はじめまして

今回、新しくブログを開設しました。

アカツクシガモを見に行くホシガラス

2010-11-23 17:58:48 | Weblog
 11月22日  曇りで時々雨

 午前中は市民講座で写真大学から変わった東京工芸大学中野キャンパス内にある写太ギャラリーに保管
されている国内外の名写真について映写説明が有りました。
 中でも、土門 拳 氏の寺社と仏像写真は特別に説明されましたが内容的には特筆することはありません。

 写真の事なので特別に前の席に座り眠らず聴くと言うよりは鑑賞しました。

 11月23日   曇りのち晴れたり曇ったり

 千葉県の神社の池にアカツクシガモが来ているとの情報が有りましたので行って見ました。
 千葉県なので9時半に家を出て、着いたのは12時近くで、2時間半かかりました。
 カメラマンもおらず、ゆつくりと観察できました。


 この鳥は、体長64Cmと大型の鴨です。繁殖地は中国で、冬には関東以南に少数飛来します。

 なかなか気の強い鴨で自分の近くと言うより自分で決めた区域に他の鴨が近づくと追い払います。
 この池でも、小さな凹みの水面を自分テリトリーと決めており少しでも近くのカルガモやオナガガモが
近寄ると猛烈な勢いで追い立てていました。然し、お気に入りなのかマガモ紛いのアヒルと得体の知れない
アルビノ(白化体)の鴨だけは傍にいても平気でした。もっともこの二羽は眠ってばかりでした。

 まずはアカツクシガモの姿をご覧下さい。





 広げた翼の裏が見えます。







 白い腹部が見えました。



 アオサギが羽繕いに余念がありません。



 またまたアカツクシガモです。



 威嚇しています。



 得体の知れない白い鴨です。交雑種の白化体かも知れません。後ろ姿と寝ている姿ばかりで
残念ながら全身が写せませんでした。







 もう一回アカツクシガモです。



 水の中に入れました。



 白い鴨の正面ですが遠いです。



 神社には恐ろしい形相ながら愛嬌のある狛犬さんが守っていました。どちらが阿吽か判りません。





 こちらは正式の阿吽の狛犬さんです。阿の方です。



 吽の方です。



 帰りに錦糸町駅からスカイツリーが見えました。電線が邪魔ですが仕方有りません。
 全景で現在497mとのことです。



 展望台部分です。



 帰宅しましたら16時になっていました。たった一種類の鳥を見るのに6時間半を費やしました。

 鳥を見るには屡々有ることです。これで満足しています。

2010年11月第三週のホシガラス

2010-11-22 13:01:16 | Weblog
 この一週間、可も無く不可も無い取り立ててブログに載せる程でもない平々凡々の
日々が続きました。

 11月15日  曇り空です。夜は小雨となりました。

 市民講座に出掛けます。タイトルは「近松と忠臣蔵」でしたが昨日の疲れの為か殆ど
眠ってしまいました。要は仮名手本忠臣蔵の話で歌舞伎に詳しくないホシガラスには今
の処、余り興味を惹かなかったようです。

 夜は平家物語の講座です。京都で義経が頼朝から刺客として送られた土佐坊を逆に
討ってしまい益々、頼朝の反感を買い遂に都落ちしなければならなく条です。
 この講座も今のペースでは来年3月頃には修了となりそうです。

 11月16日  良く晴れた秋日和です。

 午前中、体操教室でした。午後はPCで雑用整理となりました。

 11月17日  曇りで時々小雨が降りました。

 吹き矢の日でしたが、寒くなって天気も悪いので参加者は20名を切りました。
 然し、暫く休会されていた方が久しぶりに復帰されたので嬉しいことです。

 午後は鳥の会の句会です。午前の吹き矢に反して成績は良く有りませんでした。
 5句中、3句が何とか選ばれただけでした。

 帰宅して夕食中に電話が鳴り出るとアフリカ旅行以来15年親しくしていた方
が昨日亡くなられたと奥様から告げられ唖然と共に悲しくなりました。
 7月末には町内の親しくお付き合いして頂いた方に亡くなられ、今回は又、一人
の親しい友人を亡くすことになり世の哀れをしみじみと感じる夜になりました。
 生有る者は何時か必ず去り会えば別れが有ることは判っていても現実となると
無性にせつないものです。特に独り暮らしの身には応えます。

 アフリカを一緒した方達と折りに触れて集まり食事をしたり旅行をしたりして
来たお仲間も減りに減って連絡出来る人は2組になりました。

 11月18日  曇り空ですが時には晴れ間も見えました。

 午前中はグラゥンドゴルフです。昨夜の悲しみを忘れる為にも励みました。
 10ラウンドをプレーしたので5Kmは歩いた事でしょう。

 午後は先週に続いて、『ラストエンペラーと5人の妻』の話のうち三人目の王妃
についてです。
 1922年に王妃 婉容と淑妃 文綉と結婚した後、1937年には第三夫人と
して満州国の貴族である 譚玉齢(17歳)を迎えます。
 溥儀はもともと女性に興味が無かったので、いくら王妃を迎えても子供が出来な
かったのですが皇帝としての面子もあったのと、皇室のしきたりでそうせざるを得
なかったようです。この譚玉齢も5年後の1942年に病死しますが、後に東京裁判
で溥儀は譚玉齢は日本の関東軍参謀 吉岡に毒殺されたと証言します。
 この当時の日本軍部と満州国の関係は奇々怪々です。

 王妃の婉容は阿片に溺れ文綉には離婚され譚玉齢も死に1943年溥儀は珍しく
一般人の李玉琴(15歳)を王室に迎えます。
 この女性は王室のしきたりを無視し勝手気ままに振る舞うので溥儀は初めて新鮮
な女性として扱います。所謂、蓮っ葉な女の子だったようです。
 1945年、日本の敗戦と共に満州王朝も苦難の道を歩みます。その中で李玉齢
も八路軍に囚われ1946年に解放されますが、その後も1955年に溥儀と再会
しますが元には戻らず図書館員で働き1956年に溥儀と正式に離婚します。
 李玉齢は放送局に職員と結婚しますが2001年に溥儀の妻としては最後に亡く
なりました。73歳でした。

 溥儀は、中国革命の中で多くの苦難の生涯を送りますが元来一般人のように暮ら
して来ていないので洗濯も出来ない、衣類の補修も出来ず皆から馬鹿にされます。

 1959年、特赦で解放され植物園で軽労働に従事します。1965年には自伝
を執筆するまでになりました。1967年に最後となり五人目の妻となる李淑賢と
結婚します。この女性は看護婦さんで溥儀としては最初で最後の幸せな人間として
の結婚生活が送れたようです。この時、溥儀61歳でしたが5年後の1972年に
波乱の生涯を閉じました。66歳でした。

 李淑賢は1997年まで生きて北京で亡くなりました。

 五人の妻たちは、それぞれ溥儀の妻なる為に波乱の人生を送る事になりました。
 宮廷と言う特殊な世界の中で一般人には想像も出来ない因習や窮屈な生活がある
のでしょう。自由な平凡な人生が一番幸せと、しみじみ感じました。

 夜は芸術館で久々にアルゼンチンタンゴを楽しみました。
 秋から冬にかけてはタンゴが似合います。18時半から20時半過ぎまで別世界
で大いに楽しむ事が出来ました。





 最近はアルゼンチンタンゴもアストロ ピアソラが新タンゴを発表してから
トラディショナルなタンゴが現代人には忘れ去られようとしています。

 1950年代のアルゼンチンタンゴブームは1960年頃まで続き、その後
1970年代に少し復活しましたが、その後は下火となりました。

 今回のエンリケ・クッチーニの楽団はクッチーニのピアノをメインにコントラバス
バイオリンとタンゴの主力バンドネオンの四人だけの編成でしたのでバンドネオンの
ソロが少なく寂しい感じでした。
 バンドネオンのバリエーションの競演は見事で毎回楽しみなものですが今回は有り
ませんでした。一人だけの少しだけのバリエーションがあっただけでした。

 曲もエル・チョクロ、ジェラシー、デェレーチョ・ビエホ、ケハ・デ・バンドネオン
に名曲 カナロ・エン・パリ、そして余りにも有名なラ・クンパルシータ等お馴染みで
たっぷりと楽しませて貰えました。
 リーダーであり指揮者でピアニストのクッチーニさんはアルゼンチン人にしては
小柄でユーモアたっぷりの人でした。もう数十回も来日しているので日本語も巧みに
こなしていました。ピアノ演奏は素晴らしい音でした。

 又、セクシーたっぷりのダンスも見事でした。スタイル・踊りとも抜群でした。

 昨夜の悲しい思いが少しは慰められた夜になりました。

 外に出ると十三夜に近い月が出ていました。

 11月19日  晴れました。

 卒業して61年目のクラス会を銀座で開催しました。40人居たクラスメートも
2人が最初から不明で、12名が亡くなり26人になりました。
 そして今日集まったのは9名でした。後の17名は大半が体調を崩したり伴侶の
介護で出られない人ばかりで、まずまずの体調で都合が悪い人は数人です。

 毎年、開催していますが今日元気で集まれる人は幸せです。元気だからこそ出て
来れるのです。もう全員が80歳を越しています。
 このようにして後、何年集まれる事でしょうか。予定の二時間があっと言う間に
過ぎ、30分程延長し更に有志6人で喫茶店に入り名残を惜しみました。
 12時に開始し、別れた時は15時半を過ぎていました。

 学友には上下が無いので気楽です。会社のOB会では未だに上下のこだわりが
残っている場合が有り抵抗を感じる事があります。浮き世の柵でしょうか。
 人それぞれです。

 銀座を一人でぶらぶらして夜の東京落語会へ向かいます。

 虎ノ門のニッショーホールへ入ると今日の楽しみにしていた柳家権太楼師匠が
休演で代演は最も嫌いな金馬さんとのこと。がっかりです。

 今日は鎌倉でも鎌倉落語会が有り、好きな滝川鯉昇師匠・柳家喜多八師匠と
入船亭扇遊師匠の三人競演で魅力たっぷりでしたが、権太楼さんを選んで来たの
に本当にがっくりです。中入り後は一人だけ聴いて帰ることにしました。

 開口一番の後は、今年のNHK新人演芸大賞で優勝した春風亭一之輔さんの
【初天神】でした。本来は2月に演ずる噺ですが、この噺で大賞受賞なので敢えて
の口演です。独特の演出で時勢要素も入れてなかなかの好演で先が楽しみです。
 三遊亭金時さんは【ふぐ鍋】。頂いたふぐを鍋にしたが食べる前に試しに乞食に
与えて様子を見ると良い気持ちで寝ているので安心して食べると乞食が又、おねだ
りに来て旦那さん達は大丈夫でしたかと聞き、それではこれから温めて食べよう
と帰って行くオチです。これも好演でした。
 三遊亭歌之介さんの【代わり目】も独自の演出で楽しく聴けました。
 
 中入り後の、桂 平治さんは物真似を入れた演技で会場一杯の爆笑を誘いました。
 師匠の文治さん譲りの口調で楽しい噺家です。気持ちよく笑える噺家で好きな
師匠です。平治さんが終わると、ぞろぞろと帰る客が多く出て行きました。

 友人と一杯やって帰ると日にちが替わっていました。

 11月20日  晴れです。

 近くの会場へ吹き矢に行きますが次の予定があるので11時で早退しました。
 11時半から町内の懇親会に出席します。
 その後も予定がありましたが少し疲れ気味なのでカットして家でゆっくりしま
した。

 友人から幻の焼酎とも言われる銘酒【森伊蔵】を頂いたので、ちょっぴり
呑みました。流石にコクの有る美味しい絶品です。友人に太感謝です。

 11月21日  晴れの予報なのに曇り空です。

 鎌倉市のスポーツレクリェーションに協賛してグラゥンドゴルフに参加しました。
 毎年の行事ですが、戸外ではGGの他にターゲットバードゴルフやウォーキング
も有り屋内でもいろいろな新スポーツが紹介されて全部のコースを回るスタンプラ
リーもありました。
 グラゥンドゴルフの会場です。小さな子供さんも指導員に教わりながら真剣に
ボールを打ちました。



 民謡ダンスです。



 屋内の新スポーツが賑わっていました。



 曇り空でしたが、気温は温かくまずまずのスポーツ日和でした。

 かくして2010年の11月の第三週が過ぎて行きました。

 

  

秋を楽しみ過ぎたホシガラス 最終編

2010-11-16 13:57:38 | Weblog
 11月14日 曇り空です。歩くには丁度良い天気に思えます。

 神奈川県内の東海道を歩く会に参加し、今日は二宮から鴨宮迄で鴨宮では酒匂の渡し場跡
を見学します。
 9時に二宮駅に集まったのは約20名でした。
 出発前に駅前で恒例により準備体操です。



 先ず吾妻山(136.2m)に登る予定でしたが天気が曇りなので視界が悪い為、中止し
脇から吾妻神社に参拝することになりました。気楽に考えていましたが、大変な階段道です。
 それでも途中まで息を切らして附いて行きました。自分のペースで行くと段々に遅れて行
きます。啼いている鳥を見たりして歩きにくい階段を登って行きます。





 九十九折りの坂道が続きます。ついにはホシガラス一人になりましたが登って行きます。

 神社の案内を見ると、縁結びの神 となっているのを見た途端に力が抜けました。
 81歳のホシガラスにとって不老長寿の神とか家内安全の神様なら頑張って登って行き
ますが、縁結びの神様では所詮縁がありません。
 もう一折れの坂道を上がると山頂と言う処で皆さんが下りて来ましたので下山に合流し
ました。下りは楽です。地球の引力の偉大さに感心するばかりです。

 吾妻神社は昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折り三浦半島から海路上総
へ渡ろうとすると突如強風が吹き荒れ舟も波に呑まれそうになった時、武尊の妻の弟橘媛
命(おとたちばなひめのみこと)は海神を鎮める為、自ら身を海に投じました。間もなく
海は静まりその後、海辺に流れ着いた姫の櫛を吾妻山山頂に埋め、在りし日の姫を偲ぶよ
すがとしたのが吾妻神社とのことです。その為に縁結びの神社なのでしょう。

 その後は海岸線を離れて平坦の道を暫く歩きます。間もなく相模の国二の宮川勾神社
に着きます。



 石段を昇り鳥居を潜って拝殿に向かいます。菊花展が開催されていて見事な鉢植えの
大輪の菊が展示されていました。判らないなりに見事な菊でした。



 日柄が佳く、七五三で可愛い女の子が手を引かれて参拝に来ています。



 何の加減か神社の御神輿が開陳されていましたので撮りました。見事な御神輿でした。



 地名は判りませんが、ここにも一里塚がありました。





 道路のマンホールは小田原城と恐らく酒匂川の輦台渡しが描かれています。



 JR国府津駅の手前には大山へ行く道の入口が有りました。



 国府津駅を過ぎて間もなくの処に親鸞上人が説法をした真楽寺がありました。



 ここには天然記念物とされている菩提樹があります。元は親鸞上人お手植えとされて
おり当時は幹回り2.1mもあったそうですが、現在の樹はその後に植え替えられたもの
ですが根元が五幹に別れています。





 真楽寺から東海道線の小さなトンネルを潜ると菅原神社です。国府津の天神さんとして
親しまれているとのことです。



 境内には昔、曽我兄弟が父の仇 工藤祐経の鎌倉へ向かう行列を待ち受ける為に
隠れたと言う大きな石が有ります。



 童謡 天神さんの細道 発祥の地とのことです。

 再び東海道へ出て学習センターで昼食休憩です。12時7分になっていました。
 12時40分にセンターを出てお昼の体操をして出発します。親木橋の近くの蜜柑
売り場で皆さん買い物です。



 ひたすら東海道を酒匂川に向かって歩きます。僅かに残された小田原の松並木が
見えて来ました。



 気根が下がった大きな乳銀杏のある上輩寺に寄りました。お寺より銀杏が目当てとは
少し失礼かも知れませんがお許しの程を。高さ5m程の樹ですが気根が100本もあり
そのうち20本は長さ1mを超えています。







 間もなく酒匂川に出ました。酒匂橋の近くに今は無くなりましたが昔の渡し場の
旧跡碑が残っていました。昔はここから渡し舟が出ていたとのことです。



 東海道を少し戻って大見寺?の五重塔を拝観しました。高さ4mほどの小型ですが
荘厳と言いましょうか威風堂々と立っています。



 今日の歩きも最後に近づきました。最後は酒匂神社で終わりの体操をします。

 最初の川勾と、この酒匂では、わ が少し違っています。川勾の勾は中がムになって
いて曲がっているの意味です。勾玉の勾です。
 酒匂の匂は ヒ で匂いです。似ているようで違います。日本語の難しさです。

 さて体操をして解散しました。14時半を過ぎていました。



 鴨宮の駅まで歩き15時の東海道線で帰宅しました。帰宅すると万歩計は
24843歩となっていました。

 曇っていましたが暑くて大汗でした。早速シャワーで今日一日の汗を流しました。

 流石に少し疲れ気味です。秋を楽しみ過ぎました。



 

 




秋を楽しみ過ぎたホシガラス その2

2010-11-15 21:10:26 | Weblog
 11月13日  曇り空ですが日中は晴れ間もあるとの予報でした。

 今月から来年6月まで月一回で実施する猛禽類の観察が始まりました。
 参加すると総勢14人が集まりました。
 参加者はいろいろなグループや個人の人々です。何れも猛禽類の観察のベテランで
ホシガラスは参加するだけです。

 何時も楽な地点で観察しますので、猛禽類より普通の鳥や花や虫に興味を注いでいます。

 今日も朝から猛禽類は余り出ません。

 暇つぶしに辺りを見回すと今秋初めてのツグミがいました。



 ヒノキの梢でモズ♀がいます。



 近くに柿の畑が有り、それぞれ枝もたわわに成熟した柿が生っています。近くの人に
聴くと放置してあるそうです。勿体ないことです。そうかと言って持ち主がいないのに
黙って取る訳にはいきません。唯、眺めているだけです。

 

 探索するとキタテハが、枯れ葉のなかで休んでいます。



 傍にはアキアカネもじーっと羽を休めています。寒いので動かないようです。



 キタテハも全然動きません。温かくなるのを待っているようです。



 

 経が1Cmくらいの蔓性の赤い花が、ひっそりと咲いていました。名前が判りません。
 何方か教えて下されば嬉しいです。



 電線でモズ♀が高鳴きしています。



 春の女神のようなモンシロチョウは元気に飛び回っていました。



 モズは今度は朴の木の梢に出ました。



 午前中は遂に猛禽類の出現は有りませんでした。もっとも、どの鳥でもお昼前後から
15時近くまでは余り活動しません。漸く、14時37分から突然現れました。
 オオタカです。高度は100mから150mぐらいです。





 14時38分、二羽になりテリトリー争いなのかペアリングの♂同士の争いなのか
もつれ合っています。



























 沢山の写真になりましたが、この間僅か2分程でした。

 これが、この日の収穫になりました。来月にはもう少し活動も活発になることでしょう。

 9時から開始して15時に終了しました。これで秋の一日が終わりました。

秋を楽しみ過ぎたホシガラス その1

2010-11-15 13:48:47 | Weblog
 雲ひとつ無い好天です。息をいっぱい吸い込みます。身体中に清涼な空気が充満する
ような気持がします。

 11月11日 先日のような強風もなく静かですが、グラゥンドは表面の砂が飛ばされて
一部は舗装道路のように固くなっています。
 
 グラゥンドゴルフもこうなるとボールが走り過ぎてコントロールが難しくなります。前半
7ラウンド、後半3ラゥンド、計10Rブレーすると5Km近く歩いたことになります。
 スコアはまずまずで良い運動になります。
 気持ちの佳い午前を楽しく過ごしました。

 午後は市民講座で、【ラストエンペラー溥儀と五人の妻の生涯】を聴きました。
 今日と18日の二回に亘って話されます。

 溥儀は清王朝に生まれ波乱の生涯を過ごしました。正に世が世なればですが、時代の流れ
に翻弄され続け、それも限られた環境の中で個性が無視された生涯でした。

 1906年に生まれ二歳で清王朝10代の皇帝として即位。4年後、中華民国成立に伴い
退位しましたが、5年後中華民国内紛で再び即位すれど僅か12日で退位することになり
ました。
 1922年、16歳で正夫人 婉容と淑妃 文綉(ぶんしゅう)と結婚します。この時
婉容17歳でした。この正夫人はモンゴル系貴族の娘で西欧的な教養を身に付けただけに
皇室と言う堅苦しい環境に適応出来ず間もなく阿片に浸り続け1946年、非業な死を遂
げました。

 この辺は映画 ラストエンペラー で記憶に新しいものがあります。

 淑妃 文綉は清朝高級官僚の娘で14歳で溥儀の後宮に入りましたが1931年離婚訴訟
を起こして離婚します。慰謝料50万元を要求しましたが、5万元で同意したそうです。
 当時、清国では年に2000元あれば暮らせたので人生50年の時代の頃ですから25年
分の生活費になるので充分だったのでしょう。
 離婚後は私立女学校の教師をしたり、新聞社の校正の仕事をしたりして一時は蒋介石軍の
高級将校と再婚しましたが毛沢東時代になり台湾に渡ることも出来ず最後は1953年45
歳で、この女性も波乱の生涯を閉じました。

 溥儀自身も清王朝の中で1934年、三度目の即位をして12代の皇帝となりましたが
当時は日本による満州国建国が進められ今の中国北東部は騒乱の時代でした。
 その後は日本の傀儡政権として利用され日本の敗戦と共に運命に翻弄され続け文化大革命
では一市民として乱暴に取り扱われ1967年に腎臓癌や尿毒症・心臓病で波乱に満ちた
62歳の生涯を閉じました。

 今日は二人の夫人の話で終わりましたが次は18日に残りの3夫人の話となります。

 11月12日   晴れの日です。

 二年に一度の胃カメラによる定期検診なので朝食抜きで病院へ8時半に入ります。
 9時頃から診察室に入り、事前のいろいろな処置を受け、いよいよカメラが入る頃は
麻酔が効いて全然判らず目覚めると終わっていました。
 医師の診断では異常無しとの事で一応はほっとしました。

 結果が良かったので別の診療所でインフルエンザの予防注射をして貰いました。
 これで、この冬も或る程度安心です。朝、食べなかった分を昼食で補って横浜市の
公園に出ている白化したジョウビタキを見に出掛けます。

 公園内の田は刈り入れが終わって閑散としています。



 暫く待っていると飛んで来ましたが、ムラサキシキブの枝に止まりましたがポジション
が悪いです。贅沢は言えず一応撮るだけ撮りました。







 次は良い位置に出て呉れましたが杭の上です。



 

 鳥のお仲間が紅葉した櫨の枝に止まっている姿を撮っているので待ちましたが遂に
止まって呉れません。地面に降りた後ろ姿です。



 今日はカメラマンも少なく好都合です。



 充分に観察が出来たので帰ることにしました。

 芒原に午後の陽が注いでいます。



 市民農園になっている田にはコンクールに使ったのか案山子が立っています。



 紅葉も秋の陽に輝いていました。



 池ではカワセミが小魚穫りに余念がありません。





 先日、見に行ったトラフズクが四羽に増えていると聞きましたが今日は風邪の予防注射
をして余り過激な運動をしない方が良いと言われているので5Kgもの道具を背負って
余り右往左往するのも考え物と思い自粛して帰宅することにしました。