ失地回復を図ったものと考えられる。
高望らは武芸(武士)に坂東の治安維持を期待と委託をされていった。
関東各地に所領を持ち土着をした。身分としては、安定した権利を有する所領と異なり、毎年告がと公田の一部を経営請負として契約を結ぶ形での保持する不安定な所領だった。
高望王の子の一人平良将は下総国佐倉に所領を持ち、その子将門は京に上がって官人として出仕し、また摂関藤原忠平の従者ともなっていた。
父良将が早世したために帰京した所、父の所領の多くは伯父の国香や良兼に横取され、将門は下総国の豊田に本拠にして力を保持、培った。
この頃、女論(女関係、女沙汰)によって不和になった。どうやら源護の娘、良兼の娘の巡る争いが起きた。また一説にこれらの娘を娶ることを望んだが適わなかった。
また一説に良兼の娘を妻にしていたが、源護の息子が横取、横恋慕(よこれんぼ)をしたといった話も有って、女を廻る争いが原因で、源扶(たすくふ)、隆、護(まもる)の三兄弟は常陸国野本に陣を敷き待ち伏せたが、これを将門は打ち破り、さらに常陸国の石田にある伯父の平国香の館に火を放ち攻撃をかけ、国香を討ち取ってしまった。
国香の息子の貞盛りは京に上がって出仕していたが、左馬充になっていたが、事の次第を知って帰郷するが復讐より和睦を望んでいたと言う。
三人の息子を将門に討たれた源護の恨みは根深く、婿の平良正に訴えた。良正は本拠地の常陸国水守で兵を集めて将門の本拠地に向かって兵を向けた。
将門もこれに応戦、鬼怒(きぬ)川(がわ)沿いで合戦となって将門が大勝利をした。良正は兄の良兼に助勢を訴え、これを承諾した良兼は貞盛を説得し味方につけ大軍を動員し良正、良兼らと合流し、南下し豊田を攻める体勢をとった。
一方将門は百騎を率いて出陣、連合軍は将門に先手を取って攻めかかったが、必死の抵抗に一旦は退却した所、将門の本隊が到着し、連合軍は総崩れになって下野国国府に逃げ込んだ。
将門は国衙(こくが)側(国府、国衙は国の出先機関で国衙役人がいた。)に将門の正統性を認めさせ豊田に引き上げた。
その後、源護の訴えにより平将門に朝廷から召喚状が届いた。将門は直ちに上京し検非違使で尋問を受けた。朝廷は微罪として将門に恩赦が出され将門は東国に帰った。
同年、またもや良兼は軍を起こし、下総国と常陸国の境界の、子飼の渡しで高望王と将門の父の良将の像を押し立てて攻め寄せた。
これには将門軍も士気喪失し退却した。
勝機に乗じた良兼軍が将門の豊田に侵入掠奪狼藉の限りを尽し、将門の妻子を捕えてられてしまった。
すぐさま態勢を整えて将門は迎撃し打ち勝ち良兼は筑波山に逃げ込んだ。将門は藤原忠平に良兼の暴状を訴え、朝廷から良兼の追補の命が下り、良兼軍と転戦したが、良兼は失意のうち病死をした。
将門側の攻勢に身の置き所が無くなった平貞盛は東山道を経て京へ上がろうとする。
将門は朝廷に告訴されるのを恐れた百騎を率いて追撃、信濃の千曲川付近で合戦となって貞盛側は被害が甚大、かろうじて身一つで逃亡し、上洛をした貞盛は将門の暴状を訴え、将門に召喚状が出された。
貞(さだ)盛(もり)は東国に帰っても将門に追い回され、以後東国を流浪するのであった。
天慶二年(939)武蔵野国に赴任した権守、興(おき)世(よ)王(おう)と介源経基が郡司武蔵野芝と争いになった時に、将門は仲裁に乗り出した。結果和解させたがその詳細は分っていない。
その後、武芝の兵が経基の陣営が包囲され経基は逃げ出して、京に到着した経基は将門興世王、武芝の謀反を訴える。
将門の元主人の藤原忠平が事の次第を調査するために使者を東国に送った。これに驚いた将門らは関東五か国の国府の証明書を添えて送った。
これによって朝廷の疑いは解け逆に経基に嫌疑がかけられ誣告(ぶこく)の罪で罰せられた。
将門の名声を知った朝廷は叙位任官で役立たせようとした。
この頃武蔵権守となった興(おき)世(よ)王(おう)は正式な受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れ将門を頼るようになった。また常陸国の住人の藤原玄明は受領と対立し租税を納めず、問題を起こし、やはり将門を頼るようになって来た。
玄明は国衙から追補状が出て常陸介藤原維幾が、将門に玄明の引き渡しを求められたが、玄明を匿い応じなかった。
維幾と将門の対立がこうじて合戦になり、将門千人を率いて、出陣した。一方維幾は三千の兵で迎え撃ったが将門の軍に撃破され国府に逃げ帰って、国府は包囲され降伏をした維幾軍は国府の印璽(いんし)を差し出した。
将門軍は国府とその周辺で掠奪、乱暴の限りを尽した。これまでの身内争いを逸脱しその時点で朝廷に反旗を翻したことになった。
興世王の進言で将門は軍を進めて下野国、上野国の国府を占拠、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。
将門の謀反は直ちに京に知らされ、また同時に西国で純友の乱が勃発し、朝廷は驚愕し、所社寺に祈祷が命じられた。
天慶三年(940)参議藤原忠文が征夷大将軍として将門追討軍が京を出発した。一方将門軍は五千の兵で常陸の国に出陣し平貞盛と、維幾の子爲憲親子の捜索を続けたが行方は掴むことが出来なかった。
間もなく貞盛と下野国押領使の藤原秀郷と合流し四千の兵を持って進軍、将門軍は千人足らずの兵しか残っておらず、時を移しては不利と考え貞盛・秀郷軍は将門軍率いる藤原玄茂率いる軍と下総国川口で合戦になった。
この合戦で将門軍振るわず退却した。勢いに乗った貞盛・秀郷軍は将門軍の本拠地を攻めた。
将門軍は兵を整えても僅か四百人、貞盛・秀郷軍に京からの藤原爲憲軍が加わり合戦が始まり、最初は春一番の強風を背に矢戦で優位に立って善戦、貞盛・秀郷・爲憲連合軍を撃破したが、その内風向きが変わり連合軍は風を背に反撃、将門は先陣を切って戦ったが流れ矢が将門の顔面に命中しあっけなく討ち死にをした。
将門一派は皆殺された。将門の首は京にもたらされ梟首(きしゅ)された。
功績を称えられた秀郷に四位下、貞盛、爲憲には従五位下が授けられた。

※平将門の乱は私的な勢力、領地争いで朝廷は見ていたが、受領と国衙のいざこざと、身内同士のしかも女論での絡みと相まって、助長するかのように土着豪族の不満を将門は吸収し、勢力、関東地区での支配地拡大で「新星」と言う王城を築き支配下の豪族に除目までやってのけた。
これを見て朝廷にとって座視する訳が無く、参議藤原忠文が征夷大将軍として将門追討軍が京を出発した。
そこに貞盛・秀郷軍が参入、一進一退の結果官軍の勝利、討ち取られた将門の首は京に送られた。
将門の乱は地域の不満を吸収し膨張したが連携とまとまりの無さに、一過性の坂東の反乱に終わった。

★平将門(?~940)平安の武士、桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)の孫。鎮守府将軍平良将の子。身内の女を廻る争うで、叔父国香を討つ、坂東で新星の王朝を打ち立て、関東の諸国を除目し領地を与える。
当初不満を持つ土着の豪族の反目を吸収しつつ勢力を拡大して行った。
★興世王(?~940)平安期の地方官『将門記』によると武蔵国権守の時に、同国足立郡司の武蔵武芝と対立し、平将門との調停で和解した。
新任国守百済貞連と対立して将門の下に身を寄せる、将門の常陸国府の襲撃後、坂東各国襲撃を促し将門新星即位後の受領除目で上総介となった。

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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十二、天才歌人紀貫之と大和絵

2016-07-22 04:10:21 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十二、天才歌人紀貫之(きのつらゆき)と大和絵

平安文化に和歌に大和絵があった。互いあいまって格調高い和歌を通して、平安文化を伝え残した貴重な伝統は大和絵が一層深め、王朝絵巻そのもの優雅な貴族の遊び心と、文学表現の極地の世界でもあった。
その見識は『古今和歌集』に窺えると言う。
宮廷では歌会(うたかい)が頻繁(ひんぱん)に行われ、水を得た魚のように、その才能は如何なく発揮され、公家社交界の綺羅輝く和歌の名家になった。
そこで醍醐天皇(だいごてんのう)は大内記(だいないき)の紀友則(きのとものり)、御書所(ごしょじょ)預(よ)の紀貫之(きのつらゆき)、前甲斐(まえかい)小目(しょうもく)凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑(うえもんふせいみぶただみね)に勅(ちょく)を下した(くだした)。
『万葉集(まんようしゅう)』以後(いご)の本格的古今の歌集集成を命じた。
この編纂の指揮指導者は紀貫之だと言われている。和歌研究家で和歌史に精通していた紀貫之は自分の和歌百二首を『古今和歌集』に織り交ぜ全巻で千百首をから成っていて、古今と言っても、今を寛平時代以後の重点的に選歌されている。
中には「読み人知らず」の群れの中に多く見出すことが出来る。(読み人知らず)は作者不明の事である。
*この読み人知らずは、当時は歌人の選別し作者の記述保存が未成熟だった、また膨大な数に整理し後世に残す取り組みが出来なかったのを醍醐天皇が紀貫之らに命じて『古今和歌集』を作成した意味は大きい。

また紀貫之と言えば『土佐日記』は代表作で平安時代の傑作である。
『土佐日記』平安初期の仮名の代表的な日記文学『土佐日記』とも呼ばれ「とさの日記」(恵慶集)とも呼ばれ冒頭に「男もするな日記というものを女もしてみむとてすむなり」とありあくまで語り手を女性とする。
女性から見た視点で描かれ、延長八年(930)土佐守に任じられた紀貫之が任期を終えて土佐の国府を発って今日の自宅までの間の虚構を基本としての紀行文風の道中記、船旅の不安、海賊への怯えと不安、船上の人間のやり取り、土佐でなくした愛児への嘆きなどを生への回想、感情の解放など紀行文学としての意味も大きく、文学的意義は評価されている。

もう一つ平安時代の宮廷を描いた「大和絵」がある。和歌と大和絵とが一体になって文化芸術を成している。
大和絵と言えば『源氏物語絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』が代表である。
大和絵は唐絵に対する言葉で、初めは「倭絵」と言われていた。
日本絵は朝鮮の影響を受け、法隆寺の壁画は飛鳥時代から唐絵と違いがないほどに制作され、中国の絵画の遠近感や立体化を補完する意味で倭絵が進化していき、平安貴族の要請を受けて宮廷絵師が描く屏風の画題に対して用いられた。
藤原道長が「冷泉院・神泉苑」甚だ優美と称賛をした。
*鎌倉以降は土佐派など優美な画風、金銀を散りばめた大和絵屏風が作られるようになった。

★紀貫之(?~945)平安中期の歌人。紀貫之出生年月日は不明で平安時代の代表的歌人で三十六歌仙の一人。貞観十二年くらいと思われている、父親は紀(き)望(もち)行(ゆき)。
母は妓女、遊女とも言われる説もある。大学寮で文章道を学んだとも言われ、御書所領で
ある、以後、大内記、右京亮、土佐守などを歴任、従五位上、木工権頭(もくのごんのかみ)に至り、天慶八年九月以降に没した。代表作『土佐日記』が有名である。
貫之の祖先は大納言船守の末流、古来の名家の藤原家から疎外され、応天門事件以来、一族は深刻な打撃を受けて陽の目を見ることが無かった。
さらに期待の紀氏の女の腹に生れた惟喬親王が皇嗣に立てられず、父の代で受領になるのが精一杯であった。紀氏の一支流にあった貫之にその才能を発揮させる和歌への道が開けた。
貫之は作歌だけでなく漢詩文にもその才覚は発揮され素養があった。
★紀友則(生没不詳)『古今和歌集』の一人。三十六歌仙の一人で。紀有友の子で貫之の従兄。四十才までは無官で延喜四年(904)内記をへてその後数々歌合に参加し、宇多院歌合などに出詠した。
★凡(おお)河内躬(こうちのみね)恒(つね)(生没不詳)『古今和歌集』の撰者、三十六歌仙の一人。父は諶利。丹波権大目、和泉権掾を歴任、当代きっての歌人と言われ、紀貫之に劣らない高い評価を受けた。宮中の歌合わせに参集し和歌に連なって序文を作った。屏風歌も多い。
★壬生忠岑(みぶただみね)(生没不詳)『古今和歌集』撰者。36歌仙の一人。父は安綱。右衛門府生を歴任し、宮中歌合に参集。
◆『古今和(こきんわ)歌集(かしゅう)』最初の勅撰和歌集。善二十巻1100首。延喜五年(905)醍醐天皇の下命で「紀友則」「紀貫之」「凡河内躬恒」「壬生忠岑」に万葉集に次ぐ「古」「新」歌の編纂が始められ、延喜十三~十四年に完成した。部位は春上下・夏・秋上下・冬・賀・離別・羇(き)旅(りょ)(旅の歌)・物名・恋・哀傷・雑上下・雑体・旋頭歌・俳諧(はいかい)・神遊歌・大歌所・催馬楽・東歌である。作者の内訳は、読み人知らず450首。上位は紀貫之102種・岑津60首・友則46首・忠岑36首・業平30首・伊勢22首・敏行19首・小町18首・遍照・深養父・興風17首など。

※紀貫之の評価は『古今和歌集』の編纂に携わったことに在って、1100首の内、102首も選択されている。古代の史実を知るが上に記述編纂が無ければ現代に存在しない。
そう言ったうえで『古事記』『日本書紀』『万葉集』が古代を知るが上にも書くことのでき記述あり、記録である。『古今和歌集』に450首も読み人知らずが450首もあって、もしこの編纂が無ければ闇に消えてしまうものであった。
平安時代の36歌仙の一人でもある紀貫之は平安時代にも現代と通じる役人の赴任生活と心境や行く先々の人間模様が浮き彫りにされている。
また平安時代に「倭絵」から「大和絵」として進化した絵は宮中絵巻にも登場する当時を物語る歴史資料で芸術的にも大きな価値を有している。特に『源氏物語』『信貴山縁起絵巻』『鳥類(ちょうるい)人物(じんぶつ)戯画(ぎが)』などは歌と共鳴しながら表現したり、それまでの古代絵画から「倭絵」から手法的にも写実的に表現され、深みと陰影を取り入れたものになっている。

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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十一、時平と道真

2016-07-21 04:39:13 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十一、時平と道真

関白(かんぱく)基経(もとつね)が死去(しきょ)し宮廷内(きゅうていない)はある種の鬱積(うっせき)から解放され、若い宇多天皇は何も発言できず、内心親政を望み天皇の政治上の権限が復活をした。
皇継に女御胤子との間に生まれた敦仁親王を定め、基経の直系から外れ、基経の従兄の藤原高藤にあたる。
基経の子の時平を参議の座に据え同時に仁明の孫の源興基を据え同様に起用した。中納言以上の布陣としては左大臣に源融(とおる)(72歳)右大臣に藤原良世(72歳)大納言に源能有(50歳)中納言に源光(48歳)同藤原諸葛(もろかつ)(68歳)同藤原時平(23歳)の均衡(きんこう)のとれた朝廷人事であった。
菅原道真845年生まれで、早くからその才能は発揮され、その台頭はその出自にあった。祖父三代儒官として重きを成し、基礎を築いていた祖父清公以来菅家を名実ともに確立をした人物である。
正室は父の門人の島田忠臣の娘宣来子である。十一歳にして漢詩を読み、十五歳に元服。その後文章業生方略試の中上で及第し正六位上に叙せられた。
父是善は貞観十四年(872)道真が二十八歳、少内記の時に参議に加えられている。道真も少内記に叙せられ、五位下になり文人としては異例の栄達をした。ついに兵部・民部・式部・各少輔を経て元慶元年(874)に文章博士になった。
多くの願文を草文し活躍し藤原(ふじわら)良房(よしふさ)、基経(もときょう)とも親交も深く仁和二年(886)には国守として讃岐に赴任をした。二年後帰京し「阿衡(あこう)事件(じけん)」で調停し努力し、これまで家柄に応じた職に就いていた道真は、宇多天皇に信任を得た。
宇多天皇は摂関家には内心快く思ってはおらず、菅原道真の起用は摂関家に牽制をするが上にも都合の良い存在であった。
その後基経の死後、蔵人に、894年には遣唐大使に任ぜられたが国情により停止された。一説よれば道真の建議によって停止が進められたと言う。
『日本(にほん)三代(さんだい)実録(じつろく)』の編纂をし、多くの国の重要な国史や記述の編纂に参画した。また中納言に昇格し民部卿になり、長女の衍子を入内させ、右大臣に就任をした。道真の右大臣就任に三善清行反発もあって辞任の勧めもあったらしい。その要因に宇多天皇の道真寵愛が少なからず宮廷にあった。
延喜元年(901)道真を廻る形勢は逆転し、時平は大納言源光を味方に引き入れて、天皇に対して道真追放の工作を開始をした。
道真は天皇を廃し、弟帝で自分の娘婿である斎世親王を皇位に付けようとしておりますと告口をし、宇多法皇も同意をしていると言った。
時平は年少の天皇の不安を掴み巧みに自分の言い分の正しさを進言した。直ちに天皇は道真の陰謀と判断を下したが、しかもこの時には宇多法王に事の次第を正そうとはしなかった。
すぐさま天皇は詔を出して道真に非難を加え、大宰府権師とした。同時に源光を右大臣に任じ、定国に道真が兼任をしていた右近衛大将を兼務させた。
全て時平一味の企ては成功し、道真を助けるべく宇多法王は天皇に会う為に皇居に赴いたが門は閉ざされ、官人以下衛士に阻止させられた。
宮中から宇多法王が引き上げた日に道真は護衛を付けられ大宰府への旅路に着いた。
大宰府に流された道真の怨念か、次々に都に起こる不吉な出来事に都人は恐れおののき、呵責(かしゃく)の年に際悩ませることになるのである。
*菅原道真の出生地については、奈良市にある喜光寺の寺伝によれば、奈良市は菅原町周辺で生まれた説。
*京都市下京区、菅大臣神社説。
*京都市上京区、菅原院天満宮説。*奈良吉野、菅生寺説。
*島根県松江市、菅原天満宮説。
こう言った菅原道真の出生については、行った事ない島根県まで多様に伝説が生まれている。

★菅原道真(すがはらみちざね)(845~903)公卿・文人・父は是(これ)善(よし)、母は伴氏。文章家(もんじょうけ)としての基礎を築いたのは祖父清公以来、菅家を名実ともに確立した人物である。
十一歳で初めて漢詩を学び、日夜がくぎょうに勤しんだと言われている。十五歳で元服し十八歳で文章試に及第し、二十二歳にして文章(ぶんしょう)得業生(とくぎょうせい)、その後少内記など文人にしては異例の昇進を重ね、兵部・民部・式部の各少輔をへて三十二歳にして文章博士になった。
また多くの願文を草案し活躍した。その間藤原良房・基経親子とも親交を深め、四十二歳にして讃岐に国守として赴任した。この間に起こった阿衡事件で調停し宇多天皇に信任を得て、宇多天皇の下で蔵人頭になり、その後は『日本三代実録』の編纂に加わり、遣唐使についての進止について議定を奏言し、停止が決まり、入唐はしなかった。長女衍子を入内させ、自ら正三位になった。その直後、讒言によって、藤原時平の手によって大宰府権に左遷させられた。
★藤原(ふじわら)時平(ときひら)(871~909)藤原北家基経の長子。母は仁明天皇の皇女。右近衛権中将・蔵人頭・参議と血筋の良さで昇進、基経没後、宇多天皇の親政が進められ、菅原道真が重用されが、三人の関係は比較的平穏、その後中納言・右大将などを務め宇多天皇が譲位した時には醍醐天皇に与えた訓戒には、道真と時平に信頼をおくべし、左大臣時平、右大臣道真の頃は多少の対立はあったらしい。
延喜元年(901)天皇廃止の企ての疑惑に寄り、菅原道真は大宰府権に左遷せられた。この道真・時平の対立ばかりが強調され政策は課題に載らないが荘園整理令など一連の新制を行なった。また『日本三代実録』の撰上の貢献は大きい。三十九歳で没した。

◆「阿衡事件」*平安初期の事件藤原基経を廻る政治事件。「阿衡の紛議」とも言われ、宇多天皇の即位に伴い仁和三年(887)基経に出された関白の任命について、基経の辞退の上表に対する勅答(ちょくとう)があった。
「よろしく阿衡の任を持って卿(けい)の任と成すべき」と言う文言について「阿衡」は実権のない名誉的な地位を意味するとして基経は政務を行なわず渋滞し、翌年に改めて勅書を出し直すことによって正常に戻った。
この事件の背後には勅書の起草者、橘広相と藤原佐保世とも対立があった。結果天皇が折れて臣に従ったと藤原家の驕りに嘆いた言葉が残されている。
“朕遂に志を得ず、枉(ま)げて大臣に随う”この天皇と藤原氏の関係で道真が基経を諌めた手紙は文章家の実態を知るが上に重要である。
◆『日本三代実録』日本六国史の最期の史書。史書『三代実録』とも云う。藤原時平・大蔵善行により五〇巻。清和・陽成・光孝天皇の実績を叙述。

※菅原道真の大宰府左遷の秘話・伝説・説話は増幅拡大し、諸国にその伝説は点在する。一公卿で大臣の失脚に日本に後世にこれほど大きな影響と説話を残した人物は他にはいない。それだけ日本人に愛され共感を持たれている。
当時の朝廷内でも異常な事態で策略によって大宰府に流されたことに理不尽を感じていたのだろ。その後陰陽道や末法思想と相まって京都に不吉な出来事が続き、祟り、怨念と恐れ萎縮していき、魂を鎮めるべく神社を建立し、また道真の聡明さに「あやかりたい」学徳の功徳を受けたい心情が道真信仰に広まって行った。
悪役にされた藤原時平も『日本三代実録』の編纂作成に寄与している。三十九歳と言う若さで早世しているものあまり知られていない。



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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十、平安の文人在原業平

2016-07-20 04:08:05 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)

四十、平安の文人在原業平(ありはらなりひら)

平安初期の多恨、多情の歌人在原業平は平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王(しんのう)と桓武天皇の皇女伊登親王を父母として誕生をした。
七歳上の兄の行平がいた。天長三年(826)臣籍に降下された時にこれらの兄妹は在原朝臣の氏姓を与えられた。
業平は五男にして、後に右(う)近衛権(このえごん)中将(ちゅうじょう)に在五中将と言われた。古代でも名前を省略して通称として「在五中将」と呼ばれていたことになる。血筋的には申し分ないが、皇統外であったので比較的自由な立場で行動でき、振る舞うことが出来た。
父親王はあの承和の変で異常な密告者として、その後わずか三カ月後に世を去った。その時には業平は十八歳、さぞ肩身の狭い思いをしただろう。
この事件を境にして藤原良房は権勢を振るう様になった。嘉祥二年(849)ようやく業平は従五位に叙せられたのが二十五歳になっていた。
時は仁(にん)明帝(みょうてい)が亡くなって、文徳が即位し、良房が孫惟仁親王が皇太子になって、外戚として権勢を振るう中、対立候補の惟(これ)喬(たか)親王(しんのう)の生母静子が業平の妻の父有常の妹で、紀家と業平は惟喬親王が立太子になる事を望んでいただろうが、その望みも絶たれた。
業平の希望は断ち切られ、その後は貴公子業平として『日本(にほん)三代(さんだい)実録(じつろく)』の伝える所に寄れば「業平体貌閑麗、放縦拘わらず、略才学有り、善く倭歌を作る」と人物を評している。
好色で、放浪的で、秀でた和歌の天性を表していているのではないだろうか。
また時の権勢を誇った基経の妹高子とのロマンスは宮廷の噂になったのだろう。高子は清和天皇の妃であり、際どい恋ではなかっただろうか。
その他業平と伊勢の斎宮との恋にも浮名を流したと言う。業平の伝説には貴賎に関わらず情を交わした話が筆者の母の在所の河内地方にも語り残され大和から河内へと峠を越えて通う業平の伝説は残されている。「業平の河内通いの小提灯」が残されている。
平安時代の貴族の恋は通い夫で、摂関の女御の必須条件は帝に自分の娘に通って皇子を生ませることに懸っていたように、一夫多妻制の貴族世界では業平にとって都合の良い制度であったのは確かである。
基経の妹の高子との色恋沙汰は一種の計算づくであって、官人のとしての役職は「応天門事件」の前年で右馬頭の職位で十一歳年下の基経は四十才にして右大臣左近衛大将を堀川弟の祝いの席で
「さくら花ちりかいくもれ老いらくのこむちうなるみちまがふに」とやるせない心情を詠っている。
やがて官職の座から疎外され、五十三歳仁して右近衛中将となって、佐賀権守、美濃権守を兼任したが、他の兄弟とは差が付いたものであった。
生涯参議には付けず、世俗にまみれることになって行った。だが残された歌の数々は後世に広く影響と感銘を与え五十六歳の生涯を閉じた。
★在原業平(825~880)平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王の五男、母は桓武天皇の皇女伊都内親王。天長三年(826)兄行平と共に在原姓を名乗る。官人としての出世は遅く、歌人としての道を歩む、最終官職は右近衛権中将で業平の事を「在中将」と呼ばれた。
紀名虎の娘を妻とし文徳天皇皇子で名虎の女所生の惟(これ)喬(たか)親王(しんのう)に親近、源融嵯峨源氏とも親しんだ。情深く、色を好んだのは有名、公家から一般庶民の女性まで色恋沙汰の伝説は多い。享年56歳である。

◆六歌仙
*在原業平
*僧正遍昭で父は桓武天皇の皇子良岑安世。蔵人頭に官職を務めたが、仁和元年(885)天皇の死に従い出家。比叡山で円仁・円珍に師事し僧正に上り詰めて七十賀(しちじゅうじゅうが)を賜る。
*文屋(ぶんや)康(やす)秀(ひで)、三十六歌仙の一人。二条后高子のもとで詠作や小野小町との交遊が知られる。
*喜撰(きせん)は宇治に隠遁したと言うこと以外詳細は不明。
*小野小町は小野宰相常詞の娘、小野常澄の女と言う説もある。
*柿本(かきのもと)人麻呂(ひとまろ)、時期としては草壁皇子没時の挽歌。明日香皇女没時の挽歌。宮廷儀礼などの専門歌人。*山部赤人(やまべのあかひと)、下級官人聖武天皇の行幸に伴う作が多い。

※西行や一休のように好胤説もあるが、両親とも血筋の良い業平は出世に不遇、持って生まれた歌人としての才能を発揮した。また多くの女性と関係を持ち「色男的存在」まるで源氏物語の主人公の光源氏のように、女性から女性に渡り歩き、叙情を優先させる詠風が「その心余りて言葉たらず。しぼめる花の色なくして匂い残れるが如し」と高い評価をうけた。
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