中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

戦国自衛隊

2006年01月31日 | テレビ
テレビドラマで戦国自衛隊をやっていたので、しばらく見てみた。昔の角川映画の印象を強烈に受けている世代ゆえ、ある程度思い入れもあったし。

最後まで見ずに評価するのも申し訳ないけれど、テレビドラマ特有のチープさは避けられるわけもなく、結局途中で見るのを止めてしまった。ある程度予想はしていたことだけれど、残念。

このドラマに限らず、タイムスリップものを見るといつも考えてしまうのが言葉の問題。ドラマでは戦国時代に移動してしまった自衛隊員が、その時代の人達と普通に会話を交わすのだけれど、これって実際に可能なことなのだろうか(タイムスリップはできたとして)?

テレビもない時代。「標準語」などというものもなく話す言葉はかなり「なまり」が強かったはず。それに言葉自体も400年前の間にかなり変化しているだろうし。「バイク」みたいに明らかな新語は言うまでもないけれど、概念を表す単語って案外明治以降に作られたものが多いらしいし。

基本的には同じ日本語だし、まったく通じないということはないのだろう。福島を訪れて年輩の方と少し話をした時、言っていることの半分くらいしかわからなかったことがあるけれど、たぶんあんな感じなのではないだろうか。

「もっともらしく」見せるのがSFの醍醐味。必ずしもリアリティの追求が至上命題だとは思わないので、上記のような言葉の問題は「見逃してあげて」もよいと思う。

ただ、またがってみたバイクを小早川秀明がいきなり動かしてみせたりするのは(すぐに転んだけれど)は「ダメ」だと思う。ギア付のバイクって、現代人だって教わらないと動かせない。

こういう部分に工夫をこらせば、低予算のテレビでもそこそこに面白いものは作れると思うのだけれど。

あと、テレビ用に舞台を「関が原」に変更したのはかまわないのだけれど、原作のキモとも言えるテーマ「果たして歴史は変えられるのか」。このことを各登場人物があまり意識していない(ように見えた)のがとても残念。

いまから弦楽器

2006年01月30日 | 音楽
以前にも書いたように、金管楽器というのは「老後の楽しみ」として一生続けるにはやや辛いものがあり、弦楽器をこの歳からでも習い始めようか、と考える今日この頃。

知り合いに、こうしたレートスターター(最近増えているらしい)専門の弦楽器のトレーナーがいて、このことを相談してみた。プロを目指すのでなければ何歳からでも遅すぎるということはないけれど、体がある程度固まってしまう40歳くらいまでには始める事が望ましい、とのこと。なんとか条件はクリアしている。

弦楽器にはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの4種類がある。はたしてどれをやるか?アマチュアオーケストラにおいて、弦楽器奏者は総じて慢性的な不足状態にある。そういう観点からだけであれば、これらのどれを選んでもそう困る事はない。

トロンボーンですら結構うんざりしているので、できれば持ち運びの楽な楽器にしたい。その意味ではヴァイオリン、もしくはヴィオラが有利。特にヴィオラ奏者というのは弦の中でも特にすくないので、希少性という意味では悪くない。

好み、ということであればどちらかというと低い音の楽器が好みなので、チェロ、コントラバス、ということになる。ただ、コントラバスは楽器を運ぶことも一苦労。個人持ちをするにはもっとも相応しくない楽器。練習への移動も車で移動するのが一般的なので(電車で持ち運ぶと壊す可能性大)、練習後に酒を飲む事もできなくなる。これは結構辛い。

チェロはその点、大きさはそこそこあるもそう重くないので電車でも移動することは充分可能。コントラバスは正直、あまり一人で弾いても楽しくは無い(と思う)し、弦楽アンサンブルでも少し規模が大きくならないと参加できない。

以上諸々を考えると、いまのところはチェロがよいかな、と思い始めている状況。

ちなみに弦楽器の場合、かならずしも大きさと値段は比例しないもの、みたいです。何れの楽器もピンキリの差が激しすぎるので、買ったもの次第。あるチェロトレーナーのサイトを見ると、プロとしてリサイタルを開くべきものは1000万から、との記述。見ているだけで眩暈がしてくる。

ただ、弦楽器はある程度良いものを買うと資産価値が向上するものなので(良いものは経年変化によって音が良くなる)、こういうところであまりけちってはいけない、とのこと。原則消耗品である金管楽器とはこの辺が大きく違う。

以上、あれこれ考えること自体は楽しいのだけれど、問題はそれを実行する勇気があるか。結局のところ決めてはやはり「お金」。別に誰かさんのコメントを肯定するわけではないけれど…

引継ぎ事項

2006年01月27日 | 日常
「念のために聞いておくけれど」との前置きのあと「もしも死んでしまった場合、弔い方は鳥葬と風葬、どっちがいい?」と、朝食時に連れからのおもむろな質問。

関西人(連れ)と関東人(自分)における習慣の細かい差は、今でも時折発見することがあるけれど、いくら関西でもそれはないだろう、とこちらも確認する。「火葬じゃないの、日本では普通?」

「縁起でもないのはわかっているけれど、若くはないし、そろそろそういうことも考えたほうがよいかと思って」と。全然答えになっていない。ふざけているのだろうと思いつつ、けっこう真面目な面持ちをしているので少々不安になる。向こうは最近、仕事で帰りも遅く、夜中に変な寝言も多くなってきたし…

しかし考えて見れば、そろそろこういう事(鳥か風か、でなくて死とかそういうこと)を考えてもよい年頃なのは事実。さすがに「普通」でいけばまだこれまでの人生と同じくらいは生きていられるだろう。ただ、家庭でも仕事でもそれなりに責任をもつ立場になってきたのは事実。もしものこと、についても少しは考えなければいけない。

仮にいまぽっくり逝ってしまったら、家庭内はともかく、会社のメンバーは相当混乱をきたすだろう。会社の実印も通帳も自分の机の中だ。オーケストラはうーん、乗り番の変更が発生するけど、たいしたことではないか。葬式では戒名はいらない、というかお坊さんもいらない。無宗教できいたい…少し考えただけでも、他人に伝えておくべきことは結構ある。

考えて楽しいことではないけれど、たしかにそういう歳になってしまったのだ。少し時間を取って「人生の引継ぎ事項」リストを作ろう、と思うに至った次第。もちろん、弔い方は「火葬」を希望。これもきちんと書いておかなければ。

ヒューガルデンのビールグラス

2006年01月26日 | 物欲の彼岸

好きなビールのなかでも、最近好んで飲んでいるのがベルギービール。ヒューガルデンのホワイトビールはその中でも特にお気に入り。軽めでフルーティーな味は実に飲みやすい。これまでの経験で、ビール嫌いに勧めてもかなりの確率で「おいしい」との評価を得ているので、店で見かけたら一度試してみてください。

東京ではベルギービールを生で提供してくれる店も増えていて、そういう店でヒューガルデンを頼むとたいていこの写真のグラスで提供される。

写真では分かり辛いかもしれないけれど、高さが16cmもあり、ガラスも肉厚。計ってみたら重さ1kg。容量は500ccなのでこれにビールを注ぐと合計約1.5kg、かなりでかいです。

まえからこのグラスが欲しくてしかたなかったのだけれど、ビール銘柄の入ったもの故、一般向け販売はないだろうと諦めていた。ところが今日、洋酒が充実した渋谷の酒屋、ビールコーナーを覗くとこのグラスが売り物としておいてあるので迷わず購入。

ひとつ990円。あまり数も置いていなかったので、店が卸よりノベルティとしてもらったものを売っているような気もするけれど、そのような事情はどうでもよく。今日の夜は早速これでビールを楽しんでいる。

実用性を重視するようなものでもないので、ずしりとした過剰なまでの重さはむしろ、このビールグラスを使う楽しみといえなくもない。このグラスの欠点をあえて一つあげるとしたら、それはやはり500mlという容量。

350mlのビールを入れたりすると、グラスの中途半端な位置でビールがとまってしまうので、結局500ml入れてグラスを満たしてしまう。このグラスばかり使いつづけたら、確実に痛風を患ってしまいそう。気をつけなければ…

今こそ株を

2006年01月25日 | 日常
むかし金融系の子会社に所属していたこともあって、金融関連知識についてはそう暗いほうではない。ただ、資産と呼べるほどのものを持っているわけでもなく、利殖活動に熱心に勤しむことはなかった。定期預金以外でやっていることは昔開発に関わった外貨預金くらい。

株について、昔から興味はあったのだけれど、なんとなく手をだしかねる状態が何年も続いていた。

最近は株にまつわる話で世の中騒ぐ事多く、事が起こる都度その会社や、関連する業界の株価を眺めることが多くなった。で、人間やはり何事も慣れてくると「実践」してみたくなるのが性のようで、つい先日ついついネット上で証券口座の開設申込をしてしまった。

昨日、連れに「株をはじめようと思う」と話してみると「普通、逆じゃない?」と怪訝な顔。たしかにライブドアで大損した人、自分の周りにもいるけれど…

少し前、ある証券会社の人と話す機会があったのだけれど(あくまでもプライベートな場で)、その人曰く「社会を勉強する意味では株はやるべき、ましてや経営者になったというのであれば尚更」とのこと。もちろん、リスクは充分にあるので「信用取引等、自己資産以上の取引は絶対にしない」、「投資した金額は全額なくなってもよいつもりで」やるべきとのこと。これさえ守れば損はしても破産はしないから、と。ごもっとも。

この人が自社の口座開設を勧めていたら、踏み切れなかったかもしれないけれど、ネット取引中心ならうちよりXXがお勧め、との言葉を聞いて、なんとなく「やってみるか」という気になってきた。

儲けようとは思わない、と格好つけたことは言わないけれど、まぁ損をしない程度にがんばってみたい。株専門のブログにするつもりはないので、多分この件については極端に儲かったか「その逆」の時だけ、ご報告したいと思います…

キャプション

2006年01月24日 | 日常
少し前、長い米国滞在から一時帰国した日本人の知人に「なぜ日本のテレビは番組で喋っていることを、いちいち画面上にもキャプション表示するの?」と不思議がられたことがある。

いつ頃からのことか覚えていないけれど、バラエティ番組を中心に会話内容を画面上にキャプションで表示するのがすっかり一般的になっているのは事実。文字放送というのは別にあるし、少なくとも障害者の方用ではないことだけは確かだ。

これまでにこの件についての記事を新聞等で読んだ記憶が何度かあるのだけれど、そこでも意見はそれぞれで、明確な理由は詳らかになってはいなかったと記憶している。「分かりやすさ」を優先しているのでは、というのが共通した推測だったと思う。

昨日からはライブドアの事でテレビをつけっ放しにしている状態なのだけれど、あるニュース番組を見ていて、このキャプションの件をふと思い出した。

次々と出てくる「元関係者」のインタビュー、例によってモザイクと音声を加工した映像なのだけれど、珍しくこのインタビュー前半はキャプションがつけられていなかった。加工してあっても音声自体は明瞭、聞き取り易かったのだけれど、この映像を眺めていても、いまひとつ言っている事が頭に入ってこない。で、なぜかそのインタビュー、一度アナウンサーへ画面が戻り、続きではキャプションがつけられた。すると言っている事が非常に頭に残る。

仕事の打ち合わせなどでは相手の言っていることを聞き漏らすまい、と聞くこちら側も必死になっているけれど、テレビのように「流して」見る場合、よほど興味でもないかぎり話の半分も頭に残らない、ということだ。

テレビが視聴者に緊張を強いてまで注目してもらう番組をつくることは難しい、ということなのだろうか。少なくともバラエティーでは全くその通りだと思うし。

ただ、こちらもだいぶ「慣らされて」しまった部分あると思う。少なくとも昔はこういうキャプションなどついていなかった訳だし。

過剰なサービスが、余計に彼らの番組を熱心に見る機会を奪っている、という気がしないでもないけれどどうなのだろう。今、このキャプションを一切やめたら案外「目新しく」映って良い気もするけれど、テレビ局のように特殊なまでの寡占企業は競争するくらいなら横並びを選ぶのかな…

イット企業

2006年01月20日 | 日常
失言のプロ、森元首相が少し昔にITを「イット」と読んだ話は景気回復の兆しすら見えなかった当時の日本に苦い笑いをもたらしたものだけれど、今回のライブドア騒動をみていて少し気になったのは「IT企業」という括り方。

ライブドア、楽天、ソフトバンク。いずれも世間ではIT企業との認識なのだろうけれど、このIT企業の基準て一体どこにあるのだろう。IT技術を武器として事業を行う会社、ということであれば微妙なところ。彼らの利用するIT技術というのはどれも、非IT企業でも普通に利用するものばかりだし。

日本IBMやオラクルをIT企業と呼ぶのは疑いのないところだろうけれど、要はWEB上での商売を「メイン」としている新興企業も、まとめて「IT」と呼ぶようになってしまった、ということなのではないだろうか。

自分でそのように名乗ることは決してないけれど、たぶん私達の会社もIT企業。なんだかとても歯がゆい。

ある企業をITの範疇として認めるか否か、それは大した話ではないのだけれど、今回の一連の騒動でどうもIT=軽薄、虚業、拝金主義、というかなり悪いイメージばかりが出来上がってしまったような気がする。いうまでもなく、特定企業のイメージからの「連想」でしかなく、本来は全く業界範疇と結びつくべきものでなどないのだけれど。

揚げ足を取るようで悪いけれど「ライブドア社員が証拠隠しとしてPCからメールデータを大量削除していたが、サーバー側データは削除された様子がなかった」との報道を見ていると、やはりライブドアをIT企業と呼ぶのはどうなのかな、と正直思ってしまう。個人的にはとりあえず、同社を「イット企業」と呼ぶことで気を紛らすことにしている。ITではない企業、ということで…

3回歌えば

2006年01月19日 | 日常
ふとしたきっかけで田原俊彦のオフィシャルサイトを少し眺めてみた。あの「たのきんトリオ」のトシちゃん、である。

一世を風靡した後のバッシング等々、彼の全盛期から「その後」までを見届けてきた世代としてつい、隅々まで見入ってしまった。

サイト内には最近のコンサート、セットリスト(曲目)も記載されているのだけれど、ここを見ると一つのことに気がつく。彼は全盛期のヒット曲を全く歌っていないのだ。「哀愁でいと」、「ハッとして!Good」、「恋=Do!」。あの昭和歌謡の数々、いずれも登場していない。サイト内で調べてみると、歌われている曲は比較的最近のものばかりのようだ。

彼に限らず、昔のヒット曲を頑なに拒む歌手、というのは時々いる。ネットで得た情報によれば、沢田研二も今では殆ど昔の曲を歌わないそうだ。「勝手にしやがれ」あたりをやってくれるのならコンサートに行ってもよいとすら思っているのだけれど…

10年ほど前、知人にチケットをもらい尾崎紀世彦のコンサートへ行ったことがある。尾崎紀世彦といえば何といっても「また逢う日まで」の人。

彼の場合は上記の田原、沢田両名とは全くスタンスが異っていて、コンサートのオープニングがいきなり「また逢う日まで」。コンサートのエンディングもまた「また逢う日まで」、更にアンコールでもう一度「また逢う日まで」。1回のコンサートで同じ曲を3回、出し惜しみなし。望むものならいくらでもやっちゃう、という感じ。

どちらが良いという話ではないし、昔の曲を拒む気持ちというのも理解できないわけではない。ミュージシャンとして現役で活動を続けている以上、今の自分を受け入れて欲しい、ということなのだろうし。

ポール・マッカートニーやローリングストーンズは、今でもコンサートで「出し惜しみ」なく昔の曲を延々とやってくれる。もちろん「過去だけの人」と厳しい意見を言う人もいるけれど、個人的にはすばらしい過去があれば、それだけでも充分だと思ってしまう。

試しに一度コンサートで「哀愁でいと」や「勝手にしやがれ」を尾崎式に3回歌ってみれば、彼らも何か吹っ切れるのでは、とも思うのだけれど、それは難しいのだろうか…

大騒ぎ

2006年01月17日 | 日常
ヒューザーに宮崎被告の判決、そしてライブドア。実に騒がしい1日だった訳だけれど、こういう日に限って外出の用事。

街を歩いていても「ライブドア」という単語が通り行く人の会話から何度となく聞こえてくる。良し悪しは別にして、これだけ世間を騒がせつづけた、というのはやはり凄いことだ。

渦中の六本木ヒルズ内、某企業(ライブドアではない)に勤務している友人がいるのだけれど、彼からのメールによれば同ビルの周りはマスコミが囲む状況。昼食を食べるのも一苦労、とのこと。

彼の勤める企業も、これまでも「かなり」多くの騒ぎを起こした「あの」企業。つい先日もネット内では話題を振り撒いたばかり。何か面白い話はないの?と聞いてみると「いろいろとあるのだけれど、さすがに言えない」、と。

「次の」騒ぎ、まだあるのだろうか…

THE有頂天ホテル

2006年01月16日 | 映画
最初に結論から言っておくなら、とにかく楽しい映画。見て損はないので、なにか楽しめる映画をと考える全ての人にお勧め。

23人もの個性的なキャラクター、出来事を有機的に繋げあげる力量はとにかく見事。とにかくこういう脚本を書ける才能には感心するしかない。笑いのなかにもホロリ、とさせる部分があるつくりはいつもの通り。

ある意味三谷作品の集大成(と勝手にまとめてしまうのもアレだが)といってもよい映画。作品自体には大満足。ただ集大成、という言葉には微妙な含みも少々。

映画をみていて三谷ワールド的な既視感をしばしば感じたのも事実。これって過去の三谷作品でもあったような…という感じが随所に。役所広司の見栄が引き起こす悲喜交々あたりは「合言葉は勇気」とか「王様のレストラン」あたりを思い出してしまうし、楽しいシーンについても都度「あの」パターンかな、と考える事もしばしば。

楽しいマンネリも悪いことではないし、この事が作品自体の価値を下げるものではないけれど、三谷氏の今後がちょっと心配…

あともう一つ惜しまれるのは公開時期。できればこの作品、正月映画として昨年末までには公開してほしかった。古畑任三郎スペシャルとの絡みとか何か「大人の事情」があったのかもしれないけれど。個人的にこの映画はやはり、大晦日に見たかった…

★★★★

断水

2006年01月13日 | 日常
昨日の夜、2時間ほど断水に見舞われた。水槽清浄等による計画的なものでなく、突然に水がでなくなった。

夕方までは問題なく、夜に歯を磨き、水を出そうとしたところで断水に気が付いた。幸いにして浄水ポットに水が残っていたので問題はなかったけれど、家の冷蔵庫には飲み物がトマトジュースくらいしかないので、もしもこの水がなければ結構困っていただろう。
一時的なものかと思いとりえず1時間ほどは静観した。しかし水道を開きっぱなしにしておいても、一向に水が出る気配はない。

仕方がないので、まずはネットで中野の水道局を探しあて電話。20時を過ぎていたので期待はしていなかったけれど、即座にオペレーターが対応してくれた。ここで水道局に断水の知らせはないこと、我が家の水道を意図的に止めては居ない事を確認。その後指示に従い水道の元栓を自分で確認してみたけれど、特に閉められた様子もない。

本来なら、このあたりでマンションの他の住民に断水の有無を確認したかったのだけれど、都内の多くの賃貸マンションがそうであるように基本的には近所付き合い、というものが全くない。こういうご時世でもあるので、わざわざ呼び鈴を押してコンタクトするにはこちらにも(そして先方にも)少しばかりの勇気が必要。こういう「現代」の寂しい事情もあって結局「ご近所」の情報は諦め、マンション管理会社へ直接電話。

最初に対応にでた人はかなりひどい態度(アルバイトか?)だったけれど、次に変わった人はまともな応答。1時間半位で担当の方がチェックしに来訪してくれる、とのこと。

結局のところ予定より早く、その1時間後くらいには担当者の人が来て、断水を解消してくれた。水道ポンプのブレーカーが上がってしまっただけの様子。ちなみに担当者の話によれば、このマンション(14世帯)で断水の連絡をしてきたのは2件だけだそうだ。

こういう風に経過だけ書くと結構淡々としているように見えるけれど、水がでない、という些細ながらも「非日常」的なことが一人の時、そして周りにこれといった知人もない状況で発生すると、思っていた以上にうろたえてしまうものだと実感した(連れも仕事で家には不在)。

管理会社はしっかりと対応してくれたし、問題はすぐに解決したのだけれど、これが大震災等の場合にはそうもいかないだろう。その時は水だけではすまないだろうし。

防災用品のような「備え」だけなら自己努力で解決するけれど、こういうコミュニケーション不在、というのも思いほか災害時の懸念要因なのだな、と実感した冬の一晩だった。

日本全世帯に?

2006年01月12日 | 日常
今日のニュースで何より驚いたのは、例の温風器事故に伴う松下電器の対応。

なんでも未だ該当機器の4割が所在不明とのことで、その解決策として今度は日本の「全世帯」に回収協力依頼の葉書を出す、とのこと。

商品の欠陥で死者まで出したのだから、誉められることではないのだけれど、そてにしてもスケールがでかい話。全世帯に送るという発想自体、自分には想像もできなかった。良くも悪くもさすがに松下、変なところで感心してしまう。

住所はどう入手するつもりだろうと思って記事を読み進めると、郵便局の協力のもとで「全ての家庭」に宛名なしで届ける、とのこと。

仮に葉書一枚の郵送料が通常通り50円とすれば6000万世帯宛で30億円。特殊なことだけに減免措置、割引等はあるのかもしれないけれど、それにしてもすごい話だ。

少し気になったのは、この「宛名なし」で全ての家庭に配送するというサービス。もしかして料金さえ払えればだれでも依頼可能なのだろうか、ということ。そうだとすれば全国とは言わないまでも特定都市の全家庭へ、という感じでどこかの企業がDM配送に利用する可能性は充分にあるわけで。たぶん「特例」なのだとは思うけれど…

あと、郵便局が完全に民営化されたあとに同じような事故が発生したとしたら、やはり郵便局はこういうサービスを請け負うのだろうか?

CDの値段

2006年01月10日 | 日常
先日タワーレコードでモーツァルトの交響曲全集を購入。ザルツブルグ、モーツァルティウム管弦楽団の演奏で13枚組2990円、1枚230円ということになる。今に始まったことではないけれど、クラシック音楽のCD、特に輸入盤の値段の崩れっぷりには本当に凄いものがある。

音源保存手段の発達(要はmp3等)もあって世の中ではCDの売上自体、減少傾向ということらしい。クラシック音楽の世界はもとより大きくはない市場ということもあり、その影響をダイレクトに受けてしまっている。昔に比べると明らかに「新譜」の発売数自体も減ってしまっている。

ただ、売れないから何も出さない、という訳にも行かないのか、最近多いのがこの「昔の録音の再発売」。既に(たぶん)元は取っている、ということもあって上記のようにやたらと安い値段でCDを手に入れる事ができる。

ファンとしてこういう事態はありがたい限り。持っている曲であってもつい「安い」とCDを増やしてしまう。冷静に考えれば、ありがたがってばかりもいられない状況でもないのだろう。少なくともクラシック業界の未来を考えると…

思い出してみると、初めてCDを買ったのは高校生の頃(80年代前半)。当時はまだレコードが主流でCD自体があまり普及していなかった。従い、発売されるタイトルも少なければディスクの値段も高かった。たしか、地元平塚のレコード屋ではCD一枚が4000円だったと記憶している。

当時の高校生にとって4000円はそれなりの金額であったので、結局高校時代に買ったCDはこれ1枚だけ。ベルリンフィル、ギドン・クレーメルによるチャイコフスキーのVnコンチェルト。たしか、クラシックCDが20枚くらいしか並ばない地元店の棚のなかで一番良く知っている曲、ということで選んだもの。このCDは今も手元にあって、先日ためしに聴いてみたら特に問題なく再生できた。

今の廉価なディスク上であれ、昔の4000円のディスク上であれ、演奏家が情熱を傾け録音した「音」に差などあろうはずもない。けれど、それこそ「レーザーで擦り切れるほど」に聴いた一枚のアルバム、ここから流れ出る音楽、というのはまた格別なのである。

この寒さ

2006年01月06日 | 日常
とにかく寒い今年の冬。12月に至っては「戦後」の形容までつく寒さ。年を越えても勢いが弱まることもない。寒いのには弱い身としてはつらい毎日…

今日もやけに寒い、と思っていたら東京は最高気温でも5度に満たない状況。日本海側の大雪も半端でないようで、雪が多すぎてスキー場を閉鎖するという事態まで発生しているようだ。笑いごとではないのかもしれないけれど。

今日も外出時、その寒さを体感しながらふと子供の頃のことを思い出した。考えてみると、あの頃の冬は最近よりも明らかに寒かった。

生まれ育ったのは神奈川県平塚市、東京から直線距離にして約60Km。温暖、とまでは言わないまでも東京よりは少しだけ暖かい。

そんな土地でも、冬になると朝は霜柱を踏んで遊んだものだし、学校の池は正月を越えたあたりからしばしば凍り、厚さ2cmくらいの氷ができた。(そして子供はその氷を割って遊ぶのである)。

今住んでいる家の近くには池もなければ未舗装の土地もない。ただ、今の前の家(これも中野)には近くに舗装されない空き地と、小さい池(というか水溜りのようなもの)があった。その家での4年ほどの生活にて、池の氷、霜柱、どちらもほとんど見た記憶がない。

今年はたぶん「例外」で、基本的には地球温暖化ってやはり確実に進行しているみたいだ。確か半世紀後の東京は今の九州くらいの気温になるという予測もあるし。

今回「単に寒い」という話題をわざわざ引っ張って記したのも、実はこの辺を意識してのこと。このブログを30年後に振り返る機会が奇跡的に実現したとしたら、たぶんこの冬の寒さを訴えるだけの文章も、きっと色々な感慨をもって読み返すことになるのだろうな…

年賀状を見て

2006年01月05日 | 日常
今年、というよりここ数年受け取る年賀状ではすっかり「子供の写真」入りのものが主流になってしまった。少なくとも小さな子供のいる知人からの年賀状は100%、子供の写真がプリントされている(誇張抜きに今年は100%だった)。

間違ってもこんなことはしない奴、と思っていた友達がディズニーランドで嬉しそうに子供を抱いた写真をプリント、送ってくるのを見るにつけ「人は変わるものだ」との思い強くなるばかり。

とにかく経験してみないと何ともいえないけれど、いざ生まれたら人に見せたくなるものなのだろうか。

昔ならこういう行為は「親ばか」と心の中でからかうような部分あったのだけれど、最近では、「よその子」の写真を眺める行為、というのもそう悪いものではないと思えるようになってきた。

さすがに他人の子供の成長を見守るのが楽しい、というと嘘になるけれど、赤ん坊からだんだんと子供へ移る過程を眺めるというのは思いのほか興味深い。徐々にその両親のどちらかと特徴が一致してくるようになるのを見ると、本当に不思議な気分だ。

でも、やはり楽しいのは子供と一緒に写る親の姿。昔は尖っていた友が少し照れた感じで子供と一緒にポーズをとっていたりすると、なんとも言えずおかしい。みんな確実に、人生のとあるステップをこなしているのだ…

それにしてもこれら年賀状を見る限り、少なくとも自分の周りでは圧倒的に女の子ばかり、男の子供を持つ親は2人しかいない。携帯やPCの電磁波の影響で、生まれる子供の性別が(女の子に)偏っている、という話は本当なのだろうか。

あと、もうひとつ興味深いのは、果たして彼らは15年後も同じように子供の写真をプリントしてくるか、ということ。たぶん、気持ち悪いからやめろ、と子供の方から断られてしまうところが大半だと思うのだけれど、果たして結果は如何に。