中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

昨日みた夢

2005年12月30日 | 日常
昨日こんな夢をみた。

なぜか山道を必死に走っている。自分だけではなく、周りにはいろいろな人が同じように走る。昔の会社の先輩、今所属するオーケストラのメンバー。誰もが無言で、忍者のように軽やかに走る。

後ろから声をかけられ、振り向くと昔の会社の先輩がそこに。この方、実際は何年か前に病気で亡くなられてしまっているのだけれど、夢の中の自分もそのことは認識している。おかしいなぁ、とは思いつつも普通に世間話を始める。

ここで目が覚める。この先輩のことを思い出したのは何年かぶりのこと。思い出すきっかけが最近あった訳でもなく、なぜこういう夢をみたのか全く不明。少なくともフロイト的な例の衝動とかは関係なさそうだけど…

オカルト的な分析には興味ないけれど、心理学的にみてどうなのか。この正月、少しこの辺の本でも読んでみようか、という気にもなってきた。心理学って真面目にやれば面白そうだし。

ちなみに自分の隣で連れが見た夢。

自分と二人で金沢へ旅行に行く(実際は先日彼女が一人出張で行った場所。二人で金沢へ行ったことはない)。せっかくなので蟹を食べようと彼女が主張するも、私が頑なに焼肉へ行きたい、と譲らない。結果、冬の金沢で焼肉を食べる羽目になったと。

昨日の夜、「久しぶりに焼肉を食べたい」と言ったらこんな夢だ(実際は寒いので鍋、と一蹴された)。こちらは分析するまでもないなぁ…

ストーンズ来日だが

2005年12月29日 | 日常
昨日の新聞夕刊で来年春のストーンズ日本公演の広告。喜んだのも束の間、S席18000円というチケットの値段を見て意気消沈。オペラ公演のような値段だ。

かなり大掛かりなセットになるみたいで、それが値段に響いているのかもしれない。とはいえやはり、あんまりな料金設定だ、ロックコンサートにしては。観客との距離を考慮して小さいライブハウスでやるから、とでもいうのであればまぁ我慢できなくもないけれど、あの巨大な東京ドームでは…

ありえない仮定ではあるけれど、もしもジョン、ジョージがまだ存命で1回限りビートルズの再結成公演をやる、というのであれば例えドームで10万円でも迷わず飛びつくのだけれど。

ロックのコンサートは基本的にPAを通しての音だし、純粋に音楽を楽しむというよりはむしろアーティストを体験すること自体が楽しみの中心なのかもしれない。なのでチケットに出せる値段、というのも結局はそのアーティストに対する思い入れの値段なのだろう。

ストーンズに関しては「今でこそ」好きなバンドの一つではあるけれど、そこまでの思い入れもない。なので、今回は9000円の席が買えれば行ってもよいかな、といったところ。さすがに18000円では行かない。

それにしてもドーム2回をあの値段、果たしてチケットはさばけるのだろうか。前回来日時の横浜アリーナ公演でも、舞台近くにかなり広範囲の空席が目立っていて、当日券を買った人達はそこへコンサート直前に誘導されていたみたいだし(あれは羨ましかった)。

今回はタフなおじさん達の米粒のような姿を拝んで、おみやげにベロのTシャツを買って帰れば充分。幸いにして彼らはまだまだ「現役」でいけそうな感じだし。

名前は宇宙を旅して

2005年12月28日 | 日常
前に書いたネットでの自分の名前検索、ひさしぶりにやってみたら1件増えていた。とはいっても、当然というか自分の会社のホームページ分が増えただけ。

面白くないので今度はgoogle.comで、英語表記なら何かヒットするか試してみた。これも前に書いたように自分の名前は姓名セットにすると結構レアなので、たぶん何も出ては来ないだろうと思っていた、が意外にも明らかに同姓同名のものが1件。

外国で報道されるようなことをした覚えもなく、なんだろうと思って開いてみればNASAのサイトのとあるページ。ひたすら「人の名前」の一覧があって、自分の名前もそこに記されている。

そのサイトを見ているうちに8年位前の「非常におぼろげな記憶」が蘇ってきた。そういえば昔、まだインターネットが流行り始めだった頃、NASAのサイトで自分の名前を入力した記憶がある。たしかあなたの名前が宇宙を飛ぶ、といったような企画で、NASAのページで名前を入力すると、それが何らかの媒体に記録されNASAの探査機だか衛星に積み込む、という話だった。

NASAのサイトで確認すると、これは「スターダスト」というプロジェクト。彗星のサンプル採集を目的とした探査機、スターダストをNASAは1999年に打ち上げている。その際、当時流行り始めていたインターネット上で、プロジェクトの宣伝とNASAサイトへの人寄せとして(あくまでも推測)こういう企画が実施されたみたいだ。集められた名前はマイクロチップに記録され、このスターダストに積み込まれた(このマイクロチップの積み込みはあくまでも「企画」であり、プロジェクト本来の目的とは無関係)。

なので多分、ではあるけれど、この名前は同姓同名ではなく自分自身のものだと思ってよさそう。

スターダストは打ち上げ後、当初の目的どおり彗星サンプルを無事採取、46億Km(!)の行程を経て、近々地球へ無事戻ってくるようである。帰還予定は2006年1月、なんと来月だ。

サイト情報によれば、この名前の募集開始は1997年。そこで集められた名前は136,000人分。来年の帰還時、このチップは彗星サンプルの入ったカプセルとともに地球に戻ってくるとのこと。

そのこと自体を完全に忘れ、あくせくとこの下界で過ごしていた間、自分の名前は46億Kmの宇宙を旅して、来月地球に戻ってくる。そして6年の時を経て戻る探査機の帰還1月前、ふとした偶然からこのことを思い出したという事実。意味がないといえば無い事でもあるけれど、なんだか久しぶりに少し感動してしまった。やはり宇宙はロマンに満ち溢れているなぁ…

整体に助けられる

2005年12月26日 | 日常
先週のある朝突然、首筋から肩甲骨の下あたりまでに連なる激しい痛みが走った。特に激しい動きをした訳でもなく、まったく唐突な話。

これまでも数年に一度、この痛みに見舞われた過去があったので2日程はひたすらに我慢して自然治癒を待った。しかしあまりに改善の兆しも見られず、連れにそのことを話すと彼女のヴァイオリンの先生に見てもらえば、ということになった。

肩をいためてヴァイオリンの先生、というのも奇妙に思えるかもしれないが、そもそも弦楽器奏者というのはしばしば筋を痛めることがあるようで、この先生はその対策として整体、および人の体について相当に勉強してきたらしい。そしてその術をしばしば生徒に施しているそうなのだが、今ではその整体術のためだけにわざわざ上京して見てもらうプロ奏者までいる、とのこと。

一生懸命やっている人には申し訳ないのだけれど、実は個人的に「整体」というとなんだか「うさんくささ」ばかりを感じてこれまで試してみた事がなかった。自分は楽器こそ習っていないけれど、この先生には個人的に懇意にして頂いていたのでしぶしぶ見てもらった、というのが正直なところ。

だが、何事も経験。1時間ほどこの先生に見ていただくと、それまでの苦痛が嘘のように和らいだ。整体、というと無理に体を曲げたり引っ張ったり、ということをイメージしていたのだが、そういうのはほとんどなし。

この先生が非常に重視しているのは筋肉、筋、骨の各「状態」と血液の流れ。なんでも自分は「相当」に血液の流れが鈍いそうで、今回もそこが施術の中心。あと筋肉のマッサージを少々。

1回限りで治るものでもない、とのことで日常生活でやるべき課題(ストレッチ等々)色々を課されたのだけれど、おかげさまでここ数日ではすっかり体の状態も元に戻ることができた。

整体には資格もなく、誰でも簡単に開業可能なのでいい加減なところも多いらしい。ただし、整体という分野自体がインチキというわけではないし、本来はこの整体についても医療としての公的なフォローが必要なのだが、というのが先生の弁。

ちなみに針灸については国家資格が整備されている。ただし保健の適用対象となるのは腰痛等一部治療のみ。

高齢化社会対策、というのは必ずしも仕事の事ばかりでなく、こういうことについても検討してもらえるとよいと思うのだけれど、実際のところはどうなのだろう。

ジョージ・マイケル -素顔の告白-

2005年12月24日 | 映画
映画でも行こうかと誘った連れから提案されたのがこの作品。クリスマスイブは「特別な日」と浮かれるほどに若くもないとはいえ…

ジョージ・マイケル、といえば元ワムのメンバー。その後もソロとしても成功しているのでご存知の方も多いだろう。あの「濃い」感じの色男。

洋楽に本格的に目覚めたのが高校生の頃。当時は海外ヒットチャートの動きまで追いかけたりしていた訳だが、ワムがチャートを賑わしていたのもちょうどその頃。20年以上経った今もクリスマスに必ず流れる「ラストクリスマス」が流行したのもこの高校時代、冬の話だ。

高校生の頃にはよくある事だけれど、洋楽を聴くと言う行為自体に憧れを持ち、そうすること自体が自尊心を満足させる、と言う部分も少なからずあった。なので多少の無理をしてまで、必ずしも好みでない音楽も積極的に聴いていた。そのような状況でも個人的にこのワムだけは「いけすかない」という思い強く、頑なに無視していたことを今でもはっきりと覚えている。

今になって分析してみれば、こういう姿勢はワムの音楽自体に対する否定ではなくて、その存在自体に対する否定であったのだと思う。ワム、というグループは「絵に描いたような」色男の二人組み、そしてそのターゲットは若い女の娘。中途半端な自我を持った男子高校生にとって、このような存在は「受け入れること叶わぬ存在」でしかないのだ。

実際、洋楽を聴くクラスメートでワムを好きだ、という男子生徒は皆無であったと記憶している。たぶん「少々他と違う性的嗜好」の人でもない限り、ワムは基本的に男性には好かれるグループではなかったのだ。

こういう状況もあって、ジョージ・マイケルのドキュメンタリーについてもさほどの感慨もなく足を運んだことになる。既に彼は「カミングアウト」しているので、その辺だけを興味本位で見に行った、というのが正直なところ。(これは提案してきた連れも同じ)

以上、前置きが長くなったけれど、実際に映画を見ての感想をひとことで表すと「思いのほか面白かった」。90分の上映時間は退屈することもなく、結構楽しめる。

これは誰にでも当てはまる事ではあるけれど、表面から見たものと実際の人生というのは思いのほかに隔たりがある。彼の人生に関わってきた人々の証言を聞きながらその半生を眺めていくと、ジョージ・マイケルについてもこの点に変わりがないことがよく分かる。彼も思いのほかに苦労しているのだ。

ワム時代、意図的に「マヌケな単パンを穿き、耳にリングをつけて」いた、なんて発言を見ると、なんだか20年前の自分が少しはずかしくすら思えてくる。この映画を見進めていくとジョージ・マイケルって結構いい人だな、と思えてくる。彼は基本的に実に素直な人間なのだ。邦題の「素顔の告白」というのもあながち嘘ではない。ま、彼が良く見えるように、と映画を作ったのは充分に承知しているつもりではあるけれど。

ドキュメンタリーの後半は「カミングアウト」にまつわる話が中心となる。当初はこのことばかりを期待していたわけだけれど、ジョージ・マイケルの人生をそこまで一緒に追いかけていくと、あまり茶化す気にもならずむしろ素直に応援したくすらなる。偏見に満ち溢れた自分にとってこれはよい刺激と反省を促してくれる事であったし、この点だけでも映画を見てよかったと思っている。

ワムのファンはもちろん、そうではない人にも楽しめる映画、というのが一応の結論。誰かの人生について丁寧に振り返ってみる作業を眺めること、というのは基本的には楽しいことなのだ。

あと、どうでもよいことだけれどワムの相方であるアンドリューの変貌振りには少々驚き。これもある意味一見の価値あり。彼とジョージが仲良く談笑する姿をみると、なんだか少し心温まるものがある。

★★★

人口減少時代へ

2005年12月22日 | 日常
人口減少時代へ突入との報道。少子化、高齢化社会について世間が騒ぎ出したのは昨日今日の話でもないので、むしろ意外な感じ。少なくとも昨年までは未だ日本の人口は毎年増えつづけていた、ということなのだから。

当然ながら報道は「憂慮すべき問題」としてこの件をとりあげている。なにしろ、例の「怖い都知事さん」ですら積極的な移民政策を訴えている位。日本において、人口減少はまずい、というのが実に一般的な考え方みたいだ。

いまのまま行くと、2050年くらいには人口が1億人にまで減ってしまうという。日本の人口が1億人を突破したのは1967年(自分の生まれた年だ!)とのことなので、38年で達成した数字が45年で元に戻る、ということらしい。

そもそもの話、今の日本の人口って適正な値なのだろうか。昔から自らの家を「ウサギ小屋」と卑下してきたのに、それでも今の国土面積に対して1億数千万が妥当、と考えるのはどうなのだろう。

もちろん、今の社会がそれなりの人口を想定した「つくり」になっているので、減少へ向けた際にいろいろな問題が発生すること自体は理解できる。年齢構成が非常に偏りをもって「高齢化」してしまうのもそのひとつであるのだろうし。

この「過渡期」にどう対応していくか、これ自体は真剣に検討すべき項目ではあると思う。でもその対応の一案として「人口の値をを維持する」という考え方には反対だ。安易な移民化政策は必ず問題を引き起こすだろうし。

個人的にはASIMOのようなすばらしい技術に対し国が積極的にバックアップしていくほうがよほど夢も可能性もある話のような気がするのだけれど、これはさすがに甘いのかな。

数独

2005年12月20日 | 日常
ここ最近、静かなブーム(って何だ?どこまでいくとブームに昇格?)といわれて久しい(これも無責任な書き方だ)のが「数独(すどく)」。

マス目に数字を埋めていくパズルで、ルールはいたって簡単。3×3のマスのかたまりが3×3個、計81マスで仕切られた正方形。その中で、タテ、ヨコ、そして3×3のマス内で、常に1から9の数字がひとつずつ並ぶよう、数字を埋めていくというもの。

これだけではピンとこないかもしれないけれど、実際やってみるとすぐに理解できる。で、自分も試しにひとつやってみたのだけれど、なるほどこれはなかなかに面白いです。

熱中する、と言うほどではないのだけれど気が付いてみるとつい時間も経過していることしばし。「静かなブーム」という表現もなんだかわかる気がする。

静かなブームをもう一つ実感できるのはAmazon。ここで「数独」で検索すると玩具として4つほど商品がヒットする。一つはボードゲームで既に発売中だけれど、残り3つは小型の携帯液晶ゲーム。この3つは何れも近々発売予定でなんとかクリスマス商戦に滑り込ませよう、としているみたいだ。値段も手頃なので、どれか買ってみようかと思案中。

数独を楽しむにはパズル雑誌を買うのも一つの手ではあるけれど、WEB検索してみると予想通り、WEB上で楽しめるサイトがいくつか見つかった。パズル雑誌を企画する会社のものはいずれも「お試し版」なのだけれど、それ以外にいくらでも楽しめるサイトはあるので、まずはGoogleあたりで検索を。

数独は暇つぶしとしても充分に楽しいけれど、つい「記憶力低下防止にもよいかも」と余計なことも頭に浮かんでしまうあたりが30代後半という年齢の性かも。いずれにせよ、とにかく老若問わずお勧め、です。

一澤帆布をみて思う

2005年12月19日 | 仕事
一澤帆布で株の相続に端を発する「お家騒動」のニュース。以前京都へ旅行した際に一度店を訪問したことがあるのけれど、その時は殆ど商品が店頭になく、何も買うことはなかった(できなかった)。そんな経緯もあるので今後の顛末は少し気になるところ。

この件の報道を眺めていてふと思ったは自分の会社のこと。考えてみれば資本構成から考えると、「弊社」はほぼ自分のオーナー会社といってよい。少し知人から出資もしてもらっているけれど、資本の過半数以上は自分の持ち出し、そして役員も一人だけ。なのでやろうと思えば好きなことができる。

将来的に自分の子供(今はいないけど)に会社を継がせることも可能だし、自分の親族を次々と役員に仕立て上げる事もやろうと思えばできる。

もちろん、ついてきてくれた社員のモチベーションだけで成り立っているような会社。上記のようなことを「する訳がない」し、今後もそのつもりはない。

今はまだ会社を維持することに精一杯なので、正直将来のことまで深くは考えていなかった。けれど、こういうことも真剣に考えなければいけない。

個人的には「オーナー会社」というものは好きでないし、それはこれから入ってくるであろう新しい社員にとっても同じ事だろう。

そう考えると会社を今よりもより「パブリック」なものにする必要がある。こんな経緯で会社を立ち上げたこともあって、なんとなく感情的に「株式公開」なんて考えてもみなかったのだけれど、こうした視点からも将来的にはやはり検討しなければいけないのだろう。公開だけが目的になってはいけないのはいうまでもないけれど。

税務等事務的な部分ではこの一年で会社経営に必要なことがある程度、わかったつもりでいたけれど、経営者としてはまだまだ素人。色々と考える事は多いみたいだ。

お歳暮

2005年12月14日 | 仕事
零細、とはいっても企業経営者となった今年。15年近い社会人生活においてはじめて「お歳暮」を贈ることにした。

こういうものは包みも重要か、と中野区民としてデパートには新宿伊勢丹をチョイス。上層階に設けられた特設会場へ赴くと平日の日中ということもありさほどの混雑ではなかったけれど、ずらりと並んだ受付テーブル、銀行にあるような整理券発行機まで用意され、準備は万端といった感じ。

注文を受け付ける施設については万全なのだけれど、肝心の商品の種類はさほど豊富ではない。クリスマスプレゼントとは違い、法人間中心のものだからか、とにかく無難なものを揃えました、という感じ。

今回のお歳暮も当然ながら個人としてでなく会社代表として、お世話になった取引先に贈るもの。昔はよくわからないけれど、最近では個人間でのお歳暮ってあまりないような気がするのだけれど、どうなのだろう。自分自身、社会人になってからも贈ろうと思った事は一度もないけれど。

以前の会社でも年末になるとそれなりのお歳暮が送られてきて、仕事納めにはそれを社員に分配してくれたので、商品の選択では「分配できそうなもの」にしておいた。形式的なものではあってもこの辺だけは気を使っておいた。

昔のように甘い時代ではないし、贈り物をすることで仕事が増える、とかそういうことは期待していない。むしろ今の時代、そういうことで仕事を取ろうとすることは嫌われる社会になっている(のかも)しれないし、個人的にもそういう社会の風潮は嫌いでない。

それもあるので、今回贈る先はいずれも、今年一年一緒に仕事をした、本当にお世話になった先のみ。来年あたり仕事がもらえるかもしれない、という微妙な関係の会社担当者へは送らないことにした。下手に贈るとなんだか袖の下みたいで嫌らしいし。

どうでもよいけれどお歳暮の定番、「サラダオイル」が会場入り口近くの目立つところに置かれていた。自分の実家も親の仕事柄、昔はよくお歳暮がくる家庭だったのだけれど、うちの親は「またサラダオイル」と受け取る都度がっかりしていたこの商品、やはり今も人気あるのだろうか?

新型ASIMO

2005年12月13日 | 日常
未来が目の前に、とでもいったところだろうか。新型ASIMOの走る姿を見ていていると、口をポカンと開けてひたすら画面をながめるばかり。

テレビのニュースでもかなり採り上げられていたので見た方が多いと思うけれど、未見の方はこちらで。

これまでもROBODEX等、実物のASIMOは何度か目にしているけれど、どう考えても「人が中に入っている」ような動き。今回でそれがさらに改良されているみたいなので、とにかくはやく、実物をみてみたいところ。

ネット等で人の反応を見ると、すごい、かわいいというこれまでの同様の意見はもちろん、ここまで人に近づくと少々不気味、と感じはじめている人も出てきたみたいだ。

日本でばかり「人形」ロボットの開発が盛んなのは、海外(特に西洋)では宗教的倫理観から「人のかたち」に作ること自体に嫌悪感を持っている、との説もある。実際、作業の機械化という目的を追求するならば、かならずしも人の形に似せる必要はないみたいだし。で、日本人が「人のかたち」にこだわるのは研究者達がアトムを始めとしたロボットアニメに育った世代だから、合理性はさておき、まずは「憧れ」からきていると。

実際のところがどうかはともかく、同じくロボットアニメで育った世代として、この説にはなんとなく肯いてしまうものがある。

ただ、さすがにホンダもしっかりとした一企業。「夢」だけで動いているわけではなく、将来的なロボットの需要を「見越して」開発に力を入れているようである。ただ、理由はどうあれ、こういうことを推し進める、という企業姿勢には感服する次第だし、ぜひともアトムを生み出した国として、兵器などではなく人の友達、としてのロボットをいつの日か、大々的に売り出して欲しいものだ。WAKAMARUではあの値段でも欲しいと思わないけれど、ASIMOだったら車くらいの値段であっても買いたいなぁ。

北ドイツ放送交響楽団/庄司紗矢香

2005年12月12日 | 日常
連れがチケットをもらった、とのことで土曜日は久しぶりにプロオケの演奏会へ。北ドイツ放送交響楽団、指揮アラン・ギルバート。

NHK音楽祭(というのがあるのを知らなかった)の一環ということで会場はNHKホール。ここはいうまでもなく「紅白歌合戦」でも使用される多目的ホール。NHK交響楽団の本拠地でもあるけれど正直音響がよいとはいえない会場。そしてチケットの座席は3階、少々不安はあったけれど、もらったものだけに文句も言えない。

プログラムはブラームスのVnコンチェルトにリヒャルト・シュトラウスのドンファン、薔薇の騎士組曲というなかなかに渋い構成。今日の注目はなんといっても、前半のブラームスのコンチェルトでソロを弾く庄司紗矢香。

知り合いのヴァイオリントレーナーによれば、最近の日本人ヴァイオリニストの中ではこの庄司さんがダントツ、との評判を聞いていた。

ブルーのドレスを纏って舞台に現れた彼女はかなり小柄の様子。舞台からは遠い席から、ではあるが楽器がそれなりに大きく見えるので推定身長は150cm代前半。曲が始まると足をがっ、と開いて音楽にあわせ体を揺らす姿はなかなかにユーモラス。

最初はこんな感じで眺めていたわけだが、いざソロが始まると空気は一変。貸与されているというそのストラディバリウスから発する音の美しいこと、いやはや。細かいパッセージを見事弾きこなし、まるで「録音されいた」かのように正確な音程。

個人的に弦楽器についてはそう造詣が深くないわけではないけれど、それでもこの人が「すごいな」というのは充分に実感し、そして堪能させてもらった約30分。とにかく音色が良い、というのが自分と連れの一致した感想。あと、連れによればこのホールで3階席までしっかりと音を届けられる音の太さもすばらしい、とのこと。

無料でこのような才能を楽しませてもらい、なんだか非常に幸せな週末であった。会場で配られたチラシによれば、来年はバンベルグ響とまたコンサートをやるみたいだ。次は是非ともチケットを購入してみよう。

取ってつけたようだけれど、後半のオーケストラ、リヒャルトプログラムも良かったです。北ドイツ放送響、と言ってもあまり馴染み無い人は多いかもしれないけれど、ある意味クラシック大国としてのドイツの奥深さを表すオケ。ベルリンのような派手さはないけれど、確実にドイツの音を聴かせてくれる。ギュンター・ヴァントとのブラームス物あたりはCDでも色々と出ているのでお勧め。

とはいいつつ、トロンボーンセクションは(多分)アメリカ製の楽器を使用していた様子。音楽の世界でも「グローバル化」は進行しているみたいで、この辺少し残念。

12月8日といえば

2005年12月08日 | 日常
渋谷の街を歩いていると右翼の街宣車集団に二度も出くわす。はて、今日はなにかイベントでもあっただろうか、と思えば「12月8日は(太平洋戦争の)開戦記念日。国民皆で祝いましょう」、と。祝うもの、とは思わないけれど確かに忘れてはいけない日であった…

個人的には12月8日、と聞いてまず思い浮かべてしまうのはジョン・レノンの命日。思えばあのニュースを聞いた時は中学1年生、四半世紀が経過してしまった。

あの日、クラスに二人いたビートルズファンの級友がどこからか聞きつけたようで、二人して机に伏せわんわんと泣いていたのを思い出す。ちなみに自分がビートルズに夢中になり始めたのはその「半年」くらい後のこと。なので、結構冷静に「死んじゃったんだ」という反応をしていたと思う。今にすれば信じられないことだけれど。

考えてみればジョンは享年40歳。あと少しでこの年齢に追いついてしまう。歳をとる、というのはこういうことの連続だな、としみじみしてしまう。

平和を訴えて続け亡くなった歌手の命日と、自分の国がかつて戦争に突入した日。どちらかに重みを与えるべきものではないのかもしれない。が、心にまず浮かぶのが前者というのはある意味、世の中平和である、ということの証なのではないだろうか、とも思ってみたりする。ピース!

秋葉原を歩いて

2005年12月07日 | 日常
ここ最近、社員と簡単なミーティングを行う目的で週に一度は秋葉原へ赴いている。今日もいつものように昼前の秋葉原をひとり歩いた。

信号で止まっていると、アジア系な外国の人に日本語で「この辺で家電製品が充実しているのはどこでしょうか」と質問される。その人はたぶんガイドで、集団(10人くらい)で日本のお土産を買おう、ということなのだろう。いくつか候補を教えてあげた。(一番でかいのは「ヨドバシ」であることも)。

更に道を歩いていると今度はどこかヨーロッパ(っぽい)国のカメラクルーが取材をしていた。熱心にフィギュアの店を撮影していたので、たぶん電気の街としてよりは「そっち系」の街としてこの街にスポットをあてているのだろう。

社員とミーティングを済ませ、また秋葉原の街を歩くと、今度は先ほどとはあきらかに別のカメラクルー(こちらはアメリカっぽい)が撮影しているところを見かける。

平日の日中、ということもあり街は比較的閑散としている。それ故よけいにこういった外国人の姿が目立ったのかもしれない。

来日した外国人が秋葉原を訪れることになったのは今に始まったことではないけれど、以前は純粋に「お土産」を買う街でしかなかった。今日のテレビクルーがまさにそうであると思うけれど、今は眺めるだけでも面白い街、と感じている人々が増えているのではないだろうか。

自分自身、良くも悪くもこの街は「特殊」だなと思うし、世界のどこにもこんな街は無いだろう。外国の人が興味を持つのももっともな話だ。

東京は空襲等の影響もあって意外に史跡等が乏しい街だ。そう考えると、こういう「現代」を前面に押し出した街、というのは東京にとって貴重な観光資源なのだろう。

それにしても最近のメイド喫茶類の増殖は半端でない。一時的なブームで終わるとは思うけれど。テレビクルーも嬉しそうにチラシを配るメイドさんを撮影していた。この映像を遠き地で見る外国の人達は、日本という国にどういう思いをはせるのだろうか…

つくるではなくて

2005年12月06日 | 日常
日曜日の午後、何気なくテレビをつけると橋田壽賀子女史脚本によるドラマを放映していた(渡る世間は~ではなく、なにかの単発もの)。

冒頭、主婦役の賀来千香子が夜、ひとりリビングで編物をしているところへ飲み物を探しに来た息子が登場。そこで母親は息子にひとこと「サンドイッチでもこしらえましょうか?」。

噂には聞いていた橋田ワールド、冒頭より全開といったところだ。「こしらえる」とはなんとも懐かしい。ドラマを眺めていたのは最初の10分くらいだけなのだけれど、全体的になんだかこういう、「懐かしくも現代には似合わない」口調でドラマは続いていく。

「こしらえる」という言葉、自分の世代ですら日常では絶対に使わない。せいぜい童謡や昔話でのみ出会うことば。こういう言葉が満ち溢れているのが「橋田ワールド」ということなのだろう。たしか「~する法はないよ」というのもお約束らしい。

こしらえる、でひとつ思い出したのは加山雄三の名曲「お嫁においで」。歌詞に「珊瑚でこさえた」という表現が出てくる。ま、こちらは歌の語呂がよいから、とかそういう理由もあったのかもしれないけれど。

たしかに「作る」でことは済んでしまうわけだが、言葉ひとつ替えることで話の印象がかなり柔らかくなる。時代とともに消えかかっていた言葉、橋田先生のおかげで思い出すことができた。橋田ワールドに感謝、である。

そういう訳で「こしらえる」という言葉がマイブーム(これも死語かな)の真っ最中。朝食、夕飯等々、我が家ではなにかあると「こしらえる」が飛び交っているのである。「そろそろ夕飯でもこしらえようかねぇ」。

演奏会終了

2005年12月05日 | 日常
所属するオーケストラの定期演奏会が土曜日に無事終了。

写真は本番直前、舞台上から撮ったもの。定員1300人のホールでほぼ9割の入り。正直驚いた。以前、サントリーホールで演奏した時(ここは定員2000人とかなりでかい)で1300人弱だったのだから、我々のオケとしては驚異的な数字。

例年でもそこそこ(だいたい900名前後)のお客さんが入っていたのだが、運営母体の企業が今回は学校等へ積極的にチラシを配ってくれたおかげみたいだ。アマチュアとはいえお客さんあっての演奏会なので、こういう舞台で演奏できるのは実に幸せなこと。

演奏に関しては、まぁまぁ、といったところだろうか。メインがシベリウスの第二交響曲であったので、有名な割にはお客さんにも詳細が分からない部分あったようで、実はニ楽章で少々まずいところあったのだけれど、あまり気が付いた人はいない様子。そんなことで喜んでもいけないのだけれど…

いずれにせよ半年に一度の演奏会が終わると、その年の大きなイベントが終えたな、という気持ちで満たされる。趣味、とはいっても音楽活動がいかに自分の人生に大事なのか実感する時だ。

これから1ヶ月は練習もオフなので、本来なら幸せな余韻に浸りつつ、練習のない週末を楽しむところ、なのだが今年は少々団内でいろいろな問題が発生。その後始末がまだ必要なのが悔やまれるところ。また近いうちにメンバーであつまっていろいろと「事後処理」をしなければならない…

いずれにせよ、いよいよ来年(正確には再来年2月)は創立15周年ということで、またサントリーホールでの演奏会が予定されている。その時こそは素直に演奏会の余韻にだけ浸っていたいもの。