何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

英国の愛のバラ

2015-02-28 14:13:17 | ニュース
あのダイアナ元皇太子妃の長男ウィリアム王子が初来日中である。

「そのニュースを聞いた時の状況が鮮明に思い出せるようなニュースは、間違いなく大ニュース」 と言うらしい。

あの日、誰が見るともなくNHKのお昼の「のど自慢」がついていたが、そこに「ダイアナ元皇太子妃パリで自動車事故」の速報が流れ、続いて「死去」のニュースが流れた時の衝撃は今でもハッキリと覚えている。

朝しっかり水やりをしたはずのペチュニアが、暑さのせいで萎れているのを見ている時に、家人が「ダイアナさんが事故に遭われた」と大声を出したのだ。イギリス王室に確たる思いはなかったが、あの、人を惹きつけて止まない美しさには、確かな力を感じていた。

夏の終わりというのは、ホッとするとともに、何処かうら寂しさもあるものだが、夏の終わりの「ダイアナ元皇太子妃逝去のニュース」 は、一つの時代というべきか灯りというべきか、何か一つの終焉を、私に感じさせたのだ。

しかし、ある意味ここから始まったものもある。

当時も今もクリスチャンではないので聖句というものに触れる機会は限られているが、ダイアナ元皇太子妃の葬儀が、私が初めて聖句を知った日ではないかと思う。

ブレア首相が追悼で捧げた聖句は心に響いた。

コリント人への手紙より 「愛について」

「たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
 また、山を移すほどの強い信仰心があっても、
 もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

 たといまた、わたしが全財産を人に施しても、
 また、自分の体を焼かれるために渡しても、
 もし愛がなければ、一切は無益である。

 愛は寛容であり、愛は情け深い。
 また、妬むことをしない。
 愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない。
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

 いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
 このうちで最も大いなるものは、愛である。 」


「しない善より、する偽善」とまで言われる昨今にあって、その偽善的(善?)すら容易ではないのに、「そこに愛がなければ、すべては無に等しい」と言い切る厳しさ。その厳しさに恐れ戦きながらも、ダイアナ元皇太子妃の葬儀で「愛の章」を知って以来、「そこに愛があるのか」 は、私の物差しの一つだ。

ダイアナ元皇太子妃の人となりは、よく知らないが、ブレア首相が 「本来この聖句は、葬儀で引用されることは少ないが、ダイアナ元皇太子妃の活動には、この聖句が相応しい」といった趣旨の発言をしていた記憶がある。
つまり、いろいろ苦難と喧騒の多い人生を歩まれたとしても、多くの活動の根っこに「愛」があったのだと思う。
そして、葬儀を通じて、この素晴らしい「愛の章」が世界中に届けられたのだから、彼女はまさしく、英国のバラ「愛」の人だったのだと思う。

その御子息ウィリアム王子が来日中である。

母君の伏し目がちな憂いを含んだ目とは異なり、大らかで明るい眼差しのウィリアム王子が、皇太子ご夫妻と懇談された。
「エリザベス女王陛下やウィリアム王子の御活動についてお話が弾んだ」と発表されているが、生前のダイアナ元皇太子妃を直接知る人が少なくなった今となっては、お三方で偲ばれたに違いない。
ダイアナ元皇太子妃は生前 「プリンセスマサコに近いうちに、また会いたい」と語られていたという。
雅子妃殿下も、母を亡くした王子さま方へ心のこもったメッセージを贈られていた。

世代を繋いで心の交流がなされるのが、親善外交の素晴らしいところ。

そこに愛はあるのだ。



ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ  花言葉は「愛」






写真
出典ウィキペディア「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」(HT)
     

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空の上にある希望

2015-02-27 20:57:30 | ひとりごと
「走ってみようか 闘ってみようか」を挟んだために流れが分断されたのをいいことに、この話題から離れようかと思ったが、アンネの日記の一部は書いておきたかったので、考えている事の半分だけを書くことにする。


アンネとハンナは15歳と22歳で亡くなり、トミー少年は生き延びたとはいえ収容所で父も弟も妹も失った。

ハンナが死の直前に、「思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。」という言葉を残したように、
命を懸けても勝ち取らなければならないものもあるだろうし、命をかけて守らなければならないものも、あるだろう。

しかし、この言葉が弱冠22歳のハンナの言葉であることが痛ましい。
どの国にも民族にも誇りと名誉があり、命をかけて戦わねばならない時があるとは思う。戦いに犠牲は付き物だとしても、本来子供には可能性と未来が潤沢にある分、痛ましさは大きい。

ただ一方で、やはり子供は生きる力にも溢れている。
「幸せな子」の訳者・池田礼子氏と渋谷節子氏は後書きで、こう記している。
「私達は子供時代に不幸な経験をした人は大人になってもその悲惨さを感じさせるものだと、なぜか信じ込んでいたのかもしれない。だから、暗い過去を背負った、しかも子供時代に悲惨な経験をした人が暗さも感じさせず、明るく穏やかに生きているということに、多少戸惑い、そして大きな感銘を受けた」
この明るく穏やかな人柄は子供の頃から変わることがなかったのだろう。収容所にいたトミー少年を「小さくて勇敢な天使」と呼ぶ大人もいた。
子供の生き延びようとする力は、その子供自身の力となるだけでなく、周囲の大人の希望にもなるのだ。


アンネは収容所で15歳で亡くなるが、アンネの日記には希望を感じさせる思索が記されている。
いくつか訳が出ているが、好きな訳から部分抜粋

1944年2月23日より
「今朝、私は窓の前に座り、じっくりと外を眺めて神と自然を見つめながら、
 私は幸せでした。ただただ幸せでした。
 自分自身の中にそのような幸福、自然や健康の喜びを感じている限り、人はいつも幸せを取り戻すことができるでしょう。
 富も名声も、何もかも失われることがあります。けれども自分自身の心の中にある幸福は、覆い隠されることはあったとしても、
 いつもそこにあるでしょう。生きている限り、再び幸せを得るでしょう。
 孤独な時、悲しいと感じているなら、天気のいい日に屋根裏部屋に登って、外を眺めて見てください。
 あなたが恐れずに空を見ることさえ出来れば、自分の心の中が純粋に感じられ、そしてもう一度幸福を見出すでしょう。」

咳をすることすら憚られる隠れ家で、屋根裏部屋の小窓から見る空に、精神の自由を見出す少女の素晴らしさ。

戦禍に散ったアンネとハンナ、過去を断絶せず生きる力に変えたトーマス・バーゲンソールの物語を読み返すと、子供の未来を変える選択をする大人の責任を厳しく見つめなければならないと思うのだが・・・・・。



冒頭「考えている事の半分だけ書く」と書いたのは、これから書く部分。

皇太子様の誕生日の会見での 「戦後70年の節目の年、戦争と平和について」との質問へのお答えが、それなりに世間で話題となっている。
皇太子様は歴史学の専門家なので「歴史を謙虚にみつめて、正しく伝えることは重要」と答えられるのは当然だ。
新年早々の特別提言として「戦争の悲惨より、戦時の英知を伝えよ」と喝破した女史もいるので、皇太子様が会見で述べられた「平和を愛する心を育むことは大切」「平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする」は世論の最大公約数ではないかもしれないが、普遍的な価値観を有する公約数の一つであることには違いない。
しかし、この皇太子様の御言葉を都合よく利用し自説の補完に使う者がいるのと、皇太子様の御言葉が自説にとって都合が悪いと不快感を示す者がいるのを見ていると、どちらも違うのではないかと思う。
昨今の風潮をみていると、表現の一部を切り取り、都合よく利用したり反発したりと、あまりに短絡的ではないだろうか。

同じ穴の貉になってはいけない。
皇太子様は雅子妃殿下の妹さんが訳された「幸せな子」も御存知であろうから、同じ本を読んだ人間として、そのお考えに想いを巡らせ(ここに)記したい気もしたが、皇太子様のお考えを自分の考えに引きつけて解釈してはならないのだと思い、記すことを止めにした。

「走ってみようか」の末尾にも書いたが、
皇太子様は今も、これからも、天命と忠恕の意味と、それを生かす道を考え続けられることだと思う。

それをありのままに受け留めていきたいと思っている。

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走ってみようか 闘ってみようか

2015-02-26 12:26:15 | ひとりごと
昨日「つづく」と書いたが、シンクロニシティをかってに感じるニュースがあったので、そのあたりを。


気が付くと、周りの若い者が、走っている。

マラソン大会というのは今どこも盛況で、抽選が当たることすら難しいらしいが、そもそも何故に大変な思いをするマラソンに、お金を払ってまで参加するのか分からなかった。

とはいえ、「2012年ノーベル生理学・医学賞受賞の山中伸弥氏が、研究資金を募るためにマラソンに参加」というニュースを見たり、 周りの若い者が参加するマラソン大会は、大会参加費が難病の子供の治療費に寄付されるものだと聞いて、
揺れている。

こんな私に、若い者が手渡したのが 「マラソン一年生」「マラソン二年生」(たかぎなおこ)

うろ覚えだが、「30分歩く体力がなければ、その距離を走れるはずかない」 「スピードより距離が重要」 という趣旨のアドバイスが気に入り、
ただ今、走るということを、考えてみようかどうか迷いながら、日常生活に速歩を取り入れて50日目、というところ。

そんなわけで、初めてランニングポリスが導入された「東京マラソン」も興味をもって見ていたが、昨日は「皇太子様が8年ぶりに皇居ランをされた」とニュースが伝えていたので、マラソンについて検索していると、メキシコ五輪の銀メダルリストの君原選手の言葉を見つけた。
「 生きることは、マラソンと同じ 」

さらに検索していると、あの芥川龍之介まで人生を語るのにマラソンを引き合いに出している。

侏儒の言葉より、気に入った箇所を抜粋

「我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?
 しかも胎内を離れるが早いか、
 兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。
 勿論 游泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。
 同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。
 すると我我も創痍(そうい)を負わずに人生の競技場を出られるはずはない。

 見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに
 渋面を隠しているではないか?

 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。
 我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。 」



皇太子様は誕生日の会見で度々、象徴やあるべき姿勢について、「考え続けることが大切」といった趣旨の御発言をされている。
どちらかといえば「 成り行きを決然と生きる」 に惹かれる自分には、この「考え続ける」という意味が難しく感じられたが、芥川の
「我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」を念頭に「考え続ける」を読めば、どちらの言葉の意味も深さを増してくる。

皇太子様が語られた人生観で記憶に残っているものはというと、「天命を知る」と「夫子の道は忠恕のみ」がある。

ここで皇太子様は、天命・使命を「単に知るだけではなく、この世のために生かす、つまり、人のために尽くすという意味を含んでいる」と述べられている。
「『忠恕』とは、自分自身の誠実さとそこから来る他人への思いやりのことであり、この精神は一人一人はもとより、日本国にとっても「忠恕」の生き方が非常に大切なのではないか」というお言葉を引用されつつ、「『忠恕』と「天命を知る」という教えに基づいて、他人への思いやりの心を持ちながら、世の中のため、あるいは人のために私としてできることをやっていきたい」と語られている。

皇太子様は今も、これからも、天命と忠恕の意味と、それを生かす道を考え続けられることだと思う。



天命を悟るどころか、道もなかなか開けてこない自らを省みつつ、
走ってみようか。

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将来に力と意味を与える過去

2015-02-25 20:47:26 | 
昨日、自爆テロをめぐる損害賠償の裁判のニュースを知り、「この評決が、暴力の応酬ではなく、法の支配の下で問題解決する契機とならないか」と書いた。
それには理由がある。「アウシュビッツを一人で生き抜いた少年」という副題がつく「幸せな子」(トーマス・バーゲンソール)を読んでいたからだ。

1934年チェコスロバキアで生まれたユダヤ人トーマス・バーゲンソール氏(以後トミー少年)は、1939年ドイツがチェコスロバキアへ侵攻したのを見て、家族とポーランドへ逃げる。しかし、すぐポーランドも侵攻されたため再度イギリスへ逃げようとする途中に爆撃にあい、渡英はかなわずポーランドのゲットーへ送られる、この時トミー少年は5歳。
その後、いくつかのゲットーと労働収容所をへて、1944年8月 トミー少年一家はアウシュビッツへと移送される、この時トミー少年10歳。
1995年1月アウシュビッツが撤去され、死の行進が始まった。厳寒のなか寒さを凌げる衣服でもなく食べるものも乏しく、通りの人から石つぶてを投げつけられながら辿り着いた強制収容所の生活も厳しかった。
いや「厳しい」という言葉では足りない。
死の行進でも(労働)強制収容所でも、子供は役に立たないという理由で皆殺しにされていたので、トミー少年は生き延びたとはいえ、常に死と隣り合わせの日々だったのだ。

5歳で祖国を追われ、強制収容所で父も弟も妹も殺され、アウシュビッツをたった一人で生き延びたトミー少年は、どんなに過酷な状況でも持ち前の明るさと、希望を捨てない強さで、絶望に打ちひしがれる周囲の人間を元気づけるが、そんなトミー少年でも度々「僕も、一日か二日後には、殺され投げ捨てられるだろう」と絶望する日もあった。
体も心もギリギリの状態に追い詰められた頃、ソ連軍により解放され、その後ポーランド軍に手厚く保護されたトミー少年は、奇跡的に母親と再開することができ、17歳でアメリカへ渡ることを決意する。

船の上から初めてアメリカを見たトミー青年は、突然それまでの人生が目の前に蘇り、
「アウシュビッツや死の行進や強制収容所という過去から完全に解放されることはなく、それらの過去が永遠に自分の人生を形作るだろう」と悟る。
そして、その上で、
「新しい人生が、過去のために台無しにされたり、壊されたりすることは許さない」
「過去は将来に力を与え、そして意味を与えてくれるはず」
と希望に燃えてアメリカの大地に下りたつのだ。

過去を断絶するのではなく希望に変えたトーマス・バーゲンソール氏は、「国際法が戦争や虐殺を防ぐことが出来る」と信じて国際法の道を極め、 その信念は後に国際司法裁判所の判事となった後も変わることなく、パレスチナとイスラエルの係争についても、国際法の規定に従うべきだと表明しているのだ。

『力』 によって父と弟と妹を殺されたにも拘わらず、
「『法』 によって世界に平和を構築したい」 「人間の叡智を信じたい」という著者トーマス・バーゲンソール氏の痛切な願いを感じて以来、暴力の応酬ではなく、法(叡智)で解決できないかと思い続けてきたので、冒頭の「この評決が、暴力の応酬ではなく、法の支配の下で問題解決する契機とならないのか」 に繋がったのだ。

人間の生きる力と叡智を教えてくれた「幸せな子」を日本語に訳したのが、
雅子妃殿下のお二人の妹、池田礼子氏と渋谷節子氏である。

つづく

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和睦の時

2015-02-24 19:23:17 | ニュース
今朝、ニュースサイトのトップに出ていた、ニュース。

【ニューヨーク時事】ニューヨークの米連邦地裁の陪審は23日、イスラエルのエルサレム地域で2002~04年に起きた自爆テロや銃撃をめぐり、被害者の遺族がパレスチナ当局に求めていた損害賠償請求を認め、パレスチナ解放機構(PLO)とパレスチナ自治政府に計約2億1800万ドル(約260億円)を支払うよう命じる評決を下した。AFP通信が伝えた。
この訴訟は米国の11家族が原告となり、自爆を含む6件の襲撃が対象とされた。襲撃では計33人が死亡、450人以上が負傷した。(2015/02/24-08:43)

この評決が、暴力の応酬ではなく、法の支配の下で問題解決する契機とならないのか。
それとも巨額な賠償に怒りを募らせ、判決を下した法体制へも暴力の矛先を向けることになってしまうのか。

中東外交についても、その根っこにある宗教問題についても詳しくないので、それを書くのは控えるが、素人だからこそ素朴に素直に、暴力の応酬と負の連鎖を止めることができないかと願っている。
私がこれを考える拠り所は、やはり数冊の本「アンネの日記」 「ハンナの日記 (絶版であるため資料のみ)」 「幸せな子」(トーマス・バーゲンソール)であり、このニュースを見て、アンネの日記にはさんでいた何年も前の読売新聞の切り抜きを引っ張り出した。

よみうり寸評より引用

<生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・・・泣くに時があり笑うに時がある。愛するに時があり憎むに時がある。戦うに時があり和睦するのに時がある>
1993年9月13日、イスラエルのラビン首相(当時)はこう演説した。所は米ワシントンのホワイトハウス。パレスチナ暫定自治基本合意に調印した日の演説である。
<天の下のすべての事には季節があり すべての業には時がある>という聖書の一節を引き「 和睦の時がきた 」と信じた演説だった。あの時が中東和平の実現に最も近づいた時だったように思えた。
が、二年後、ラビン氏は自分の国の青年の銃弾に倒れ、その後は御存知のとおり和平とはおよそ遠い展開だった。
以下続く・・・・・

この読売新聞の切り抜きを「アンネの日記」に挟みたくなったのは、憎しみが暴力を産み負の連鎖が広がっていくとき、犠牲になるのは子供だと思ったからだ。

ユダヤ系ドイツ人のアンネの家族は、ユダヤ人狩りを避けるために、まずドイツを離れオランダに亡命し、オランダが占領された後には、2年にわたってアムステルダムの隠れ家に潜むが、1944年8月4日隠れ家を発見され、1945年3月頃アンネは強制収容所で病死する、時にアンネは15歳だった。
アンネとともに隠れ家で生活した8人のうち7人までもが強制収容所で亡くなるが、全体では800万人とも1000万人ともいわれる人が収容所に送られたといわれている。

アンネの家族は、隠れることで命を守ろうとするが、戦うことで名誉を守ろうとした女性もいる。

その人の名は、ハンナ・セレシュ。
1921年ハンガリーのブタペストで生まれたハンナは、16歳で民族の血に目覚める。
裕福な家庭に育ち非常に学業優秀だったが、ユダヤ人であることを理由に、学校のクラブ活動の委員になることを拒否されたのだ。上流生活をしていたハンナが、これを契機に世間を見ると、日増しに偏見と迫害が酷くなっているのに気付く。そして、1939年9月、ドイツ軍がポーランドに 侵攻し、第2次世界大戦が勃発した後に、18歳のハンナは単身パレスチナに向う。
当時の日記より、
「わたしは生涯の大望、―使命とさえ言える―に導かれて、この土地までやって来たのだ。使命を果たしているという実感がほしいから、ここまで来たのだ。無為な生活を送るために来たのではない。ここでの生活は、その一瞬一瞬が使命を遂行していることに等しい。」

パレスチナでは農業学校で学びながら、祖国を作る準備をしていたが、戦況が激しくなり、現実的な働きを望むようになったハンナは、1944年バルカン諸国やハンガリーに残っているユダヤ人約125万人を大虐殺から救出するため、パラシュート降下を利用するという特務に、女性としてただ一人参加する。
この頃にハンナが作った詩、「マッチのように」は有名だ。

燃やされて炎となったマッチは なんと幸いでしょう
心の核心で燃えあがった炎は なんと幸いでしょう
そして 栄光の中で 
殉教することを知っている心は なんと幸いでしょう
燃やされて炎となったマッチは なんと幸いでしょう
                 
パラシュート下降は成功したが、ハンガリーはドイツに占領され同胞の救出は困難な状況となっていた。
しかしハンナは、ただ一人国境を越えて行く。
そして、すぐさま捉えられ、激しい拷問のすえ銃殺される。
22歳のハンナが、処刑される直前に残した言葉。

「思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。
 我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。」


アンネもハンナもともに13歳で日記を書きはじめ、15歳と22歳で生涯を閉じる。

つづく

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