中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

中野観光案内

2005年06月30日 | 日常
首都圏ローカルな話題。JTBによる観光ガイドブック「るるぶ」シリーズで、観光地というにはやや無理のある練馬区版、大田区版、川崎市版が出版されているのはご存知だろうか?いずれも自治体からの持込企画で、ある程度自治体が費用を負担しているようだ。面白いのは、これらが予想外に結構好評だったようで、練馬区版は6万部以上売れたという。

それまで「るるぶ」は「そこを訪れる人」に売れてきた訳だが、上記のシリーズは「そこに住む人」達にも好評とのこと。

個人的には地元志向。「我が街」という発想が好きなので、こういう企画は非常にうらやましい。るるぶ編集長によれば「どの街にも知られざる良さがある。話があれば前向きに検討したい」とのこと。我が街、中野区もぜひ、と思う次第だが、東京都内でも最悪レベルと言われる中野区財政では無理なのだろうか…

仮に本が出る、として中野の名所ってどこだろう。少し考えてみた。

まずは歴史。以前も少し紹介した徳川綱吉の「生類憐れみの令」により作られたお犬様収容施設跡。中野区役所前に犬の像と言う形でその名残を垣間見ることができる。実際の犬小屋は少し離れた中野警察学校跡にあったらしいが。

ちなみにこの警察学校跡。ここはかの「陸軍中野学校」の跡地でもある。旧日本軍のスパイ学校。あの小野田少尉もここでスパイ教育を受けていたところ。

他で思いつくのは吉良上野之介の墓。これは東中野の功運寺にある。あとこれも二度ネタとなるが、徳川吉宗の飼育した象が引き取られたのも中野。ただし件の宝仙寺。行ってはみたけれど、それらしき痕跡はなにもなかった。

現代については、なにはともあれ「中野ブロードウェー」。中野系の語源とも言えるこの建物。最近ではよく「外人さん」がこのビルをうろつく姿を見かける。中野が誇るワールドワイドな観光地といっていいだろう(実際、ここは一件の価値あり。たとえあなたが中野系ではなくても)。

そういえば、元ずうとるびのメンバーがマスターを勤めるバーが家の近くにある。入ったことはないけれど。
村上春樹の「海辺のカフカ」。前半は中野が舞台だった。もっともあれは創作なので、具体的な場所の情報提供は難しいけれど。
いま話題の相撲部屋も中野区、ですな…。
締めはやっぱり中野サンプラザ。あそこは上層階にホテルとレストランがあるので、風景を楽しむにはお勧め。あのビルの不自然な形、以前とある掲示板では、ビル自体が巨大な変形ロボでは、というネタで盛り上がっていたことがある。言われてみると、確かにへんな形だ。

いかんせん中野在住歴8年の若輩者。すぐに思いつくのはこの程度。掘り下げればネタはまだまだいくらでもあるはず。

いつの日か「るるぶ」中野版が刊行されることを願いつつ、とりあえずは中野区のお隣、練馬区版でも購入してみようかな。

資源ごみは誰の手に

2005年06月29日 | 日常
東京都中野区の場合、可燃&不燃ごみ回収以外に古紙と資源ごみ(ビン缶)の回収がそれぞれ週1回ずつある。これらは基本的に、自治体(区)が回収をするはずなのだが、民間業者がこれを勝手に回収するのを毎週のように目撃する。

中野区に限らず都内で同様の事態は頻発しているようで、何度かテレビでもこの問題の報道を見た記憶がある。隣の杉並区は条例の制定で対抗策を立てたようなのだが、中野区は今のところ現状にまかせたままのようだ。

リサイクルの観点からすれば自治体と業者、何れが回収しようが資源は有効に再利用される点は同じ。にもかかわらず、なにか釈然としないものが残る。

もっとも先のテレビ報道によれば、(古紙回収)業者にも言い分はある様子。もともと古紙回収は業者のみが行っていたが、既存業者と交渉もなく自治体が後から参入してきたのだ、と。死活問題ゆえ、今は奪うように回収をせざるを得ない、というのが彼らの言い分。言われてみればたしかに最近「毎度おなじみのちり紙交換~」って聞かない。むかし子供がメガホンを手にすると必ず言う台詞だったのだけれど。

いずれにせよ、仮に業者がいくばくかの利益を不当に得ているのだとしても、その「業務内容」自体は社会にとって歓迎すべきものだ。産業廃棄物の不法投棄や無駄な公共施設、道路の建造にくらべればずっとまし、ではあることは間違いない。彼らを現状の仕事から追いやって、下手にもっと悪いことをされるよりはマシなのかも、しれない。

午後の喫茶店にて

2005年06月28日 | 日常
うだるようなあまりの暑さに、午後ためしに外で仕事をしてみることにした。
パソコンがネットにつながるところがよいので、Yahooの無線LAN試行サービスが使えるルノアールへ。

ルノアールのすばらしいところは電源コンセントも自由につかわせてくれるところ。日本では店やビルの電源を勝手につかうと盗電になってしまう。バッテリーがへたったノートしか持たない身にはありがたい限り。

去年のアメリカ旅行でうらやましかったのは、向こうではスターバックスのような喫茶店、空港、本屋に至るまで、電源コードは公共のもの、とばかりに皆が自由に使っていること。正式にOKが出ているわけでもないようだけれど、基本的に誰も文句は言わないことになっているみたいだ。スターバックスでは(有料だが)かならず無線LANがあるので、ノートパソコンを広げている人が日本よりずっと多かった気がする。

中野北口のルノアールではさすがに平日の昼間。まったりとした雰囲気、いろいろな客層。人間観察をするとなかなかに楽しい。

見るからにサボっている営業マン。クールビズとも言っていられないのだろう。この暑さでも上下スーツにネクタイ。疲れきっているのか虚空をみつめ、ほとんど動かない。隣の裕福そうな老人は平家の落ち武者が住んだ村の話、を延々と若い女性に語っている。はたしてどのような関係なのだろう。少し離れたテーブルでは若い男性と年配男性が激しく口論。いったいどのような揉め事かわからないがとにかく土曜にはあわせろ、を繰り返す。一体彼らに何が起きたのか。

涼しく、ネット環境も手に入ったにもかかわらず、あまり仕事は捗らなかった。すべては自分が悪いのだが…

ビフテキ

2005年06月27日 | 日常
先日、年配の人との会話で「ビフテキ」というなんとも懐かしい言葉に遭遇した。
木が年輪でその樹齢を判定できるように、人は使う言葉である程度、属する世代を判定することができる。

このビフテキ、という言葉。正確にはわからないが、1970年代頃まで一般的に使われていた気がする。自分の世代ですら子供の頃使われていた、という程度の認識なので、いまでもこの言葉を使うのはある程度、年配の方々ということになる。

少なくとも自分の周りにおいて、この言葉は完全に「死語」となっている。それもあり、前回この言葉を聞いた時、というのをいまでも明確に覚えている。

いまを遡ること10年前の1995年。仕事で大阪へ赴いた際、取引先の方に昼食に誘われた時のことだ。「暑さを吹き飛ばすには「ビフテキ」でも如何ですか」と誘われ、ステーキショップへ連れて行かれた。取引先の方(当時で50代くらい)が注文でも「僕、ビフテキね」と言われたので、こちらも大人の対応として「じゃ、僕もビフテキ!」と注文したことを今でも覚えている。たぶん、自分の唇が「ビフテキ」という言葉を発音したのは、あの時が最後のことだろう。

子供の頃に楽しんだ漫画、とりいかずよしの「トイレット博士」では、この「ビフテキ」が最上のご馳走、ということでしばしば取り上げられていたのを記憶する。当時は肉料理自体が少し贅沢、という感覚にはまだ日本にあったのだ。母に「ビフテキ」が食べたいと言うと「自分で稼げるようになったら思いっきり食べなさい」と返されたことを記憶している。

実際、自分で稼ぐようになったいま、ビフテキはもはや憧れるほどの輝かしさはもたない。大手チェーンに行けばごくありきたりの値段でそれなりのビフテキを楽しむこともできる。でも、我々の世代にとって「ステーキ」とは違うなにか、が「ビフテキ」にはあるのだ。その何かを説明するのは難しいけれど…

「ビフテキ」について少し調べると、いくつか興味深いことがわかった。
ビフテキ=BEAF STEAKの省略形と思いきやこれは誤り。フランス語のBIFTEKが正解。
関西では「ビフテキのXXXX」といった感じに、比較的ビフテキを名乗るチェーン店が多いようで、関東ほどにはビフテキの死語化は進んでいないのかもしれない。

歳を取ると結構余裕ができる、というか図に乗ってくる部分もあり、格好よく見せようと躍起になるよりは、むしろ自分の時代に従った行動で、相手の反応を楽しむことができる。できたら近いうち、若い人に「ビフテキ」でもどう?と誘ってみたくなる今日、このごろ。

サハラ 死の砂漠を脱出せよ

2005年06月26日 | 映画
クライブ・カッスラーの冒険小説「ダーク・ピッド」シリーズの一作を映画化したもの。同シリーズでは過去、「レイズ・ザ・タイタニック」も映画化されているが、特に映画としてシリーズ化されているわけではない。

ダーク・ピッドシリーズは未読だが、前々から興味はあったので、これを機会に読んでみようかと思っている。SFや海洋小説もそうだが、シリーズものは一度入り込むと続きを待ちわびる、という人生のささやかな楽しみが増えるので、積極的に好きな「シリーズ」を増やしたいと思っているのだ。(いつの日かペリー・ローダンもはじめてみたいけれど…)

で、映画のについて。一言でいってしまうなら、アメリカ人の好みそうなアクション映画。凝った伏線や意外な展開はなく、物語は実にストレートにテンポ良く進んでいく。こういうつくりの映画なので、頭を空にして見ているぶんにはそれなりに退屈しない。とはいえ、もう少しひねりがほしかったのも事実。

WHO(世界保健機構)の一女性調査員が機関銃は撃つわ、ラクダから電車に飛び乗るわ。アメリカのアクション映画につきものの「んなアホな」なシーンも盛りだくさん。こういうところを笑って見過ごせる人であれば、それなりに楽しめると思う。

面白いか、と聞かれると微妙だけれど、死ぬほどつまらないわけでもない。家族連れでいくには悪くないかもしれない。

なんでもこの映画、カッスラーに「著者に無許可で映画のストーリーを15カ所も変更」して原作のイメージを壊した、とのことで製作者側が訴えられている模様。ますます原作に期待、といったところか。

★★

未来選挙

2005年06月25日 | 日常
自宅のデスクトップコンソールから世界を繋ぐコンピューター網へアクセス、瞬時にあらゆる情報を入手。掌の上にのる小型端末で、街のどこにいても連絡が可能な輝ける科学の時代、21世紀。

こんな時代でも「選挙」だけは何も変わらない。襷をかけ、窓から手を振り名前を連呼。名前を叫ぶことがこの人の政策なのか。30代後半にもなったのに、中学生の頃と全く同じ感想が頭に浮かぶ。

「Japanese Communist Party(日本共産党)」という冗談のような政党名はいまだ健在。意味においては「自由民主党」も充分冗談の範疇だと思うけれど。そういえば以前、環境問題を訴える政党が住宅街でガンガン候補者名を連呼した車を走らせていたこともある。悪い冗談ではなく、良い冗談を期待したいのだが、それは21世紀においても無理なようだ。

選挙、といえば思い出すのは東郷健。供託金、泡沫候補といった単語を学んだのも、民主主義の良い点、悪い点の理解を学んだのも、この人のおかげ。他の候補者から何かを学んだことなど一度もないという意味において、これまでの選挙候補者中、一番有益な候補者だった、というのも悪い冗談のような本当の話。週刊誌の吊り広告によればいまやホームレス寸前、とのことだが本当なのだろうか…

子供の頃、雑誌で垣間見た未来の世界。未だ実現しない部分も多いけれど、それでも社会は確実に変化している。子供向けだったから、といってしまえばそれまでかもしれないが、そのような未来予想図において、選挙がどう変わるか予測したものはなかった気がする。

イメージすらないから、変わりようがなかったのだろうか。そう考え、未来の選挙について想像をめぐらそうと努力した、がなにも頭に浮かばない。
投票が自宅のネット経由で出来るようになったとしても、本質はなにも変わらないだろう。なにかを安易にあきらめるのはよいことではないが、こればかりは仕方のないことなのだろうか。

キレる人達

2005年06月24日 | 日常
「キレる」という言葉が広く使われるようになったのはいつ頃からのことだろうか。
明確には思い出せないが意外に最近、せいぜいここ10数年のことである気がする。

言葉とは不思議なもので、同じ物事を言い回しひとつで、まったく別物に見せてしまう力がある。「援助交際」なんてその好例。(うまいネーミングだな、と初めて聞いた時は正直感心した。行為自体は肯定できないけど)

同じ意味において「キレる」という表現。本来否定すべき行為が、この言葉の力で多分に世間に受容されてしまっている気がしてならない。

キレる、という行為。要は理性を失って感情の爆発に任せること。「幼稚な感情の爆発」という表現しかなかったならば、その行為を自慢げに語る大人はあまりいないのではないだろう。キレる、という言葉自体、どこかユーモラスな響きがあるのがいけないのかもしれない。

大人がよくやるキレた過去自慢では「ついついキレちゃってさ」と、比較的自分のことを客観視していることが多い。キレたのは自分の中のもうひとつの存在。コントロールが移ってしまったのだからしかたない、と責任転嫁しているように思えてならない。(まるで超人ハルクみたいだ)

そこには自分の「本体」(=ほんとうの自分)は悪くない、という姿勢が感じられる。

あと、少年犯罪がおこると必ず子供達の「キレやすさ」についての議論がメディアを賑わす。ゲーム脳、環境ホルモン、セロトニン欠乏。よくもまあ、いろいろな説がでてくるものだが、気になるのは常にそういった「外的」なものばかりに原因を求めるその姿勢なのではないだろうか。

子供を持たない者の意見にどれだけの説得力があるのかわからないけれど、子供が悪さをしたら、まずは親の育て方を最初に反省するべきだろう。電車で子供を優先させて座らせる最近の親を見ていると、いつもこう思うのだが…

スターウォーズと英語

2005年06月23日 | 日常
来るべきその日に向け、スターウォーズの過去作品をDVDで鑑賞する毎日ではあるのだけれど、エピソード1を見ていてそういえば、と思いだしたのが劇中使われる英語についていくつか。

ひとつはジャージャー・ビンクス。爬虫類のような生物、悪戯ばかりして皆に迷惑をかけるキャラクター。ジャージャーや、その一族は水陸両生で、独自の文明を築くが、地上に住む人類よりやや野蛮で劣った種族と言う設定。(最後は協力して悪を倒すのだが)。

このジャージャー達の話す英語には非常に癖があり、正直私の語学力だと、DVDで英語字幕をオンにしても、時折わからない部分がある。文法的にもブロークンで、しばしば省略と語の結合があり、非常にわかり辛い。在米経験の長い人に聞いたところ、これは典型的な黒人英語、とのこと。

同じく、シス卿(悪者)と手を組む悪辣な「通商連合」。狡猾なキャラクターとして、容姿もしっかり「悪者」の風貌なのだが、彼らの英語が、日本人、韓国人が喋るような東洋人風英語になっている。これについては、それほど英語に強くなくても、映画を見ればわかると思う。「私と同じ英語」を喋っているのだから。

公開当時、以上のような言葉の使い分けが人種差別ではないか、と話題になった記憶がある。製作サイドはそれほど深い意図はなく、あくまでも種族の差の雰囲気を醸す演出、位のつもりでやったことなのだろうけれど。

あと、もうひとつ。英語、というよりは配役の問題なのかもしれないが、ジェダイ(善玉)の主要メンバー、メイス・ウィンドウ。これをサミュエル・ジャクソンが演じるのは、アメリカ人の目にかなり「ミスマッチ」に写るらしい。自分には全くわからないけれど、彼の話す英語はやや乱暴で、ヤクの売人とかそういった人の話し方に近いらしい。そもそもサミュエル・ジャクソン、アメリカ人にとっては暴力的な役を演じる役者、という固定イメージが多少あるようで、日本で例えるなら哀川翔がジェダイマスターを演じているようなものなのだという。実際、アメリカの劇場でエピソード1を見た知人の話によれば、サミュエル・ジャクソンが深刻な面持ちで台詞を喋ると、場内でしばしば笑いがおこった、とのこと。

そういえば、エピソード4(第一作)公開当初、日本の映画館では字幕でFORCEのことを「理力」と訳していた。翻訳者は散々苦心してこういう単語をつけたのだと思うけれど、この訳はいつのまにか消え、いまはそのまま「フォース」と表記するようになった。個人的にはよいセンスだと思うのでそのまま残してほしかったけれど。
これは一定以上の年代しかしらない、ちょっとしたスターウォーズトリビア。

ネットストリーミング

2005年06月22日 | 日常
最近ときどきネットストリーミングサイトを利用するようになった。ここは無料なのだけれど、その割にコンテンツもがんばっている感じ。ブラウザチェックをしてFireFoxはNGな点は残念だけれど。
流行の韓国ドラマもあるが、個人的にはファースケープというSFドラマが面白く、全話つぶさに見てしまった。もうすぐ次のシーズン2が始まるので楽しみ。

ストリーミングサイトは有料のところも多いけれど、微妙に値段が高いような気がする。レンタルでDVDが300円程度、を考えるとそれとほぼ同額でネット配信しているところもあるが、ちょっと納得のいかない料金だと思う。

レンタルビデオ店は支店毎「物理的」なソフトを買い取りしているのだから、その点ネットのサイトはアドバンテージを全然活かしきれていない、というか活かそうとしていない感じだ。契約面とかいろいろ、難しい問題があるのかもしれないが。

料金、契約面やコンテンツ数の問題がクリアされたなら、将来的にレンタルビデオ店は徐々になくなっていくかもしれない。すぐに、ということはないとは思うけれど。


ネットの中で

2005年06月21日 | 日常
おなじ覚えがある人も多いと思うが、ときどきふとgoogleで自分の名前、そして自分のこれまでに出会った人たちの名前を検索してみることがある。特に目的があるわけもなく、思いつくままに。

親友、思い出深い人物はもちろん、ちょっとした知人、過去に決して仲の良くなかった者。少しでも記憶にある人物について、とりとめもなく検索を続ける。

有名人にでもならない限り、思いのほか個人名はヒットしないものだが、時折ネットの中に、過去の自分と関わる人物を見つけた時は、なにか広い世界でちょっとした発見をした気分。とても楽しい。

自分自身の名前は姓、名ともにそう多くはないものなので、比較的容易に探し出すことができる。googleで2件しかヒットしないが、どちらも既に退職した会社や退会した団体のもの。その意味で、現在の自分を示す情報はネットでは見つからない状態(4月の設立と同時に会社のウェブサイトを作ったけれど、いつまでもヒットしない。なぜ?)。いずれにせよ人生、もう少しがんばらないといけないかもしれない。

いま、ためしに「中野系」をgoogle検索してみたが、このBlogは3番目にヒットした。単語の該当数自体659件しかないとはいえ少々驚き。google検索ではBlogが有利という話を聞いたことがあるが、まんざら嘘ではないようだ。

いまでも時折、こうしてネットの向こう側にいるはずの誰かを探していると、逆に「向こう側」でも誰か、自分の名前を覚えて検索してくれている人がいるだろうか。ふと思うことがある。歴史に名を残したいとまでは思わないけれど、人の心に、少しでも記憶され、時折思い出される存在にはなりたいものだ。

クレジットカード情報漏洩

2005年06月20日 | 日常
ここ数日、アメリカでの大規模なクレジットカード情報漏洩が新聞をにぎわせている。
影響がはっきりしないこともあり、日本各社の反応は歯切れ悪いが、やはり時間の経過とともに、徐々に被害が明らかになっているみたいだ。

この件に関しては、自分も思い当たることがある。昨年12月1週間ほどアメリカを旅行したのだが、今年の3月になってカード会社から電話がかかってきた。関西で自分のカードで高額な買い物をしようとした者がいたが、不審点あり本人確認するも回答できなかったのでカードを一旦止めた、と。(併せて再発行手続きも会社側でしてくれた)。
ちなみに自分のカードは、電話があった時も手元にあったので、被害は偽造カードによるのものだったようだ。自分の名前の入ったカードを見ず知らずの人間が使おうとしていたこと、想像するだけでも気持ち悪い。

当時、既に同様の被害が多発していたらしく、最近アメリカ旅行をしなかったかと質問された。昨年12月の旅行の件を述べるとやはり、ということである程度事情を説明してくれた。それによれば(当時)ここ数ヶ月、渡米経験のある会員の不正使用が頻発しているので、会社側としてもかなり神経をつかっている、とのことだった。

明るみになったのはここ数日だが、会社側はある程度覚悟していたのではないだろうか。あくまでも推測だけれど。

今回の事件で思うこととして、確かに侵入を許したアメリカの情報会社も悪いが、クレジットカード、というシステム自体が今の時代には対応できていないような気がしてならない。残念なことだけれど、その名の通り「信用」だけで物事は運べない時代になっている。カード番号、有効期限、氏名の三つだけで買い物ができてしまうのは無理があるのかもしれない。ではどうすればよいのか、というアイディアがあるわけではないけれど…

バットマン ビギンズ

2005年06月19日 | 映画
これまでのバットマンシリーズをもういちどはじめから描く、ということで「ビギンズ」。今回の特徴は、大富豪ブルースウィルスが戦う理由、バットマンへと至る過程。彼の心の闇と行動の選択理由をじっくりと描くことに注力しており、その点好感が持てる。(なにしろバットマンが画面に登場するのは上映開始後1時間くらいしてから)

もともとバットマンシリーズの魅力といえば「ヒーロー自身がトラウマを抱えた人間であること」と「超能力はなく肉体と各種ガジェットにて戦い切る」点であると思うのだが、上記プロセス描写への注力はこれをよく理解した上でのことだろう。

ティム・バートンのバットマン(特に第一作)は、この世界を見事に描いた傑作だったが、あの映画ではバットマン以上にジャックニコルソンのジョーカーが際立っていた。比較の問題になってしまう部分もあるが、今回のバットマンではこの「悪役」がやや弱い。日本では渡辺謙の出演も今作の話題のひとつだが、どちらかというと西洋人の抱く「神秘的な東洋」の象徴みたいな役回り以上のなにものでもなく、正直たいした仕事はしていない。(渡辺謙の演技に問題があるのでなく、もともとそういう役回り)

全体の流れとしてバットマン誕生までの前半は良いが、後半部分についてはやや冗長。クライマックスでのハリウッド映画のお約束、水道施設への列車衝突のくだりはあまりに型にはまりすぎた感じあり、いまひとつ。

以上、ネガティブな記述が多くなってしまったけれど、個人的には2時間半けっこう楽しめた。期待しすぎず、映画館に赴けばそう悪い時を過ごすことにはならないはず。
第一作から徐々にクオリティーが下降していった感じのあるバットマン。ここで一度仕切りなおそう、というのであれば、第一作としては十分に合格点を与えられると思う。最後には「明らかに」続編をほのめかすシーンもあるので、次回作以降に期待、といったところ。

★★★☆
(ひとつ色の違う星は星半分の意味。よって3.5)

宴の後

2005年06月18日 | 音楽
新宿文化センターにて所属するオーケストラの演奏会に出演。
アマチュアオーケストラに所属してはや10数年。だいたい年に2度ほど演奏会を行っているが、この演奏会の後ほど心地よい時はない。

仕事、利益、効率。こういった言葉を気にすることなく打ち込める趣味。このありがたみが本当に理解できるようになってきたのは社会へ出て、ある程度の年数を経てからのことだ。
学生時代も大学のオーケストラには所属していたけれど、当時はここまで「楽しさ」は実感できていなかったはず(大学オケが体育会気風をもった厳しいところだったこともあるが)。

以前、どこかクラシックマニアのウェブサイトで、アマチュアオーケストラのような自己満足に付き合って入られない、とのコメントを見たことあるが、まあそれはその通り。客を楽しませることを仕事とするプロフェッショナルと比べればある意味あたりまえのことだ。アマチュアオーケストラを聴くにはある程度「寛容さ」というか人間の幅が必要なのだ。

ただ、自分はこういう寛容さを持ち合わせたほうが人生楽しいとは思う。音程の外れた演奏でも、どこか一箇所光る部分。こういったものにも喜びや興味を持てる人間になっていきたいものだ。

いずれにせよ、年に2度の「宴」のうち、1回は終わってしまった。今年の残りは、そのもう1回を糧とし、日常を乗り切っていくのだ。

アンダー・ユア・ベッド

2005年06月17日 | 本と漫画
作者の大石圭はホラー小説、および映画のノベライズを中心に活躍しているようだ。
とても苦手な分野なので、本来であれば彼のことを知ることもなかったはずなのだが、ふとしたきっかけで手にしたのがこの「アンダー・ユア・ベッド」。

この小説に限って言えばホラー、というよりは純愛小説。

10年前にたった一度、会話をしたことがある女性のことをふと思い出したことから、主人公、三井は彼女の住所を調べあげる。既に結婚し、子供も生まれていたが、彼はかまわない。ただ、彼女を見守っていたい、その一心で彼女の近くに家を借り熱帯魚ショップを経営しながら、ひたすら彼女の生活の監視を続ける。そのうちこの観察行為がエスカレート、今度は彼女の家に潜入しベッドの下でその生活を「見守る」ことになるが…

本のタイトルは彼の行為そのまま。主人公はいわゆるストーカーなのである。従い「純愛」というのは一方的な視点でおかしかろう、と訝る方も多いだろう(正論だ)。しかし、この本を少しでも読み始めたならば、多くの読者は「純愛小説」と言い切る理由がわかると思う。

これ以外の大石圭作品は未読なのだが、どうもこの作家、このような「本来感情移入すべきでない人たち」に読者を惹きつけてしまうことを得意としているらしい。この作品も、暴力的で決して幸せではない世界の話なのだが、そのなかでひたむきに生きる三井の姿をみていると、思わず彼を応援したくなってくる。それが一方的な思い込みから不法行為を続けるストーカーであるにもかかわらず…

物語の結末は決して明るいものではないし、冷静に考えると本当によいのか、と思う部分は残るのだが、それでも読後不思議とさわやかな気分を残す、実に不思議な作品。だまされたと思って手にとってもそう損はない。

ちなみに「ふとしたきっかけ」とは、この本が私の実家近辺を舞台にしていること。たったそれだけの理由でこの本を手にとった。人生、他人にはどうでもよい「些細な出来事」が人の行動に影響を与えていくものなのだ。

髪は何色

2005年06月16日 | 日常
エレベーターにのり、周りをみると自分以外全員若い女性。よく見ればこの7名の女性、全員が髪を多少なりとも染めている。いまどき珍しいことでもないけれど。

自分が高校生の頃まで、髪を染めるという行為には「特殊な人」との意味あいが多分にあった。特定方面の職業への従事、もしくは「つっぱり」(死語)であることのアピール。そう、多少なりとも自分は他と違う、という主張なしには出来る行為ではなかったのだ。

言うまでもなくいまはすっかり一般的な行為になった感じだ。どこかの調査によれば20代女性の7割以上が髪を染めているとのこと。街を歩いて観察した感じでも、この数字のは良い線ではないかと思う。

前回サッカーW杯の際、ニュース番組で保守系評論家が日本代表の髪をみて「あれはみっともない」と憤っていたことを記憶している。「なぜ日本人が西洋人の髪の色に」というのがたぶんこの人の主張根幹なのだろう。

サッカーチームはともかくとして、自分も現在の誰もが茶色く、という状況は正直あまり格好よいものだとは思わない。決して、上記のような民族主義的精神論の観点はもたないのだが、違和感を覚えているのは、なぜみな茶色or金色なのか、ということ。

若い人は個性的で自己主張があるので髪を自由に染める、と言う人がいるけれど、だったらもっと人と違う色にしてもよいのでは、と思う。むしろここまで一律、だと染める行為自体が没個性、だと思うのだが。更に前のフランス大会、中田はアピールのため、と髪を赤く染めていた。ああいうのは結構格好いいと思う。人の姿勢として。

たぶんこんな議論も、ゆくゆくは無意味になっていくのかもしれない。あと10年もしたら、それこそ口紅やメイクと一緒の扱い、染めていないほうが否定される時代がくるかもしれない。所詮は外見、身だしなみのことだし、時代の流行と言うものもあるだろう。いまお歯黒をしている女性はいないし。

個人的には、この時代に敢えてストレート、黒髪の若い女性ってCOOLだと思う。結局のところはないものねだりなのか。