何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

石より団子

2016-12-21 21:25:20 | 
例年ならカボチャを食べ柚子風呂に入れば、もう連休気分になるのだが、今年は仕事納めの28日までキッチリ忙しい。
だから、昨日20日にワンコ聖地へお参りできたこと、荒れ放題の庭に手を入れることができたことは、有難かった。

昨年はほとんど結実しなかった柚子が、今年は黄色の木と見まごうばかりに実をつけている。
柚子には、バラの棘が可愛く見えてしまうような、太くて長い棘がある。そのせいか近年、柚子の手入れをするのは私の役目となってしまっているのだが、時間がないのとやる気が起こらないのとで、放置したままになっていた。
だが、さすがに「明日は冬至」の声を聞き、かなりの数を収穫し、柚子風呂用にとご近所の配り、それでも残った数キロで柚子ジャムを作った。
このような時にネットは非常に便利で、「ゆず」と打ち込んだだけで、様々な柚子料理のページが現れる。
有難く最初のうちは真面目に読んでいるものの、外皮だけで作るのか薄皮(ワタ)も含むのか、砂糖とグラニュー糖どちらが好ましいのか、砂糖の分量も煮詰める時間もサイトごとに違うので、大雑把な私はテキトーな気分になり、テキトーに作ったのだが、これがけっこう美味しくできあがった。

最近は一冊の本を読み通す時間がないので短編をちょこちょこ読んでいるのだが、食べ物つながりで書いておきたい本がある。
「サファイア」(湊かなえ)
本書は題名から想像がつくように、7つの宝石の名が一話ごとのタイトルとなっている、宝石を巡る物語だ。
1話・真珠、ルビー、ダイヤモンドと、7話のうちの3話までを読んだところで感想を書くのは掟破りな気がしないでもないが、今のところ印象に残ったのが、宝石ではなく高級菓子の件なので、食べ物つながりということで記しておく。(本筋については、いずれ書くことがあるかもしれない)

それは、第二話の「ルビー」の1節にある。 (『 』「サファイア」より)
「ルビー」は、瀬戸内に浮かぶ小さな島の築50年の家に住む家族と、その隣にある老人福祉施設に住む人の交流から、50年以上前に忽然と消えた幻の宝石の行方が浮かび上がる話である。
この老人福祉施設は、ある種の曰く付のもので、全国各地で建設反対運動が起こった末に、小さな島の、しかも隣接地が一軒しかない所に立ったのだが、この施設の最上階に住んでいたのが、謎の富豪?おいちゃんである。
おいちゃんは毎朝窓から顔をだしては、庭(畑)仕事に精をだす隣家の主婦に声をかけ、又この主婦も、『島中の誰に訊いても、「いい人」だと答えるだろう』「いい人」なので、心に垣根をつくらず、おいちゃんと交流していた。
そのおいちゃんが、隣家に届けたのが「松月堂」の金箔入り和三盆糖なのだが、これは一箱3万はするという代物で、菊の花をかたどった一かけらが数千円もしかねない高級菓子だった。
物語は、謎の富豪おいちゃんの来歴を説くという形で進むのだが、私の印象に残ったのは、高級菓子をめぐる、隣家の姉妹の感想だ。
『我が家は昔から、贅沢というものに縁がない。高級なものを一人で食べるよりも、安いものを皆で食べる方が幸せに決まっている、というのが母の口癖だ。高級なものを皆で食べるという発想はない。』

高級菓子というと、私が育った子供時代は企業のお中元やお歳暮が派手だったせいか、今ではすっかり縁遠いものとなってしまったそれが身近にあった。ただ、根が、清貧と云えば聞こえは良いが実体としては貧乏性のせいで、子供心に高級菓子を長く楽しみたいと思い、かなり小分けにしながら食べていた、そんな記憶を、この件で思い出した。

ただ、それだけの事なのだが、氏の本には、日常の他愛ない一コマを切り取った表現のなかに、「アルアル」と思わせるものが多くある。それが次作を心待ちにさせる魅力でもあるが、「イヤミスの女王」と呼ばれる氏に近いものを有しているということは、私も相当にイヤな人間だということか。

「ルビー」には、その人間のイヤな心理をサラリと書いている場面がある。
誰に訊いても「いい人」と云われる主婦である母について、娘があれこれ思う場面である。
『母のことは、島中の誰に訊いても「いい人」だと答えるだろう。中には「偽善者」と心ない言葉を口にする人もいるかもしれない。そうだとすればおそらく、母と同姓、同年代の人のはずだ。しかし、その人の目に母が「偽善者」として映ってしまうのは、その人が努力して「偽善者」として振る舞っても親切にできない人達に対しても、母は他の人達と変わりなく、普通に接することができるからだ』

自分にできないような立派な行動をする人を「偽善者」と切って捨ててしまえば、あるいは、自分が遠く及ばない優秀な人を「頭でっかちの世間知らず」と扱下ろしていれば、お気楽な精神的安定は得られるかもしれない。
それは年代や性別を問わず当てはまる悲しい人間の性(さが)だが、今年のアメリカ大統領選を見れば、母と同姓で同年代の人達にその傾向はより強いのかもしれないと思わされる。
このような、人のイヤな部分をサラリと書くことで、人はイヤな部分を数多く持っていると知らしめる、氏。
そこに反応する私も、そうとうにイヤな人間であることは、間違いない。

このような御託を並べ、一向に年賀状の準備にも取り掛からないのは、どうにも「おめでとうございます」という気分ではないからだが、ワンコを思いながら登った山の写真を見ていると、「ありがとう」という言葉は浮かんでくる。
その思いを胸に、今夜か明日こそは、年賀状に取り掛かるつもりである。

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