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高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

1999年、私の中国山東省(5)煙台にて(1)

2007年05月23日 | 外国旅行:三題
本日から会席から章が変わって煙台を中心にした話になります。
1999年、私の中国山東省(10)煙台にて(1)
充実した煙台
 今回の訪問で比較的時間のゆとりがあったのは煙台でした。多くの人に出会い、街の中を歩いて見学し、古い友人である「常」さんと歓談したり出来ました。そして、少しはものを考える余裕も出来ました。ここでは、煙台を中心にして、話そうと思います。
 人と人が接して、意思を伝えようとする時には、どうしても“言葉”が必要です。そのような機会も最も多かった煙台では、まず、中国の日本語事情と我々の中国語事情の話です。

身分証明書
 中国で日本語が通じるかどうかの話です。それは通じる所とそうでない所とはっきりと分かれます。通じないで困るのはホテルのフロントです。ここは日本語が分かりません。(偶々そうであったのかも知れません。)両替するのに、日本円と分かるのに何故日本語が通じないのかと腹を立ててはいけません。
 ホテルのフロントと両替の話が出たついでに、パスポートの話を少しします。ホテルのチェックインする時や両替をする時には必ずと言うか原則と言うか、パスポートの提示が必要です。外国でもそのようなルールかもしれませんが、これには中国での理由もあります。
 中国人は、必ず全員身分証明書を持っています。張さんの身分証明書は我々のパスポートと同じ位、それ以上に立派なものです。我々の会社とかで発行される身分証明書とは異なります。多分中国で生活する場合にはこの身分証明書が頻繁に必要となるのだと思います。ホテルにチェックインする場合にも、中国人の場合はこの身分証明書が必要となります。我々異邦人には中国政府によってオーソライズされた身分証明書はありませんので、その代わりにパスポートを提示することとなるのです。

日本語
 日本語の話です。ですから、まあ、どこへ行っても日本語は通じないと思う方が良いのです。日本語が確実に分かるのは、日本人等の観光客が良く行く大きい「土産店」です。ここでの会話は内容が限られていることもあり、又、土産店側は主に外国人相手ですから本当に商売熱心と言うこともあって、十分過ぎるくらい通じます。値段の駆け引きのための中国語会話が必需品と思っていたのですが、そこでこそ、「日本語オンリー」で十二分です。ただ中国語を話すとすれば、しつこく追いかけてくる様な時に品物を買う意思が全くない場合に、バスの中で張さんが教えてくれた“ブー ヤオ”と一言、言って、明確にその意思表示をするときだけです。
 大きな土産店では、店員が熱心に日本語を勉強している姿も見ることが出来ます。机の上に上級クラスの日本語の教科書が読みかけで、置いてあります。それは決して値段の駆け引きに使用する日本語会話教則本ではありません。オーソドックスな、教科書です。多分店が暇なときに、自由市場の店員が新聞を読むのと同じように、彼らは日本語を勉強しているのでしょう
 その次に通じるのは、これも煙台で感じたのですが、水産関係の研究所や教育機関です。その中には留学・研修で日本に滞在した人が必ず数人います。彼らは専門的な我々の質問に対して、久し振りに使う日本語を思い出しながら、結構流暢な日本語で張さんを手助けしてくれます。他には、省の外弁だけでなく、市の外弁の中にも、泰山を案内してくれた市職員のように、日本語専攻の方も居られるようです。
 中国でも日本語は決して一般的な外国語ではありませんが、日本人が中国語を理解するよりも、中国人が日本語を話す人数は、はるかに多いと見受けました。一般的な外国語は当然英語と言うことになります。でも、水産の分野だけは、日本語を大切にして欲しいと思っています。何と言っても水産技術に関しては、我が日本は、世界の最先端であることは間違いない事実ですから。

1999年、私の中国山東省(11)煙台にて(2)
中国語
 会食を伴わない食事は、世話役の張さんは、設営だけして、自分は別に食事をすることもありました。煙台でのそのようなときの話です。
 前菜の中に落花生を少し大きくしたようなものが出てきました。同じようなものを確か自由市場でも見かけたようです。しかし、それが何であるか誰も分かりません。勇気を出して、ウエイトレスに聞きました。「お嬢さん、これは何ですか?」と指を指して聞くのです。一応、付焼刃の中国語でです。指を指しているのですから、私の言葉を理解する以前の問題で、彼女も分かります。彼女はメモ用紙を持って来て、「棗」と書いて、さらに中国語ローマ字で“ZAO”と書き、“ザオ”と発音します。私が鸚鵡返しに発音すると、正しくなかったのか、アクセント記号をそこに正しく付けてくれます。それに従って、発音すると、私が一番の中国語での褒め言葉と思っている「ハオ」と一言言ってにっこり頷いてくれます。
 実は若い女性とこのような筆談する機会はここでは全く触れることが出来ませんが、他にもあったのです。しかし中国ローマ字を高低記号入りでメモして、正確に教えてくれた親切な女性は彼女だけでした。私はと言うと別のことで少しほっとしていました。彼女が書いた「棗」を「なつめ」と辛うじて日本語で読めたからです。ここで、中国における正規のサービス業に従事している人は、かなりの教育と訓練を受けていると実感します。

筆談
 筆談では、煙台のホテルでの話があります。辻村さんがフロントでメモを持って、話(?)をしています。メモを見るとルームナンバーと「手紙」と書かれています。部屋のトイレットペーパーがなくなり補充して貰おうとしている場面です。フロントには、十分通じて、無事、補充をしてくれたようです。中国語は我々日本人にとって、筆談ができるので便利ですが、この場面のように、日中間で単語の意味が全く違うことがあります。
 言葉の話の最後に我々が一番中国で使った言葉は“ツウソー ツアイ ナール?”です。意味は分かりますでしょうか?人が自然現象を処理したいときに使用します。

バスの車掌
 今回は、公式な訪問ということで、ほとんど個人的な行動が出来ない訪問であったのはやむを得ない事ですが、少し物足りなさを感じておりました。しかし、路線バスに乗る機会があり、その車掌が印象に残っています。
 そもそも、路線バスに車掌が乗車していたのは日本ではいつ頃までであったのか、もう昭和30年代の後半には乗車していなかったように思います。バスに車掌が乗車していることと、自動販売機が全くないこととは、一見無関係のように見えますが、実は、機械を導入するよりも、人力の方が安上がりである中国の労働事情を明確に物語っているのです。その珍しさも含めての印象です。
 それは始発駅での車掌の呼び込みの熱心さです。ドアから半身になって身を乗り出し、大きな声を張り上げて、「積み残し」がないように何回も何回も繰り返しています。非常に仕事熱心と思うと同時にバスの本数がないのかと思いました。その事情を聞いてみると、本数はあるのですが、彼らが乗務しているときの収入が、その彼ら乗務員の賃金に跳ね返るシステムだから熱心な呼び込みになるとのことでした。
 いささか過剰気味ではありますが、競争とサービスという点で、現在の中国を象徴しているように思えました。たとえその説明が眉唾物であっても現在の中国を見ると、全く信憑性があるように聞こえます。

若作り
 その「常」さんが私の白髪混じりの頭をしきりに気にするのです。そう言えば10年程前の私は未だそんなに白髪が有りませんでした。そして、「染めた方が良い。」と言います。そういえば、確かに彼も染めている気配が濃厚です。このことはどうも私には理解できません。「中国では“胡麻塩頭”は何か悪い意味があるのですか?」と他の人に聞いてみたところ「今の中国は非常に競争が激しく、外見が歳とって見えるとそれだけで、仕事が出来ない、将来性がないと思われてしまい、職場での生存競争に負けてしまう。だから、皆“若作り”をしている。」との説明でした。ただ、完全に白髪になれば話は異なり尊敬されるそうです。
 いくら競争原理の導入といっても、この点に関しては、決して私の“胡麻塩頭”が愛しいからではなく、「何かが違う」と思っています。

1999年、私の中国山東省(12)煙台にて(3)
夫婦の会話
 その「常さん」に料理屋に連れて貰いました。そこでの「常」さん夫婦の会話が印象に残っています。料理と酒を選ぶのに二人が一生懸命に相談している姿は、彼らの言葉が中国語である、特に女性の中国語は、かなり響いて聞こえる、と言うことを割り引いても日本ではほとんど見受けられません。
 餃子を注文するにしても、日本のように何人前ではなくて、その重量で注文する中国です。多分単にメニューの選択だけでなく、魚の種類、その大きさ、料理の仕方と量、お酒の種類などをウエイトレスに聞きながら、又指示しながら、二人で決めておられるように思いました。これぞ中国流の接待と思うと共に、中国の夫婦の会話を垣間見たように思います。中国の夫婦は、想像どおり相当“対等”である。それでもやっぱり何となく阿吽の呼吸があって、夫婦の会話であるとの印象です。私ども日本人は(いや少なくとも、私は)大いに見習う必要があるとその瞬間は確かに思ったのです。しかし、帰国すれば、やはり「私の日本流で」ということになりました。
 夫婦の“対等な”関係は、なんと言っても、中国の方が進んでいるようです。

ファッション
 「常」さんがホテルに2度も奥様と一緒に来てくれました。彼はともかく奥様の服装は少し印象に残っています。最初の日は、非常にさっぱりとした白地に黄緑色のチェック模様のツーピース。少しフォーマルに見えます。翌日は、少しリラックスして、上衣は、茶色のベースのセータ、「少し」(日本人の感覚では中年の女性としては「かなり」でしたが、)両側に切れ目の入った黒のロングスカート姿で。どちらも非常に似合っていて、特別の服装というよりは、さりげない外出の装いという感じでした。
 最近、中国では若者のファッション化が進んでいると聞いていました。確かに、マイクロバスから見る若者のジーンズ、ミニスカート等の服装、万里の長城の土産物店での茶髪姿、煙台市の女性職員のサングラス姿等々それを実感していました。しかし、それは若者だけではなく、都会では年齢を問わず浸透しているようです。まさしく本物のファッション化が進んでいるとの印象です。

色々な商店
 煙台では、私ども訪中団の強い希望で、予定の観光を変更して、先ほどの市の職員さんに、食品、衣料品等の自由市場、百貨店を半日案内していただきました。このような機会はここ以外では行程から見て、ここ煙台しかないと、張さんは考えたのでしょう。時々団が出す予定変更に繋がる希望は都合もあって、張さんは当然のことながら余り快くは思っていなかった様です。

食品市場
 食品の自由市場は、野外と言うか広い広場にあって、施設と言えば、簡単な屋根若しくはテントで雨と日差しを防ぐことが出きるものです。計画的に作ったのではなく、自然発生的に出来た市場と言う感じです。一区画にペンキで目印があって、それぞれ番号が打ってあり、それが一店舗と言う訳です。しかし、その境界は私には明確なものには見えませんでした。非常に雑然として同じような店舗が細い道の左右にひしめき合って続いているのです。
 例えは適切でないかもしれませんが、日本の祭とかの屋台が狭い道の両側にひしめき合っている、或いは、もう知らない人が多いと思いますが、終戦直後の闇市がならんでいる、そういう光景で、食品の「市場」が自然発生的に出来たその由来が分かるような感じです。
 それらの店舗は、果実、食肉、魚介類に分かれて並んでいます。果実の店は色とりどりの果物が山積みされていて、見た目にもきれいで、果実特有のよい香りが周辺に立ち込めています。一方、食肉や魚介類の販売では、ショーケースはありません。食肉は大きい塊を台に並べています。魚介類の方はその種類(魚介類の種類だけでなく、乾物、鮮魚、生けの物等の販売方法含めて)の豊富なことと小さい魚介類が多いのに驚きました。余談ですが、この小さい魚が多かったことと、ある養殖場を訪問したときに、三枚網が、ナイロンテグスであったのを見て、中国では資源管理に関してはこれからの話と直感しました。
 さて、その売り場は果実のそれと比較して、率直に言って、衛生上如何なものか、これで食欲をそそるのかとの感想がありましたが、まあ、生水を飲めない多分氷が未だ貴重品であろう中国で、しかも殆ど生食をしない習慣等を考えると、それに慣れると何ら問題ではないのでしょう。


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