中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

ひとつの境目

2005年11月30日 | 日常
最近、自分のまわりにいる人達を観察、もしくは具体的に話をしてひとつ確信したこと。

携帯電話でのメール、ウェブを抵抗無く利用するのが20代後半位まで。それ以上の世代は携帯は電話としての利用が中心。メール、情報収集はPCで、と考える傾向が強い。

この年齢層によるアプローチの差は、いつ頃から携帯を持ち始めたか、という個人体験に基づくものと推測。30代以降の多くは携帯を持ち始めたのが早くても20代半ばくらい、そして20代の人達は既に10代の頃から保持していた。この差が上記の結果を招いている。なので、いまの20代は30代になっても抵抗無くメール、ウェブも携帯で利用しつづけるだろう。

以前、ある転職サイト構築の仕事をした際、運営会社の人に聞いた話によれば、仕事情報への応募が多い経由はもちろんWEBサイト本体だが、モバイル用サイトからも結構な割合(一応守秘義務あるので具体値は省略)になるとのことだった。

その話を聞いて、自分は「転職」のように重い話を携帯から検索、応募するというスタイルがまったく理解できなかったのだけれど、こう考える事自体、遅れて携帯を手にした世代の考え方、という事なのだろう。

もちろん、以上は信頼に足る統計をとったわけでもない、実に私的、かつ狭い世界から導いた「推測」でしかない。でも、この話を30代以上の人にすると、ほぼ確実に同意してもらえるのでそう間違ってはいないはずだ。

人はどこまで開き直れるのか

2005年11月28日 | 日常
また、ではあるけれどやはりいま気になるのは姉歯設計事務所関連。特にヒューザー社長のキャラクター、これは注目せざるを得ない。被害にあった方には申し訳ないし、他人事として楽しむのは不謹慎かもしれないが。

鈴木宗雄議員騒ぎとかミドリ十字の阿部氏あたりもそうであったように、偉大なまでの開き直りを出来る人間を観察する行為って、なんとも言えず不思議な経験だ。

嫌悪感はもちろんなのだけれど、それ以上になんだか「感心」(決してポジティブな意味ではないのだが)してしまう部分が出てきてしまう。性善説の信者になるには歳をとりすぎたけれど、それでも「人はどこかしら善の部分はあるのではないか」という期待は捨てきれない。そういう甘さ、もあるからか彼らのようなタイプをみていると他者との差異の認識、というレベルでなくなんだか別の生き物でも見ているような感覚に襲われてくる。

あそこまでの開き直りをしている人はどういう精神構造なのだろう、またどういう人生を過ごすことでそうなってしまうのだろう。語弊はあるのかもしれないけれど、いくらでも考える事が沸いてきて、見ていて「飽きない」。

テレビ製作側でも思いは同じのようで、最近では同社長の学生時代や過去の行動、かなりパーソナルな部分を探りに入っている。メディアの無神経な個人の人権侵害には疑問をもつこと多いけれど、今回ばかりは好奇心にその建前も負けてしまう。

もしも人の心が覗ける機械があるのだとしたら、今は迷わず彼の心について覗いてみた、と思っている。実際に見たらみたで多分後悔すると思うけれど…

平塚でも…

2005年11月25日 | 日常
次々と現れる濃いキャラクター、予想通りの責任転嫁合戦。メディアにとってはこれ以上ない、という状況が続く姉歯設計事務所問題。事故発生前にそれが詳らかになったことはせめてもの不幸中の幸い。メディアもこういう時ばかりは「飽きて別の話題へ」移ったりせず徹底的にこの件を追求してほしいもの。

それにしてもこの事件、当初は建築の監査業務を民間に開放したことで発生した問題、ということになっていたのだけれど、平塚のホテル物件の発覚後は少し話が変わってしまった(平塚の件、設計は姉歯事務所だけれど監査は民間でなく市が担当)。

結局のところ監査が官、民のいずれなら良いかということでなく「こういうことをしでかす輩」が出現した場合には、今の監査体制では防ぎきれない、ということみたいだ。行政は今後どうするつもりなのだろう…

平塚市は自分が生まれ育った土地。それもあって子供の頃より聞かされているのは東海大地震の恐怖。この地震が発生した場合、平塚近辺の想定震度は6以上、と聞かされた記憶がある。もとより砂地の地盤、あまり地震に強い土地ではないので震度がどうであれ、少なからぬ被害を被りそうなのは間違いないようだ。

そういう意味では、今回発覚した一連の物件中、平塚のホテルはもっとも「事前に分かってよかった」ものひとつだろう。震度5程度で危ない、というのであれば話にもならない。

日々の報道を見るほどに頭の痛くなってくることばかり。予想していた通り、この問題に絡む「政治家」も出てきたようだし、事はこれからより一層大きくなりそうだ。責任の擦り付け合いは見ていて本当に寒いものがある。

今回の件にあえて救いを見出すならばやはり「事前」に発覚したことにつきるだろう。少なくとも平塚市内では確実に何十人かの死者を防いだことになるのだから。実に後ろ向きな救い、ではあるけれど…

だめ連

2005年11月24日 | 日常
ふと、思い出したのが「だめ連」。

少しネットで調べてみると、彼らが話題になったのは1999年。もう6年も昔の話だった。彼らのことを簡単に説明しておくと「だめな人こそ、ひとり篭らず他人と交流する必要がある」をポリシーに集まった団体。基本的に何をするわけでもないコミュニケーショングループといったところ。

「だめ連」に興味を持ったのは主催者が自分と(確か)同年齢で、かつ中野区の住民であった(前に住んでいた家と同一町内)、という些細な理由。以来、メディア等に出る都度気にはしていた。

近頃すっかり話題にもならなくなったのはたぶん「ニート」という言葉の一般化にあるのかもしれない。全てが重なるものではないけれど、基本的には似たもの。少なくとも世間からはそう見えるはずだし、物珍しくなくなればそれまでということだろう。マスメディアはなんでも消費してしまう。

それにしても検索してみると、一応彼らはWEBサイトまでもっている。パソコンを保持してサイトも運営、どこがダメなんだと一瞬思うもよく見れば「ヒストリー」「マニフェスト」等々、肝心な部分になにも書かれていない。やっぱり「だめ」な人なのか?

特に共感するわけではないけれど、自分と同年代でこういう風に生きていくのはどういうものなのだろう。そんなことを考えつつ、今後も生暖かく彼らを見守っていきたい、と思う次第。

業界の常識

2005年11月22日 | 仕事
先月から我が社でひとり、フリーのエンジニアに持ち帰りの仕事を頼むことになった。システム業界、それも我々のような小規模の会社ではよくあることで、だいたいの場合フリーのエンジニア、というのは過去に同じ会社に所属、もしくは取引先として知り合った間柄であったりする。

仕事を依頼したのは前の会社の同僚。自分は退職し今の会社をつくり、彼女はフリーエンジニアとしてこのように知人から仕事を請け負って生計をたてている。

昨日初回分の請求書を受領。そこでの請求額は源泉徴収10%を差し引いた金額になっている。以前の会社でも同じようにフリーエンジニアとの取引があったけれど、会社、エンジニアの双方ともに「フリー(個人事業主)は源泉10%をあらかじめ差し引いて請求」が「常識」になっていたので、自分もそういうものなのだ、とばかり思っていた。

今は事務もすべて自分で行う必要があるので、源泉として「預かった」金額は納税しなければいけない。その振込用専用用紙を中野税務署へ受け取りに行った。用紙自体は簡単に入手できるも、記入方法に不明点あったので直接職員に尋ねてみた。

そこで知った意外な事実なのだが、フリーの人に対する報酬で支払い時に源泉徴収する必要がある職種は、実は非常に限定されている。作家、作曲家や野球、競馬騎手、モデル、ボクサー等々。(たぶん、だけれど) 「取り逸れのありそうな」職種だけということみたいだ。

すくなくともシステム開発においては個人事業主であっても、納税は本人が年度末の確定申告で行うものであり、源泉徴収すべきものではない、とのこと。

以前の会社では、個人事業主からくる請求書ではかならず源泉が引かれたものになっていたし「総務のプロ」を名乗っていたおじさんも「常識だろ」と自慢げに語っていた記憶がある。今更ではあるけれど「業界の常識」なんて実にアテにならないものだ。かなり狭い間で流布した常識なので、あまり業界のせいにしてはいけないのかもしれないけれど。

それにしても以前の会社、この徴収してしまった分をどうやって納税していたのだろう…

コープスブライド

2005年11月21日 | 映画
続き物ではないが「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」もあるので、楽しみにしていた人も多いだろう。個人的には「ナイトメア~」を未見だったので、良くも悪くも先入観ゼロで鑑賞。

CGで実装すればさぞかしおぞましい世界になってしまっただろう。馬鹿みたいに手間の掛かるクレイアニメによって、実に楽しげで温かみのある「死者の世界」を描く事ができている。

前半の冷たく(色々な意味で)冷え切った人間の世界から、この死者の世界へ舞台が変わると、果たしてどちらの世界に入るのが幸せなのだろうという気にすらなってくる(実際、ヴィクターは途中である決断をするわけだが)。

こうした独特の世界の映像を楽しむには申し分ないし、なかなか楽しい映画。クレイアニメの制約もあって上映時間は77分とやや短いのだけれど、退屈することなく一気に見終わった、という感じ。

ただいくつか難をあげるなら、まずミュージカル映画としてはなんだか中途半端。特にこれといって光る歌がなく、なんだか「無理に」ミュージカルにした印象すらある。ミュージカル、という点だけで比較するなら個人的には「サウスパーク」映画版のほうが数段優れていると思う(さすがに歌詞はひどかったが)。これは監督、というよりは作曲家の能力の問題ではあるけれど。

あと、ファンタジー映画でこういう不満はお門違いかもしれないけれど、この映画で腑に落ちないのは主役3人(ヴィクターと生死それぞれの結婚相手)のキャラクター。いずれも「非常にいい人」なのだけれど、なんだかあまりに流されてばかりで、どうも感情移入し辛い部分がある。そういう性格のメンバーが集まったからこそあの「悲劇」が起こった、ということなのかもしれないけれど。

以上気になった点はあるけれど、最後の美しくも悲しいシーンを見届けると、劇場に足を運んでよかった、という気分にさせてくれる作品。今度こそレンタルで「ナイトメア~」を見てみよう、という気にもなってきた。

★★★

流行語大賞の?

2005年11月17日 | 日常
何年も違和感を感じつづけていたのが毎年年末に発表される「流行語大賞」。

選考プロセスもよくわからないのだけれど、なにより違和感を感じるのはその候補として挙がる単語。

流行語といえば「はやった言葉、言い回し」だと普通思うのだけれど、あの候補としてリストにあがるもの(そしてしばしば大賞に選ばれるもの)は流行語、というよりは名詞であったり、事象、事件であったりするものが結構ある。

たとえば2004年の大賞は「チョー気持ちいい」。実際に流行ったかはともかく、たしかにこれは流行語のカテゴリーに収まるだろう。一方、同年のトップテンには「冬ソナ」も入っているけれどこれはおかしい。流行語ではなく、流行したドラマの名前、流行したモノだ。「流行語」ではない。

今年の候補を見ても「iPod」とか「電車男」「悪質住宅リフォーム」等々。流行語というよりは、流行ったものを単に挙げている感じ。

眉を吊り上げて憤るほどのことでもないけれど、年末になると毎年、どうしてこのことを誰も指摘しないのか、なんとなく違和感を感じつづけている次第。

と、ここまで書いてよくウェブサイトをみると「新語・流行語大賞」とある。サイト内でも単に「流行語大賞」と記述している部分もあるけれど、正式名称は前者らしい。そういうことであるなら、まぁ納得がいく。そそっかしかったのは自分だった…

書き始めてからこの事実に気が付いたので、収まりも悪い。取ってつけたようで申し訳ないけれど、今年の流行語大賞、個人的に予測しておきます。たぶん「小泉チルドレン」で決まりでしょう。これまでを見る限り、この賞は政治関連用語に甘いみたいだし(1999年の大賞「ブッチフォン」は未だに謎)。

煙に見えるもの

2005年11月16日 | 日常
ひさしぶりに「俺達は天使だ」のDVDを見ていてふと気が付いたのだけれど、あの時代の成人男性は、殆どといってよいほどに煙草をふかしている。

麻生探偵事務所の4名はもちろん、麻生の友人弁護士、警察の刑事達、基本的にレギュラー陣ほぼ「全員」に煙草を吸うシーンがある。もちろん、あくまでもドラマの上での設定がそうだというだけで、実際に各俳優が吸っていたかは別の話だが。そして一方、女性に関して(少なくともレギュラー陣)は基本的に煙草を吸わない。

基本的に女性が吸っていない、というのも非常にあの頃らしい。当時、女性の喫煙はまだそれほど一般的ではなかった。どいういうきっかけがあったのか知らないけれど、女性でも煙草を吸うのが一般的になりはじめたのはたぶん80年代後半、自分が大学生のころからだ。いま思い出すと、自分の所属する学生オーケストラの同期女性で煙草を吸う人って20人位で1人だけだったし。

こういうのはTVドラマならではの面白いところ。意識はしていないのだろうが、しっかりとその「時代性」を記録してくれている。

ドラマの放映は1979年。考えてみればあの頃、今のような「健康志向」とかそういったものは一般的ではなかった。「ジョギング」という外来語と共に、走るという行為がただの運動から「オシャレな行為」のひとつとなり始めたのが、確かこの前後何年かだった位のはず。

統計によれば国内において喫煙人口は年々確実に減っているそうで、確かに自分の世代でも、喫煙者は半分いるかどうか、といった感じ。あくまでも自分の周りの感覚的な話だけれど。

こういうことを意識して今の番組を見てみると、ドラマでの喫煙シーン、かなり減っているような気がする。やはり時代の流れなのだろうか。

だいたいの事柄において「時代の流れ」とは嘆かわしい、と感じるものばかり(歳をとったということなのだろう)だが、今回のような流れならば、非喫煙者の身としては嬉しい限り、大歓迎だ。

プロフェッショナルとは

2005年11月15日 | 日常
あるアマチュアオーケストラへエキストラとして呼ばれ、昨日その練習へ出席した。まだ出来たばかりの団体なのだが、ここの面白いところはその構成メンバー。主催者のコネクションがあるらしく、かなり大量の音大出身者がエキストラとして呼ばれているらしい。
かなり高度な音を作れるのだろう、と楽しみにしていたのだけれど、いざ練習に出席してみるとその実力の程は…

正直なところ、他のアマオケとそれほど変わりはない。いや、むしろ少し下手、といってもいいくらい。個々のスキルは決して悪くない水準なのだけれど、とにかく誰もが明らかに練習不足。アマチュアオケ、ということで舐めている部分あるのかもしれない。

音大を出てもそのまま音楽で食べていける人間は少数派、ではある。ただ、チューバの人に関しては一応「プロ」ということらしく、某著名オケにエキストラ出演した過去が自慢とのこと。

確かにこの人「テクニック」に関しては際立っており、このあたりはさすがであった。ただ他の音大組同様全く持って練習してきていないし、やる気もまったくない。出だしを何度も間違えるし、音もよくはずす。

たぶん、彼のエクスキューズは「アマチュア相手だから」だろうし「プロの舞台に乗れば話は別」ということなのだろう。

大学時代、オケのトレーナーとして某放送交響楽団のメンバーの方々に面倒みていただいたのだが、学生の我々に彼らが最も強く説いたのはテクニック云々ではなく、音楽に取り組む姿勢についてだった。

例え1音はずしてもプロは仕事を失う可能性があるし、それをしないのがプロ、そして頻繁にしてしまうのがアマチュア。もちろんテクニックの差も問題とはなるけれど(ただしべらぼうにうまいアマチュアが時折存在するのは事実)、結局プロとアマチュアの一番の差はそこだ、と。

この教えを信じるなら、チューバの彼の今後はあまり明るいものではないことになる。まだ若いので、今後いくらでも修正可能だとは思うけれど。

彼の今後がどうなるかはわからないけれど、せめて来年春の本番では「プロ」らしさの片鱗を見せつけてほしいものだ…

野村義男的人生

2005年11月08日 | 日常
ふとしたきっかけで野村義男氏のウェブサイトへたどり着いた。いまでは浜崎あゆみのギタリストのほうが通りがよいのかもしれないが元「たのきんトリオ」、あの野村義男氏である。

いまや立派な「ギタリスト」なのでやはりギターの話題が中心。なかでも特に面白いのが写真のついた日記。結構マメに更新されるし、ミュージシャンの日常というものが垣間見られてなかなかに楽しい。彼の人柄を表しているのか、非常に軽い文体も独特の味がある。

ここを見ている限り、ミュージシャンとしては結構成功しているようで、意外に(といっては失礼だが)忙しい毎日を過ごしている。なにかあるとすぐにギターを買ってしまうようなのだが、それだけの財力は維持できている、ということなのだろう。いずれにせよ毎日を実にエンジョイしているようだ。

思い出してみると「たのきんトリオ」における野村氏の立場というのは結構微妙なところがあった。最近はともかく昔のジャニーズ系のアイドルユニットは必ず一人「中和剤」的なメンバーを入れる傾向があったのだけれど、その意味で彼はまさに「たのきん」の中和剤だった。

本人も当時よりそのことを強く意識していたみたいで、何かのインタビューで「自分はたのきんトリオの格助詞的存在だ」と語っていたことを記憶している。この奇妙な比喩が面白くてそれ以来、なんとなく野村氏の動向というものを気に留めるようになった。

田原、近藤両名がアイドルタレントとして成功を収める一方、彼だけはデビューも大幅に遅れ「ザ・グッバイ」という名のバンドでレコードを発売した時、世間で既に「たのきん」ブームは過去のものになっていたし、このバンドがヒットチャートを賑わすことも決してなかった。

自分が高校生の頃、横浜のレコード屋をうろついていたら近くでのプロモーションイベントがあるらしく、野村氏とそのバンドメンバーがレコード屋に入ってきて、店長にイベントチラシを手渡す場を目撃したことがある。彼はテレビ同様に笑顔を振りまきながら歩いていたけれど、人の多い店内で彼らに気付いた人間は自分と隣にいた友人だけだった。この時「たしかに格助詞だよな」と思った記憶がある。

タレントとして結局、いわゆる表舞台で派手に活躍することはなかったわけだけれど、サイトをみる限り地味ながらも充実した仕事をこなしている。少なくとも今の人生彼の存在は決して「格助詞的」なものなのでは決してない。

比較するものでもないけれど「たのきん」3人の人生、どれか一つを体験できるとするなら、自分は迷わずに野村義男的人生を選ぶと思う。

ソニー・ロリンズ@東京国際フォーラム

2005年11月07日 | 音楽
Jazz界の生きる伝説、ソニー・ロリンズの東京公演を聴きにいってきた。

Jazzのマーケットとして日本はかなり巨大な市場の一つ。「巨人」とか「歴史」といった形容をもつミュージシャンでも結構頻繁に来日していたりする。ロリンズもそのひとり。今回の来日公演が22回目。さらにここ10数年だけを取るならば、それこそほぼ1年おき位の頻度で来日していた。

その意味ではさして珍しくも無い公演のはずなのだが、今回だけは「特別」。なにしろこれがロリンズ最後の日本公演ということで、日本のJazzファンにとって「行かずにはいられない」ものに。

これまではだいたい中野サンプラザで行っていた東京公演も今回は東京国際フォーラムAホール。収容人数5000人とJazzの公演を行うにはいささか器が大きいが、チケットは前売り段階で完売。幸いにしてチケットが手に入り、座席は前から25列目。なかなかに運がよい。

自分自身、ロリンズの公演は過去2回程聴きにいったことがあるけれど、ここ何年かは正直「ご無沙汰」していた。元よりJazzに関し、たいして肥えた耳はもってはいないけれど、そのような自分の耳をもってしても、最近のロリンズにさほど音楽的に光るものがあるとは正直思えなかったし、たまにその姿を拝めればそれでよいかな、というのがコンサート鑑賞時の動機であったのも事実。

で、肝心のコンサート。前半と後半、休憩を挟み約1時間ずつの構成。バンドはロリンズ以外にトロンボーン、ベース、ギター、ドラム、パーカッションの構成。ちなみにトロンボーンはロリンズの甥っ子のクリフトン・アンダーソン、最近ではお馴染みのメンバー。

ロリンズ御大、今年で76歳とのことだが相変わらずまぁ「モリモリ」と吹く。その点については感心する限り。よくやるよ、というのがまず何よりの感想。今回で日本は最後だがそれは長旅のツアーはやめる、ということでありミュージシャンとして引退するわけではないのだ。ただ、先に書いたように少し生意気なことを書くとあくまでもあの年にしてはよくやるわい、という見方になってしまうのも否めない。

満員となった東京国際フォーラムやはり年輩の方が多かったが、今日はロリンズを聴きに来る場、というよりはロリンズの姿を拝む場という感じ。会場の雰囲気を一言で表すならば「あたたかい視線で満たされた世界」。目の前であのロリンズがテナーサックスをブロウする。それだけでよいのだ。

一通りのプログラムを終え一度ステージを退いたところで熱烈なアンコール。それに応え再び舞台に現れたロリンズがおもむろに吹き始めたのはセント・トーマス。ロリンズの最高傑作と名高いアルバム「サキソフォン・コロッサス」の冒頭を飾る彼の代表曲だ。ある意味ベタな選曲であるけれど、ロリンズから日本のファンへの贈り物、ということなのだろう。

「あの頃」と比べればテンポも緩やかで指も回っていない。底抜けに明るい南の島の太陽を描いたような音楽が、今日はどこか寂しげに響く。聴いているとなんだか夕日を見つめているような気分になった。

しかしひとつだけ言っておくならば、いろいろな思いを胸に夕日を眺めるという事、これは人生においてもっとも心地よい瞬間のひとつなのだ。

ドア・イン・ザ・フロア

2005年11月04日 | 映画
好きな作家、ジョン・アーヴィングの小説「未亡人の1年」の映画化。どれだけ優れた原作の映画化も、小説を先に読んでしまうとダイジェストみたいに見えてしまうから、と思い小説自体はまだ未読。

恵比寿ガーデンシネマの客層は他より高めであることが多いけれど、今回は特にそれが顕著。映画のポスターからして難しい表情をした中年夫婦が横に並ぶ写真に「悲しみの扉を開けて、私は、ゆっくり生まれ変わる」のコピー。夫婦の直面する苦悩や葛藤を淡々とじっくり描く文芸作品。いかにも文芸作品然とした印象故、おのずと客層も絞られたのだろう。

映画が始まって最初の1時間くらい、物語の前半部分については宣材のイメージどおりの内容。一夏のアルバイト先として有名作家の下を訪れる作家志望の青年が、そこに見るのは既に終わりかけている冷えた夫婦関係。過去二人の息子を事故で失った傷を癒しきれない美しい作家の妻に青年は惹かれ、そして…

正直言えばこの前半はやや退屈。ニューヨーク、ロングアイランドの静かな夏の風景は良いけれど2時間この調子は少々きついな、と思って見ていると、1時間くらい経過した辺りから物語の展開にスピードを持ち始めてくる。具体的には中盤、青年が作家の妻と情交を持ってしまうあたり。先のコピーで言えば、作家の妻が扉を開けた瞬間、ということか。

この後半部分からはスピードだけでなく内容的にもアービングの「ガープの世界」的な世界。真面目にやっているはずなのにどこかコミカルな人々。その喜劇的な奮闘はジョージ・ロイ・ヒルによる映画の続き的なものを期待する人にも充分満足がいくと思うし、素直に物語を追っていればそれだけで楽しい。

パンフレットを購入して知ったのだけれど、実は映画化されているのは原作の最初1/3くらいの部分まで。原作タイトルが「未亡人の一年」なのに未亡人が出てこないのもその為。パンフレットには小説の「その後」も記されているのだけれど、これによると小説での主人公、実は作家夫婦でないようだ。概要ではあるけれど、いかにもアーヴィング的な物語進行でそうなので是非とも読んでみたくなった。

事情を知らなければ、あくまでも完結した作品として十分に成立していると思うし、その意味では見事な小説の映画化だったと思う。前半と後半の落差が少しバランス悪い気がするので、そこは少々残念。ラストシーン、個人的にはかなり好きな終わり方。この辺は好みも別れるかもしれないけれど。

★★★

ネットの電話帳

2005年11月02日 | 日常
興味もあってPCにSkypeを入れたはよいけれど、周りでこれを使っている人間いないこともあり最近ではすっかり「入れっ放し」の状態になっていた。このように殆どSkypeというソフト自体を忘れかかっていた昨日の夜のこと。

夜PCに向かっていると突然Skypeのチャット機能が立ち上がって「Hi!」とのメッセージ。送信元は外国人名。一体何事だろうと返事に戸惑っていると「XX社のXXさん(自分の名前)ではないですか?」と英語でメッセージ。相手の名前をよく見ると半年ほど前に仕事絡みでメールのやり取りして少し親しくなったスウェーデンの人だった。仕事がかなりヒマなので、Skypeで知った人の名前を片っ端から探してはこうして話し掛けているのだとか…

インストールした人なら分かると思うけれど、Skypeのユーザは他ユーザの名前を電話帳のように自由に検索することができる。自分も正直に本名を登録していたものだから今回のようなことが起こったというわけ。

考えてみれば、昔は電話帳に名前を載せるのがあたりまえであったし、そういう時代なら今回のようなことが電話でもできた。連絡先を知らない知人とコンタクトを取る術があったということになる。

最近ではそんな状況、恐ろしくて誰も望まないのはいうまでもない。けれど今回の件がそうであったように、本当はこういうことが出来る事自体は実にすばらしい。ただ、望まれない第三者が悪用することを考えるとしたくても出来ない時代になってしまった、ということなのだろう。ああ、古き良き時代…

先日読んだ新聞記事によれば携帯電話の黎明期は、購入すると勝手に携帯の番号も電話帳に掲載されていたらしい。今では絶対にありえない話だ。

Skypeがどのような意図で今の時代、このようにオープンな検索システムを開放しているのかよく分からない。電話番号と違って嫌なら簡単にアカウントの変更ができる、ということなのだろうか。いずれにせよ、個人的にはしばらく本名のまま、Skypeでのアカウントを維持しつづけてみようと思う。忘れかけていた誰かがまた、連絡を取ってくれるかもしれないし。

東証システムダウン

2005年11月01日 | 日常

昼に渋谷の街を歩いていて、証券会社の店内を覗いたのがこの写真。結局取引が再開したのは午後になってから。丸々半日、一切取引ができなかったようだ。

かつて金融系システムの仕事をしていた身からすると「ありえない話」なのだけれど実際起こってしまった。夕刊を見る限りソフトウェアトラブル、とのこと。

みずほの大トラブルの時も凄い話だと思ったけれど、あれはまだ「そういう事情が重なれば起こり得るな」と(あきれつつも)納得してしまう部分があった。過去の経験からして、確かにソフトトラブルと人災が重なってしまうと、どれだけ莫大な労力、資金をつぎ込んでも信じられないような結果を招く可能性は充分にある。けれど、今回のように「稼動出来ない事態を半日以上続かせる」というのはある意味難しいことなのではないだろうか

だいたいこのような巨大システムだと、データ、ソフト、物理的な施設共々何重にも用意しておいて、そのうちの「どれか」は使えるようにしておくことになっている。それこそテロリストに全ての情報が漏れ、一斉に全施設を攻撃でもされたりしない限り、普通は「どれかしら」は使えるものなのだけれど。

ソフトウェア不良はもちろんなのだけれど、上記のようなリソースをうまく活用できなかった「人災」の側面もきっとあるのだろう。落ち着いたら必ず誰かが「責任」を取らされるのだろうな…

幸か不幸か今は会社の規模も小さいし、こんなコアなシステムを自分達だけで開発するようなことはまずない。社員達は「いつかは大きなシステムをやりたい」と口癖のように言うけれど、今回の報道で何か少し学んでくれるとありがたいところ。