「蛍・鈴虫 愛づる京の旅」で、お次はいよいよ苔寺と書きながら、違う内容を書くのは憚られるが、図書館で借りた本(しかも予約待ちの人がいる)の感想なので、順序が後先になるが記録しておく。
もっとも、気忙しくしているため本書も全て読んだわけでなく、冒頭の一話を読んだだけで返却しなければならないのだが、その内容を今日という日に書くのは、なかなかに似つかわしい。
「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」(宮部 みゆき)
江戸は神田の筋違御門先にある袋物屋の三島屋で、風変わりな百物語を続けるおちか。
この世ではないところと関わりをもってしまった人が抱える心の澱をすべて聞き、それを聞き捨てることで、語り手の重荷を取り除いてあげる おちかは、三島屋の主人伊兵衛の姪だが、おちか自身が ある事件をきっかけに心に傷を負い、叔父の家で生活してる。
そんな おちかの許には、苦悩を抱える者が、訪ねてくる。
おちかが聞いた体験(怪)談を綴る本シリーズが妙に怖いのは、ただ化け物が出てくるからでは決してない。
読む者に、その化け物を生み出しているのは普通の人間だという事実を突きつけてくるから怖いのだ。
本書「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」の第一話「開けずの間」も、人間の欲が生み出す魔の恐ろしさを、告げている。
出版から間もない怪談物(ミステリー?)なので詳細に記すことは控えるが、第一話は、おちかを訪ねてきた どんぶり屋の平吉の話だ。
平吉の妻は、病がつづく7つの娘のために願掛けを決意するが、それが塩断ちだと知った平吉は、恋女房を殴ってまでも、それを止めようとした。
だが、その理由を妻と舅に、どうしても言うことが、できない。できないが、できないままに自分の心に留めおくことは、もっといけないと考えた平吉が頼った先が、百物語のおちかだったのだ。
平吉には、やっと授かった息子を姑にとりあげられた挙句に離縁された姉がいたのだが、その姉が、我が子に一目会いたいと縋った先が’’行き逢い神さま’’であったことから一家にふりかかる禍の数々。
’’行き逢い神’’は、「一つ願いを叶えてやる代わりに大切なものを一つ差し出せ」と言う。
人は、生きている限り、何がしかの願いをもつ。
その多くは、強欲といえないほどのことが多い。
子供には、人並みに元気に育って欲しいという願い。
生んだ子が女児では意味がないと言われた嫁が、次には是非に跡継ぎとなる男児を授かりたいという願い。
男の子さえ生めば嫁には用はないとばかりに離縁されたが、引き離された我が子に一目会いたいという願い。
その願いは、どれもこれも強欲とは掛け離れた、ささいで素朴で優しい切なる願いだと思うが、その思いも’’念’’に変わるほど嵩じれば、思いがけない禍を招いてしまうことがある、そんなことを教えてくれるのが、第一話の「開けずの間」だ。
「開けずの間」は、念と誓願について書いている。(『 』「あやかし草子」より)
それほど大それた望みではない。
些細ではあっても人並みの、という願いもある。
だがその願いが、願っても願っても叶わない時、人は『何が足りないのだろう。』『なぜあたしの信心は通じないのだろう。こんなに拝んで願っているのだから、ご先祖様のどなたか一人でいい、どこの神様でもいい、耳を貸しては下さらないか。』と思ってしまう。
そして、『思い詰めた挙句』願掛けをする人もいる。
だからこそ、〇〇断ちの願掛けは『成就の如何がはっきりわかる形で行われるのが普通』なのだそうだ。
そこのところを曖昧にしたままの願いは、誓願とは云わないそうだ。
『こういう(曖昧な)願いは誓願ではない。真摯であればあるほどに、願う者の念ばかりが募ることになり、本人に悪気がなくても、我欲が凝っていってしまう。
そして、我欲は人を惑わせる』
そして、我欲による禍が及ぶのは、我欲の塊の張本人とは限らない。
その怖ろしさを、今日という日は痛いほど思い知らされるのだ。
そう、今日6月29日は、我欲が際限なく膨らみ、その禍が物事の根幹まで揺るがすほどになってしまった事の恐ろしさ、開けずの間を開けてしまった恐ろしさを考えさせる日だと思うのだ。
そのような思いに至ると、なかなか本を読む時間を取れず、また読んだとしても感想を書く時間がとれないでいる昨今にあって、今日という日に我欲の恐ろしいなれの果てを書いた一話を読み記すことができたことには、意味があったと思う。
そして、第一話で誓願について読んだことで、苔寺での体験について今一度考えることができたことにも、意味があったと思っている。
それについては又つづく
もっとも、気忙しくしているため本書も全て読んだわけでなく、冒頭の一話を読んだだけで返却しなければならないのだが、その内容を今日という日に書くのは、なかなかに似つかわしい。
「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」(宮部 みゆき)
江戸は神田の筋違御門先にある袋物屋の三島屋で、風変わりな百物語を続けるおちか。
この世ではないところと関わりをもってしまった人が抱える心の澱をすべて聞き、それを聞き捨てることで、語り手の重荷を取り除いてあげる おちかは、三島屋の主人伊兵衛の姪だが、おちか自身が ある事件をきっかけに心に傷を負い、叔父の家で生活してる。
そんな おちかの許には、苦悩を抱える者が、訪ねてくる。
おちかが聞いた体験(怪)談を綴る本シリーズが妙に怖いのは、ただ化け物が出てくるからでは決してない。
読む者に、その化け物を生み出しているのは普通の人間だという事実を突きつけてくるから怖いのだ。
本書「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」の第一話「開けずの間」も、人間の欲が生み出す魔の恐ろしさを、告げている。
出版から間もない怪談物(ミステリー?)なので詳細に記すことは控えるが、第一話は、おちかを訪ねてきた どんぶり屋の平吉の話だ。
平吉の妻は、病がつづく7つの娘のために願掛けを決意するが、それが塩断ちだと知った平吉は、恋女房を殴ってまでも、それを止めようとした。
だが、その理由を妻と舅に、どうしても言うことが、できない。できないが、できないままに自分の心に留めおくことは、もっといけないと考えた平吉が頼った先が、百物語のおちかだったのだ。
平吉には、やっと授かった息子を姑にとりあげられた挙句に離縁された姉がいたのだが、その姉が、我が子に一目会いたいと縋った先が’’行き逢い神さま’’であったことから一家にふりかかる禍の数々。
’’行き逢い神’’は、「一つ願いを叶えてやる代わりに大切なものを一つ差し出せ」と言う。
人は、生きている限り、何がしかの願いをもつ。
その多くは、強欲といえないほどのことが多い。
子供には、人並みに元気に育って欲しいという願い。
生んだ子が女児では意味がないと言われた嫁が、次には是非に跡継ぎとなる男児を授かりたいという願い。
男の子さえ生めば嫁には用はないとばかりに離縁されたが、引き離された我が子に一目会いたいという願い。
その願いは、どれもこれも強欲とは掛け離れた、ささいで素朴で優しい切なる願いだと思うが、その思いも’’念’’に変わるほど嵩じれば、思いがけない禍を招いてしまうことがある、そんなことを教えてくれるのが、第一話の「開けずの間」だ。
「開けずの間」は、念と誓願について書いている。(『 』「あやかし草子」より)
それほど大それた望みではない。
些細ではあっても人並みの、という願いもある。
だがその願いが、願っても願っても叶わない時、人は『何が足りないのだろう。』『なぜあたしの信心は通じないのだろう。こんなに拝んで願っているのだから、ご先祖様のどなたか一人でいい、どこの神様でもいい、耳を貸しては下さらないか。』と思ってしまう。
そして、『思い詰めた挙句』願掛けをする人もいる。
だからこそ、〇〇断ちの願掛けは『成就の如何がはっきりわかる形で行われるのが普通』なのだそうだ。
そこのところを曖昧にしたままの願いは、誓願とは云わないそうだ。
『こういう(曖昧な)願いは誓願ではない。真摯であればあるほどに、願う者の念ばかりが募ることになり、本人に悪気がなくても、我欲が凝っていってしまう。
そして、我欲は人を惑わせる』
そして、我欲による禍が及ぶのは、我欲の塊の張本人とは限らない。
その怖ろしさを、今日という日は痛いほど思い知らされるのだ。
そう、今日6月29日は、我欲が際限なく膨らみ、その禍が物事の根幹まで揺るがすほどになってしまった事の恐ろしさ、開けずの間を開けてしまった恐ろしさを考えさせる日だと思うのだ。
そのような思いに至ると、なかなか本を読む時間を取れず、また読んだとしても感想を書く時間がとれないでいる昨今にあって、今日という日に我欲の恐ろしいなれの果てを書いた一話を読み記すことができたことには、意味があったと思う。
そして、第一話で誓願について読んだことで、苔寺での体験について今一度考えることができたことにも、意味があったと思っている。
それについては又つづく