「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・日露戦争」アマゾン電子電子。紹介・ 日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治3

2019-11-03 07:04:19 | 温故知新
「歴史の回想・日露戦争」アマゾン電子電子。紹介・
日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。ロシアはバルチック艦隊を1904年10月に本国から送り出し、ウラジオストクの艦隊と合流させて日本海の制海権の奪還に目指しなたが、5月27,28日の対馬海域での回線で日本の連合艦隊に敗北した。「講和」これ以上は戦争の継続は国力の限界を超えていたので、日本は奉天会戦と日本海海戦とを契機にアメリカに講和の斡旋を強く依頼した。他方、ロシアも1905年1月の革命運動の高揚依頼、その政治体制は大きく揺らいでいたし、欧米列強も帝政ロシアの崩壊を恐れて講和へと動いた。その結果、I、ローズベルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれ、9月5日に日露講和平和条約が結ばれた。

「歴史の回想・日清戦争」アマゾン電子電子・ 明治27年(1894)一年間、日本が清国と戦った戦争。「政治危機下の日本」1894年5月、朝鮮では東学

2019-11-03 07:02:18 | 温故知新
「歴史の回想・日清戦争」アマゾン電子電子・
明治27年(1894)一年間、日本が清国と戦った戦争。「政治危機下の日本」1894年5月、朝鮮では東学奉ずる農民の蜂起(甲午農民戦争)により全羅道の首府全州が陥落した。朝鮮政府は宗主国の清国に救援を求め、清国はそれに応じた。天津条約(1885年)の規定によりその通告を受けた日本政府は、議会で内閣不信任案が可決された政治的危機に直面していたため、世論転換のために公使館と在留邦人保護を名目に川上操六参謀本部次長と陸奥宗光外相の謀議により混成旅団を出兵を決定した。内閣が宣戦を決議する以前の平時にもかかわらず戦時大本営条例により大本営を設置、参謀総長が用兵の全権を握り出兵した。両国の派兵で擾乱は収まり、清国代表の袁世凱も日清同時に撤兵を提案したが、陸奥外相は膨大な経費を要いて出兵したからには何らかの権利を得ないまま撤兵は世論が許さないと判断、清・朝鮮両国が到底承認できないと赴援清国軍の朝鮮国外退去と、日清両国が対等な立場で朝鮮内政を改革する要求を期限付き最後通牒の形式で両国に送付した。期限切れの7月23日、日本軍は朝鮮王宮を攻撃、親日派政権を樹立させて牙山の清軍攻撃
の依頼をもぎ取り豊島海戦と成歓の戦いを経て8月1日清国に宣戦布告。9月15日、平常総攻撃、翌日占領、同17日黄海海戦で制海権を確保した。天皇は大本営を広島に進めた。10月15日同地に召集された臨時議会は一変臨時軍事費特別会計を満場一致無修正で可決した。1894年10月24日、日本軍は鴨緑江を渡河して中国領内に侵入、11月24日、旅順要塞を一日で落とした。このとき、のちの国際問題となる虐殺事件が起きた。伊藤博文首相は、大本営列席を求め、陸軍が主張した大本営大陸動座と、列強の干渉を招くこと必然の直隷平野の決戦に反対をし、清国が優勢な艦隊打破のための威海衛攻略と講和条件を有利とするための澎湖島占領を提案事項させるなど統師を抑え政戦両略の一致を図った。北京に鬼気迫った清国は1895年4月17日下関条約に調印し講和した。