1月15日というと、今どきの子供は「いちごの日」と言うらしいが、私にとっては「おぜんざいの日」だ。
毎年11日に鏡開きをし、15日の どんど焼きを済ませた後、鏡開きの鏡餅でおぜんざいを食べることにしているのだが、今年は例年どんど焼きに出かけてくれている御大が酷い腰痛に悩まされているため、子供の時以来となる どんど焼きに行ってきた。
どんど焼きといえば、「しろばんば」(井上靖)だ。
ほぼ全ての本を読んでいるというほど井上靖氏の本を好きだが、その出会いは教科書に載っている「しろばんば」だった。(『 』「しろばんば」より引用)
たしか「赤い実」という題で、「しろばんば」の一部を習った記憶がある。
『14日はどんどん焼きの日であった。どんどん焼きは昔から衣たちの受け持つ正月の仕事になっていたので、この朝は耕作と幸夫が下級生たちを指導した。子供たちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り、そこのお飾りを集めた』~略~
『お飾りは、田圃の一隅に集められ、堆高く積み上げられた。幸夫がそれに火を点けた。火勢が強くなると、
「みんな書初めを投げ込め」幸夫は怒鳴った。子供たちは自分が正月二日に書いた書初めを、次々にその火の中に投げ込んだ。耕作も幸夫も投げ込んだ。そしてその仕事が終わると、くろもじの枝の先の先端につけた小さい団子をその火で焼いて食べる、このどんどん焼きの中で一番楽しい仕事へと移って行った。
この日は、男の子供も女の子供も一緒だった。一年のうちで、男女の児童たちが一緒になるのは、この一月一四日しかなかった。』
この何の変哲もない文章の何処にこれほど惹かれるのか自分でも分からないのだが、井上氏の文章に初めて触れて以来、井上氏の文章全てに共通する、文の流れや、主人公の一人称の語りながら(引いた視点をもつ)客観的な文体を、とても気に入っている。
それは兎も角、この場面には印象的な箇所がある。
あき子という耕作より一級年上の少女の書き初めの文字が、露わになった所だ。
『少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず』
男の子でも書くそうな強い感じの大きな字で、何枚か繋ぎ合わせた半紙に認められていたこの二行を読み、耕作は『いきなり立ち上がって、土蔵に帰り、二階へ上がって勉強をしたいような気持にさえなった。
耕作は、自分の書き初めを火の中へ突っ込んでいる少女を、尊敬の思いで眺めた。今まであき子に惹かれたことはあったが、併し、今の惹かれ方は全く違っていた。自分にこのような感動を与える文章を書き初めに書いた少女への讃歎であり、讃美であった。』
本書は、『その頃、と言っても大正四五年のことで』と始まるとおり、大正初期の物語ではあるが、意外なほど今に通じるものがある。
今日久しぶりに出かけた どんど焼きでは、しめ飾りを持ち寄った子供が楽しそうにしていたが、それは残念なことに、現在どこでも見かけられる風景ではないだろう。時代が変われば、変わるものがあるのは、已むをえない。
だが、時代が変わり取り囲む物や設定が変われども、人の営みには変わらないものがある。
複雑な環境で育つ「しろばんば」の主人公・耕作(耕ちゃ)が、大人の事情を慮り、徐々に気遣いを働かせることを学んでいく過程や、淡い初恋を抱くところなどは今に通じるものであり、それが懐かしい景色や行事とともに描かれている本書は時代をこえて読み継いでいくことができる作品だと、思っている。
ところで、ここにも複雑な環境のなか苦しみながら一歩ずつ成長されている少女がいる。
大人の醜い思惑と、それに乗じる心ない一部の好奇の視線に晒されながら、一歩ずつ直向に歩んでおられる少女がいる。
その少女が、書写の授業で書かれた書が発表された。
女子には存在価値を認めない環境のなか苦しんでおられる少女、その環境のおかしさを糊塗するために攻撃され続ける少女。少女がありのままに認められる時代になるよう心から願っている。
おかわり!おぜんざい
どんど焼きから帰宅し、鏡開きの鏡餅の おぜんざいを食べたのだが、もう一杯面白い おぜんざいモドキを作ってみた。
あるブログで、「餡子の串団子を串からはずし、耐熱容器に入れ、水を適量加えて’’チン’’して作る汁粉(もどき)」が紹介されていたので、さっそく試してみたのだ。
’’チン’’のタイミングをうまく計らないと、団子が溶けてしまうが、寒い日に小腹がすいた時など、お手軽で良い方法だと気に入った。
お試しあれ。
追記
「しろばんば」では、’’どんどん焼き’’と書かれているが、転勤族で幾つかの土地に住んだ経験からすると、’’とんどさん’’や’’どんど焼き’’は聞いたことがあるが、実は’’どんどん焼き’’は聞いたことがない。
毎年11日に鏡開きをし、15日の どんど焼きを済ませた後、鏡開きの鏡餅でおぜんざいを食べることにしているのだが、今年は例年どんど焼きに出かけてくれている御大が酷い腰痛に悩まされているため、子供の時以来となる どんど焼きに行ってきた。
どんど焼きといえば、「しろばんば」(井上靖)だ。
ほぼ全ての本を読んでいるというほど井上靖氏の本を好きだが、その出会いは教科書に載っている「しろばんば」だった。(『 』「しろばんば」より引用)
たしか「赤い実」という題で、「しろばんば」の一部を習った記憶がある。
『14日はどんどん焼きの日であった。どんどん焼きは昔から衣たちの受け持つ正月の仕事になっていたので、この朝は耕作と幸夫が下級生たちを指導した。子供たちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り、そこのお飾りを集めた』~略~
『お飾りは、田圃の一隅に集められ、堆高く積み上げられた。幸夫がそれに火を点けた。火勢が強くなると、
「みんな書初めを投げ込め」幸夫は怒鳴った。子供たちは自分が正月二日に書いた書初めを、次々にその火の中に投げ込んだ。耕作も幸夫も投げ込んだ。そしてその仕事が終わると、くろもじの枝の先の先端につけた小さい団子をその火で焼いて食べる、このどんどん焼きの中で一番楽しい仕事へと移って行った。
この日は、男の子供も女の子供も一緒だった。一年のうちで、男女の児童たちが一緒になるのは、この一月一四日しかなかった。』
この何の変哲もない文章の何処にこれほど惹かれるのか自分でも分からないのだが、井上氏の文章に初めて触れて以来、井上氏の文章全てに共通する、文の流れや、主人公の一人称の語りながら(引いた視点をもつ)客観的な文体を、とても気に入っている。
それは兎も角、この場面には印象的な箇所がある。
あき子という耕作より一級年上の少女の書き初めの文字が、露わになった所だ。
『少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず』
男の子でも書くそうな強い感じの大きな字で、何枚か繋ぎ合わせた半紙に認められていたこの二行を読み、耕作は『いきなり立ち上がって、土蔵に帰り、二階へ上がって勉強をしたいような気持にさえなった。
耕作は、自分の書き初めを火の中へ突っ込んでいる少女を、尊敬の思いで眺めた。今まであき子に惹かれたことはあったが、併し、今の惹かれ方は全く違っていた。自分にこのような感動を与える文章を書き初めに書いた少女への讃歎であり、讃美であった。』
本書は、『その頃、と言っても大正四五年のことで』と始まるとおり、大正初期の物語ではあるが、意外なほど今に通じるものがある。
今日久しぶりに出かけた どんど焼きでは、しめ飾りを持ち寄った子供が楽しそうにしていたが、それは残念なことに、現在どこでも見かけられる風景ではないだろう。時代が変われば、変わるものがあるのは、已むをえない。
だが、時代が変わり取り囲む物や設定が変われども、人の営みには変わらないものがある。
複雑な環境で育つ「しろばんば」の主人公・耕作(耕ちゃ)が、大人の事情を慮り、徐々に気遣いを働かせることを学んでいく過程や、淡い初恋を抱くところなどは今に通じるものであり、それが懐かしい景色や行事とともに描かれている本書は時代をこえて読み継いでいくことができる作品だと、思っている。
ところで、ここにも複雑な環境のなか苦しみながら一歩ずつ成長されている少女がいる。
大人の醜い思惑と、それに乗じる心ない一部の好奇の視線に晒されながら、一歩ずつ直向に歩んでおられる少女がいる。
その少女が、書写の授業で書かれた書が発表された。
平成二八年 宮内庁職員組合文化祭美術展より敬宮様の書
女子には存在価値を認めない環境のなか苦しんでおられる少女、その環境のおかしさを糊塗するために攻撃され続ける少女。少女がありのままに認められる時代になるよう心から願っている。
おかわり!おぜんざい
どんど焼きから帰宅し、鏡開きの鏡餅の おぜんざいを食べたのだが、もう一杯面白い おぜんざいモドキを作ってみた。
あるブログで、「餡子の串団子を串からはずし、耐熱容器に入れ、水を適量加えて’’チン’’して作る汁粉(もどき)」が紹介されていたので、さっそく試してみたのだ。
’’チン’’のタイミングをうまく計らないと、団子が溶けてしまうが、寒い日に小腹がすいた時など、お手軽で良い方法だと気に入った。
お試しあれ。
追記
「しろばんば」では、’’どんどん焼き’’と書かれているが、転勤族で幾つかの土地に住んだ経験からすると、’’とんどさん’’や’’どんど焼き’’は聞いたことがあるが、実は’’どんどん焼き’’は聞いたことがない。