何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

時勢の流れなので野球の話

2016-05-26 00:13:15 | 
少し前のことになるが、本だか教材だかを読んでいる子が「違うんだな」とブツブツ言っているので、「何を読んでいるのか」と訊ねると、「バッテリー」(あさのあつこ)だという。低学年からリトルリーグで頑張っていて、今ではいっぱしの野球小僧のつもりでいるので、細かな描写が気になってしかたないらしい。
そんな会話をふと思い出したのは、図書館をぶらつくという至福の時間を過ごしている時に、目の前の書架に「晩夏のプレーボール」(あさのあつこ)見つけたからだ。

朝から晩まで一番・ショート(控えのピッチャー)に打ち込んだ時期があるだけに、私はやはり野球が好きだ。

高校では旧制中学からの応援歌をがなる応援団に所属していたが、ある時クラスメートのサッカー部員から「応援団は野球部の応援だけに熱を入れている」と苦情を受けたことがある。
国立にも花園にも縁がないのと同様に甲子園にも縁がないにもかかわらず、野球の応援だけは熱心だった学校の方針(理由)は分からなかったが、それは私の志向には合っていた。敵からものを奪う系の競技を苦手とする私にとって、野球は別格の競技だった。投手が渾身の力をこめたボールを相手懐に投げこみ、それを打者が渾身の力を込めて打ち返そうとする野球 - 自分の一番のものを相手にぶつけて勝負する心意気こそスポーツの王道だと、当時の私は思っていた。
私の持論を聞いていたサッカー部員は、「確かにそういう面はある。エラーも失投も一目瞭然の野球に比べれば、サッカーは傍目に失策が分かりにくいという面でも小物感はある。けど、相手からボールを奪っただけでは点にはならない。そのボールを皆でつなぎ、皆の思いを込めてゴールに打ち込むのだから、チームとしての一体感は他に勝るし、応援しがいもあると思う」と言っていた。
今ならその意味もよく分かり、ワールドカップになればSAMURAI BLUEを必死で応援するのだが、やはり私は野球が好きだ。

そんな野球を書いた「バッテリー」を私は読んでいなかった。
熱血スポーツ小説は、結局は実際の感動には追い付かないという思いがあったので、児童書の書架にあるそれをわざわざ借りようとは思わなかったのだが、野球小僧の言葉が気になり「晩夏のプレーボール」を読んでみた。

なるほど、現役野球小僧には分からないかもしれない。
「晩夏のプレーボール」は、甲子園を目指す球児やその家族や友人の視点で書かれた短編集なので、「バッテリー」とは設定が異なるが、作者の視点が現役球児のそれとは掛け離れているという点では同じではないかと思う。こう書いたからと云え、そこに書かれていることが間違いだと言うのではない。
ほとんどの選手は才能や体格による壁にぶち当たり自分の限界を悟る時がくるが、そこを乗り越え「やっぱり野球が好きだ、そんな野球に出会えて良かった」と思いながら自分なりの野球を完結させようとする。そんな球児を書いた本書には共感を覚えるし、そもそも性差や経済的事情や過疎地問題という野球技術以外の問題で甲子園を目指すことすらできない場合があることが丁寧に描かれているところも魅力的ではあるが、それは野球が大好きだった青春時代を懐かしむ大人の視点によるものなので、現役野球小僧には「違うんだな」ということになるのかもしれない。

例えば6章「街の風景」には、甲子園で活躍する球児の母が息子に、高校生活のほとんどを病院のベッドで過ごす難病の友人を見舞うように言う場面がある。「身体が弱いから余計にあんたが、頑張ってるのが嬉しくて、応援して・・・」という母に高校球児は食って掛かる。
『健斗が言うわけはない。 自分の身体が弱いから、甲子園を目指す幼馴染を応援する。 そんな安っぽいドラマのような生き方をしているわけがない。』 
『安っぽいドラマに巻き込まれるのも、不運のエースだとか、病弱な幼馴染の応援に応える球児だとか、そんなレッテルを無遠慮に貼り付けられるのもまっぴらだ・・・マウンドに立っていようが、ベッドの上で点滴を受けていようが、おれたちは、いつだって、身体の中に生々しい自尊と自負を飼っている。』 と。

『おれたちは、いつだって、身体の中に生々しい自尊と自負を飼っている』
その時の気持ちを言葉にすれば、このカッコいいセリフになるのだろうが、そんな気の利いた言葉は、現役球児の時には浮かばないのではないか。
大人には深イイ話の感覚が現役野球小僧のそれとは異なり、「なにか違うんだな」ということになるのだと思うのだが、野球好きな大人の私には「晩夏のプレーボール」は深イイ本だった。

ところで、過疎化で財政難のため廃校になる高校の最後の野球部員を書いた4章「このグランドで」には、「時勢の流れなので(廃校も止むを得まい)」という言葉が何度もでてくる。
過疎化と財政難と少子化の三点セットはこれから益々問題になってくるので、作中の高校球児の『時勢の流れとは何なのか。それは甘んじて受けねばならないものなのか。濁流のように人を押し流してしまう者なのか』という思いは考えさせられるが、「時勢の流れなので」私的に非常に関心をもった短編について書いておきたい。(参照「約束の星はあるけれど」
5章「空が見える」
将来甲子園に出場すると張り切っていた10歳の息子を突然の事故で喪った両親の、20年後を書いた作品。
息子の死を受け入れられず息子の誕生日には「甲子園を目指しているのだからグラブをプレゼントする」という母と、「諦めろ、俺達にはそれしかない」と叱りつける父。何年も苦しみ、ようやく野球も甲子園も遠い遠い世界になった頃、父は余命を宣告され病院のベッドで最後の日々を過ごしていた。
余命の時間を過ぎたある夏の日、父の夢に甲子園で活躍する息子が現れ、続いて母の前には実際に甲子園でプレーしている息子が現れる・・・・・患者用休憩室の自動販売機でジュースで買おうとした、その時に、テレビから息子と同姓同名の名前が聞えてくるのだが、画面に映る同姓同名の球児は、息子と同じ場所(唇の端)にホクロを並べていた・・・・・
最期の日を前に、甲子園で活躍する息子に出会えた両親・・・「時勢の流れなので」この話が私の心を強く捕まえた。

ワンコ いざという時には、その姿を現しておくれ


さて、「時勢の流れなので」そろそろ夏の大会へ向け、贔屓のチームの仕上がりが気になってくる。
母校は相変わらず甲子園とは遠いところで頑張っているが、今年はチビ子の頃から応援していた選手が最後の夏を迎えるので応援にも熱が入っている。
チビ子からの夢が叶いそうにないことを知りながら今日もグランドにたっているであろう彼は、「野球の面白さを教えるために、将来は中学校の先生になりたい」と言うが、本書には、一生野球に関わるためにスポーツ整形専門の医師を目指す選手の話もある。
別れた父との思い出が野球ということもあれば、自信をなくした息子を励ます会話の接ぎ穂が野球ということもある。
野球を通じて、親子・兄弟・友情それぞれの絆と葛藤、成長と挫折を描いた「晩夏のプレーボール」
本書の球児の言葉を借りて言ってみる。
『ああ、野球と人って似てるんだ。ふいに反転し、思わぬ面を見せる。よく似てる。おもしろくて魅せられる』

そんな野球を、皇太子御一家も大変好んでおられるようだ。
プロ野球のユニフォーム姿の皇太子様のお写真も有名だが、雅子妃殿下は学校を抜け出しプロ野球の練習(高田選手)を観に行かれるほどの野球好きが嵩じてソフトボール部を設立されたともいう。
そんな御両親をもたれた敬宮様は、学校の球技大会でソフトボールを選択し、大会前には友人を御所に招いて東宮職員相手に練習を積まれたそうだ。
皇太子様とはキャッチボールを、雅子妃殿下からはバッティングを指導され、臨んだ球技大会。
三試合勝ち進み、決勝で惜しくも負けて準優勝となったが、敬宮様はショートを守り(私的にここが非常に肝腎)ヒットを量産し、大活躍だったと伝えられている。

親子二代で楽しむ野球
ああ、野球と人って似てるんだ
反転攻勢!!!皇太子御一家

夏は近いぞ 頑張れ 野球小僧たち!

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