お断り
この一連の記事は一度投稿したものですが、若干加筆・訂正などをして再掲するものです。
遺跡
遺跡(1)
チュニジア旅行は砂漠と遺跡とメディナに尽きる。
「遺跡ツアー」と言うか「遺跡の梯子」の様に遺跡巡りもメインの一つであった。今日から1~2回程は遺跡の記事である。
しかし、遺跡の記事は私にとっては本当に描きにくい。遺跡はまずその歴史を知っている必要がある。ローマの遺跡と言っても肝心なローマの歴史をほとんど知らない。
現地案内人の方は「ここぞ」とばかりに、一生懸命説明をされるのであるが、残念ながら上の私の事情により、折角の説明も右から左へ一旦停車することなく、高速で通過である。
又、遺跡の観光になると、「遺跡観光」と言う言い方もおかしいのであるが、そして、今回の添乗員さんがその場面になると「想像を逞しくして見て下さい。」と仰るのがよく分かる。その当時に実際に建っている建築物・生活をしていた人々を想像しなければならないが、残念ながらその想像力を持ち合わしていない。私の希望としては遺跡そのものよりは「遺跡再現村」のようなものが欲しいと思う。
それにしても、ヨーロッパの何処へ行ってもと言うほど行っていないが、古代ローマ時代の遺跡が残っているのが不思議に思う。多分石とかコンクリートで造られているからであろう。大きな地震もあったであろうと思う。
今回訪れた主な遺跡を忘れない内にまず書いて置こう。
○チュニジアでは最も良く残されているとされるローマ時代の遺跡「ドゥッガ」
○当時の水事情を物語る「アグラブ朝の貯水池」と「ザクアーンのローマ水道橋」この二つについては、別項の「水」で若干触れることもあろうかと思う。
○これもチュニジアでは最もよく保存されていると言われる「エルジェムの円形闘技場」
○今となっては数少ないフェニキア人の遺跡である「ケルクアン遺跡」
○首都チュニスの近くで教科書にもよく出て来る、遺跡の規模が非常に大きい「カルタゴ遺跡」残念ながらほとんどフェニキアのそれは破壊され尽くされていた。
確かほぼ同じような日程で同じ会社主催の東京からのツアーは「遺跡探索ツアー(正確な宣伝文句は忘れた。)」と銘打っていたそうだ。現地案内人も大学で考古学専攻の先生で「遺跡掘り実習真似事」もあったとか聞いた。
実際の所、幾つも幾つも遺跡めぐりをしたので、何処が何処か本当に記憶が定かでない。
と言う訳で、一つ一つ記事にできない言い訳をしているのである。
遺跡(2)
そうは言ってもコースに遺跡観光が入っているので、完全な素通りと言う訳には行かない。それで少し期待したのがフェニキア人の街の遺跡であった。ハンニバル将軍は古代ローマと戦ったことで歴史を知らない私でも聞いたことが有る。しかし、その都市「カルタゴ」の遺跡は一応世界文化遺産であるが、ローマ帝国によりほぼ完璧に・壊滅的に破壊されてしまった。新たにローマ様式の建築物が建てられ、そのローマ様式の建築物が今遺跡になっている。カルタゴは遺跡すら残らなかった。残念ではあったが、そのことを改めて確認出来たことは私なりに意義があった。勝者の恐ろしさは洋の東西を問わないことを改めて再確認できたように思っている。全くついでの話であるが、カルタゴのローマ時代の遺跡のすぐ近くに、現在の大統領府が有った。私の興味としてはそちらの方がより有ったのであるが、残念ながら衛兵が警備していて、記録に収めることは出来なかった。
フェニキア人の遺跡が一部残っているのは「ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡」である。発掘の程度によるのかも知れないが、規模はローマ時代の遺跡に比較して小さい。異常に大きい建築物、大浴場等は、なさそうに見えた。単にその財力の違いだけでなくて、多分住居と街の設計思想が異なるのであろう。浴場はローマの遺跡では「大浴場」で、社交の場でもあるが、フェニキアのそれは各家にある。「内風呂」である。(尤も、ローマ人の自宅にも内風呂が有ったのかどうかは、残念ながら聞き逃したが、)今では我が国でもほとんど各家に風呂はあるが、そんなに遠い昔でなく、私が小さい頃は決して「大浴場」ではないが、「公衆浴場」が中心であった。公衆浴場は社交の場であったことは違いない。多分ローマ人もその大浴場で大いに話をし、議論をしたのであろうと想像する。一方、フェニキアの各家庭の風呂の大きさは当然その大きさも現在の日本の家庭程度、或いはそれよりも小さいように見えた。大浴場で皆と社交的に歓談・議論したりするのではなくて、個人主義的と言うか、子供・夫婦の団らんの場であったようなイメージであった。なんて、実に幼稚に今の私どもの状態に置き換えてしまっている自分が恥ずかしくもあった。
写真は「ケルクアンの遺跡に残る内風呂」と説明が有った風呂遺跡である。我が家の風呂と比較すると、それなりの大きさで一安心である。

遺跡(3)
遺跡めぐりは時々思うのであるが、どの程度原型を残しているかが我ら素人には大問題である。添乗員さんが遺跡を案内しながら「想像力を逞しくして見て下さい。」の言葉は本当にそのとおりである。ほとんどの遺跡は礎石だけの様に見えて、その当時の素晴らしい都市を想像するのは難しい。その遺跡から当時の姿を復元されている写真・模型を見ることもあるが、学者も本当に想像逞しくと思ってしまう。
今回の昔の都市の遺跡を見て思ったことが有る。それは、それらの遺跡が海岸縁に有ることである。遺跡のすぐ前が地中海である。チュニジアでの昔の都市が地中海を抜きにして話せないことが明白であった。それを実感出来たことで遺跡巡りは私にとって一応の成果であろう。
今回の遺跡で都市全体の原型がよく分かるのは「ドウガ」の遺跡であろう。広く全体が見渡せる丘の上の遺跡である。このようなところが、遺跡として残っていて、今は都市として利用されていないのが不思議に思う。現在の都市のイメージから言うと大きくはないが、非常にまとまっている様に感じる。当時の街のシンボル的な凱旋門、神殿、公共施設としての貯水施設、劇場・トイレ等々が遺跡として残されている。
写真はいずれも「ドウガ」の遺跡である。



建築物単体としてよく残っているのは「エル・ジェムの円形闘技場」である。私はローマのそれの中を知らないので、大いに興味が湧いてきた。ほぼ原形が残されている。一部、現在音楽会などで利用されるために、観客席は改築されているが、そのための違和感は思ったほどない。それにしても規模が大きくて、その高さも高い。上へ登ってみたが、競技場ははるか下の方であった。
遺跡 写真撮影
遺跡周りをしていて気付いたと言うか添乗員さんからの説明で、遺跡はどこも入場料は不必要である。自由に入ることが出来る。ただ、写真やビデオを撮る場合は何がしかの「撮影料」が必要となる。我が国のお寺などでは「撮影禁止」の所が多いように思うが、それはない。観光地はそうでなければと思う。撮影と言えば、添乗員から禁止されていたことが有る。むやみやたらに【軍】を撮影しないことである。これは一般的に何処の国でも言えることである。余談であるが、確かクロアチア方面へ行った折に、バスでの入国審査なので珍しくて、撮影をしていた同行者がいた。その時に入国審査場に駐在している軍人をも撮影してしまったらしい。カメラの眼と兵士の目が合ったのであろう。その兵士がバスに乗り込んできて、その、撮影画面を削除された経験がある。昔の銀板のフィルムなら大変なところであった。
元の話に戻って
その撮影料は一つの遺跡群ごとに必要となる。高く付くと文句を言っているのではない。これは結構面倒なのである。その都度、小銭を探さなければならない。出来れば少々高く付いても、首からかける全遺跡のパスが有ればと思うが、そうもいかない。
我妻はいつもどこでも、カメラなどは持たない。そんなご婦人方は最近はまあいない。夫婦連れであってもご主人・奥様それぞれカメラなどを持たれている。と言う訳で、「撮影料」を払わないのは我妻と添乗員だけである。これも不思議に思うのであるが、私の経験では添乗員さんはカメラを持ってこられない。多分、社内規定でそうなっているのであろうと思うが如何なものだろう。我妻であるが、決して誤魔化しているのではないが、少し肩身の狭い思いをする。
その撮影であるが、私は最近、ビデオカメラを持って行っている。ビデオは音声も入るので便利であるが、今は添乗員さんの説明は「イアー フォーン」である。であるからして、折角の説明の音声が録音されない。添乗員さんの説明を撮影しながら私がオウム返しに話せばよいものであるが、それも如何なものかと思う。
この地では遺跡には小さな博物館が有る。そこで出土した物品などが説明書きとともに展示されている。
下の写真はその手の博物館ではない。世界中のモザイクの収集・展示で有名な「ボルドー博物館」である。
適当な個所がないのでここに写真だけでも載せておこう。



この一連の記事は一度投稿したものですが、若干加筆・訂正などをして再掲するものです。
遺跡
遺跡(1)
チュニジア旅行は砂漠と遺跡とメディナに尽きる。
「遺跡ツアー」と言うか「遺跡の梯子」の様に遺跡巡りもメインの一つであった。今日から1~2回程は遺跡の記事である。
しかし、遺跡の記事は私にとっては本当に描きにくい。遺跡はまずその歴史を知っている必要がある。ローマの遺跡と言っても肝心なローマの歴史をほとんど知らない。
現地案内人の方は「ここぞ」とばかりに、一生懸命説明をされるのであるが、残念ながら上の私の事情により、折角の説明も右から左へ一旦停車することなく、高速で通過である。
又、遺跡の観光になると、「遺跡観光」と言う言い方もおかしいのであるが、そして、今回の添乗員さんがその場面になると「想像を逞しくして見て下さい。」と仰るのがよく分かる。その当時に実際に建っている建築物・生活をしていた人々を想像しなければならないが、残念ながらその想像力を持ち合わしていない。私の希望としては遺跡そのものよりは「遺跡再現村」のようなものが欲しいと思う。
それにしても、ヨーロッパの何処へ行ってもと言うほど行っていないが、古代ローマ時代の遺跡が残っているのが不思議に思う。多分石とかコンクリートで造られているからであろう。大きな地震もあったであろうと思う。
今回訪れた主な遺跡を忘れない内にまず書いて置こう。
○チュニジアでは最も良く残されているとされるローマ時代の遺跡「ドゥッガ」
○当時の水事情を物語る「アグラブ朝の貯水池」と「ザクアーンのローマ水道橋」この二つについては、別項の「水」で若干触れることもあろうかと思う。
○これもチュニジアでは最もよく保存されていると言われる「エルジェムの円形闘技場」
○今となっては数少ないフェニキア人の遺跡である「ケルクアン遺跡」
○首都チュニスの近くで教科書にもよく出て来る、遺跡の規模が非常に大きい「カルタゴ遺跡」残念ながらほとんどフェニキアのそれは破壊され尽くされていた。
確かほぼ同じような日程で同じ会社主催の東京からのツアーは「遺跡探索ツアー(正確な宣伝文句は忘れた。)」と銘打っていたそうだ。現地案内人も大学で考古学専攻の先生で「遺跡掘り実習真似事」もあったとか聞いた。
実際の所、幾つも幾つも遺跡めぐりをしたので、何処が何処か本当に記憶が定かでない。
と言う訳で、一つ一つ記事にできない言い訳をしているのである。
遺跡(2)
そうは言ってもコースに遺跡観光が入っているので、完全な素通りと言う訳には行かない。それで少し期待したのがフェニキア人の街の遺跡であった。ハンニバル将軍は古代ローマと戦ったことで歴史を知らない私でも聞いたことが有る。しかし、その都市「カルタゴ」の遺跡は一応世界文化遺産であるが、ローマ帝国によりほぼ完璧に・壊滅的に破壊されてしまった。新たにローマ様式の建築物が建てられ、そのローマ様式の建築物が今遺跡になっている。カルタゴは遺跡すら残らなかった。残念ではあったが、そのことを改めて確認出来たことは私なりに意義があった。勝者の恐ろしさは洋の東西を問わないことを改めて再確認できたように思っている。全くついでの話であるが、カルタゴのローマ時代の遺跡のすぐ近くに、現在の大統領府が有った。私の興味としてはそちらの方がより有ったのであるが、残念ながら衛兵が警備していて、記録に収めることは出来なかった。
フェニキア人の遺跡が一部残っているのは「ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡」である。発掘の程度によるのかも知れないが、規模はローマ時代の遺跡に比較して小さい。異常に大きい建築物、大浴場等は、なさそうに見えた。単にその財力の違いだけでなくて、多分住居と街の設計思想が異なるのであろう。浴場はローマの遺跡では「大浴場」で、社交の場でもあるが、フェニキアのそれは各家にある。「内風呂」である。(尤も、ローマ人の自宅にも内風呂が有ったのかどうかは、残念ながら聞き逃したが、)今では我が国でもほとんど各家に風呂はあるが、そんなに遠い昔でなく、私が小さい頃は決して「大浴場」ではないが、「公衆浴場」が中心であった。公衆浴場は社交の場であったことは違いない。多分ローマ人もその大浴場で大いに話をし、議論をしたのであろうと想像する。一方、フェニキアの各家庭の風呂の大きさは当然その大きさも現在の日本の家庭程度、或いはそれよりも小さいように見えた。大浴場で皆と社交的に歓談・議論したりするのではなくて、個人主義的と言うか、子供・夫婦の団らんの場であったようなイメージであった。なんて、実に幼稚に今の私どもの状態に置き換えてしまっている自分が恥ずかしくもあった。
写真は「ケルクアンの遺跡に残る内風呂」と説明が有った風呂遺跡である。我が家の風呂と比較すると、それなりの大きさで一安心である。

遺跡(3)
遺跡めぐりは時々思うのであるが、どの程度原型を残しているかが我ら素人には大問題である。添乗員さんが遺跡を案内しながら「想像力を逞しくして見て下さい。」の言葉は本当にそのとおりである。ほとんどの遺跡は礎石だけの様に見えて、その当時の素晴らしい都市を想像するのは難しい。その遺跡から当時の姿を復元されている写真・模型を見ることもあるが、学者も本当に想像逞しくと思ってしまう。
今回の昔の都市の遺跡を見て思ったことが有る。それは、それらの遺跡が海岸縁に有ることである。遺跡のすぐ前が地中海である。チュニジアでの昔の都市が地中海を抜きにして話せないことが明白であった。それを実感出来たことで遺跡巡りは私にとって一応の成果であろう。
今回の遺跡で都市全体の原型がよく分かるのは「ドウガ」の遺跡であろう。広く全体が見渡せる丘の上の遺跡である。このようなところが、遺跡として残っていて、今は都市として利用されていないのが不思議に思う。現在の都市のイメージから言うと大きくはないが、非常にまとまっている様に感じる。当時の街のシンボル的な凱旋門、神殿、公共施設としての貯水施設、劇場・トイレ等々が遺跡として残されている。
写真はいずれも「ドウガ」の遺跡である。



建築物単体としてよく残っているのは「エル・ジェムの円形闘技場」である。私はローマのそれの中を知らないので、大いに興味が湧いてきた。ほぼ原形が残されている。一部、現在音楽会などで利用されるために、観客席は改築されているが、そのための違和感は思ったほどない。それにしても規模が大きくて、その高さも高い。上へ登ってみたが、競技場ははるか下の方であった。
遺跡 写真撮影
遺跡周りをしていて気付いたと言うか添乗員さんからの説明で、遺跡はどこも入場料は不必要である。自由に入ることが出来る。ただ、写真やビデオを撮る場合は何がしかの「撮影料」が必要となる。我が国のお寺などでは「撮影禁止」の所が多いように思うが、それはない。観光地はそうでなければと思う。撮影と言えば、添乗員から禁止されていたことが有る。むやみやたらに【軍】を撮影しないことである。これは一般的に何処の国でも言えることである。余談であるが、確かクロアチア方面へ行った折に、バスでの入国審査なので珍しくて、撮影をしていた同行者がいた。その時に入国審査場に駐在している軍人をも撮影してしまったらしい。カメラの眼と兵士の目が合ったのであろう。その兵士がバスに乗り込んできて、その、撮影画面を削除された経験がある。昔の銀板のフィルムなら大変なところであった。
元の話に戻って
その撮影料は一つの遺跡群ごとに必要となる。高く付くと文句を言っているのではない。これは結構面倒なのである。その都度、小銭を探さなければならない。出来れば少々高く付いても、首からかける全遺跡のパスが有ればと思うが、そうもいかない。
我妻はいつもどこでも、カメラなどは持たない。そんなご婦人方は最近はまあいない。夫婦連れであってもご主人・奥様それぞれカメラなどを持たれている。と言う訳で、「撮影料」を払わないのは我妻と添乗員だけである。これも不思議に思うのであるが、私の経験では添乗員さんはカメラを持ってこられない。多分、社内規定でそうなっているのであろうと思うが如何なものだろう。我妻であるが、決して誤魔化しているのではないが、少し肩身の狭い思いをする。
その撮影であるが、私は最近、ビデオカメラを持って行っている。ビデオは音声も入るので便利であるが、今は添乗員さんの説明は「イアー フォーン」である。であるからして、折角の説明の音声が録音されない。添乗員さんの説明を撮影しながら私がオウム返しに話せばよいものであるが、それも如何なものかと思う。
この地では遺跡には小さな博物館が有る。そこで出土した物品などが説明書きとともに展示されている。
下の写真はその手の博物館ではない。世界中のモザイクの収集・展示で有名な「ボルドー博物館」である。
適当な個所がないのでここに写真だけでも載せておこう。


