中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

匿名選挙

2005年08月31日 | 日常
ふと思いついたのだけれど、こんな選挙は可能なのだろうか。

まず、立候補者はすべて匿名。所属政党も秘匿。各候補者には個人が特定できないユニークな番号、もしくは記号のようなもののみを付与。

候補者は新聞、メディア等にて自己の主義主張、政策、公約を文字ベースで発表するのみ。一切の選挙活動は禁止。

有権者はその内容より候補者を選び投票。投票結果は公表されるが、あくまでも前述の番号等によってそれが実際に誰なのかは分からないようにする。ただし、所属政党は公表してもよいかもしれない。このような形で政党というもの自体意味があるのは別として。

当選して見事議員になった暁も、政治家の個人情報は公表しない。あくまでも匿名のままで政治家として活動する。

同時に、物理的に集まる会議というのも廃止。常に個人特定をできない仕組みのネットワーク会議システムかなにかで、議論をさせる。もちろん、そこでのやり取りはすべて国民に公表、自由に閲覧可能とする。

また有権者は、自分の候補者の公約とその結果を簡単に検索、検証する仕組みも用意。次回の選挙時にはその対比をみつつ、また投票に望めるようにする。

徹底的に人間性というものを否定したこの形態、もちろん非現実的な側面は多々あるだろう。だいたい、総理大臣も匿名にするか、とか少し考えただけでも明らかな無理はあまたある。

今日の昼、相変わらずに政党名と自分の名前を連呼しながら走る選挙カーの騒音を聞いていたら、ふと思いついたのが上記の政治。たわごとかもしれないが、案外今よりはマシな政治が行われたりする気がしないでもない。

どの世界でも

2005年08月30日 | 日常
ここ最近、オーケストラの運営方針にいろいろと内部統一がとれないこといろいろとあって、その調整で非常に労力を費やす羽目に至っている。

趣味の世界とはいえ、だいたい50人以上の大人が「組織」を作れば、ある程度は仕方ないのかとも思うけれど、やはりこういうことはやっていて楽しいものではない。

先日もそのような形でインスペクター(オーケストラにおけるマネージャーのようなもの)と「大人の調整」を行わなければいけないことになった。相手は自分より少し上の40代。いわゆる一部上場企業で管理職を務める人物。双方で「大人の話し合い」を淡々と進められることを期待していたのだけれど、結果はさにあらず。

こういうのを「企業病」というのだろうか。とにかく自分が人生の大半過ごす会社的な世界の常識、これが「普遍的な」ものだと信じて疑わない。上下のはっきりした会社みたいで、既に会話の最初から、おまえは自分に従うべき、というのが彼の基本姿勢。内容は二の次。私が年齢的に下な時点で、彼にとっては結論がでているのだ。

とにかく話の本筋と関係ないような些細な事、何でもよいのでそれを取り上げては「ほら、おまえには欠点がある。おまえの話は信用ならん。とにかく俺の意見に従え」とこればかり。以前彼へのメールの返答が一日遅れた事を今更あげて(ちゃんと返信でおくれた事情は説明したのに)、そのレベルの人間が俺に意見をするな、と終始この論調。

政治家同様、話の本筋から全然関係ないところでうまく丸め込もうとばかりするその姿勢には、正直辟易してした。今回の件、そもそも彼のあまりの独善ぶりに嫌気を感じるメンバーを代表して、という形での話し合いであったのだが、彼には「偉い自分に意見をする」人間がいること自体、理解できなかったみたいだ。

ある意味、最近ではあまり見られなくなった、古典的な「組織型人間」。昔の大人はこういう人ばかりであったのだろうか(私事だが、自分の父もこんな感じだった)。

自分は認めたくないけれど、組織というのはこのような人間「ばかり」であっても、案外うまくいくものなのかもしれない。ただ、このような人間で「なくても」うまくいく、と今のところは信じている。彼との交渉はいまだ続いているけれど、それを自分達のオーケストラで証明できれば、と思っている。

趣味の世界、といっても結局は社会的なものと無縁ではいられない。頭の痛い話ではあるけれど、世の中こんなものなのだろう。

社名の由来

2005年08月29日 | 仕事
この4月に会社を立ち上げた際、当然ながら社名をどうしようということになった。良い案、強い希望、誰かしら持っていると思ったら、さにあらず。誰一人として具体的な名称を出す事ができない。なんともつつましい社員達だ。

仕方ないので社員全員に「宿題」として一人最低3案を提出、最後は投票によって決める事にした。

こんな流れなので、ある意味名前は何でもよかったのだけれど、個人的に少しだけ「こだわり」もあったので、ネーミングに関しては一つだけ条件を設定した。
その条件とは「基本的に会社名は日本語で、漢字、もしくは平仮名で表記する」というもの。

個人的に国粋主義的な嗜好はないのだが、会社名はできれば日本語にしたかった。その理由については、例えば求職サイトのようなところで、業種を「IT系」に絞り、会社一覧を出してみたりすると理解していただけるかと思う。

そこではものの見事にアルファベット、外来語のオンパレード。ライブドアやサイバーエージェントは言うまでもないけれど、IT系の場合、9割以上の会社社名は外来語にてネーミングを行っているといっても、決して誇張ではない感じだ。

要は思想的なものというよりむしろ、「他と一緒はイヤ」といういつもの天邪鬼的な発想でしかないのだけれど、結果としてはなかなか良い名前が見つかったと思っている。

その名前、若手女性社員が「昨日、あるある大辞典で特集していた野菜の名の語感が気に入ったので」と提出したものが投票の結果セレクトされてしまった。天ぷらにすると美味しい少しマイナーな野菜。意味は全くないのだけれど、読みはそのままに、漢字だけ別のものにしたら、いかにも「意味ありげ」な名前になった。

初対面の人に名刺を渡すと、かならず社名の由来を聞かれる。深く考えずにつけた名前だけれど、まずは興味を持ってもらう、という点においてはビジネス的にもOKだったのかな、と思う次第。

皇帝ペンギン

2005年08月28日 | 映画
夏休みも終わりかけ、暑さのなかにも次の季節を感じさせる恵比寿にて「皇帝ペンギン」鑑賞。

子供の頃、日曜日にテレビ放映された「すばらしき世界旅行」を楽しんでいた世代として、このような映画は主題を選択した時点で「普通にやっていれば失敗はないだろう」と予想していったけれど、まったくその予想通り。

だいたいにおいて「ペンギン」を選んだ時点である意味反則。本人達に何の意図、作為のないあの愛らしい姿が下手な脚本と演技に圧巻してしまうのはあたりまえのこと。特に子供ペンギンの姿ときた日には…

もちろん、いくら題材、被写体が良くても、それをうまく映像に収め、まとめるというスキルは映画製作スタッフの功績。そういう意味では「誰にでもできる」もの、というわけではない。実際、よくこういうシーンを収めたな、と感心する部分は多々存在する。

前述の「すばらしき世界旅行」に引きずられるわけではないけれど、個人的には「親子3人」をペンギンの中に想定し、それぞれにせりふを喋らせるというやり方はあまり好みではなかった。坦々と、ナレーションだけで映像を進めたほうがよかったのでは、とは思う。この辺は好みの問題なのかもしれないけれど。

同じように音楽。これも今ひとつさえないポップスを挿入するくらいなら、いっそう何も使わないほうがよかったのでは、とも思う。映像の邪魔、とまでは言わないまでも、なんだかしっくりこなかった感があった。

細かい点では気になることあるにしても、こうい映画を頭を空にして眺めることはとても楽しい。そこには下手に嗜好を凝らしたドラマよりも充分に、楽しめる何かがある。作為を超えた映像を撮る、というのも実は決して楽なものではないのだろうが、そういう企画を立て、実行に移したスタッフへはあらためて敬意を表したい。

それにしても、ペンギンの生活というのも思っていた以上に大変だな…

★★★☆

CCCD

2005年08月27日 | 日常

ローリングストーンズの新譜がなかなか評判良いようでamazonで予約注文することにした。

CDを購入する場合、クラシック音楽であれば安さ優先で基本的に輸入盤を購入する。洋楽の場合、さすがにネイティブ発音の歌詞を耳ですべて理解できるまでの語学力はないので、出来れば歌詞カードのある国内版を選びたいところだが、最近はクラシック音楽とは別の理由から輸入盤を購入する事が多い。

洋楽ではコピープロテクト用に何らかの処置を施したCD、いわゆるCCCDが多い。それも、多くの場合輸入盤にはプロテクトがなく、国内版にのみプロテクトがかけられている、というケースが多い。今回のストーンズのCDはまさにその典型。なので、こういう場合、洋楽でも輸入盤を購入することになる。

簡単にCDの複製が作れるようになってしまった現状、レコード会社が何かしら対策を行いたい気持ちはわからないでもない。ただ、不可解なのはなぜ国内盤のみプロテクトがかかかるパターンが多いのだろうか、ということ。

どのような「理由」があるのかは分からないけれど、他では大丈夫なものを許さないという姿勢が嫌なので、両者に差がある場合は制限のない輸入盤を買うことにしている。

そもそも、ノイズを入れてコピーを防止する、というやり方自体はかなり不評であったようで、今回のストーンズのCDでは新しい方式を採用している。以前に比べれば制限付きでコピー等もできるので、まだ「まし」ではあるみたいだけれど、特定のソフトを使用しなければいけない等々、まだまだ変な縛りがあるみたいだ。

売上が落ちたらコピー制御に躍起になる。この企業姿勢はどこかおかしい。物事の原因にはいろいろな側面を検討して結論を出すべきだと思う。価格設定、コンテンツ自体等、どこか他に問題があるとは考えないのだろうか。

自分は趣味として音楽にはそれなりのウェイトを置いているので、欲しければコピーなどせず買うことにしているけれど、それほど音楽に深い思いがない人も、新譜でも値段が1500円程度だったら売上も随分異なるものになると思うのだけれど…

タックは何処へ

2005年08月26日 | 日常
のだめカンタービレで「千秋さまはこんなツータックのへんなズボンはかないわよ」と、主人公のひとり、千秋の代役を申し出た別の若手指揮者に真澄ちゃん(千秋のファン。乙女な男性)が毒づくシーンがある。

これを読んで、それとなく「ツータックのズボンって変なの?」と連れに確認してみると「スーツならともかく、今時カジュアルウェアでタックの入ったパンツなどありえない」との回答。

だいたい「ズボン」と「パンツ」という点で二者間に、常識のどこかに「溝」があることは自分でも分かるのだが、こうもはっきりと断言されると少々面食らう。

もともとファッショ関連にはそう強くないし、世代的にもなんとなくアメリカンカジュアルであれば無難、で30年以上をやり過ごしてきた身にとって、今回の件は日常に潜むちょっとした衝撃といっても大げさではない。信じた「常識」はなかなかに変えられないのだ。

普段Gパンを穿くことが多いけれど、それ以外にコットンパンツ(いわゆるチノパン)も何本かは持っている。自分としては「当然のこととして」ツータックのものを選んでいたわけだけれど、これは「ありえない」のだと。

こちらはまだ怪訝な顔をしていたので、後日、新宿へ二人して出かけた際「論より証拠」とばかりにセレクトショップ何件かを連れまわされた。「セレクトショップ」が何たるかは知っているけれど入ったことは殆どない。そこにある「パンツ」をいろいろと手にとっては自分の言っていたことがいかに正しかったか、得々と説明を受ける。

確かに、今の若者が穿くパンツ、ダボダボなものもそうでないものも、タックの入っているもの、一つもなかった。新宿でも中野でも、どれだけ若者達とすれ違っても、見ていないところは見ていなかった…

いまのズボンにタックの入ったものは殆どない。どうでもよいようなことで時代と自分との乖離を感じてしまう出来事であった。

ゆとり教育?

2005年08月25日 | 日常
葛飾区の公立中学校では、夏休みを一週間短縮し、今日から新学期開始のニュース。東京の場合8月一杯は夏休み、が一般的なのでこれはたしかに「異例」。

なんでも学力テストで葛飾区の成績が著しく低かったことに伴う措置らしいのだけれど、区としてはそれが「ゆとり教育」に伴う授業時間の減少に原因があると見ているようだ。

ゆとり教育の適用はこの区ばかりではあるまい、とは思うけれど、これが著しい学力の低下を招いている、と言う話はよく聞くので気になるところだ。

小学生教師の知人によれば、今の教科書は本当に「これでいいの」と言いたくなるくらいにぺらぺらなのだそうな。誰も落ちこぼれを作らないことを目的とすればそうもなってしまうのだろうが。

落ちこぼれを作らない、と言う発想自体が馬鹿みたい、と個人的には思うのだがどうだろう。人間、平等に機会は与えるべきだと思うけれど、能力が平等でないのは仕方のないことなのに。多様な価値観というものを理解できない人間が深く考えもせず採った施策、という感じがしてならない。

昨日、例の新党に参加した一人の政治家が「負け組みを作らない社会にしたい」と会見で述べていた。これも発想としては全く一緒だと思う。

負け組みを作らない社会を実現したいのならば、今更ながら共産主義でも目指すしかないだろう。そもそも人間がみな平等だ、と言う考え自体が間違っている。人間は平等などではないし、明らかに色々な側面で差がでてくるはずだ。そしてそれはあたりまえの事だ。

負け組みをつくらない、ではなく「勝ち負け」という単純な一つの基準(結局は収入)だけで人を評価する社会をつくってはいけない、ということだと思うのだけれど。重要なことは。

少なくとも、この「新党」に何か新しいことを期待することは難しそうだ。

衆院選に思う

2005年08月24日 | 日常
今回の衆院選、少なくともマスメディアにとっては話題豊富で実に「ありがたい」ものなのだろう。例によって「刺客」だ何だと非常に楽しそうだ。新党が3つも現れ、そこにいきなりタレント県知事も合流。例のIT社長も参入するし。良いネタ、てんこ盛りだ。選挙結果がどうであれ、しばらくは「飯のタネ」に不自由しないだろう。

それにしてもあのIT社長。相変わらず、というか。TVでの質疑応答をみても、政策も信念も感じられず、例によって「とりえず時流に乗ってみた」感が強い。この人にとっては、選挙に出る事自体で、本人の目的は達成できるのだろうし、メディアはそれで喜ぶのだから、ある意味受容と供給はうまくかみ合っているのだろう。

お調子者の候補に対し、それでは「プロ」たる職業政治家がどれだけ立派か、というとそうでもなかったりするのが皮肉な点だ。対抗するのがあの人では、正直どちらが良いか、という議論も不毛な気はする。それを気に入るかはともかく、政策をもっているだけ、まだ後者のほうがマシか。正直、究極の選択レベルの比較にしか見えない。

ただ、こうした騒ぎを眺めてあらためて思うのは、日本は「一応」民主主義、自由主義国家なのだな、ということ。決して成熟したものだとは思わないけれど。今回のようなドタバタが許される社会、というのはある意味「まともな」社会なのかもしれない。

自由、というのは崇高にして守るべきもの、という考えには同意するけれど、同時にそれはそんなに美しい側面ばかりでもないと思っている。人の欲望、ずるさ。こういうものに付き合う行為にはうんざりさせられる事が多いし、気持ちの良いものではない。でも、こういうことが許されるのもまた「自由」な社会だ。

今回の結果がどう転んだところで、大勢には影響がない気がする。共産党が第一党にでもなれば話は別だけど。

いずれにせよ、各候補者は最低限、選挙期間中に約束したこと、少しでも守る努力だけはしてほしいものだ。たぶん、そういう人は多くはないと思うけれど。守らないのも「自由」だし。

安い分にはよいが

2005年08月23日 | 日常
今日の夕刊によればiTMSで、いくつかのアルバムが50円で販売されるミスがあったようだ(アルバムは通常1500円くらい)。Appleは値付けは販売サイトに任せている、とそれ以上のコメントを避けているが、まあどう見てもこれは入力ミスの問題みたいだ。

ネット販売での値付け入力ミスはしばしば格好のニュースネタとなる昨今、今回もそのひとつ、ということになる。ひとつ異なるのは、パソコンに1円の値付けをしてしまえば大慌てで注文を取り消さなければいけないけれど、こちらはあくまでも「儲けを失う」だけ。たぶん注文のキャンセルもできないし、企業側も「あきらめて」終わってしまうことになるのだろう。

ネット通販という環境自体は、リアルな物流システム全体の一部を代替しただけのものに過ぎないけれど、売り物自体もバイナリデータ、というところがiTMSでの問題の特徴的なところだろうか。容易に受け渡しできるから、皆がその権利や利益について鈍感になっている、という意味でも興味深い。

残念ながら50円のアルバムに気が付く事はなかったけれど、最近Amazonではこれと逆の事象を目にする機会があった。Amazonのショッピングカートに入れっ放しにしていた193円の冊子が、ある時突然3860円に値上げされた。どう考えても法外な値段なので、なにかのミスだろうとしばらく放置しておいたら、数日後には元の値段に戻った。これも明らかに、値付けミスとその修正だと思われる。

こういったことの多くはパブリックに気が付かれていないだけで、思ったより多く世の中で発生しているような気がする。あくまでも推測だけれど。うっかり低く値付けしてしまった場合は、注文も殺到し問題化するけれど、このamazonみたいに、高く根付けてしまった場合、案外売る側も黙っているのだろうか…

野田岩の天然うなぎ@高島屋

2005年08月22日 | 飲む食べる
昨日の夕方、知人のお誘いで日本橋高島屋、特別食堂というところで夕食。この知人夫婦、それなりにお金持ちかつ、楽しんでこそ人生というスタンスを地いく、羨ましい存在。なので(値段を気にしなければ)良い店、というのをいろいろと知っている。

中野界隈でつましく暮らす身には、そもそもその存在自体すら知らなかった「特別食堂」。よくある普通のデパート食堂、と思いきやさにあらず。特別、というだけあって、ディスプレーに並ぶ蝋細工の見本もなく、到着するとホテルマンのスタイルの従業員が人数をたずね、まずは待合席にお座りください、といった感じ。どちらかというとホテルのレストランのようなイメージ。内装も落ち着いた色調で、昔懐かしい「少しうらぶれた」デパートの食堂、というイメージには程遠い。

食事内容もここのオリジナル、ではなく「帝国ホテル」等、いわゆるクオリティ(と敷居)の高い店3店が、その店の名前で料理を提供している。

今日の目的はその3店の一つ、鰻の「野田岩」の天然うなぎ。後で調べてみると麻布に本店を持つ「野田岩」は東京でも3指に入る鰻の名店、なのだそうな。特に「天然鰻」がこの店の売りだそうで、今日の目的はまさにそれ。

知人夫婦が以前、この天然鰻を目的に特別食堂を二人で訪れた時は、6時半にはもう「売り切れていた」とのこと。そのリベンジ、ということで今日は「予約」しての訪問(天然ものなので常に数は限られているようだ)。

野田岩でも養殖ものなら、うな重で2~3000円くらい。思いのほか普通なのだが、天然ものは値段がほぼ倍。
倍の価値、どれほどのものか、臨むような感じで最初の箸をつけたのだが、その瞬間それまでの疑念はすべて霧散した。表現の淡白な自分ですら最初の一口を含んだ時、思わず声をあげそうになる。

箸を上にのせただけで切れるくらいにやわらかい。鰻って、実は結構タレで誤魔化している部分もあるのでは、と個人的に常々思っていたのだけれど、天然ものというのはこういうことなのだろうか。淡白、ではありつつも、箸を口にはこぶと鰻自身の風味がぷん、と匂ってくる。

ご飯とお吸い物がついて約5000円。高い、といえば高いのだけれど、居酒屋でもそのくらい支払うことままある。そう考えればむしろ安い、といっても良いかもしれない。

画像だけではとても伝わらないのが口惜しい。食でなにか夏の思い出を、と考えている人にはぜひともお勧めの一品。

正体みたり枯れ尾花

2005年08月21日 | 日常
日曜の朝5時半。普段であればまだ眠ている時間、ふと目がさめた。夏には時折あること。しばらくすればまた眠りに入るだろう、と枕に顔をうずめていると開け放しの窓の外から聞き慣れない音がする。「なんだか嫌な予感がした」ので、ベランダに出て音のするほうを見ると、年輩の男性が、マンションの植え込みに生えた薄の穂を切り取っている姿が見えた。鋏の音、だったわけだ。

自分の住むマンションには、玄関前に草木を植えられたスペースがある。そこには薄も植えられていて(単なる自生かも)、例年この時期くらいには見事な穂を実らせはじめる。しかし、このマンションに来て数年来、中秋の名月を背にこの薄を楽しむことは一度もなかった。毎年、そろそろ穂が生えそろってきたなと思う頃、ある日突然、ばっさり刈り取られていたからだ。

心無い誰かが、自宅で楽しむための窃盗行為だと思っていた。直接自分の所有物ではないにせよ、毎年そのような行為が目前で行われている、という事実に対してはなんともいえぬ不快な思いを抱いていた。だが、この日曜早朝の作業をベランダから見た限りでは、切り取った穂を無造作にごみ袋に詰め込んでいる。どうも窃盗目的、ということではないようだ。マンション管理会社に依頼された庭師か、とも一瞬思ったけれど、日曜の朝5時半に仕事をする庭師はいないだろう。

年輩の男性は、黙々と穂を刈り込んでいる(結構なボリュームなのだ)。そのまま眺めていても埒があかないので、直接下へ降りてみることにした。ポケットには念のためにデジカメを忍ばせて。

この曜日、時間に人が通る可能性はないと踏んでの作業であったのだろう。自分がエレベーターを出て男性に近づくと、相手は驚愕の表情を見せ、まさに「固まった」状態となった。一瞬の間と沈黙のなか何て話し掛けようかと思っているうち、向こうから口を開いた。

「隣に住む者です。毎年この穂からでる花粉がひどいくて。それで…」

現実というのは案外こうしたもの。ドラマのような緊迫した会話もせぬうち、いきなりすべてを語られてしまった。花粉被害に我慢ならず、毎年勝手に隣のマンションの薄を刈っていた、というわけだ。

相手は非常に怯え、また申し訳なさそうな表情をしてそこに佇んでいた。どう答えたものか。少し迷ったけれど結局「そうですか」と一言だけ発し、その場から過ぎ去ることにした。要は見逃した、ということになる。

いうまでもなく、彼のやっていることは違法行為だ。彼自身も被害者であるのは分かるけれど、この場合まずはマンションの管理会社と交渉をするべきだろう。とはいいつつ、こちらの楽しみ(薄鑑賞)を我慢すれば、向こうの苦しみ(花粉症被害)がなくなる。そう考えると正論だけで押し通す気にもなれなかった。

幽霊の正体ならぬ盗人の正体。不安なことも、原因がわかってしまうと人間落ち着いてしまうものだ。自分がこれから何もしなければ、来年も彼は同じ行動をとるだろう。このままでよいのか、少々の悩みどころではあるけれど…

夏を歩く

2005年08月20日 | 行動記録
ここ最近、土日は殆ど外出していた。全く予定もなく、家に自分一人だけという状況も実に久しぶり。

8時には起床してバイクで新宿区のスポーツセンターへ。プールでクロール、1000m。中野にある同様の施設は場所が不便なので、こちらへ来たほうが近いのだ。毎回きっかり同じ距離を泳ぐけれど、最近微妙に疲れを感じるようになったのは気のせいだろうか。

泳いだ後、そのまま新宿西口へ行き、ヨドバシカメラをうろうろする。「アセンブラ言語の教科書」という本を購入。いまさら、の感あるけれどたまにはこういうのもよいだろう。少し、勉強しよう。

戻る途中に家の近くで写真家の高梨豊氏とすれ違う。この人は一昨日にも姿をみたばかり。我が家近くに住んでいるようだ。70歳くらいのはずなのだが、格好、鋭い眼光。どちらも年齢を感じさせないものがある。さすが。

洗濯等雑事を済ませ、少し昼寝をする。午後の予定は全く考えていなかった。ビールを飲みながら本を読み過ごそうかとも考えたけれど、雲ひとつない青い空をみて、少しは季節を肌で感じよう、と外出することにした。4月以降、家にこもる事が多く、歩く機会が減っていることもあるし。

今日も実に夏らしい気候。帽子にサングラス、ボトルには麦茶をつめて準備万端。気温は高いけれど、湿度はそう高くないので、歩くと案外心地よい。地下鉄で神楽坂まで行き、ここからとりあえず歩いてみる事にした。どちらかといえば夜の街、ではあるけれど、真夏の青空のしたの神楽坂というのも悪くない。風鈴の音が涼しげであった。

神楽坂を下り切り、次にどこへ行こうかと考えた。今日は徹底的に歩くこと、これを目的にしようと思い、そのまま道をまっすぐ九段下へ。毎年夏になると注目を浴びる例の神社を通り過ぎ、千鳥ヶ淵を歩く。ここは桜の名所としても有名だけれど、いまは桜の葉が繁り重なり回廊のようになって、非常に涼しい。セミの声が耳に響き渡り、空気は葉に清められた感じ。自然は偉大だ。

千鳥ヶ淵を抜けてからは内堀通りに沿って皇居堀沿いを歩き、三宅坂から246号へ右折。ここからはまた都会的な東京の風景。かなり暑いけれど、こまめに水分補給したので思ったほどには疲れない。ただ、あまり歩かなくなったことがたたり、足はやや筋肉痛気味。
ようやく表参道までたどり着いたので、「大坊」で休憩。村上春樹のエッセイにも良く出てくるこの喫茶店、個人的には東京でもっとも美味しいコーヒーを出してくれる店の一つだと思っている。深煎りでかなりコクのあるコーヒーを飲みつつ「鬼平犯科帳」で読書。帰りに豆を100g購入。

30分ほどで体力も回復したので、表参道から原宿まで歩く。表参道はいつ歩いても華やかな気分になれる。普段、中野のような地味な場所にいるとその気分もなおさらだ。原宿は相変わらずの人ごみ。そういえば、世間は今夏休みなのだなぁ、と実感。

神楽坂から原宿まで。われながら良く歩いた。江戸時代だったらたぶん「あたりまえ」の距離なのだろうけれど(鬼平を読んでいてなおさらそう思った)。

家に戻り、昔少し凝ったクラシックカメラを取り出してみる。今日通り過ぎた風景も20年後には「懐かしい風景」になっているのだろう。久しぶりにモノクロフィルムでもつめて持ち歩けばよかった、と思いつつ、空シャッターを何回となく切ってみた。

運営を

2005年08月19日 | 日常
そもそも深い考えもなしに始めたこのブログではあるけれど、数日続けていくうち、とりあえずの「運営方針」として、毎日かならず一つ記事を投稿しよう、と自分自身へのルールを作った。

深い考えがあったわけでもない方針だけれど、それ以来一応必ず「毎日」なにかしらの記事を埋めてきた。もともと時事性にこだわる訳でもなかったので、当日投稿できない場合には後付けで記事を埋めていったのだけれど、さすがに最近これでも少々まだ「無理」があると実感することしきり。

オーケストラだ何だでどうしても週末に外出することが多く、この週末のツケが徐々に平日の投稿を圧迫する、という悪循環。平日に一つ何かを書くことはそう難しくないけれど、この週末をどう乗り切るか…

そもそも、年代的には本来「働き盛り」のはず。平日はなかなか難しくて、と言い訳をしても良いはずなのに、平日はOKだけど週末は、というのは社会人として、少々問題あるのかもしれない。

最近、このような想いを抱きつつ、なんとかブログを続ける毎日。8月19日の記事を9月7日の今日、入力をしていることを見ても何とかしなければいけないのだろうな…

タッチタイプに至る道

2005年08月18日 | 日常
自分がキーボードに触れる機会を持つようになったのは、1980年代後半、大学生のころ。この当時まだパソコンは一般的でなく、文科系の自分が持っていたのも今は懐かしい「ワープロ専用機」。

専用機とはいってもキーボード配列は現在のパソコンと同じQWERTY/JIS配列。かな、ローマ字入力のどちらも可能であった点も同じ。なのでキーボードとの付き合いはかれこれ20年近く、ということになる。

始めた当初はキーも一つごと、探しながらという感じだったけれど、我流なりにも使いこなすうちに入力速度は向上していった。こういう形で始めたので、大体左右二本ずつの指で入力するような形だったけれど、それでも不便というものは感じないまでになっていた。当時は、まだワープロで文章を打つ、というそれだけでもなにか自分が少し「進んだ」ことをした気になったものなのだ。いま考えるとおかしなものだけれど。

大学を出て就職。ここで初めてコンピューターを扱うことになるのだけれど、当時はワープロですら誰もが使っているわけではなかったので、キーボードに違和感を持たず操作できる、というだけで少し感心されたりもした。我流、とはいってもそれは周りの人も皆同じ。日常の仕事に困る、ということもなく、そのまま数年が経過した。

勤めていたのは銀行の子会社であったので、社長は何年かに一度、銀行からきた人で交代する仕組みになっていた。そしてWindows95の発売とともに、パソコンが爆発的に普及し始めた95年、自分の会社に新社長が就任した。
これまで出会った人は大体そうであったのだけれど、銀行出身の人が子会社に下ると、まずは何でもよいので「部下全員が自分の命令に従う姿」を確認したくなる習性があるらしい。

この新社長も例にもれず、就任早々全社員へいくつかの「命令」を出した。そのうちの一つが「全社員、タッチタイプを習得せよ」だった。当然、社員の評判は散々だったけれど、基本的に銀行系の会社において上司の命令は絶対。自分を含め誰もが、文句を言いつつ配布されたキーボード練習ソフトを1日30分程度、ちまちまとやりはじめた。一定の点数へ達した記録を提出しないといけなかったので、誤魔化す訳にもいかなかった、というのもあるけれど。

最初は嫌々やっていたこのソフト。続けていると、これまで充分にモノにしていたつもりのキーボードが、全然別のものに思え、タッチタイプも日ごと上達していく。それまでは充分な「速さ」を出したつもりでいたけれど、タッチタイプによる速さはその比ではなかった。

できるようになって初めて理解したのだけれど、タッチタイプが出来る事で一番のメリット、実は「速さ」ではなく、モノを考えながら文章を打てるようになる、ということ。それ以前、ワープロやエディタはあくまでも「清書」のツールだったけれど、タッチタイプができるようになってからは「考えをまとめる」ツールになった。頭で考えていることを、その場で文章にできる、というのは思った以上にCOOLなこと。実際にやってみないと実感できないとは思うけれど。

それ以来、知人がタッチタイプをせずにキーボードを打っている姿を見つけると、タッチタイプの「ありがたさ」を布教することにしている。余計なおせっかい、ではあるのは重々承知しているけれど…

ちなみに自分はパソコンソフトを使用したけれど、これがなくてもキーボードと指の対応表さえ(ネットかどこかで)手に入れればタッチタイプはマスターする事、可能です。ポイントは根気よく続ける事。

民営化は是か

2005年08月17日 | 日常
郵便局で用事をすませたが、相変わらず郵便局の窓口は対応が丁寧で作業も迅速、感心してしまう。一般の商店でもたまに愛想のないところあることを考えるとなんだか不思議な感じだ。

言うまでもなくここ最近の「郵政民営化」問題が目前にぶら下がっているから、というのもあるのだろうけど、郵便局の窓口が総じて感じのよいものになったのは、必ずしも小泉政権になってから、というわけではない。ただし、昔からずっと、というわけでもないが。

郵便局だけに限らず、この4月の起業時に各区役所、税務署、社会保険庁等々、実にいろいろな公的機関、お役所を訪問したのだが、本当に不思議なくらいどこも感じよく、対応も迅速だった。もしかしたら「お役所仕事」という言葉は死語になっているのだろうか、とすら思ったくらいだ(未だ、ある所にはあるみたいだけれど)。

全てがそうだった、と言うつもりはないけれど、いまから20年くらい前まで、こういう公共機関というのは概して「お役所」的というか、人を不快にさせるのことに一番の情熱を傾けてるとしか思えないような態度を取る人が多かった。まだ若いながらにも、なぜ初対面の人間にこうもぞんざいな口調で対応できるのだろう、と平塚の郵便局では何度も嫌な思いをしたものだ。

JRの前身「国鉄」はその意味では郡を抜いていた。強固な労組に守られた国鉄社員の振る舞い、というのは今思い出しても腹が立つことばかり。書こうと思えばこれだけでブログのテーマが3つも4つも出来そうなくらいだ。

長い不況で公務員が「人気」職業になった、というのもサービス向上の一因だとは思うけれど、郵政に限らず全体的にサービスが良くなったことの一因は、やはり世間全体が「無駄なものは排除しよう」という流れになってきているからなのだろう。公務員とはいえうかうかしていられないな、という思いが彼らにも芽生えたから、こその改善だったのだと思う。

職員の態度向上が望めるから。こんな小さな理由だけで民営化是非を語るべきでないのは承知している。ただ、これまでの実績から見るに、民営化する、もしくはする可能性がある、という状況至ることでマイナスになった事例はあまりないように思われる。なので郵政に限らず民営化議論を行う際は、民営化したら困る事、それについての議論を中心とすべきだろう。少なくとも感情論や既得権益のために反対、というのだけは論外だ。