何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

憧れ、常に念じる山

2016-07-28 00:03:05 | 自然
まさか、「幸せはまた巡る 神降地」を書いてたった二日で、計画が没になるとは思いもしなかった。

「氷壁」(井上靖)で穂高に憧れたときは、まだ私のなかで、山は異次元の世界だった。
3000メートル級の山では、ナイロンザイルは切れ、いずれはデュブラ「モシカアル日」を吟じなければならない場所に思えたからだ。
しかし、年に一度は魂の洗濯に訪れる上高地が、あまりにも賑やかになったため、少しだけ奥へ少しだけ高い所へと歩いているうちに、岳沢や涸沢へ辿り着き、前穂以外のてっぺんには、とりあえず立っている。ここで、とりあえずとしか書けないのは、「氷壁」を読み、あれほど一目見たいと願った滝谷を見損なっているからだ。初3000メートルが北穂の私は、とにかく登頂できたことに興奮すると同時に、下山できるのだろうかという不安に苛まれながら・・・山小屋とは思えないほど充実している北穂小屋のランチメニューに目移りしているうちに、滝谷を見下ろすことを忘れてしまったのだ。

滝谷を見る為にあの山に再度挑戦したいという想いは今も強く持っているが、それと同じくらい憧れ続けている山に、常念岳がある。
梓川右岸から望む常念岳


「日本百名山」(深田久弥)で有名な、常念岳。
皇太子様が登られ素晴らしい写真を撮っておられることで有名な、常念岳。
槍や穂高や蝶が岳から、いつも憧憬の念をこめて金字塔を拝んできた、常念岳。
何年、憧れ続けてきたことか。
蝶が岳から望む常念岳

そして今年、満を持して登る予定だった、常念岳。
7月31日一の沢から入り、翌日てっぺんに立つ予定だった、常念岳。

家人が「腰が痛い」と訴えたのが六日前、それが昨日になって腰付近に水泡ができはじめた、帯状疱疹だった。
昨年末、歯性感染症を患い抵抗力が低下していたことも、遠因として、あるのだろうとのことだった。

すべての計画が、水泡の如く消え去ってしまった。

この15年、この山域の本を読みつくしていたため、残るは推理小説とばかりに、最近「一ノ俣殺人渓谷」「吉野山・常念岳殺人回廊」「蝶ヶ岳殺人事件」(梓林太郎)を読んでいたのがイケなかったのだろうか、それとも例の本がやはり縁起が悪かったのだろうか?
このまま登っていれば、「〇〇殺人事件」という帳場が立つ事態に遭遇したのだろうか、それとも「モシカアル日」になりかねないところを、ワンコが警告して救ってくれたのだろうか(歯性感染症は、ワンコと関わりがあるゆえに)

これほど憧れ、登りたいと常に念じてきたにもかかわらず、どうしても頂に立てない、常念岳。
槍ヶ岳から望む常念岳



せめてWikipediaから頂戴した写真を眺めて心を鎮めたいと思っている、しかし、それは逆効果かもしれないと気付いてもいる。
写真出展 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%BF%B5%E5%B2%B3

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人は、神の手を持ちえない

2016-07-27 00:13:13 | ニュース
とんでもない事件がおこった。

<相模原の障害者施設、刺され19人死亡 26歳の元職員逮捕「障害者なんていなくなってしまえ」供述>
2016.7/26 06:24産経新聞より一部引用
26日午前2時45分ごろ、相模原市緑区千木良の障害者施設「津久井やまゆり園」に「刃物を持った男が侵入してきた」と110番通報があった。神奈川県警や相模原市消防局によると、男に刺されるなどして19人が死亡、26人が負傷した。うち13人が重傷とみられる。県警は殺人未遂と建造物侵入の疑いで、現場近くに住む元職員(26)を逮捕した。
県警によると、容疑者は午前3時ごろ、津久井署に「私がやりました」と車で出頭した。所持していたカバンから複数の包丁やナイフが見つかり、血痕が付いたものもあった。「ナイフで刺したことは間違いない」などと認め、「障害者なんていなくなってしまえ」という趣旨の供述もしているという。

朝起きぬけに、このニュースを知った時は、被害の大きさにまず驚いた。
19人が殺害されるという事件は記憶になく、それだけでも衝撃的だったが、この容疑者が「重度の障害者は生きていても仕方がない。安楽死させる方がいい」という意見書を衆議院議長公邸へ届けたこともあると知り、身震いが起った。
と書きながら、このニュースで久坂部羊氏の作品を思い出したと言うと、お叱りを受けるだろうか。

現役の医師でもある久坂部氏の作品は一貫して、国家の視点にたった医療行政を中心に据えている。
増え続ける医療費がいかに財政を圧迫しているかや、治る見込みのない病気に医療費と労力を投入することの非効率性が、ドキュメント仕立てで書かれる作品が多く、一見血も涙もないようだが、そこは流石に現役の医師にしか書けないであろう現実が生々しく書かれており、読み終わると深く考えさせられるので、新刊がでるといつも、いそいそと図書館に予約して読んでいる。

そんな久坂部氏の作品のなかでも、今回のニュースで思い出したものが二冊ある。
「廃用身」 「神の手」(久坂部羊)

「廃用身」という医学用語が実際にあるのかどうか分からないが、本書では回復の見込みがない麻痺した手足をさしている。
回復の見込みがないにもかかわらず、目方だけは食う「廃用身(手足)」さえなければ、介護は楽になるし、麻痺した手足にまわっていた血液が脳へ回れば、記憶力や情緒の安定にも役立つのではないかという医師の試みで始まった、廃用身の切断。
当初は劇的な効果があり次々と切断を希望する患者が現れる・・・が、そうは問屋が卸さなかったことは、この行為が出版から10年以上たった現在も採用されていないことからも、分かる。

確かに、本書が10年以上前に指摘していた、介護問題で疲弊する家族とそこに生じる憎悪や、高齢者や障害を抱えた人の認知力や情緒面の問題が、現在大きな社会問題となっていることを考えると、廃用身の切断の是非は一考の価値はあるのかもしれないが、それでも廃用身の切断に違和感があるのは、その思想の根底に「役に立たないものは、消えろ」という本音が垣間見えるからもしれない。
それは、廃用身の切断がマスコミにスキャンダラスに取り上げられ精神的に参った医師が、「頭は、私の廃葉身」という遺書を残して、頭が切断されるように線路に横たわり自殺してしまう部分にも表れているように感じられるのだ。

この「役にたたないものは、捨てろ」というメッセージは、「神の手」にも垣間見られる。
「神の手」の主人公の医師は、手の施しようなく苦しみもがく末期患者の安楽死は認めるべきだという信念のもと安楽死を実施する。その信念は、一端は安楽死を求めながらも一転して態度を変えた患者家族に(殺人罪で)告発されても、揺らぐことはないが、安楽死を施す行為については深く悩む。その医師の懊悩や、告発を受けて騒ぎ出す安楽死賛成派と反対派の攻防は、改めて安楽死や尊厳死が提示する「命」の問題の重みを教えてくれるのだが、それでも、そこに「役にたたないものは、捨てろ」というメッセージを感じ取ってしまうのは、作中にある『人の命を奪う安楽死は、聖なる神の営為です。すなわち、安楽死を執り行う医師は、"神の手"を預託された存在なのです!』という文言に、どうしようもない傲慢さを感じてしまうからだ。

現役の医師でもある作者の久坂部氏は、時代を先取りした問題をグロテスクに加工することにより、問題の元凶を鋭く提示しただけで、実際のところは老人医療にもかかわる良心的な医師なのだと思う、多分。
しかし、久坂部氏のように、高度な知性や教養に裏打ちされた考えでもって、人の命にかかわる(殺生与奪を握る)人ばかりではない。

知識や感情面の準備がたりないままに、グロテスクな現場に立ち、命の殺生与奪権を与えられたと勘違いしてしまう者もいるのだと思う。
そして、それが今回の悲劇につながっているような気がしてならない。

医療は進んだが、若く健康な時間が長くなったわけではない。
医療の進歩は、患者と家族の苦しみの時間を増加させ、国家の医療費を圧迫し、先の見えない介護地獄をも生み出している。
そこに待ち受けている現実は、実は久坂部氏が敢えて書くグロテスクな様より、さらにグロテスクなのかもしれない。

この度の容疑者の所業には一片の弁解の余地もないが、社会が抱える問題のグロテスクさは増すばかりなのだから、第二の悲劇を生まないためにも、官民あげての対策が急がれるのだと思う。

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幸せはまた巡る 神降地

2016-07-26 00:01:25 | 
今年が「山の日」制定記念の年だからというわけではないが、この夏は二度山に登る予定で、しかも、そのうちの一つは最初で最後の機会かもしれないと思える山なので、縁起の良い山の本を読みたいと思っていた。
「生還者」(下村敦史) (『 』は引用部分)

本書はミステリーなので、その内容を詳細に書くことは控えたいが、大筋だけは記しておきたい。
4年前に登山をやめたはずの兄が、ヒマラヤ山脈東部・世界第3位の標高を誇るカンチェンジュンガで発生した大規模な雪崩雪崩に巻き込まれ、命を落とした。兄を含む日本人登山者7名が巻き込まれる惨事となったが、同じく山をやる弟・増田直志は兄の遺品のザイルが切断されていたことに気付き、遭難死を疑いはじめる。弟・直志が、兄は殺されたのではないかと独自に調査を始めた頃、奇跡的に生還を果たした男が現れ、兄たちの登山隊は猛吹雪のなか自分を見捨てたと告発するのだが、その後さらに奇跡的に救助された(兄の)登山隊の男は、先の男とは真逆の証言をしたためマスコミは騒然とする。
どちらの生還者が真実を語っているのか、嘘をついているのか、兄の死の謎を追う弟が見つけた答えとは!・・・・・というのが大筋だと思う。

表紙の雪に覆われた山が美しいことと、題名に惹かれて図書館で借りた「生還者」は、遭難死あり陰謀ありという内容で、当初の目的である「縁起の良い本」に当たるかは甚だ疑問だし、ミステリーの種明かしはできないので、ここでは、これから山に登るからこそ注意せねばならない点を書いておく。

主人公・直志は、世界第三位の高峰で起った遭難をめぐり、兄は殺されたのではないかという疑いと、その兄たちの登山隊が山男にあるまじき行為をしたと言い募る男の謎を探っているうちに、兄が4年前に遭遇した白馬岳での遭難事故にぶち当たる。
それは、経験者のみで構成された白馬冬季ツアーが猛吹雪のため身動きが取れなくなり、救助要請をするため男性陣が下山している間に、残された女性陣が全員死亡するというものだった。
この時、救助要請が遅れたことが命取りとなるのだが、その理由は、自分達の経験を過信したということもあったが、それ以上に遭難に対する世論の厳しさを恐れたからであった。
『救助隊に頼ってみろ。ニュースになって、世間から批判されるぞ。無駄な税金を遣われた道楽者扱いされる』『自業自得だ、自業自得だ、なんて叩かれる』と議論しているうちに時間が経ち、状況がますます悪化してしまうのだが、これは今時では珍しい話かもしれない。

山岳救助に関する本によると、あまりにも安易に救助要請をする人が後を絶たないという。
「民間ヘリでなく県警ヘリで救助しろ、そのために税金を払ってるのだから」と救助要請に条件をつける遭難者もいれば、そもそも遭難とはいえない程度で、例えば疲れや普通程度の筋肉疲労などでも救助要請する人もいるそうだ。そうして救助されたところで礼の一つも言うで無し、逆に捜索関係者が小言の一つでも言おうものならブログなどで悪口を言いふらすといった者までいるという。

本書にも、そのような山岳救助の難しさは記されている。
『ヘリコプターは飛行時間ごとに整備するきまりになっているらしい。25時間ごとに一日、百時間ごとに一週間、六百時間目には二か月ーという具合だった。「指を痛めたから」「民間のヘリに頼んだらお金を撮られるから」などという安易な救助要請が続くと、整備期間が増え、肝心なときに出動できなくなってしまう。』

涸沢あたりを歩いていると、えんじ色のチェックに黄色が映える揃いのシャツで活動して下さる長野県警山岳救助隊の力強い姿に安心感を覚えるが、映画「岳」の訓練場面を思い出すまでもなく、彼らの任務は過酷だ。
『県警は機動隊や地元の警察官で構成され、通常の勤務をこなす傍ら、一年の半分を山で過している。長野県が一部の他県のような''警備隊''ではなく''救助隊''という名称を訓令で定めているのは、遭難者の救助が仕事の大部分を占めるからだろう。何が何でも救いたいという強い意志を感じる。
三千メートル級の山がひしめいている長野県は、登山者が多い分、山岳遭難事故の発生件数も全国最多だ。県警の統計によると、一年で二百人以上の遭難者、四十人近い死者が出ている。その状況にわずか三十人前後の隊員で対応していると聞く。』

せっかく山岳警備隊に救われたとしても、その瞬間から始まる苦しみもあるという。
安易に救助要請したうえ救助関係者に文句を言うような人には縁のない話だろうが、救助要請を躊躇うような遭難者や、奇跡的な生還を果たした人を苦しめるものに、サバイバーズギルドがあるそうだ。
’’生存者の罪悪感’’と呼ばれる症状で、災害や大事故で近親者を亡くして自分だけ生還すると、他者から見て何一つ非がなくても、罪悪感に苦しめられるというもので、阪神大震災やJR福知山線脱線事故、東日本大震災などの生存者に多く見られ、注目されるようになった症状だという。

兄が4年前の白馬遭難を機に山から遠ざかっていた理由が、サバイバーズギルドであるにもかかわらず、まさに同じ理由で世界第3位の標高を誇るカンチェンジュンガに向かう。そして、そこで事故に巻き込まれる、もしくは事故を受け入れるのだが、ここはミステリーとしての肝なので、これ以上書くのは控える。
だが、本書の推理小説としての謎はともかく、なぜ人はこんな思いまでして山に登ろうとするのか、という謎は永遠に残るのかもしれない。
マロリーは「そこに山があるから」と言ったそうだが、本書にはヘミングウェイ「陽はまた昇る」の一節を引用して答える場面がある。
『''人生がどんどん過ぎ去っていくってのに、その人生を本当に生きていないんだと思うと、僕は耐えられないんだ''』

本当に生きていると実感するために山に登る、というほどの激しい登山をする人も、それゆえのサバイバーズギルドに苦しむ人も一般的ではなく、その点からの共感は難しいかもしれないが、災害列島日本に住む私達は、いつ生き残ってしまったことに苦しむことになるかもしれない。そんな時、「生還者」の言葉は支えとなるかもしれない。
『ーあなたはもう幸せになってもいいと思う、生き延びたのはあなたのせいじゃない。』

優しさゆえに苦しむ人に伝えたい、あなたはもう幸せになってもいいと思う
 
頑張る人々に神が降りるよう祈っている



ところで、冒頭に「山の日」制定記念について書いたが、その第一回を祝した記念式典が上高地で行われる。
これまで何度も、皇太子御一家にあの美しい山岳風景を御覧になって頂きたいと書いてきたが、なんと御三方がそろって「第一回山の日制定記念式典」にご出席されることが決定したようだ。
あのwウェストンが世界に紹介した日本アルプスを、神降りる地「上高地」から心ゆくまで堪能して頂きたいと願っている。
「土用の河童の日」 「道は続くよ、どこまでも」 「神降地アルカディアに祈る」 「ゴンズク出して山を仰ぎ見よ」


追記
「生還者」を、「縁起の良い本」に当たるかは甚だ疑問だと書いたが、さまざまな屈折を抱える主人公・直志が兄の遭難の謎を解く過程で、それまでの人生のわだかまりも解いていき、最後には幸せになるので、本書は縁起の良い本だと認定しておく、山登りの日が近いだけに・・・・・。

写真出展 上高地五千尺グループマイフォトプレゼントURL http://www.kinenshashin.net/kamikouchi/

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地上の星を守る

2016-07-24 00:25:55 | ひとりごと
「星守る犬」(原田マハ 原作・村上たかし)の表紙をめくると、「星守る犬」の説明書きがあることは「ずっと一緒に星旅する私達」で書いた通りだ。

星守る犬<星守る犬>とは、『犬が星を物欲しげに見続けている姿から、手に入らないものを求める人のことを表す』 そうだ。
可愛いどんぐり眼で星を見つめていた我がワンコは、きっと金星を手に入れ我家へ帰還したと信じているのだが、この文言から、ある番組とそのテーマソングを思い出した。

「プロジェクトX~挑戦者たち~」 「地上の星」(作詞作曲 中島みゆき)
もうひと踏ん張りすれば大きな成果があがる、とか、努力は実ると素直に信じていたあの頃、「プロジェクトX」は大のお気に入りの番組だった。
欠かさず見ては一頻り感動し、その余韻にひたりながら風呂で「地上の星」を歌い、明日への英気を養っていた頃があった。
だが、努力が必ずしも報われるわけではないと思い知った頃、番組が終わり、自分を鼓舞するために歌うことは少なくなり、ホロ苦さだけが残っていたが、久しぶりに「地上の星」を思い出させる本を読んだ。
「レーザー・メス 神の指先」(中野不二男)
本書は、人類が初めて月に降り立った瞬間から、その技術を医療分野に活かせないかと考えた脳外科医・滝澤利明氏と、滝澤氏に協力して開発に乗り出した町工場の物語である、と書けばピンとくるように勿論「プロジェクトX」でも取り上げられている。

滝澤医師には2歳年下の弟がいたのだが、弟が生まれた昭和13年は全国的にポリオが大流行しており病院は幼い患者で溢れかえっていた。それは滝澤の父が勤務する長岡日赤病院も例外ではなく、おそらく父が持ち帰ったウィルスに弟は感染し、後々まで右足が麻痺するという後遺症が残ってしまったのだ。
ポリオという病気は、病状で弟を苦しめただけでなく、家族に微妙な影を残し続けたのだろう、滝澤が脳外科医を目指したのは「麻痺を治したい」「麻痺の原因である神経細胞を学びたい」「神経の総元締めである脳を治したい」という願いからだった。

滝澤医師と協力してレーザーメスの開発を手掛けたのは、「第二のソニー」を掛け声に頑張る町工場だった。
優秀な技術者たちは給料の遅配にも負けず生活を切り詰め研究に没頭し、素晴らしい技術で業界をリードしていたが、それを利益に換算することには、あまりにも素人だった。技術者のみの集団から生まれた価値判断は商業活動では通用せず、ついには倒産してしまうのだが。
そこに救いの手を差し伸べた製薬会社の社長・持田もまた、一途で剛毅な人だった。
持田は、第二次世界大戦で無二の親友を喪っていた。京大(薬学部)卒業後に肺結核を患い療養所に入らざるをえなくなった持田に対して、東大で学び医師になった親友は軍隊とは相いれない性格だったが軍医となり、北方海域で戦死してしまう。この親友の最後の手紙を受け取った時期と、肺の四分の一を切除した時期が重なったため、親友の最後の手紙の言葉はその後の持田の人生を導くものとなるのだ
『僕は思うのだ。僕達は大いにやらなくてはいけないと』
自らが受けた手術や痛みを分かち合う患者の声が突きつけてくる『医学はそれ単独では成り立ちえない。広範な科学全体の進歩なくしては、望めない』という事実は、持田に医療進歩のためなら利益を度外視してでも研究を進めさせようとするが、その熱意の源にはいつも、亡き親友の言葉があったのだ。

優れた外科医であるために多忙を極める滝澤が、鬼気迫る迫力でレーザー・メスの開発に協力し又それゆえに高度な技術を要求するのに対し、持田製薬の技術者たちは見事に応え、着想・開発から6年の時をへて、ついに日本のかなり前をいっていたアメリカを上回り世界一ともいえるレーザーメスが完成した。
それまで脳外科医の手術を阻んできた大量出血の問題が、レーザーメスでは格段に減少するため、他では手術不能と宣告された患者が次々と滝澤のもとを訪れ完治していくところで、本書は終わり、私のなかでは「地上の星」が高らかに鳴り響いていた。

久々にスカッとした作品を読むことができ元気をもらえた同時に、佃(「下町ロケット ガウディ計画」(池井戸潤))の言葉も思い出し、反省している。

「下町ロケット ガウディ計画」も、心臓手術に必要な弁を町工場が請け負う話だが、そのなかにある町工場の社長・佃の言葉は印象に残っている。
『これは、単なるビジネスじゃない。
 綺麗事かもしれないけれど、人が人生の一部を削ってやる以上、そこに何かの意味がほしい』

レーザーメスや心臓の人工弁をつくる「地上の星」とは比ぶべくもないし、人生の一部を削ってまで打ち込んでいるとまでは言えないが、仕事であれ何であれ、物事に取り組むときは誠実であることは心がけているつもりだ。だが、私の頑張りなど意味を求めようにも高が知れているのは、この年になれば痛いほど分かっているので、頑張る人「地上の星」を人生の一部を削って応援しつづけたいと、思っている。

ところで、「地上の星」には「(地上の星を覚えることなく)人は空ばかり見ている」という歌詞があるように、手に入らないものに焦がれて星を見るのは犬ばかりでないことが分かる。だが、「星守る犬」が一ページ目で解説する『(星守る犬とは)犬が星を物欲しげに見続けている姿から、手に入らないものを求める人のことを表す』という意味だけではないはずだ。
本書には、『「守る」っていうのは、実は「じっと見続けている」っていう意味なんだよ』という言葉がある。
それを「物欲しげ」と受け留めるか、「そこに愛がある」と感じるかは、対象と自分との関係性にもよるかもしれない。

人が空や星を見上げる時、おのずと大切な人の幸せを願う気持ちや、先に逝ったものを懐かしむ気持ちになると思う。

私はワンコと一緒に見つめた犬星やオリオン座を見続けると思うし、その時ワンコが私達を見守り続けてくれていると感じることができると、確信している。

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ずっと一緒に星旅する私達

2016-07-20 12:25:00 | ひとりごと
ワンコが星々の間を散歩するようになって半年、毎月20日、ワンコと私には二人だけの約束があった。
今日もそれを果たすべく準備していたのだが、入念に準備していたにもかかわらず、果たせなかった。

ワンコが星空へ旅に出かけた半年前と同じ、20日(水曜日)なので心して準備していたにもかかわらず上手くできなかった理由を考える時、ワンコの「もう大丈夫だよ」という声や、「相変わらずオッチョコチョイだな」というお叱りの声が聞こえて来ると同時に、「天国への挨拶がすみ、家へ帰っているよ」と知らせるためにワンコがイタズラしたのかもしれないと、自分をなぐさめている。

だって、ワンコ
今日のために本を用意していたんだよ。
「星守る犬」(原田マハ 原作・村上たかし)

6月末に「星守る犬」を手に取ったのだけど、原田マハ氏の後書きを読んだだけで滂沱の涙で先に進めなくなったので、ちょうど半年となる20日にメッセージを届けようと思い、読まずにとっておいたんだよ。
でも、その間に不思議なことがあったね ワンコ

背もたれに背を預けて本を読んでいると、ワンコがニコニコしながら私めがけて一心に駆けてきて、私のお腹に飛びついた・・・ところで目が覚めた。
目を開ければ、目の前にワンコがいるのではないかと思うほどリアルな夢だったけれど、それ以来、私のお腹の上に寝そべり寛ぐ日々を復活させているね ワンコ。 「星の宝物 ワンコ」
だから、「もう例の約束は用済みだよ」と教えてくれたのかな?

「星守る犬」は、もともとは村上たかし氏の経験によって描かれたコミックなんだって ワンコ
そのコミックに運命的に吸い寄せられるように出会い購入した原田氏が、読み終えた後、本を胸に抱きしめて泣いたそうだよ ワンコ
そして、村上氏の素晴らしいコミックを小説化したいと願って誕生したのが、本書「星守る犬」なんだよ ワンコ

原田氏には、犬を家族として暮らした経験があったそうだよ ワンコ
原田氏が高校生のとき、家庭の事情で庭のない家へ引っ越しすることになり、そのとき飼っていた犬をどうするかと家族で話し合っていたところ、それを察知したかのように、犬は忽然といなくなってしまったそうなんだよ ワンコ
本書の「星守る犬」に登場する二匹の犬のうちの一匹は、その犬の名バンから名付けられたそうだよ ワンコ
もう一匹の11年一緒に暮らした犬は、原田氏が作家になって世に出ていくのを見届けると、安心したように逝ってしまったそうだよ。
その犬は、作家デビューまでの原田氏の心の支えであったのだろう、作家になった原田氏は『人間に寄り添う犬という生き物を、物語のなかで生かしてやりたい』と強く思うようになったそうだよ。そして、それは原田氏にとって『愛犬への弔いであり、犬という得難い相棒の存在を、私を含む多くの人間が忘れないように、との祈りでもあった』そうだよ ワンコ

こうして誕生した「星守る犬」は、切ない物語だったよ ワンコ

三章からなる物語の導入は、福祉事務所の職員が偶然見かけた電光掲示板のニュースに衝撃を受ける場面から始まる。
『原生林に放置されていた車の中から、身元不明の男性の白骨体が発見された。その遺体の近くで・・・・・同じく白骨化した犬の死体も発見された。男性の遺体は死後一年以上が経過、犬の死体は死後三か月。』

その犬の名前は、ハッピーといった。
捨てられているところを、女の子に拾われ飼われることになり幸福を噛みしめていたハッピー。
「ずっと一緒だよ」という女の子の言葉を、自分を守ってくれる魔法のように感じていたハッピーは、「ずっと」という言葉が大好きだった。
だが、幾つかの春と夏と秋と冬を過ごし一年を何回か重ねた後、家族皆の「ずっと」は壊れていった。
「犬はペットじゃない、家族の一員だ」というお父さんは、娘に「散歩もエサの世話もするんだぞ」と言い聞かせ飼うことを許したのだが、娘は成長するにつれ、ゲームにおしゃれに関心が移り、挙句の果てには不良娘になってしまい、家に寄り付かなくなってしまう。
介護やパートに忙しいお母さんも、最初こそエサの世話をしたが、結局何もしなくなる。
お父さんだけが、日に2度3度と散歩に連れ出し、ご飯を与え、頭をくしゃくしゃと撫ぜながら色々ハッピーに語りかけるるのだが、そんなお父さんが病気をきっかけに失職した時、お母さんは離婚を切り出す。

家族は崩壊し、お父さんはハッピーを連れて旅に出る。
お父さんとハッピーの二人だけの旅は楽しいことも多かったけれど、悲しい出会いや辛い経験もあった。
その度、ハッピーは考える。
『僕は、知っている。人間は犬の前では正直になるんだ、ってこと。
どんなにつっぱっていても、意地を張っていても、強がりを言っていても。自分と犬だけになってとき、人間は素直になるんだ。
嬉しい時は、頬ずりをする。泣きたい時は、涙をこぼす。
そして、さびしい時、いとしい時には、ぎゅと抱きしめる。 ~略~
僕は、知ってるんだ。人間って、本当は、さびしがり屋で、ちっぽけで、心優しい生き物なんだって』

『人間は知らないだろう。犬だって、本当は泣くってこと。
だけど、僕らの定めなんだ。泣くのは、一生に一度きりって。
一緒に暮らした一番好きな人と別れる時にだけ、僕らは泣くんだ。
涙は、流れない。だから、人間には、きっとわからないだろう。僕らが泣いていることが。
人間には分からないように、涙を流さずに、僕らは泣く。それもまた、僕らの定めなんだ。
涙を流さない。-大好きな人間を、悲しませたくないから』

たくさんの星を感じながらお父さんは長い眠りについてしまったけれど、ハッピーは一人じゃないと信じていた。
一人じゃない、お父さんと一緒にいると信じて、春が過ぎ、蝉が鳴き赤とんぼが飛び、雪が舞い、また春がきた頃、お父さんがハッピーを迎えに来た。
『お父さんに連れられて、僕は最後の散歩に出かけた。
僕たちの行き先は、あの星空。
お父さんと僕は、これから、星々のあいだを巡る旅をするんだ。
いつまでも、どこまでも。
ずっと一緒に。』

最終章
一章で登場した福祉事務所の職員のもとに、電光掲示板で知った遺体と犬を弔う仕事が舞い込むのだけれど、そのニュースでかつての飼い犬を思い出した職員は、ただ業務として弔うだけでなく、あのニュースを見た時から感じていた問いを考えるために二人の足跡を辿る旅に出る。
『すべてを失い、長い旅路の果てに、見知らぬ土地に辿り着いた彼ら。食べる物もなく、衰弱し、やがて死んでしまった人間と犬。
誰に看取られることもなく、ひっそりと、、朽ち果てた植物のように打ち捨てられていた。
それで良かったのだろうか。彼らは、それで、幸せだったのだろうか。』

彼らが車で走った道をたどり、彼らが感じたであろう風や見たであろう水平線を感じながら、その場所についたとき、その答えは見つかるのだ。
『彼らは幸せだったのだ。最期まで寄り添い、互いを思い、恐れずに愛したのだから』 と。

そして、かつて共に暮らした犬を想う。
『見えないくせに、届かないくせに、星を追い求めて夜空を見上げていた私の犬を想った。
望んでも、望んでも、叶わないから、望み続ける。ただ、それだけ。
人は皆、生きてゆく限り、「星守る犬」だ。』


ワンコよ
本書は、表紙をめくった一ページ目に、「ほしまもるいぬ<星守る犬>」「犬が星を物欲しげに見続けている姿から、手に入らないものを求める人のことを表す」という説明書きがある。
けれど、ワンコはあの可愛いどんぐり眼で、犬星やオリオン座をしっかり見つめながら、それを手にして帰ってきたね。
本書の犬は二匹とも、一生懸命に飼い主に愛されようと健気に頑張っていたけれど、我が家は人間がワンコに愛されようと健気に頑張っていたよ ワンコ
美味しそうにご飯を食べているか? ウンチとチッチの状態はどうか? 痛そうなところはないか? 暑くないか寒くないか? 楽しそうにしているか?
家族それぞれがワンコに語りかけるのを、少し迷惑そうな顔をしながら横目でチラリと見ていた ワンコ
そのくせ、家族皆の居場所を絶えず確認してまわっていた ワンコ
そして、ワンコを必要とする人にそっと寄り添ってくれた ワンコ
黙って、抱きしめられ頬ずりされ、涙をなめていた ワンコ
私達は最大限の愛情を注いだけれど、それでもワンコがもたらしてくれた愛には届かない気がしているよ・・・ 
・・・そのせいで、何か物足りない気持ちで星々のあいだを旅したとか思ったりしてるかい ワンコ
でもワンコ 虫が良すぎるかもしれないけれど、きっと一緒に見つめ続けた犬星やオリオンへ挨拶をして、ワンコは元気に我家にせに帰ってきたと信じているよ 
だって、あの日一心に駆けてきて私のお腹に飛び乗って以来、私のお腹のうえで寛いでいるもんね ワンコ

この夏は、ワンコがお世話になったと犬星とオリオンに挨拶する旅に出かけるよ。
御機嫌麗しければ、お伴しておくれよ ワンコ


(参照、「星は、朝づつ、犬星」 「ウンがついている」) 

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