何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

更なる気配を

2016-05-20 09:51:25 | ひとりごと
家人が、「ワンコは電話もかけてくれないし、ケーキも届けてくれない」と愚痴っている。

家人の上司には、亡くなった愛猫たまから電話があったというが、我が家にはワンコからの電話は、まだない。(参照「それでも 逢いたい」
たま電話の件は知っていたが、「ケーキが届かない」とは何事か?と問うと、テレビで元警察官が「亡くなったおばあちゃんから届いたケーキ」という話をしていたらしい。

「幽霊がでるので来てほしい」との連絡をうけた警察官が、ある家を訪ねた。
夫婦が口々に言う。
「帰宅途中に近所のおばあちゃんから’’いつぞやのリンゴのお礼にケーキをどうぞ’’とケーキが一つのった皿を渡された」と訴える夫と、「そのおばあちゃんは既に亡くなっている」と言い返す妻。
ケーキをはさんで「おばあちゃんから貰った」「そのおばあちゃんは亡くなっている」と双方譲らず埒が明かないので警察官が、おばあちゃんの家を訪ねると・・・・・。
その日はおばあちゃんの四十九日で、おばあちゃんの好きだったケーキを仏壇に供えたという。
警察官の突然の訪問を訝しく思いながらも仏壇を確認したおばあちゃん家族が目にしたものは・・・・・
果たして、仏壇にお供えしたケーキがなくなっている!

こんな話をテレビでしていたので、家人の「ケーキも届けてくれない」になったようだ。

昔気質で律儀なおばあちゃんはリンゴのお礼がすまないままに旅立ったことが気がかりだったのだろうが、「それなら、ワンコも逢いにきてくれても良さそうなものだ」と私まで愚痴りそうになる。
そんなことを考えている時、「犬の人生」(マーク・ストランド 村上春樹・訳)を読んだ。
短編集「犬の人生」のなかの「更なる人生を」は、作家として不遇のままに亡くなった父の気配を其処彼処に感じる「僕」の一人語りを綴ったものだ。

「僕」は、色々なものに父の面影を見出す。
友達と歩いている時に自分の周りを飛びまわる蠅に父を感じることもあれば、趣味の乗馬に興じている最中に馬に父を感じることもある、ある時など寝室で彼女といい感じになったその時に、彼女に父を感じてしまう。
そして、不遇を嘆きながらあの世へ逝った父の想いに自分を重ね、蠅に呼びかけ、馬に語りかけ、涙ながらに彼女の手を取り「父さん」と跪く。

子供の頃には理解できなかった父の嘆きも、証券会社に勤めるようになった大人の「僕」には身に沁みて理解できる。
『結局のところ、私の領域とはいったい何だろう?
 どこかの場所や、なんらかの職業について、私は何かを知っているだろうか?ぜんぜん知らん。
 私の専門とは、空白であり、退屈の諸相であり、めいはりのない日常だ。
 私の特徴とは、捉え処のない状態だ
 ―眠りに沈み込んでいくような、そして日の光の中に彷徨いでていくような感覚だ。  
 これまでの私の人生は怠惰であり、目的を欠いていた。』
この父の嘆きに自分を重ね、蠅や馬ばかりか彼女にまで父を見出し語りかけているうちに、何かが変わり、そして父が「僕」を訪ねることはほとんどなくなるのだ。

父の訪問のおかげで「僕」が変わったのか、「僕」が変わったから父が訪問しなくなったのか、それでも時折じっと鏡を見ていると父がそばにやってきていることを感じたりする・・・・・という話。

心が欲する言葉や音楽がスーットと心に届いた時や、園芸店の店先のピンク色のマーガレットにワンコの気配を感じる私。
人として成長できた時に、ワンコの気配が薄れるのなら、いつまでもこのままでいい?

そんなことを考えながら つづく

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