はじめまして

今回、新しくブログを開設しました。

ホシガラスの体力測定

2011-03-31 16:18:37 | Weblog
 3月30日 桜はまだですが、暖かい夜明けです。友人から誘われて県西部の矢倉岳へ
鷲鷹類のクマタカ観察に出掛けます。一昨年秋に出掛けた後、二度目です。

 82歳に間もなくなので山登りには多分の不安が有りましたが。ゆっくり登れば?と思い
おっかなびっくりで主目的のクマタカを二の次にして自分の体力測定を目的に出掛けました。

 7時に藤沢に集合し友人のクルマで三人で出発しました。途中、渋滞もなく8時半には
足柄峠に到着しました。

 これから登る矢倉岳が遠望出来ます。標高870mの小さな山ですが緩い登りの後、急な
登りが二カ所あります。



 足柄峠は既に600m近くありますが、そこから100mぐらい下り、それから登るので
標高差は370mぐらいで山歩きをしている人にとってはハイキング並みです。
 8時45分、スタートします。
 最初の下りが勿体ない感じですが、適当な足慣らしにもなります。
 杉・檜の造林地を黙々と歩きます。時折キクイタダキらしき声がします。



 歩き始めて一時間、いよいよ急な登りにかかります。慎重に足場を選んで登りますが、下り
が心配になります。

 地球の引力に逆らうのが、こんなにも辛いものかとつくづく感じます。

 二カ所の急な登りを無事に踏破して標高870mの山頂に10時17分到達しました。
 春の霞で富士山は見えず、周囲の山々もぼーっと霞んでいます。ホオジロがいました。

 箱根の金時山が見えます。



 山頂の標識です。



 山頂は1000㎡(300坪)もありましょうか?山相応の広さです。一角に地元の
ライオンズクラブが設置した展望台が有ります。秋のサシバの渡りの際は賑わいます。



 お昼近くなりますと足柄峠からと矢倉澤方面からハイカーが登って来ます。
 6グループ20人ぐらいになりました。



 北斜面の向こうには丹沢山塊が連なっていますが雑木林で見えません。雑木林は春の
気配が漂っています。



 クマタカはなかなか現れて呉れません。大陽が雲に隠れると寒くなります。
 姿が見えたと思うとトビだったりオオタカだったりで主役は何処にいるのでしょう。
 寒いのと退屈するので、うろうろとします。小さな祠が祀られていました。



 漸くめぼしい鷲鷹と思いましたらノスリでした。折角ここまで来て何も撮らないのも
残念なので写しましたが遠いです。



 13時半まで待機することにしていましたが、後ろ髪を引かれる思いで14時まで
延長しましたものの肝腎なクマタカは遂に現れて呉れませんでした。同行した友人は
10回来ていますが、たっぷり見られたのは2・3回とのことで僅か二回では無理です。
 次のチャンスを待ちます。鳥見を初めて間もなくの頃、丹沢のヤビツ峠で飛んでいる
姿を見て、何と美しい鳥であろうと思ったものでした。それだけにもう一度再見したく
機会を待ち続けて来ました。

 13時55分、下り始めました。登り以上に慎重に脚を運びます。



 二カ所の急な下りも無事に過ぎて楽な下り道を歩きます。木の間越しに輝くばかりの
新緑が春の陽に映えていました。



 15時半近くスタート地点の足柄峠に戻りました。雲が時々大陽を隠したものの天気
はまづまづでした。名残の矢倉岳をもう一度眺めます。



 15時45分、帰途に就きました。

 何はともあれ目的のクマタカには会えませんでしたが、まだまだこのくらいの山なら
疲れを感じる事無く登れる自分の体力に改めて自信が持てました。

 3月31日  いろいろな事があった3月も今日で終わりです。

 午前中グラゥンドゴルフに出掛け、11ラウンドプレーして6Km近く歩きました。

 明日から4月。明るい月日を目指して被災地のご苦労を偲びながら元気で生きて行き
たく思います。

動き出したホシガラス本文。

2011-03-28 18:27:36 | Weblog
 3月27日 晴れのち曇り一時小雨あり

 気晴らしも兼ねて月例の酒匂川へ出掛けました。まだ寒い風が吹いています。
 富士山はすっぽりと雲に覆われています。それでも14人が参加して下さいました。嬉しいことです。

 堤防に出て吃驚です。ダムの下流両岸ともブルトーザーが入り、草も木も刈り払われています。これでは川の鳥は兎も角、小鳥類は隠れる場所もなく安心して棲めません。

 噂に聞くところによると花園にするとか。単なる噂で有ることを願って止みません。

 僅かに残った小さな木にモズが止まっていました。



 隠れ場所の無い原でもキジ♂がうろうろしていましたが、それ以上ののろまのホシガラスには、ちらっと見えただけで写真も撮れません。動かない植物は楽です。
 春の日射しを浴びて菜の花が満開です。



 酒匂川の川面にオオバンが泳いでいました。



 何時も鳥がいないので見過ごしていた浄水場のドックに珍しくヨシガモの番いが見られました。♂だけ撮りました。雌は離れていたのでカットしました。決して野暮な計らいでは有りません。


 
 種類は判りませんがサクラも咲いていました。花の世界には春が訪れています。



 オオバンが見られた後、バンも見られオオバン・コバンと何か裕福になったような気分です。ハクセキレイが横切って行きます。



 藪椿が可憐な花を付けています。



 鳥が少ないので予定行程が早く進み、早すぎるかなと案じていると幸いにもカワアイサの
番いが出たり、クイナが顔を出すので足並みが遅くなりました。
 とは言え、最近めっきり目が悪くなったホシガラスにとっては何時も遅れを取り写真も撮れません。ぼつぼつ鳥見の第一線から引退でしょうか?

 昼食場所にしている勝福寺に12時近くに着きました。イチョウの梢ではアオサギが巣作りに余念がありません。



 ♂は繁殖羽となる冠羽をなびかせています。



 近くの支流にはコガモの番いが仲良く泳いでいます。どうやらこの夫婦は婦唱夫随のようです。その方が平和で良いのかも知れません。



 マガモも見られましたが、手前のはどうも雑種のアヒルのようです。



 飯泉橋を渡ると珍しくタシギが見られます。何時もいるのでしょうが、岸の窪地に隠れているので見落としているのでしょう。



 ダム湖ではカルガモ以外の鴨類は見られず水深も大部分が数センチぐらいで鴎類も浮きながら休むより、しゃがんでいる感じです。中にシロカモメを見付けました。中程の白い個体がそうです。



 昨年9月の台風被害の後、河川敷のグラゥンドは冠水で使用出来ず人影も無く芝生は鳥達の
楽園です。ツグミ・ムクドリ・ヒバリ・タヒバリが草むらの虫を漁っています。ヒバリです。



 何か金属的な音がします。鷹匠でしょうか?単なる趣味でしょうか?男性が鷹を調教していました。聴くとヨーロッパチョウゲンボウとのことです。正式な名称では有りません。恐らく亜種か俗称でしょう。日本のチョウゲンボウより小型です。



 腕に止まらせて呉れました。





 中洲にはハマシギが四羽程残っていましたが遠いので敬遠しました。コチドリ・シロチドリもいました。コチドリです。



 コサギも繁殖期を迎え男っぶりを磨いています。冠羽を輝かせて優雅に歩いています。



 草地ではまたまたヒバリです。ヒバリとセキレイ科のタヒバリとの区別は遠いとなかなか難しいです。ヒバリは繁殖期になると冠羽が鶏冠のように出ますが今はまだです。



 9時から15時までの6時間で57種の鳥に出逢えました。幸せなひとときでした。
 気分的にもプラス方向に転換出来ました。



 


ホシガラス動き出しました。それまでのこと

2011-03-28 12:59:51 | Weblog
 3月11日の東北関東大災害から約2週間、毎日のように来る余震と停電で毎日落ち着かないが続きました。
 何も纏まった事に手が着かず運動不足と、このまま何もしないで居ると痴呆になるのではと思う程でした。

 12日、やっとの思いで帰宅し夜には15日に予定している亡き妻の二十三回忌法要の為に来宅する長女を迎えました。

 13日、今回の災害で開催が危ぶまれていた、はかま満緒氏の 笑いと健康 と題する講演
を藤沢市産業会館へ聴きに行きました。
 笑う事によって体内の循環が良くなり健康に効果が有るとの内容は事新しい話では有りませんが病は気からとか、末期癌の患者が気を取り直してエヴェレストの登頂し病を克服した話は成る程と思いました。
 毎日、報導される被災地のニュースを見続けていると被災地の方々には申し訳有りませんがそれはそれとして心からお見舞いしますが反面、憂鬱になって来ます。
 人生は常に明るく前向きで無ければいけません。

 14日、夜中の2時に、帰国する次女がミラノから電話を架けて来ました。
 これも法事に帰国する為、パリからウィーン経由で今日の8時半頃、成田へ着く予定でしたが運行の都合でウィーン→ミラノ→成田に変更になったので遅れるとのことでした。
 何は兎も角、無事に帰国して呉れれば結構ですが現在の交通事情では成田まで迎えに行く事が出来ません。

 今まで他人事に感じていた花粉症が遂に私にまで波及してきて目が痒くてなりませんので病院へ行き診察を受け、クスリを処方して貰いました。

 帰りにスーパーへ寄ると主要な日用品の棚はがらがらでレジは長蛇の列でびっくりです。

 仙台に住む友人に電話が漸く通じ、聞くと電気も水道も出ないとの事。部屋中散乱した物を後片づけしてお風呂の汲み置きの水で掃除しているとの事でした。彼は奥さんが入院しており
独り暮らしで家事一切を担当しているので苦労しています。お見舞いし激励してあげました。

 15時過ぎに成田に着いたとの電話でほっとするものの電車は不通なので18時過ぎの空港バスのチケットを買ったとのことでした。
 21時頃、藤沢まで迎えに行くと間一髪、丁度次女がタクシーに乗る所でした。

 6年ぶりの父娘の再会です。温かい気持ちに浸れました。

 15日、起きると電車が動いているようなので昨日、今回の法事をお寺と相談して一応延期する事にして親戚にも連絡したものの出来るなら折角なので法要して貰うべくお寺に連絡して
予定通り実施することにしました。但し、親戚は交通事情で無理なので我が家の家族だけでお参りすることにし東京田端へ向かいました。

 亡き妻の二十三回忌も無事に済ませ長女夫婦と次女の四人で銀座に出て会食しました。

 今日も強い余震を感じましたが停電は無く平穏に過ぎました。

 16日、通常なら吹き矢の日でしたが停電の事も有り会場の大家さんの休業もあり休会です。
 出版社から野鳥の写真の修正希望が有り、再び在庫から探し出し点検していると停電となり中断です。15時頃、通電したので再開し出版社に電送しました。

 長女は以前から予定していた四国旅行に明日出発するので羽田近くへ移る為、戻って行きました。一つの別れが心の中を冷え冷えと横切って行きます。明日からは次女と二人です。ここでも辛い別れが待っています。後10日です。

 17日、グラゥンドゴルフの日ですが何故か気が進まずやめました。
 午前中に停電、そして夕方から二度目の停電。ローソクを持ち出して暗い中を、ジーッと耐える。ストーブが消えるので寒いこと。それでも被災地の事を思えば贅沢は言えません。

 18日、朝からの停電。10時に通電し、午後も実施の予定でしたが中止になり、ほっとしました。次女が運転免許証の書き換えに二俣川に出掛けましたが一部書類が足りないのでFaxで送信して欲しいと連絡があったものの間もなく停電が予定されているので大急ぎで送信するべく気もそぞろで作業すると運良く停電が中止になり無事送信出来てほっとしました。
 次女も書き換えの手続きも無事に終えて夕方帰宅し万々歳です。

 19日、町内有志の集まりに参加し、こんな時でも頑張りましょうと乾杯しました。
 今日から世の中は三連休とかですが被災地の事を思うと、そんな気になれません。

 20日、娘と久しぶりに鎌倉を歩きました。楽しい一日でした。今日も停電無しでほっとします。

 21日、一日中冷たい雨が降り続いていました。被災地の苦労を偲びます。

 福島の南相馬市に居る友人との電話が繋がりました。彼は病気持ちなので原発30Km圏内にいるのに屋内待避しているとのこと。水・電気は不自由無いようですが店が無いので買い物が出来ず買い置きの物が無くなったら避難しなくてはならないと言っていました。
 いずれにしても大変な事でお気の毒です。私としては身体大事に頑張って下さいとしか言え
ませんもどかしさです。

 22日、今日も雨降りです。9時50分から停電です。寒い一日を送ります。
 それでも時折、友人からお見舞いの電話を頂くと温かくなります。

 23日、原発の事故で放射能の危険が野菜や水道水にも出ているとニュースが報じるものの余りに過剰に報道すると混乱するばかりで、ましてや挙げ句の果てに長時間服用しなければ人体に影響ありませんと言われても不審感は拭えません。
 報道にも気を付けて貰いたいものです。

 24日、日一日と娘との別れが迫って来ます。
 久しぶりにグラゥンドゴルフに出掛けます。気晴らしです。10ラウンドプレーしましたので約5Km歩いた事になります。
 18時20分から停電なので明るいうちに布団を用意して寝ることにしました。布団の中で
携帯ラジオを聴きます。今日は20時に通電してほっとしました。

 25日、今日は停電も強い余震も有りませんが、福島の原発事故の修復は難航しているようです。大体が役人の天下りが知識も無くトップにいる事業体は、こんな大事故の際に対処にぬかりが出るものです。こんな面からも役人天国の日本を改革していかなければ何時までも同じ
過ちを繰り返し国民が迷惑を蒙るばかりです。

 26日、いよいよ今日が最後の日となりました。娘の希望で江ノ島一周を歩きました。

 27日、昨日予約しておいたタクシーが4時45分に迎えに来て呉れました。
 今朝は3時起きです。娘と最後の朝食をして藤沢へ向かいます。5時15分のバスで娘は成田へ行きました。別れは一瞬が良いと思います。空港での別れは、余韻が残りなかなか発ちがたく寂しさが助長されます。
 薄明るくなった道をとぼとぼと帰る我が身に思わず老いを感じます。

 さて、タイトルの趣とは大分前置きが長くなりましたが、これからが本番です。

 本番の本文に続きます。

 



 

 

2011年の春は間もなくです。

2011-03-26 17:21:58 | Weblog
 生涯忘れる事の出来なくなった2011-3.11の大災害は国民全員の背筋を
伸ばす事になりました。

 地震だけならまだしも、大きな津波とそれに加えて原子力発電の事故は正に三重
苦となっています。

 ホシガラスの居住する地区は計画停電の第一グループに入っているので時々3時間
程の停電を体験しています。

 アフリカには、ポレポレと言う言葉があります。のんびりゆっくりと言う意味です。
 夜が明けたら起きれば良い。大陽が沈んだら寝れば良い。のどが渇いたら川の水、
お腹が空いたら有る物を食べれば良い。何も慌てる事は無い。ゆっくりのんびりと
生きて行けばこの世は天国だ、と言う事です。

 文化の違いが有るので必ずしも総て納得は出来ないと思いますが、この文明社会に
於いても時には原始に戻る必要が有るのでは無いでしょうか?

 今、日本は大きな反省点を迎えています。

 こんな時にスーバーの開店を待って日用品や食べ物を買い漁る浅ましさには呆れる
ばかりです。結果は全部を使い切れず賞味期限を超過して無駄に捨ててしまうのが落ち
です。食料自給率が50%を切っている日本人として恥ずべき行為です。

 戦争と戦後を体験しているホシガラスにして見れば、食べ物が無ければ食い延ばしで
我慢し、極端には一日二日は食べなくても死なないと思えば気は楽です。
 ましてや現在はスーパーに行けば主要食糧が無くても、代用になる物は豊富に有り
ます。決して慌てる事は有りません。
 被災地の事を思えば、その他の地域の生活は天国・極楽です。

 大事な事は正しい情報を信じて、いたずらに流言飛語に惑わされないことです。

 電力が足りなくなるのは当然で、電車の間引きや大都会のネオンの自粛、必要以上
の照明の節約は当然の事です。

 今は自粛したものの球団のオーナーがナイター中止に反対したり、政党挙げてこの
国難とも言うべき災害に対処すへきなのに面子にこだわり続ける心の狭さには平成の
時代の人材不足を嘆かざるを得ません。

 昔シェークスピアは、どんな嵐の夜でもやがては明るい朝が来る、と言っています。

 阪神淡路の大震災は今回の東北関東大震災に比べれば津波・原發の被害が無いので
規模的には小さいものの人口密集地に発生したので産業・行政に多大な影響を及ぼし
ましたが今では完全に復活しました。

 この体験を活かして今回も勤勉で粘り強い日本人だけに必ず日ならずして復興への
槌音が聞こえる事を信じています。

 人生常に前向きに生きましょう。

 我が家の庭の被寒桜も満開となりました。




ホシガラス100万年の世界へ

2011-03-13 10:45:39 | Weblog
 3月10日  春晴れと言うのでしょうか桜はまだでも春近しの感じです。

 某団体の催しで近くの江ノ島の地層を勉強する会に参加しました。
 最近、人並みに花粉症となり目はしょぼしょぼで苦しんでいるので心配ですが
新しい体験なので期待して参加です。

 12~13万年以前の地球規模の温暖化で海水面が上昇し陸地が総て海底に没した
後、8万年から8.5万年の寒冷化で海水面が低下し基盤が隆起した処に火山の噴火
による火山灰が降り積もり堆積しました。この間、何百年と言う期間で起きた現象で
す。今の人間がヒトから進化して現れたのは、たかだか1万年前のようですから地球
から見ると極々最近の事になります。

 基盤の歴史は7千万年にも及ぶ事になります。

 江ノ島の8万年前は今の竜口寺と同じ高さで繋がっていて、その間を川が流れていた
ようです。1万年前から始まった急激な海面上昇で低地に海水が流れ込み、8000年
前、縄文時代早期には江ノ島が孤島となったようです。

 この為に、江ノ島の天台山で出る礫(小石)と同じ物が向かいの竜口寺の仏舎利塔の
近くで発見されています。
 
 考古学よりも地層の話は気の遠くなる学問です。
 現在、観光地化している江ノ島も大きな歴史を持っています。



 三浦半島方面は朝の陽光に輝いています。



 鎌倉市と藤沢市の境を流れる境川は横浜市を源流に持つ柏尾川と合流して河口
近くでは片瀬川となっています。



 春なので富士山も霞んでいます。嘗ては絶えず噴煙を上げて遠く関東全域に迄
火山灰を降り積もらせていましたが何万年も前のことです。



 海浜の砂は良質の砂鉄を含み、鎌倉時代から刀の材料として利用され名工・正宗
を生んでいます。



 最初の見学場所は、江ノ島ヨットハーバー近くの聖天島です。島と言うよりは小山
です。ここは400万年前の地層が、ほぼ水平に堆積しています。
 普段は見過ごして通り過ぎる処にあります。



 たかだか5m程の山ですが、大きな歴史を秘めています。裏側の地層もほぼ水平に
地層が見られます。



 ヨットハーバー寄りの商店街の中の小路に延命寺が有り、ここも地層的には興味
有るようで寄りました。

 ここも400万年前の地層ですが、聖天島と違って地層が縦に流れています。
 崖の凹みにお寺がありました。



 1948年に片瀬中学の生徒が見付けたミウラニシキと言う貝化石により533
万年前の地層であることが判明しました。
 ここには両方から押し上げた地層によるクラック(裂け目)が見られます。



 江ノ島弁天へ通ずる土産物店の並んでいる道を歩くと誰彼構わず声が掛けられ
ますが一切無視して歩きます。やがて右の小道を入ると西浦海岸に出ます。
 西浦の岩礁も400万年前の海蝕によって出来たもののようです。



 その近くに一際高い処が有り、そこは天台山と言われる小山で向かいの竜口寺と
同じ高さにあります。ここの礫が竜口寺から発掘された礫と同じ質の石なので地続き
とされています。





 集合時刻が遅かったので奧津宮(江島神社)に着くと12時になっていました。
 稚児が淵で昼食とのことで525段の石段を下りました。下ると言う事は帰りは
又、525段上がって来なければならず心配しながら下りました。

 江ノ島へは良く鳥見に来ますが稚児が淵は何時も敬遠して下りませんので今回は
久しぶりに下りて見ました。
 昼食時には鳶に気を付けるように注意が有りました。



 昼食を終えて又、525談の石段を3回ぐらい休んで昇りました。

 江島神社の大銀杏も一昨年春の強風で倒れました。



 その昔、頼朝が寄進したここの鳥居も被害を受けて短くなり不格好な姿になり
ました。短足の頼朝の姿になりましたのも因縁でしょうか。



 午後は、山ふたつの地層を見ます。上の地層には比較的新しい関東ローム層が
出ています。その下は火山灰が堆積した所謂、軽石と言われる層があります。



 次ぎは竜口寺に移動し先ほどの天台山で見た礫と同じ質のものを見ます。
 仏舎利塔へ登る途中の崖に、ごく当たり前のように散らばっている小石が
それとの事です。一見しても我々素人には良く判りません。

 ここの地層も水平の断層となっています。



 切り立った崖に椎の木の根が逞しく伸びています。



 仏舎利塔の広場から江ノ島を見ると同じ高さに見え400万年前の地続きが
納得されます。



 竜口寺の裏山にも小石の散在する崖が各所で見られました。



 何百年と言うレンジで地球の組成を観察していると人生100年など、凄くミクロ
の事に思え気宇壮大になります。

 そうは言うものの天文学はもっと壮大で何億光年と言う気の遠くなるような事実で
宇宙は勿論、自然界の奥行きの深さをつくづく感じます。

 竜口寺の全景を振り返りながら、そんな事を思いつつ帰途に就きました。



 3月11日  晴天です。

 この日が大変な日になるとは夢にも思えませんでした。
 旧制中学の友人5名が毎年、この時期に集まるようになってから数年になります。
 今回も今日になりました。12時から2時間半ほど歓談し来年また元気で集まる
事を約束して別れ、それぞれ新宿駅へ向かいました。

 そして私は14時45分頃、中央線のホームに上がるべくエスカレーターに乗ると
がたがたと揺れ大きな金属的の音がします。まさか地震とは思わずやっとホームに
上がると電車が揺れながら入って来ました。ホームも揺れて初めて大きな地震と判り
ましたが、それでも一時的な現象と思い発車を待ちました。
 小田急の通信アンテナが90度に曲がって揺れています。

 いくら待っても運転の様子も無く駅員が立ち去るように指示するので、下のコンコ
ースへ行きテレビを見て初めて東北地方の大地震を知りました。

 東口の駅前は黒山の人で駅前の大型テレビを見ています。然し、この段階ではまだ
深刻な報道にはなっていません。外で運転再開を、この段階でも待ちました。

 17時になると風も少し出てきて寒くなりましたので駅員の制止も聞かず駅内に入り
ました。駅ビルの中は成る程危険かも知れませんが寒い戸外で待機させるマニュアル
通りの事しか言わない駅員にも融通をきかして貰いたくなります。

 18時になるとJRを始め私鉄各線も今日中の運転再開の見込みは有りませんと
告げています。
 鎌倉の状況を聞きたく携帯を掛けますが不通です。その為か、数少ない公衆電話は
何処も長蛇の列です。

 仕方なく食事でもと思って探しますが、閉店の店が多くやっと見付けた店も満席
状態でした。一人分が空いたので座り酒と料理を注文してやれやれでした。

 昼の会食がフランス料理だったのでカロリーが高く18時を過ぎても空腹では有り
ませんが、これからの事を考えると食べておかなくてはと思い食べました。

 食事が終わったものの、さてこれからどうするか考えると明日朝まで立っている
訳にもいかず、兎に角寝れる処を探さなければと思うものの勝手も判らずホテル探し
も疲れた身体では億劫になり思いついたのが少し感じ悪いが歌舞伎町なら何とかなる
であろうと思い歌舞伎町へ向かいました。

 適当に物色して入り、一人でも泊まれるかと聞くとOKとの事なので複雑な気持ち
でほっとしました。
 部屋はそれらしく豪華です。そしてムードたっぷりの造作です。

 兎に角ほっとして入浴して寝ましたが夜中に何回も余震で揺れました。

 3月12日   無情にも冷たく晴れています。

 5時に目覚めて、テレビを点けると被災地の惨状が放映されています。
 暫く見ていて6時に起きて7時にホテルを出て駅へ向かいます。

 JRは依然として動きません。東京へはメトロを利用して下さいと言うので
丸ノ内線で東京に出ました。
 この頃、小田急は曲がりなりにも運転再開していたようですがJRの方が確実
と思い信用していました。

 東京駅からは8時10分に熱海行きの一番電車が出ると報じているので混雑
覚悟でホームに上がると溢れるばかりの人です。とても乗れる状態ではありません
ので次ぎの8時40分の熱海行きの列に並びました。

 入線してきたのは10輌編成なので余計に混雑ですが何とか押し合いへし合いで
乗れました。車内は通勤ラッシュ時と同じ状態で、その上安全運転なのか、のろのろ
運転で止まったり動いたりする度に乗客が動くのでまともに立っていられません。
 20数年前の通勤の苦労が想い出されました。

 それでも大船まで2時間かかって漸く着いてやれやれでした。
 モノレールに乗ると、がら空きでほっとしました。

 それでも帰宅難民にならずに済んで被災地の事を考えると勿体ないような天国です。

 地球の基盤は絶えず動いているので何時又、どこかでこんな地震が起きるのは当然な
事ですが私の生きている間は出来ることなら避けたいと思います。