自己紹介(2005年7月6日)
今日は私のニックネーム「さいら」の話です。「さいら」は紀州方面、和歌山・三重ですが、の方言で「秋刀魚」のことです。関西で広く使われている呼び方かも知れません。その名前を通常使っている方がおられたら、是非とも教えて欲しいと思っています。「秋刀魚」でなくて「さんま」でネット検索しますと驚くほど、検索結果が出て来ます。勿論その殆どは人気者タレント「明石家さんま師匠」関連です。
実は秋刀魚の学名は” Cololabis saira”と言います。後の” saira”は文字通り「さいら」と読みます。これは決して偶然の一致ではなくて、紀州方言「さいら」が学名の元になったのです。ですから、由緒来歴がある「さいら」と言うわけです。江戸時代1700年頃までは「魚食の民」と言われる日本人に取っても
「さいら」は今ほどポピュラーな魚ではありませんでした。当時、漁業の先進地であった紀州でこの「さいら」を大量に漁獲する漁法が開発されて、それが関東へ伝播して、漁期も秋になり「目黒の秋刀魚」と言われるほど庶民の魚になったのです。命名をした人、確か「シーボルト」だったと思うのですが、がこの魚は「さいら」と言うと教えて貰ったのでしょう。「さいら」は狭い世界の中ですが、学名の一部になった紀州が誇ることが出来る名前であること。生物に取って大きな仕事である産卵を終えた「さいら」、私にとって小さな仕事ではありましたが、無事に終え、リタイヤー出来た。そう言う思いも込めて、ニックネームを「さいら」にしたというのがことの顛末です。大層な話で申し訳ないですが。更に言えば、脂肪分が抜けきって非常にスマートな姿も私そっくりと、「私」は思っているからです。名は体を表すと言います。ネーミングは商品にとって重要なことです。しかし、私のブログ「さいら」は売れるかどうか、心底心配です。
今日は、私の名前の「さいら」の続きです。最近になって、東北・北海道の「ホタテ」と同じように、関西方面でも特別な料理屋に行かなくても、家庭で秋刀魚を「刺身」で食することが出来ます。好みに寄りますが、脂肪が乗った秋刀魚の「イメチェン」の味です。しかし、「さいら」は紀州で漁獲されるのは、秋でなくて冬です。産卵が終わった後の秋刀魚です。「脂肪分」が抜けきっています。焼けばジュージューと音がして、煙で濛々となる塩焼きではなくて、季節も冬の寒い頃と言うこともあって、「秋刀魚の干物」が和歌山では有名です。その干し方は丸のまま干物にする「丸干し」です。脂肪がない、寒い季節、実に合理的な加工方法と言えます。更に、手間が掛からないことも有ります。漁獲されるシーズンには南紀州では、秋刀魚干物作りが風物詩になっています。
紀南方面では正月料理に「秋刀魚寿司」が出て来ます。寿司は「祭り」の食い物と思い込んでいた私は最初可なりの違和感が有りました。その秋刀魚寿司は秋刀魚を三枚におろして、中骨等を取って暫く酢に漬ける「姿寿司」です。味ですが、脂肪のない秋刀魚寿司は人ぞれぞれの好みです。全ての人が「美味しい」と評価出来る食い物ではありません。
そのおろし方ですが、最近は相当崩れてきていますが、和歌山の中程に位置する「田辺市周辺」から北は「腹開き」です。それよりも南では「背開き」です。料理講習会で揉めたこともあります。丁度文化の分水嶺のように思えます。妻は本州最南端、串本の大島ですので、当然「背開き」です。殆どの魚は「腹開き」の世界で育った私はこれも違和感が有りました。妻は今でも「背開き」です。決して「腹開き」の秋刀魚寿司は造りません。出されても、余り手を付けません。
妻曰く「青大将の様で気持ちが悪い。」
サンマ(2006年10月8日)
阿智胡地亭 辛好さんのブログ秋刀魚の歌に「サンマ」の話が出ていた。そして、「さいら」のブログにリンクして頂いた。嬉しいこと限りない。
記事の下敷きにされた雑誌「図書」を「さいら」も読みながら、すこし「食」に方から記事にしてみよう。サンマは今のようによく食されるようになったのは確かに江戸時代に入ってからだ。プランクトンフィーダーと言うこともあってなかなか「釣り」に馴染まない魚である。大衆漁になるには「網」による大量漁獲が必要であった。サンマは昔から多く生息していたが、そう言う意味で昔は余り馴染みがなかったのではないかと思う。
更に言うと、東海での網漁具の発展は関西よりも遅れていた。江戸時代に紀州の漁師が房州の漁場を発見してからである。だから漁獲は、それこそ最近になってからである。そうなって初めて秋を代表する、脂が乗った魚になったのである。
ブログにも触れられているが、その雑誌にはサンマの色んな食べ方が本当に美味しそうに紹介されている。残念ながらアユの「なれ鮨」は食べたことがあるが、サンマのそれはない。紀州のサンマは「丸干し」と「サンマの姿鮨」に代表される。確かに、大衆魚であることは間違いがない。どちらも、最近はそうでもないが、冬の魚である。紀州では、産卵に栄養が取られて、全くと言って良いほど「脂肪分」がない
サンマがベースである。だから秋に東北・房州で漁獲されその残りが紀州に産卵回遊する。だから、時期も冬になる。七輪で煙がボウボウのサンマとは全く違う。焼いても美味しくはない。そこで、「丸干し」が主流になったのではないかと想像している。
丸干しの好きな人は拘りがある。その日の天気。風・気温などを勘案して、造る。自信作は時々頂く。確かに旨い。サンマの姿寿司は、その裁き方で、関東流と関西流がある。勝浦・串本当たりでは背開きであるが、田辺辺りに行くと、腹開きもある。
妻は「腹開き」の秋刀魚鮨は見向きもしない。何れにしても正月に寿司が出て来るのことには最初は驚いた。
「棒受け」のサンマは美味しくないと書かれている。確かに紀州では、味は兎も角として、「刺しサンマ」が重宝される。刺網で獲れたサンマである。地元でも最近めっきり少なくなったが、有れば、まずそれを買う。少なくとも地元産であることは間違いがない。見分け方は簡単である。イセエビのように見た目が大事ではないので、刺網からサンマを力任せで引き抜く時に、エラの部分が傷つき一部剥ぎ取られてしまう。それが目印である。
最近は関西でも食べることが出来るが、「さいら」が今まで一番美味しいと思ったのは、気仙沼で食べた脂肪が乗った「サンマの刺身」である。
ムカデ(2006年9月22日)
昨日の投稿記事「鳳仙花」の後半で、「ムカデ」に少し触れた。今日は「さいら」のムカデ体験である。串本に単身赴任している時、事情があって、住まいは選択の自由なし。その住まいは谷沿いにあり、一方は山。一軒家。広い庭も手入れ等する訳が無く、草木も伸び放題。木造平屋建て、築40年、シロアリで大きな地震が有れば倒壊は確実なほど柱は弱っている。部屋数はダイニングキッチンも含めて、4部屋。単身赴任には広すぎる。
前の住民は独身者が数名入居していた。当時は、梅雨時になるとムカデが大挙して入って来たそうだ。余りの数に、居たたまれずにと言うか退治に徹夜するよりもと、車の中で寝た人も居た。少し度胸がある人は、折角の機会だからと言って毎日天気と出現尾数との統計を取った。
余りにも多いので、その後住まいの周辺をコンクリートで覆い、防御策を取ったそうだ。その結果「さいら」が入居する頃には侵入してくるムカデの数は減った。管理をしている総務の人は「もう大丈夫ですよ」と言うが、それでも年に1,2回はムカデ用の防虫剤を住まいの周囲に撒くのが習わしであった。
その様な対策を取っても、ムカデは入り込む。帰宅すると、まず4部屋を巡回して、ムカデ様が居ないかどうか確認しなければならない。布団を敷く時にはムカデが居ないか更に細心の注意を必要とする。前日から敷きっぱなしの時でも、丁寧にムカデが居ないか点検をしなければならない。シーズンによっては、ムカデ用のスプレーをこれも丁寧に撒く。
と言う訳で、住まいに帰るのは遅く、仕事は捗った。しかし、それでも、寝ていると天井からムカデが落ちてくる。睡眠が浅い時、それに大きいムカデならば落ちる音で気が付く。勿論気が付かない時もある。顔がモゾモゾする。無意識に手で払うが、時は既に遅くて、噛まれる。そんなことが年に1,2回はあった。
その住まいであるが、今は有ることはあるが、誰も住んでいない。
今日は私のニックネーム「さいら」の話です。「さいら」は紀州方面、和歌山・三重ですが、の方言で「秋刀魚」のことです。関西で広く使われている呼び方かも知れません。その名前を通常使っている方がおられたら、是非とも教えて欲しいと思っています。「秋刀魚」でなくて「さんま」でネット検索しますと驚くほど、検索結果が出て来ます。勿論その殆どは人気者タレント「明石家さんま師匠」関連です。
実は秋刀魚の学名は” Cololabis saira”と言います。後の” saira”は文字通り「さいら」と読みます。これは決して偶然の一致ではなくて、紀州方言「さいら」が学名の元になったのです。ですから、由緒来歴がある「さいら」と言うわけです。江戸時代1700年頃までは「魚食の民」と言われる日本人に取っても
「さいら」は今ほどポピュラーな魚ではありませんでした。当時、漁業の先進地であった紀州でこの「さいら」を大量に漁獲する漁法が開発されて、それが関東へ伝播して、漁期も秋になり「目黒の秋刀魚」と言われるほど庶民の魚になったのです。命名をした人、確か「シーボルト」だったと思うのですが、がこの魚は「さいら」と言うと教えて貰ったのでしょう。「さいら」は狭い世界の中ですが、学名の一部になった紀州が誇ることが出来る名前であること。生物に取って大きな仕事である産卵を終えた「さいら」、私にとって小さな仕事ではありましたが、無事に終え、リタイヤー出来た。そう言う思いも込めて、ニックネームを「さいら」にしたというのがことの顛末です。大層な話で申し訳ないですが。更に言えば、脂肪分が抜けきって非常にスマートな姿も私そっくりと、「私」は思っているからです。名は体を表すと言います。ネーミングは商品にとって重要なことです。しかし、私のブログ「さいら」は売れるかどうか、心底心配です。
今日は、私の名前の「さいら」の続きです。最近になって、東北・北海道の「ホタテ」と同じように、関西方面でも特別な料理屋に行かなくても、家庭で秋刀魚を「刺身」で食することが出来ます。好みに寄りますが、脂肪が乗った秋刀魚の「イメチェン」の味です。しかし、「さいら」は紀州で漁獲されるのは、秋でなくて冬です。産卵が終わった後の秋刀魚です。「脂肪分」が抜けきっています。焼けばジュージューと音がして、煙で濛々となる塩焼きではなくて、季節も冬の寒い頃と言うこともあって、「秋刀魚の干物」が和歌山では有名です。その干し方は丸のまま干物にする「丸干し」です。脂肪がない、寒い季節、実に合理的な加工方法と言えます。更に、手間が掛からないことも有ります。漁獲されるシーズンには南紀州では、秋刀魚干物作りが風物詩になっています。
紀南方面では正月料理に「秋刀魚寿司」が出て来ます。寿司は「祭り」の食い物と思い込んでいた私は最初可なりの違和感が有りました。その秋刀魚寿司は秋刀魚を三枚におろして、中骨等を取って暫く酢に漬ける「姿寿司」です。味ですが、脂肪のない秋刀魚寿司は人ぞれぞれの好みです。全ての人が「美味しい」と評価出来る食い物ではありません。
そのおろし方ですが、最近は相当崩れてきていますが、和歌山の中程に位置する「田辺市周辺」から北は「腹開き」です。それよりも南では「背開き」です。料理講習会で揉めたこともあります。丁度文化の分水嶺のように思えます。妻は本州最南端、串本の大島ですので、当然「背開き」です。殆どの魚は「腹開き」の世界で育った私はこれも違和感が有りました。妻は今でも「背開き」です。決して「腹開き」の秋刀魚寿司は造りません。出されても、余り手を付けません。
妻曰く「青大将の様で気持ちが悪い。」
サンマ(2006年10月8日)
阿智胡地亭 辛好さんのブログ秋刀魚の歌に「サンマ」の話が出ていた。そして、「さいら」のブログにリンクして頂いた。嬉しいこと限りない。
記事の下敷きにされた雑誌「図書」を「さいら」も読みながら、すこし「食」に方から記事にしてみよう。サンマは今のようによく食されるようになったのは確かに江戸時代に入ってからだ。プランクトンフィーダーと言うこともあってなかなか「釣り」に馴染まない魚である。大衆漁になるには「網」による大量漁獲が必要であった。サンマは昔から多く生息していたが、そう言う意味で昔は余り馴染みがなかったのではないかと思う。
更に言うと、東海での網漁具の発展は関西よりも遅れていた。江戸時代に紀州の漁師が房州の漁場を発見してからである。だから漁獲は、それこそ最近になってからである。そうなって初めて秋を代表する、脂が乗った魚になったのである。
ブログにも触れられているが、その雑誌にはサンマの色んな食べ方が本当に美味しそうに紹介されている。残念ながらアユの「なれ鮨」は食べたことがあるが、サンマのそれはない。紀州のサンマは「丸干し」と「サンマの姿鮨」に代表される。確かに、大衆魚であることは間違いがない。どちらも、最近はそうでもないが、冬の魚である。紀州では、産卵に栄養が取られて、全くと言って良いほど「脂肪分」がない
サンマがベースである。だから秋に東北・房州で漁獲されその残りが紀州に産卵回遊する。だから、時期も冬になる。七輪で煙がボウボウのサンマとは全く違う。焼いても美味しくはない。そこで、「丸干し」が主流になったのではないかと想像している。
丸干しの好きな人は拘りがある。その日の天気。風・気温などを勘案して、造る。自信作は時々頂く。確かに旨い。サンマの姿寿司は、その裁き方で、関東流と関西流がある。勝浦・串本当たりでは背開きであるが、田辺辺りに行くと、腹開きもある。
妻は「腹開き」の秋刀魚鮨は見向きもしない。何れにしても正月に寿司が出て来るのことには最初は驚いた。
「棒受け」のサンマは美味しくないと書かれている。確かに紀州では、味は兎も角として、「刺しサンマ」が重宝される。刺網で獲れたサンマである。地元でも最近めっきり少なくなったが、有れば、まずそれを買う。少なくとも地元産であることは間違いがない。見分け方は簡単である。イセエビのように見た目が大事ではないので、刺網からサンマを力任せで引き抜く時に、エラの部分が傷つき一部剥ぎ取られてしまう。それが目印である。
最近は関西でも食べることが出来るが、「さいら」が今まで一番美味しいと思ったのは、気仙沼で食べた脂肪が乗った「サンマの刺身」である。
ムカデ(2006年9月22日)
昨日の投稿記事「鳳仙花」の後半で、「ムカデ」に少し触れた。今日は「さいら」のムカデ体験である。串本に単身赴任している時、事情があって、住まいは選択の自由なし。その住まいは谷沿いにあり、一方は山。一軒家。広い庭も手入れ等する訳が無く、草木も伸び放題。木造平屋建て、築40年、シロアリで大きな地震が有れば倒壊は確実なほど柱は弱っている。部屋数はダイニングキッチンも含めて、4部屋。単身赴任には広すぎる。
前の住民は独身者が数名入居していた。当時は、梅雨時になるとムカデが大挙して入って来たそうだ。余りの数に、居たたまれずにと言うか退治に徹夜するよりもと、車の中で寝た人も居た。少し度胸がある人は、折角の機会だからと言って毎日天気と出現尾数との統計を取った。
余りにも多いので、その後住まいの周辺をコンクリートで覆い、防御策を取ったそうだ。その結果「さいら」が入居する頃には侵入してくるムカデの数は減った。管理をしている総務の人は「もう大丈夫ですよ」と言うが、それでも年に1,2回はムカデ用の防虫剤を住まいの周囲に撒くのが習わしであった。
その様な対策を取っても、ムカデは入り込む。帰宅すると、まず4部屋を巡回して、ムカデ様が居ないかどうか確認しなければならない。布団を敷く時にはムカデが居ないか更に細心の注意を必要とする。前日から敷きっぱなしの時でも、丁寧にムカデが居ないか点検をしなければならない。シーズンによっては、ムカデ用のスプレーをこれも丁寧に撒く。
と言う訳で、住まいに帰るのは遅く、仕事は捗った。しかし、それでも、寝ていると天井からムカデが落ちてくる。睡眠が浅い時、それに大きいムカデならば落ちる音で気が付く。勿論気が付かない時もある。顔がモゾモゾする。無意識に手で払うが、時は既に遅くて、噛まれる。そんなことが年に1,2回はあった。
その住まいであるが、今は有ることはあるが、誰も住んでいない。