「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「浪速今昔百景」鵲森宮(森ノ宮神社)大阪市中央区はJR環状線玉造駅下車西直ぐの所に通称森ノ宮神社がある。

2016-08-20 04:25:14 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」鵲森宮(森ノ宮神社)大阪市中央区はJR環状線玉造駅下車西直ぐの所に通称森ノ宮神社がある。周辺の地名が森ノ宮の由来になっている。祭神は聖徳太子・用明天皇・穴穂部間人皇后に奥殿に天照大神・月読命・素盞鳴命を祀っている。聖徳太子は物部守屋との戦いに戦勝祈願をし、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇二年(589)まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。その後四天王寺は現在の地に祀り、当社はそのままとされた。『日本書紀』の推古天皇六年に聖徳太子の命によって新羅に渡った吉士盤金二羽の鵲を持ち帰り、灘波の社で飼ったと言う記述がある。その灘波の社の森であることが「鵲の森」と呼ばれたる様になり、ついに当社の社名となったと伝える。
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「浪速今昔百景」四天王寺塔頭・三面大黒堂・三面大黒天は伝教大師・

2016-08-19 04:45:15 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四天王寺塔頭・三面大黒堂・三面大黒天は伝教大師・最澄自作の比叡山延暦寺の守護神として、また豊臣秀吉の出世の稔持仏として京都の高台寺圓徳院に祀られている尊像などが有名で、大黒様を中央に向かって右に弁天様、左に毘沙門天様のお顔をお持ちです。七福神の三神が一体になっていることから、ご利益も一度拝めば三倍などと俗には言われていますが、信仰の合理性の象徴というのが本当のところみたいです。豊臣秀吉が出世したのも、三神を一度に拝んでご利益をいただくという、合理的な考え方があったからと言われています。
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「浪速今昔百景」四天王寺塔頭・三面大黒堂

2016-08-16 04:44:38 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四天王寺塔頭・三面大黒堂・四天王寺は聖徳太子創建と伝えられる由緒ある大寺です。太子の実在には疑義が唱えられていますが..何度も訪れたことがあるのですが、最近何かにつけて、いまいち調子が悪いので、、、と気分転換を兼ねて三面大黒様にお参りしてきました。三面大黒天は伝教大師・最澄自作の比叡山延暦寺の守護神として、また豊臣秀吉の出世の稔持仏として京都の高台寺圓徳院に祀られている尊像などが有名で、大黒様を中央に向かって右に弁天様、左に毘沙門天様のお顔をお持ちです。七福神の三神が一体になっていることから、ご利益も一度拝めば三倍などと俗には言われていますが、信仰の合理性の象徴というのが本当のところみたいです。豊臣秀吉が出世したのも、三神を一度に拝んでご利益をいただくという、合理的な考え方があったからと言われています。
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「浪速今昔百景」安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区にある神社。

2016-08-15 04:38:14 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合>。
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「浪速今昔百景」四天王寺・亀井堂

2016-08-13 04:37:26 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四天王寺・亀井堂には「白石玉出の水」が湧いていて、その水で供養した経木(キョウギ)を流すと、極楽往生できるとされます。経木は供養のために教文を書き込むもの。ようはお葬式に使うもの。これを洗うことで極楽にいけるようになります。極楽ってのは、阿弥陀如来が管理する「土地」で、ここに生まれ変わると仏陀になれるって場所です。 日本人は誤解しがちですが、極楽は「あの世」ではなく「現世」です。現世の阿弥陀如来が管理している世界です。そこに「生まれ変わり」ます。仏教には「霊」は無く、死後は別のなにかに生まれ変わります。その生まれ変わる場所として「極楽」だといいよね、ってのが「極楽往生」です。

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「浪速今昔百景」渡辺綱駒つなぎの樟・

2016-08-12 04:42:24 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」渡辺綱駒つなぎの樟・都島神社を更に西に行くと、公園と隣り合わせに、森が見える。その中で一際大きく見えるオオクノキが見える。この辺りは大江山の鬼退治で有名な、源頼光の領地であった。長徳年間に頼光は一族の武神八幡大神を祀り、産土神社を創建した。その時に頼光このクスノキ植えたと言う。その後頼光の四天王と言われる、渡辺綱がこの地を管理を任され、この神社に参拝するときには、いつもこの木に馬を繋いだので「渡辺綱駒」と言われるようになったという。樹齢900年と言うクスノキは戦前は天然記念物として指定されたが、外二次世界大戦で戦災に遭い、枯れた。産土神社は明治42年に近くの桜ノ宮神社に合祀された。

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「浪速今昔百景」野江水神社と榎並城跡・

2016-08-11 04:25:49 | 浪速今昔百景
地下鉄は野江内代駅から南に榎並小学校がある。榎並庄は古来城東区から都島区にかけ摂関家の広大な荘園であった。また榎並猿楽発祥の地として、榎並城跡伝承の地としての碑が建つ、榎並城は江口の戦いで三好政長が築き、小城ながら淀川、旧大和川に包まれた天然の要塞で、ちょうど今の「野江水神社」辺りが僅かに高台になっており周りの河川に三好政長が度々水害に遭い、それを鎮めるために、守護神を城内に祭ったのが始まりという。祭神は水火厄除けの「水波女大神」である。榎並の地名は「石山合戦」「南北朝時代」にも城、要塞として登場する
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「浪速今昔百景」舎密局跡(京都大学の前身)

2016-08-10 04:41:32 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」舎(せい)密局(みつきょく)跡(あと)(京都大学の前身)・大阪は大手通りの警察会館前の道路筋の歩道を塞ぐように大木があって祠がある。そこに舎密局跡碑が立っている。私の子供の頃から言い伝えで道路に突き出た古大木を切れば祟りがあって、戦前から切ることができず未だに古木は立っている。この地が明治三年に大阪舎密局、翌年に京都に舎蜜局が設置され中でも大阪舎蜜局は第三高等学校(京都大学前身)の源流となっていった。幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが混乱で成立せず、後藤象二郎と小松帯刀の進言によって戦乱を避けて学校の設備を大阪城西の大手通り旧京橋口御定番屋敷跡に新校舎が建設され、オランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎蜜局が開校された。
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浪花今昔百景」露天神社(お初天神)・大阪梅田は曽根崎、

2016-08-09 04:14:57 | 浪速今昔百景
「「誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞え、取伝え貴賎郡集の回向の種、未来成仏、仏疑ひなき、恋の手本と成りにけり」この近松門左衛門の「曽根崎心中」は元禄十六年に露天神社の境内の「天神の森」で遊女のお初と手代の徳兵衛が非業の死を遂げた、心中事件にまつわる悲恋物語である。以後三百年参拝する老若男女が絶えず「お初天神」と親しまれている。
露天神社の創建は古く、平安時代は初期の文徳天皇の時代に「難波八十島祭」の「浪華の古図」にも記載されているようで、当寺は曽根崎辺りまで海が迫り、海に浮かぶ「曽根崎洲」まで遡れるという。祭神としては少名彦(医学、薬学)大己貴(大国さん)天照大神、豊受大神、菅原道真が祀られている。菅原道真が大宰府に流される折に大阪の港に停泊し「太融寺」により露天神社により歌を詠んだと伝えられており、南北朝辺りには曽根崎中州も拡大し、太融寺の源融の末裔で土豪の渡辺氏も、この地の開発に寄与している。

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「浪速今昔百景」四天王寺八角亭

2016-08-08 04:41:06 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四天王寺八角亭・明治三十六年(1903)現在の天王寺公園付近に「第五回内国勧業博覧会」が開催された。その建造物を現在地に移したもので、柱はギリシャ建築の柱頭飾りを施した明治時代の貴重な洋風建築物である。

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「古社寺探訪」生國魂神社・

2016-08-07 04:29:56 | 浪速今昔百景
「古社寺探訪」生國魂神社・大阪府大阪市天王寺区にある神社。式内社で、旧社格は官幣大社。難波大社ともいう。祭神・生島大神・足島大神を主祭神とし、相殿に大物主大神を祀る。主祭神二神は宮中でも生島巫によって祀られ、歴代の天皇即位の際には国家の祭祀として二神を祀る八十島祭が行われた。伝承によれば、神武東征の際に、神武天皇が難波碕の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まるという。延喜式神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。1496年(明応5年)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が神域の一角に結ばれた。1580年(天正八年)に石山合戦の戦火により焼失。1583年(天正十一年)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定された。秀吉は300石の社領を寄進して社殿を造営し、1585年(天正十三年)に遷座された。このときに造営された社殿は「生国魂造」と呼ばれ、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである。1615年(元和元年)には大坂夏の陣の兵火にかかったが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進された。



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「浪速今昔百景」法善寺

2016-08-06 04:39:15 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」法善寺横町と水掛不動・歌に小説に大阪南の名所は「法善寺横町と水掛不動」である。夫婦善哉で馴染みの細い路地は法善寺に続気、飲食店街が軒を連ね夜ともなれば人の賑わいは、何処からともなく法善寺「水掛不動」願掛け、願を込めて夜のネオンに消えて行く、浪速の風情である。今も夫婦善哉の店といっても、今では善哉(善哉)を出す店は少ない一人前と注文しても二杯分をお客に出す、それは夫婦で一客で一対のぜんざいを出す、縁起の意味で出していた。横丁の呼び名は元々法善寺の境内で露店をしていた飲食店が定着したもので昭和十五年に長谷川幸延「オール読み物で同名の小説があって、また浪速の小説家織田作之助の小説が法善寺横丁を有名にさせた。また水掛け不動と言えば法善寺の境内の苔生した水掛け不動で苔が覆いつくし実際の不動尊を見ることが出来ない。
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「浪速今昔百景」京善寺「くわず不動」・

2016-08-05 04:14:05 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」京善寺「くわず不動」・近鉄南大阪線川堀口駅下車十分で住吉区は桑津に着く、桑津神社と道を隔て「くわず不動」と地元の信仰は絶えないが、寺伝に拠れば昔は「金剛院」と言われ厄除け祈願道場として栄えていた、今の境内より広く竹林と常緑樹が多い繁り、小高い丘に本堂があって、善如龍王を祀り農民百姓の豊作を祈願し特に雨乞い祈願と「身代わり厄除け不動」人の絶え間なく近郷の百姓の参拝に多いに栄えたと言う。所が元和元年の大坂夏の陣で戦場所となって、武士達が集合した大きな井戸が三箇所並び当時が偲ばれるが、この辺りも戦場となって寺の堂塔は焼失、衰退して行った。その後、承和二年(1653)信者の富井部氏の霊夢に不動明王が現れて、寺の再興を告げられ、紀州の観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を建立、興教大師作の不動明王を祀ったのが「くわず不動」の始まりと言う。その後吉野より「役行者」の等身像を勧進し行者の道場にもなった。紀州根来寺の不動明王と同木、同作、(興行大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。真言宗御室派、近畿三十六不動札所、摂津八十八箇所札所となっている。
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「浪速今昔百景」福沢諭吉誕生の地・

2016-08-03 04:22:44 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」福沢諭吉誕生の地・
堂島川に架かる玉江橋の北詰めに、福沢諭吉の誕生地の碑が建つ、天保5年(1834)中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助急死の後、母と兄姉とも中津に帰ったが,兄の薦めで緒方洪庵の適塾に入門し蘭学を学んだ、後に塾頭になり、江戸幕府の海外使節団に随行し慶応義塾を開設した。明治時代を代表する啓蒙思想家として活躍した。また福澤諭吉の碑と共に豊前国中津藩蔵屋敷跡の碑も建っている。
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「浪速今昔百景」四天王寺・極楽浄土の庭

2016-08-02 05:02:54 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界を想定して作られた「極楽浄土の庭」として公開されている。


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