何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

再起動せよ

2016-06-30 19:50:01 | 
先週、腹痛と吐き気で休養せざるをえなくなったとき、「ミッション建国」(楡周平)のなかの「余人を以て替え難いなんて仕事はねえからな」という言葉が浮かんで憂鬱になったが、考えてみれば、かれこれ16年ほど前、総理が倒れたという突然のニュースに驚いていたら、今度は、病室だか議員会館だか赤坂の料亭だかで次の総理が決まったというニュースに再度驚かされるということがあったくらいなので、まっこと替えの効かない仕事など、ない。
そんなことを思いながら「リブート」(福田和代)を読んでいたので、関心の向きも仕事との関わり方になったが、そもそも本書が扱う「銀行のシステム」という分野にとんと疎いので、人間模様に視点を合わせざるをえない、というのが正直なところだ。

本の帯より
『東邦銀行と合併し、ひびき銀行となった明徳銀行。二行を結ぶ「リンカー」システムの保守を担当する横田は、深夜の電話に起こされた。「リンカー」のサーバーがダウンしたのだ。誤振込が起き、取引が途中でキャンセルするタイムアウトも発生。懸命の復旧作業も実らず、ATMにはエラーメッセージが・・・・・。』

作者の福田和代氏は、神戸大工学部を卒業後、システムエンジニアとして銀行に勤務したという経歴を有するので、本書で次々おこるトラブルとそれに対応するSM(システムエンジニア)の奮闘ぶりが臨場感をもって書かれている。
残業につぐ残業で連日帰宅が11時を過ぎ、就寝が日付が変わった頃であっても、一たびシステムにエラーがでれば、寝入り端であろうと丑三つ時であろうと、家を飛び出し会社へ向かわねばならないのは、大方のシステムが動き始める開局時(am9)には復旧させなければならないからだ。それは、銀行利用客に迷惑をかけてはならないというだけでなく、『システムの不備で起きた事(例えばATMが止まる)を金融不安だと誤解され、極端なことを言えば取り付け騒ぎなどに発展する可能性もある』ことから、現場は絶えず緊張しているのだ。

ただでさえ銀行のシステム管理部門の空気は張りつめているが、本書は東の東邦銀行と西の明徳銀行が合併したばかりで、それぞれの勘定系システムを統合させていく過程であるので、業務としても、それに関わる人間模様としても複雑だ。
東邦銀行のシステム管理のPM(プロジェクトマネージャー)の仲瀬川は、勘定系統合で一番重要なシステムの開発・保守を担当しているという責任感と自負から、『必要なものは必要だと大きな声で言い、自分のプロジェクトはきっちり守る』という姿勢を貫いている。それは、タクシー代の請求と云う予算配分から、自らは新人教育を一切せずに他所の部署が育てた一番の腕利きを強引に引っ張ってくるという人事にまで及ぶため、他の部署やpmからの評判はすこぶる悪い。しかし、重要システムを管理する仲瀬川は寧ろ、『それができない人間は、ただのお人よしだ』と思っている。

この東邦銀行系の仲瀬川に言わせれば、明徳銀行系のPM横田は究極のお人よしということになる。
横田は緊急時の対応でも仕事の割り振りでも、まず自分が泥を被ろうとするが、それは横田のチームで腕が見込めるSMはたった一人だということも原因ではある。あとは、腕はそこそこでも余暇を楽しむタイプの者や、そこそこの腕にも達してないのに調子がいいばかりで向学心がない者や、やる気はあってもまだまだ半人前という者ばかりなので、一たびシステムトラブルが起これば、上へ下への大騒動になる。しかし、若手を育てることの重要性を感じている横田は、率先して問題に当たりながらも、任せられるところは若手に任せ、大騒動しながらも幾つものトラブルを解決していく。

これほど対照的なPMが、東と西で昼夜を分かたず反発しながらもシステムの完全統合を目指して協力していくなかで、自分に欠けているものを相手の中に見つけ認めて成長していくところが、気持ちよい。

このPMの成長という点に殊更注目して読んだのは、私自身が二人のタイプの中途半端なところを脱却できずにいるからだと思う。
持ち出しも持ち帰りも厭わずコツコツ地道にする(しか能がないともいう)というところは横田タイプなのだが、人に任せるということができないという欠点がある。
人に任せて、進捗状況が掴めなかったり、思いがけない事態になるくらいなら、不眠不休でも自分でやってしまおうと思うのだが・・・・・それでは後輩が育たないと、これまで何度か指摘されてきた。

長年のやり方を改めることは難しい。
だが、本書には、前向きになれる言葉がある。
『初期化(リセット)するわけじゃない。再起動(リブート)するのだ。
 -つまずいても、また立ち上がればそれでいい。
 何度でも、何度でも。』

「九転び十起き」が座右の銘の「あさが来た」のあささんには遠く、「十転び七起き」といった私だが、本書にある『3千メートル級の山であっても、一歩ずつ登ればいつかは頂上に辿り着く』を信条に、一歩一歩、歩いていくしかないと思っている。

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吾輩は上級人間のワンコ&ニャンコである

2016-06-28 23:11:33 | ひとりごと
「13匹の犬」(加藤幸子)「エミリの包丁」(森沢明夫)と偶然にも犬と猫について書かれている本を読んだので、かってにワンにゃん比較考をしてみる。

犬と猫は種としても比較されやすいが、人の性格を言い当てる時に使われる「犬タイプ」「猫タイプ」や、どちらと暮らすことを好むかで区別される「犬派or猫派」などには一家言をもつ人も多いので、猫と暮らしたことがなく犬も我がワンコ一筋で他の実情を知らない私は、例によって例の如く本の世界に答えを求めてみた。

「13匹の犬」は、ある一家が飼ってきた13匹の犬の独白で話が進むので、ここは猫の独白も聞かねばなるまいと手に取ったのは、「吾輩は猫である」(夏目漱石)

冒頭の『吾輩は猫である。名前はまだ無い』が有名だが、11章全編この調子で、拾われた猫としての遠慮や好かれようとする努力は全くない、この’’感じ’’正に我がワンコそのものだ。

我家は猫と暮らしたことがないし、犬もワンコ一筋で他の犬は分からないが、家族は皆「ワンコは猫科だ」だと言っていた。
そう感じるのは、ワンコの後ろ姿が猫そっくりだからだろうと思っていたが、改めて「吾輩は猫である」を読むと、我がワンコは性格的にも猫タイプだったと思えてきた。
『  』「吾輩は猫である」より引用
『ちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ』

こんな部分を読むと、思わずワンコの独白ではないかと思ってしまう。
我家は下手の横好きで皆それぞれ何か楽器をするのだが、絶対音感があるワンコは、いつも辟易として楽器練習に付き合っていた。
ワンコの言い分は色々あったろうが、ワンコ的に一番『物になっておらん』とウンザリしていたのは、一向に腕のあがらない家人のピアノだったと思う。ミスタッチが混んでくると眉毛を吊り上げ家人を凝視し、更にミスタッチが重なると、鼻に皺をよせ盛大に溜息をついたものだった。
御大の尺八にはさすがに溜息はつかないものの、手本として流している人間国宝の演奏をウットリと聞き惚れる姿と、御大の練習を聴く姿では、天と地ほどの差があり、それは誰のどのような指摘よりも御大には堪えていたようだ。

だが、こんな部分を読むとワンコは人間タイプでもあったために、日記でもつけて真面目(しんめんぼく)を保っていたのかもしれないと思えてならない。
『人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己おのれの真面目(しんめんぼく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。』

家族は皆、どういうことかワンコは鉛筆を舐め舐め日記もしくは閻魔帳をつけていると信じていた。
ワンコに疎ましげな視線をチラリと投げてよこされた者は「今日は、ワンコ日記に×をつけられたな」とか、ワンコに好物をあげた者は「今日は、私の欄は◎に違いない」とか口々に言っていた。
ワンコは日記(閻魔帳)を付けていると感じさせる何かを持っていたのだが、『主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れない』という部分を読むと、吾輩猫と同じく『食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣』いていたように思えたワンコにも、表に出せない鬱屈があったのかもしれない。
その複雑な思考故か、ワンコ実家両親曰く「ワンコは自分を4本足の人間であり家長だ」と思っていたそうだが、吾輩猫も『人間世界の一人』だという思いと『どこまでも人間に成りすましている』という思いで揺れていく。

こうして、『人間世界の一人』となったワンコとニャンコは、鋭い観察で得た情報をもとに人を思いやる優しさを、人一倍有するようになる。

我がワンコ、家族が喜んでいる時は皆の真ん中ではしゃぎ、悲しんでいる者がいる時は、そっと傍らで流れる涙をすくってくれていたが、猫と暮らす知人も言う。
「家族が楽しんでいる時は皆の真ん中ですまし顔で香箱座りをしているが、手の甲でぬぐった涙を舐めてくれるのも、ニャンコだと。」

それでも、世間一般に猫タイプ・犬タイプという言葉があるのだから、正確に比較すればやはり違うのだろう、それは皇太子御一家の猫と犬を見ても明らかかもしれない。
皇太子御一家の歴代の犬たちは、御一家の記念撮影には欠かさず登場するが、猫が撮影に応じて下さったのは2度しかない。
そのあたりに、犬とは異なる猫独特の気位の高さがあるのだろうが、それでも猫が皇太子御一家を好きなことには変わりがないと思うのは、その猫の名前が「人間ちゃん」というからだ。
 
写真出展 宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/photo-h22hn.html

「人と人の間にいたがるから、人間ちゃん」と敬宮様に命名されるほどに、家族の間に収まって寛いだ日々を過ごしている皇太子家ニャンコちゃん。
しかし、だからといって写真撮影に出てこないあたりが、猫の猫たる所以かもしれない。

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包丁を武器に頑張る猫 ワン

2016-06-27 19:31:05 | 
ファンタジーが苦手な私としては、森沢ワールドは自ら手に取る作風ではないのだが、この作者の新刊が出る度に何故か私に貸してくれる本仲間がいるので、ついつい読んでは結局しみじみほのぼのさせてもらっている。

「エミリの小さな包丁」(森沢明夫)
本の帯より
『信じていた恋人に振られ、職業もお金も、居場所さえも失った25歳のエミリ。藁をもすがる思いで10年以上連絡を取っていなかった祖父の家へ転がり込む。
心が荒みきっているエミリは、人からの親切を素直に受け入れられない。しかし、淡々と包丁を研ぎ、食事を仕度する祖父の姿を見ているうちに、小さな変化が起こり始める。食に対する姿勢、人との付き合い、もののとらえ方や考え方……。周囲の人たち、そして疎遠だった親との関係を一歩踏み出そうと思い始める――。「毎日をきちんと生きる」ことは、人生を大切に歩むこと。人間の限りない温かさと心の再生を描いた、癒しの物語。』

主人公エミリ25歳は、10歳で両親が離婚。
親権を要求してくれた父にも現在では別の家庭ができ、親権をもった母は男を取っかえ引っ替えするばかりで子育てはせず現在も新しい男と住んでいる。子供時代を支え合ってきた兄も高校を卒業するなり渡米して二度と帰国する気はない。
もともと一人ぼっちだったエミリは、職場の恋人に振られたために仕事も生活費も居場所も失い、10年以上音信不通だった母方祖父を頼って海辺の家に転がり込むしかなくなるのだが、そんなエミリは自分のことを「犬」だと思っている、もとい「犬のようだ」と思っている。
そして第一章のタイトルが「猫になりたい」。
こう書かれれば、真剣に読まないわけにはいかない。

自分のことを「愚鈍な女」だと思っているエミリは、その愚鈍な自分を、『犬歯を抜かれた臆病な犬』『いつも尻尾を下げてびくついている捨て犬』『一人ぼっちの夜を泣いて過ごしている(捨て犬)』のようだと思っている。
そして、「猫になりたい」と願っている。
『猫はきっと、いつもゆっくりと呼吸していて、気に入った散歩道を悠然と歩き、塀の上からノロマな世間を睥睨し、バター色のひだまりを見つけたら、そのなかで丸くなって眠る。優しい人と出会えたら、たっぷりと全身を撫ぜてもらい、喉を鳴らして心ゆくまで甘えまくる。万一、傷つきそうになっても、その素早い身のこなしでさっと逃げれば、はい、おしまい。嫌な気分なんて引きずらない。そもそも、気持ちの乱高下なんてないのだ。逃げたら、その場所でまた心地いい寝床を見つけて、くるりと丸くなって眠るだけ。そして、眠りから覚めたら、再び悠然と歩きだす。
わたしは、そんな猫になりたい』
『でも、とても残念なことに、私は幼い頃からずっと犬タイプだった』

自分を「犬だ」「犬だ」と嘆きながら祖父のもとに転がり込んだエミリは、神社にお参りしても、『神様がいたとしても、お礼なんて言うつもりはない』と思っている。
そんなエミリに祖父は、『神様ってのは、自分自身のことだ』とぼそっと言う。

また夜空を眺めていたある時など、流れ星に「幸せになれるように」と願うエミリに、『幸せになることより、満足することの方が大事だよ」と祖父は言う。

祖父の言葉を一つ一つ心に刻みながら、祖父の本箱のなかの本を読んでいくエミリが見つけた言葉も印象的だ。
『つらいときでも鼻歌を歌っていれば、世界は変えられなくても、気分を変えることならできる』

こうして祖父と暮らすなかで、自分を見つめ一歩を踏み出す力がでてきた頃、二人が暮らす狭い海辺の田舎町に、エミリが都会を追われた理由が悪意をもって流される。
「また逃げなければならないのか」「祖父に気まずい思いをさせてしまった」と苦しむエミリに、祖父は諭す。
『自分の存在価値と、自分の人生の価値は、他人に判断させちゃだめだよ』
『考えてごらん。事情を知らない人達に、エミリとエミリの人生の価値を勝手に判断されて、しかも。エミリがそのいい加減な判断結果に従うような人生のハメになるなんて、道理に外れるし、何より気分が悪い』

噂好きという田舎特有の息苦しさはあるものの、いい塩梅のお節介な人達にも恵まれ、やがて祖父の元から巣立っていく日、エミリと祖父は一緒にあの神社にお参りする。
「神様は自分自身のことだ」の真意を問うエミリに、祖父は言う。
『神社の拝殿のなかには、鏡が置かれているんだ』 
つまり、エミリが参拝している時、その鏡に映っているのはエミリ自身だということ。
『神様ってのは、万能の存在だろう』
『要するに、エミリを思いのままに動かせる万能の存在は、唯一、エミリ自身だろう。
 エミリの人生を自由自在に創造していけるのも、エミリ本人しかいないんだ』

エミリは思う 『わたしは、わたしの人生の神様・・・・・』

おじいちゃんと一夏過したエミリは、秋風が立つ頃、新たな人生の一歩を踏み出した。

で、一歩を踏み出す勇気を得たエミリは、もうかつての『愚鈍な女』ではないので、「犬タイプ」を返上して念願の「猫になりたい」は叶ったのか?
その答えは、私的には何となく、裏表紙の絵にあるような気がしている。

ところで、エミリを元気にした一番のものは、おじいちゃんの箴言というよりは ―勿論それも大きいが― 捕れたての魚を丁寧に調理した手料理だと思う。
そして、本にでてきた料理を自分なりに作ってみることを常としている私が試したのは、アジの「なめろう」と「さんが焼き」。
鮮度のせいか慣れない味のせいか、「なめろう」の評判はイマイチだったが、「さんが焼き」は大好評だった。

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醜い犬&13匹の犬 人間

2016-06-26 10:28:18 | 
何かを誰かを応援する気持ちをこめて書くことにしているので、ここでは基本的に肯定的な文章しか書かないことに決めている。
人間の醜い内面を鋭く抉り出すものや厳しい現実を突きつける本についての感想が、否定的ニュアンスを持つことはあるが、それは逆に、作者の意図するところが描ききれているという意味において、成功なのだと思っている。また、内容や主題に納得がいかなくとも、ストーリー展開や描写の上手さを感じれば、それに感謝しつつ読むことにしているのは、本好きとしては兎に角作家さんの存在を有難く思っているからだ。

ただ最近、表題と表紙に惹かれて最高に期待して読んだために、あまりの内容にショックも大きすぎ、これだけは、どうにも肯定的に書きようがない、と感じていた本がある。
「十三匹の犬」(加藤幸子)
本の帯には『物語の語り手は、一家で飼われてきた歴代十三匹の犬たち。戦前の明るい空気の札幌、戦争中から敗戦後の混乱の中での北京、引揚げ後の米軍の占領に始まる戦後から平成までの東京を舞台に、愛らしい犬だけでなく、臆病な犬、凶暴な犬、殺された犬、様々な犬たちが紡ぎ出す、その犬の一生と家族の歴史。十三章からなる長編小説』とある。

本書は一章ごとに、ある一家が三代(悠子の両親と悠子とその娘)にわたって関わった犬たちの独白と、その犬の生涯を家族が補足説明するという構成をとっている。従って「13匹の犬」は13の章から成り立っているのだが、実はものの数にも入れてもらえなかった犬もいて、それは「短い余話(主人曰)順番の来なかった犬」として五匹目と六匹目の話の間に挿入されている。職場に門の前にうずくまっていた犬を拾って帰ったその夜に、狂犬病に感染している可能性に思い至り、翌日には衛生局を呼んで引き取らせるという事態になったため、飼い犬の数にも入れてもらえないまま生涯を終えた犬の話だ。
悠子の父は愛犬家を自称してはいるものの計画性と注意深さが無いせいか、あるいは悠子の母が生き物に対してあまりに酷薄だからか、この家の犬たちは、少なくとも悠子の両親が世話をしている限り、非常に短命である。
この一家が犬を飼い続けた期間には、食糧事情が厳しい戦争時代もあったし、今のように八種混合ワクチンでジステンバーが予防できることもなければ狂犬病の予防接種もない時代であったのは理解しているが、それでも悠子の両親の態度に問題を感じるのは、熱気で草原に火がつくほどの暑い日に水をやり忘れて二歳のボーダーコリーを死なせてしまったり、親犬は現役の闘犬だと知りながら犬屋の勧めに従い秋田犬の仔犬を買ってきて、噛み癖を強制できなかったからと、たった11か月の仔犬を獣医に処分させたりするからだ。
この家の犬は頻繁に脱走を図るが、そこに犬の本心があるように思えてならず、苦痛を覚えながら読み進めていたのだが、『(離婚して忙しくなった悠子に八つ当たりされている)老境に差し掛かっている女や思春期の女の子たちの心を和らげるためには’’犬’’という生き物はきわめて効果的だ』・・・ここを読んで、続きを読むのを止めてしまった。
犬は確かに家族の心を和ませてはくれるが、老女と子供の心のお守としての効果を狙って飼うものではないと思うのだ。

すっかり気分を害しつつも性懲りもなく犬の表紙に惹かれて読んだ「のら犬、学校をかえる」(遠藤岳哉)には救われた。
題名がすべてを語っており、それ以上でもそれ以下でもない作品だが、小学四年生のあるクラスを中心に学校中が、学校に居ついた犬と関わるなかで命の大切さを身に沁みて学んでいく実体験が、当時の担任によって書かれているので、読後感が爽やかだったのだ。

これで、気をよくしていたのだが、今日風変わりなニュースを見て、「十三匹の犬」を思い出してしまった。
<愛らしさも世界一? 「醜い犬コンテスト」今年も開催 米国>  2016年06月25日 15:09 AFPより一部引用
【6月25日 AFP】米カリフォルニア(California)州ペタルーマ(Petaluma)で24日、恒例の「世界一醜い犬コンテスト(World's Ugliest Dog Competition)」が行われた。
http://www.afpbb.com/articles/-/3091754

これは、文字で書くより実物を見せた方が説得力があるとプロの記者も判断したのだろうか、記事本文はなく、「醜い犬コンテスト」で見事に賞をとった「醜い犬」と「醜い犬を愛おしそうに抱く飼い主」の写真で誌面がうめられている。

愛犬と家族、いろいろな関わり方があるのだと思いながら、「十三匹の犬」を読み返すと、犬に対して両親がとった対応に心が冷え切った悠子は家を出る決意までしたことに気付いたし、悠子が飼った犬も相変わらず脱走癖はあるものの、両親が飼っていた犬たちよりは長生きしていることにも気が付いた。
何より、悠子の子が『お母さんは猫派なんだ。』『ほら猫って犬に比べると、性格がさっぱりしてるじゃん。食べる物と寝る所があれば、生きていけるって感じ。その点、犬は絶えず飼主を意識しているでしょ』 と冷静に犬と猫を比較しながら親の態度を判断しているのも、何はともあれ犬と猫とずっと生活を共にするという環境を続けてきたからだと感じられた。

そして、ついに辿り着いた最終章・十三匹目の犬「シバ」
『私(悠子)とシバの間には、特殊な紐帯が生じた』 とある ―「とある」としか表現できないところに、私の悠子一家への根深い不信感があるが、悠子は語る。
『リードを介して私とシバは互いに結ばれ、毎日、家の近所を練り歩いた。両者がともに分け合う新しい時間が生まれ、毎日そのひとときを楽しんだ。シバは年齢不詳だが、おそらく六十代の自分と同じぐらいだろう、と私は信じている。そしてお互いに「さようなら」を言うまで、この老屋と裏庭で一緒に暮らすに違いない、とも。
「シバ」柴犬。現在の年齢推定十三歳』

13匹目の「シバ」よ 長生きしておくれ

悠子一家の犬との関わり方について厳しいことも書いたが、これは作者自身の体験に基づく作品だろうと考える時、やはり作者は犬が好きなのだと感じるのは、前足の上に顎をのせ、上目づかいに人を見上げる犬の表情や、異なる言語を聞き分け瞬時に意図するところを理解する能力を犬がもっていることを、この作者が知っているからだ。
なにより十三匹の犬それぞれの目線で人間界を描いているところは、やはり読ませるのもがある。

ただ、ワンコが天使になって間もない私が読むには、あまりに酷く辛すぎた。

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速報 離脱決定 幸か不幸か補えない穴はない! 

2016-06-24 13:55:10 | ニュース
今朝がた突然の腹痛と吐き気で眼が覚めた。
なにやら胃腸にくる風邪が流行っているというので、それなのかもしれないが、痛みで脂汗がでて胸まで苦しくなるというのは経験がないので、今日は一日休養するしかない。

固形であれ水分であれ何かを口にするとシクシク痛むが、それ以外は大丈夫そうだとなると、最近何かで読んだ「余人を以て代え難いなんて仕事はないからな」というセリフが浮かんできて、気分が悪い。
この言葉は、我が身に鑑みて浮かんだ言葉だが、これは国家にも当てはまらぬかと思わせるようなニュースで、市場が荒れている。

<東京株暴落、1300円超安=円急騰、一時99円台―英EU離脱優勢観測で> 時事通信 6月24日(金)12時37分配信より引用
24日の東京株式市場では、英国の国民投票で欧州連合(EU)からの離脱が優勢との観測が高まったため、投資家のリスク回避姿勢が急速に強まり、日経平均株価は下げ幅が一時1300円を超えて暴落した。午後0時47分現在は1万4890円56銭と前日比1347円79銭安。約4カ月ぶりに1万5000円を割り込んだ。


仕事柄イギリスに行く家人は、古き良き景観を守り伝えるイギリスの町並みと誇り高いイギリス人気質をたいそう気に入っているが、私は高2の世界史で習った「イギリスの三枚舌外交」が現在にどれほど悪い影響を残しているかを知るにつれ、彼の国を信用する気がイマイチしない。ドイツほどに鉱工業生産力があるわけではなく、フランスほどに農業生産力があるわけではないイギリスにとって金融界こそ面目躍如の舞台といったところだったのだろう。そして、だからこその、この市場の混乱であると思うが、鉱工業製品であれ第一次産業製品であれモノをつくる国・世界が果たす役割とは異なり、金融に傾斜する国・世界が「余人を以て代え難い」と云えるかと考えると、一時の混乱は兎も角、そうではない、と思ってしまうのだ。

それを重々承知しているための、彼の国の歴史的三枚舌外交なのではないかとも思うのだ。

と、まぁ、半病人が寝言を並べるのはこれくらいにして、事態を大仰に考え過ぎるために更に事態を悪化させるということだけはないよう、願っている。

追記
何かで読んだ「余人を以て代えがたいなんて仕事はねえからな」というセリフは、「ミッション建国」(楡周平)にあった。
産休制度が整備されたとしても、実際には「余人を以て代えがたい仕事なんてねえから」産休明けにはポジションは無くなっているという件であった。

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