goo blog サービス終了のお知らせ 

高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

二年目のブログ所感

2007年09月30日 | パソコンとブログの話題
(2007年9月30日)

ブログ所感
 何事も一つの場面が終わる時に、一応の総括をするのが「さいら」の上司に言いつけです。それで、日頃ブログについて思っている事を思いつくままに、最後に書いてみようと思います。ブログを始めた頃の記事と比較すると、当時の方が新鮮な感じがします。記事は幾つかに別れています。内容は以前に書いた記事と重複する事があります。些かセンチメンタルになりながら、名残惜しく、ブログに未練を残しながら書いています。
 ブログは所詮お遊びですので、大上段に構える必要は全くないのですが、幾つか気になる事もありました。取り留めのない思い出話を綴りながら、「さいら」ブログ記事の最後にしようと思います。

切っ掛け
 ブログを始める切っ掛け・動機は人様ざまであろう。「さいら」の場合は、娘から「ヒマしているならブログでも」とのアドバイスがあった。丁度その頃ZAQでブログ講習会をしていた。それが切っ掛けであろう。動機らしいものはない。「さいら」に取ってブログは何だろう?と考えると、まず、金が掛からないことである。リタイヤーの身ではこれが最優先する。大概のブログは無料かオマケで付いてくる。次に惚け防止である。これはパソコンで指の体操をすることだけではない。テレビを見て、風景を見て、メダカを見て、時には我妻を見て、ブロガーさんの記事を読んで、記事になるかどうかを思案する。これは頭の体操の一種である。次に、得体の知れない方とブロ友になることが出来ることである。「さいら」が訪問するブロガーさんはみんなお友達であり、逆もキッとそうであると信じている。そして彼ら・彼女達は決して悪友でないのが良い。デートに誘われることもなければ、一杯に誘われることもない。寂しいと言えばそうであるが。
 現役の時に書く文章の量は信じられない程多かった。小説家ではないが、「予算を取るための文筆」である。「内容のない場合は、書いたものの重さで勝負」これも上司のアドバイスであった。しかし、それは、実のところ、面白くない文章である。仕事文は月給を貰っている限り仕方がない。現役の頃から「自由な書き物」に憧れていた。そう言う場としてブログがあった。と言うのが「公式的説明」である。誰かにブログをしていますと言えば、大概の「さいら」の年齢を知っている方々は尊敬の眼で見てくれる。評価も上がるというものだ。そして、「なかなかの切り口」なんて言って貰うと、それこそ、酒が旨くなる。何て理屈を言っても、結局のところ「暇つぶし」にもってこいの道具である。

発信
 ブログは何故流行したのか?と考えることがあった。大袈裟に言えば、今や「文化」になりつつあると思う。自分が常日頃思うこと、考えること、四季の移り変わり、美しいと思ったこと、病気のこと、趣味のこと、自慢したいこと、更に恋人のこと、社会のこと等々を書き留めて置きたい気持ちがある。その意味では確かにブログは「日記」である。時には、人に見られたくないことも書いておきたいこともある。その様な機能もある。日記を書くよりも今では、パソコンのキーボードを叩く方が手っ取り早い。
 しかし、そう言ったことを誰かに発信したい。頷いてくれる人が欲しい、間違っていると言ってくれる人が欲しい、誰かに聞いて貰いたい気持ちもある。これは大切な事だと思っている。従来の情報の「受けて」から「発信者」になれるのである。情報が過多なこの世界にあって意外と「発信」する機会は一般人にはない。そう言うブログの発信機能を或る先生に話すと、「そんな気軽に発信するものではない。」という答が返ってきた。それは大学の教官の場合はそうかも知れないが、出版の機会がある先生の奢った発想であろう。
 手軽に発信できる。その反応はコメントで返ってくる。或いはブロガーさんのブログを読んで、コメントの形で足跡を残しておく。そこには何となく生きている自分の姿が出てくる。情報に埋もれている現在社会であるが、受けるばかりでなく発信することの喜びをブログは与えてくれる。

匿名性
 ブログの特徴の一つは「匿名性」であろう。もしも、ブログを開設するのに戸籍謄本・住民票・社員証をプロフィールに貼付しなければならないとしたら、こんなに流行する事もなかったであろう。実社会の家族(例えば「さいら」のブログを我妻は全く知らない。)や会社とは違う「ブログの世界」がそこにある。仮面舞踏会というか劇を演じていると言えばよいのか分からないが、実生活より自由に書いたり、コメントしたり出来る場である。際どいことを書いても実生活には直接跳ね返らない。例え上司が読んだところで、一応人格が違うので文句も表だって言えない。
 しかしこのことはメリットであると共に危険性を伴うこともある。時には社会的規範を踏み出してしまうことがある。「さいら」はそう言う経験をしたことがないが、時々ブログが火災に遭うとか、中傷する・されるとかを聞いたりする。そこには自ずと自制心も必要であろう。商用は別にして、個人のブログでは非常に数少ないが、実名で書かれているブログもある。その勇気には感動する。今は「さいら」は全く素性が分かっても退職の身であるから何にも困ることはないが、そして、注意深く読むとほぼ誰であるかを特定できるが、「さいら」に拘りがある。「さいら」という人格に拘りがある。

アクセス数
 ブログを始めて最初の誤算はアクセス数であった。多分これはブロガーさんに共通することであろうと思う。中には達観されて、マイペースの方もおられるが、それはそれで良い。ブログを開設すると、アクセスがあっちからもこっちからも殺到して困ると始める前に思っていた。「忙しくなるなあ。」と思ったものだ。何故そう思ったのかは確たる理由はない。希望的観測と言えばそれまでだ。選挙に立候補すれば、当選すると信じてしまうのと同じかも知れない。講習会でも似た様なキャッチフレーズが有った。ブログでも世の中自分が中心だと思う「自己中」のなせるワザかも知れない。
 ところが、開店休業の状態が続く。続くであった。ただ、最初のブロガリは会員の囲い込み戦略があった。会員向けサービスが有った。数少ない訪問者のブログ名やURL等が同じブロガリ会員ならば分かる仕組みであった。それを取っかかりにして、ご挨拶の訪問をした。コメントも出した。それなりのアクセスを期待するならば、それなりの努力が必要であるという社会一般常識が分かってきた。努力のかいがあって、時にはアクセス数・コメント数共にブロガリの中ではベストファイブに入ることも屡々あった。これは初心者にとっては大きな励みになった。
 しかし、gooブログはそうは行かなかった。何しろ今や80万gooブログを超えている。政令都市並みの人口である。アクセスしてくれた方々のURLを通知するサービスなんて無かった。その結果、精々日に数件に戻った。これを回復する手立ては無かった。
 生意気な話であるが、「さいら」は「数」の競争は早々と諦めて、「さいら」ブログへの「リピーター」を大切にしようと思った。「さいら」の流儀を一貫しようと思った。最近になって、漸くアクセス数が三桁・閲覧数がその4倍程になった。訪問下さる方々には本当に感謝の気持ちがいっぱいだ。しかし、そろそろ潮時であるのは確かだ。アクセス数を4桁にすることは芸能人とか有名人でない「さいら」には
不可能な数字である。

記事
 娘からブログの進めがあって、開設を始めた頃に「写真を多用すること」「一つの記事はスクロールしないで読み切れること」の読後感のアドバイスがあった。確かにそのアドバイスは正しい。それで、写真を掲載し、文章は短く連体止めを多用してスクロール無しで読めるブログに努力をした。しかし、所詮「さいら」は「さいら」流儀になってしまった。文章のスタイルで言うと、現役の頃とは全く違っている。これはそれなりに意識している。仕事文は無味乾燥で、淡々としたものだ。ブログでは、長い中に何処か「山葵」を効かす様な文章や「切り口」を意識したのは確かだ。ただ、このようなスタイルは誤解を招くし、好き嫌いがハッキリとしてしまう。今も、娘の指摘通りの基本的スタイルのブログを見るとブログの王道だと思う。とても「さいら」には出来ないことだ。画像が殆どなく、長いだけの文章で、読みづらく、分野も広いと言えば聞こえがよいのが、その結果、支離滅裂なカテゴリのブログになった。 
 記事については、幾つか目標にしたことがあった。その一つは「毎日投稿」であった。これは暇だから可能であった。精々一日に30分程のノルマである。もう一つは分野を限定しないことである。これは、往々にして、技術者であった「さいら」がよく批判される「視野狭窄」から逃れたい気持ちからであった。
 記事の内容については幾つか意識的に余り書かない様にしていたことがある。一つは政治的時事談義である。「さいら」世代のブロガーはこの話題が多い。それも殆どが「直球で」「辛辣な」持論の開陳である。辛辣はよいのだが「直球」は好みではない。それを発信することが社会正義だと見受けられることもある。それはそれで貴重であるが、「さいら」がそれを避けようとしたのは、アクセスされる方がどのような思想信条を持っているか不明であることによる。うっかりすると、ブログが炎上してしまう恐れがある。と言うよりはそもそも「思想信条」を「さいら」は持ち合わせていないことに拠る。
 もう一つは、料理と言うか食い物の話である。実はこれはブログと関係がない。過去の仕事柄、食い物の蘊蓄は実は人に負けない自信を持っている。若い頃、上級官庁の方々、お客さん達との会食での話題に遡る。『出来るだけ「食い物」を話題にするな。』と言う上司の教えがあった。本当に話題に困った時にだけ「食い物」の話をせよ。食い物の話は嫌がる人はいない。誰でも乗ってくる。罪がないのも確かだ。しかしそれに慣れるな。お前は男なんだから。何時も話題は見繕って置かなければならない。その人に合った話題で興味を持って貰うのが下級公務員の習わしだ。
 とは言え、この二つの話題は思い返すとそこそこの記事数になるが、殆どの場合他のことを言うための手段の場合が多い。
 実は、娘の「スクロールしない程度の長さ」には抵抗がある。大袈裟に言えば、危機感さえ感じる。思考の単純化になってしまわないかと危惧を覚える。択一試験と同様なものを感じてしまう。これは「さいら」の年齢から来るものかも知れない。

コメント等
 コメントは最初よく分からなかった。トラックバックになると更に分からなかった。自分のブログに自分がコメントを書いて、確かにコメントが入っていることを確認して感心したものだ。確認後は慌てて自分のコメントを削除した。見ず知らずのブロガーさんにいきなりコメントをするのも何処か、失礼というか迷惑をかけるな感じがして、躊躇した。と言いながら自分のブログへコメントが入るのを期待はしているのであるが。と言う訳で、この年齢になると厚かましいのが先になり、遠慮無くコメントをする様になった。
 その次は自分の記事に頂いたコメントをどうするかである。取りあえずはお礼のコメントをしなければならない。そのお礼コメントを何処にするのか分からなかった。最初、コメントを頂いたブログの方へアクセスして最新の記事にその内容と全く関係がないお礼のコメントを出した。「さいら」にすれば、「足を運んで」お礼を言ったことになる。それが礼儀というものだろうと考えた。そうすると、或るブロガーさんからクレームコメントが入った。「私の記事にお礼だけののコメントを書かれると困ります。」「記事と関係がないコメントがあると、」「私の記事を読みに来た方が不愉快に思う。」「コメントを貰ったら、」「その記事にお礼のコメントを書いて下さい。」「必ず訪問して読みますから」。何処か違和感がないでもなかったが、成るほど、それがブログの流儀かと思って概ねその様にする習慣が付いた。
 コメントは手軽な反応であるが、手軽と言うだけで、少し込み入った話になるとコメントでは用が立たない。それで無理矢理相手のメールアドレスを聞き出して、討論したこともある。その時以来であるが、ブログで頂いたアドレスとメールは終わると直ちに削除することにした。その内に、ブログは真正面から反応するものでないと思う様になった。コメントは「良かったですね。」「成る程そうですね。」「そんな見方があるのですね」「素晴らしいですね。」何てことで済ます様になった。これは匿名性と関係するのであるが、見ず知らずの方に討論を望むこと程みっともない事はない。ブログでも「さいら」は成長して漸く大人になってきた証拠である。
 最近、所謂スパムコメントと言うのか、迷惑なコメント等が多分自動処理されている様なスタイルで集中的に入ることがある。今も、その状態が続いている。それはアクセスした人も不愉快であり、コメントをされた本人も不愉快である。その防御策はブロバイダ依存で、色々と工夫されているが、抜本的な対策は困難だ。ブロガー泣かせとしか言いようがない。その防御策の一つとしてgooでは「一ヶ月以上前の記事のトラックバックは拒否する」にチェックを入れることが可能である。こういう防御策の発想も結局のところ、記事の寿命はその程度であることを示している。考えようによっては、古い過去記事にトラックバック等を頂く事はこの上もなく有り難い筈であるが。

カテゴリ
 「さいら」は、ワープロでは「アウトライン機能」を使用している。ごく初期のワープロソフトでもその機能はあった。思いつくままに箇条書きしたキーワードから章・項・節を作り、それらを自由に入れ替えする事が出来る。記事の項で話したことだが、ブログの記事は読みやすくしようと思うと、短くせざるを得ない。また、今日の記事と前日の記事とは一見関係がない単発的な記事になる。しかし、その様な単発的な記事も数が多くなると、グループ分けが出来る。「カテゴリ」である。更に多くなると、そのカテゴリを細分化したくなる。そうする事によって、初めて「ストーリー」が生まれる。その作業によって最初の一つのキーワードから色んなところへ関連が生まれる。
 しかし残念な事に、ブログにはカテゴリに「深さ」がない。ランクが一つ下のカテゴリを作る事が出来ない。従ってカテゴリ間の関係が見出せなくて、結局のところ「単発記事」の羅列になってしまう。それで、時々こういう単発的思考を続けて良いのだろうか?と疑問に感じる。悪く言えば、単細胞化に繋がるのではないかと感じた。老齢化してますます「単細胞化」は願わくば払い下げをお願いしたところである。

日付
 ブログ記事の整理はカテゴリと日付で行う。ブログカテゴリの限界は先に触れた。
日付についてもやむを得ないことだが、不十分さと言うか自由度の無さを感じる。ブログの記事は新しい記事から古い記事へと並んでいく。「日記」の観点からは当然と言えば当然である。通常はそれで全く問題はないが、例えば、或る記事を何回かに分けて投稿する場合を考えると、最初はそれでよいが、過去記事に遡ってとなると、矢張り最初に記事から読みたい。しかし並びは日付の新しいものからしか出来ません。一時的にでも古い記事から読めると便利だと思ってしまう。結局のところ便利であるが、その分何かにつけて自由度がないと言うことになる。
 日付の先付けは以前出来なかったが、今は可能だ。例えば、今日、2007年10月30日付けで記事を投稿できる。実は最初これに気付いた時、これは便利だと思った。日にちを先付けして書けば、ブログの趣旨とかを何時もトップ記事に出来る。しかし、RSSリーダーで幾つかのブログを自動的に読み込む時に、何時も同じ人の同じ記事が先頭に表示されます。RSSリーダを利用している者には毎回目障りになります。と言う訳で日付の先付けは、その日に到達して初めて表示される様な機能も有れば便利この上ないのですが・・・。

ブロバイダー依存性
 ブロバイダ依存性で一番気になるのはブログそのものが「さいら」の手元にないと言うことです。今思えば、恥ずかしいのですが、始めた頃一生懸命自分のハードディスクの中を「さいら」のブログを探したものです。記事を投稿したりする時は、直接、ブロバイダのハードデスクにアクセスしていて、ブロバイダのハードディスクにだけ存在することを知ったのは暫く後です。ここは同じ様であっても、データが残っているHPと大きく違うところです。自分の書いた物が自分の中にない、果たして、それで良いのかどうかと、ある種の不安を感じました。それを実感したのは、ブロガリからgooに変更した時です。ケーブルテレビ会社を変更すると、当然ですがアドレスとブログは利用できません。それで、現在のgooブログへ移管をしたのですが、その面倒なことはこの上無しです。記事一つずつコピーアンドペーストです。写真も全て移管しなければなりません。日付を当初の記事の日付にするのがこれは意外と手間が掛かりました。
 gooはバックアップ機能がありますが、それは単なるバックアップでしか有りません。今も、このgooブログを完全に閉鎖しない理由もそこにあります。万が一でも他のブロバイダで復元して開設することになると、残しておかざるを得ません。このことはブログ件数の漸増に繋がっている。契約解除手続きをしない限りブロバイダのハードディスクに永遠に残ります。
 他に諸々の機能もブロバイダ依存です。大筋では似た様なものですが、細かいところ・微妙なところではブロバイダの特徴が出てきます。

思い出のブロガーさん
 ブログを始めて間もない頃、掲載した写真が相当歪んでいた。それを見た或るブロガーさんから「非公開」コメントがきた。「写真の修整の仕方と、もし分からないときは・・・」とその方のアドレス入りでコメントを頂いた。ブロガリには「非公開コメント」という便利な機能がある。gooブログにしてから、或る記事中に表があった。その表の作成方法をコメントで尋ねた。折り返しその方から直接メールが届いた。そして作表の仕方を教えて頂いた。便利な様な危ない様なであるが、gooブログはアドレスが見えるのである。又、gooブログに移管してから、コメントもなくションボリしていた時に、コメントを頂いた。そう言う方々に助けられながらのブログであった。今もその親切に感謝している。
 ブログを始めて最初の頃だった。若い女性哲学者のブログがあった。短い英語の文章を「さいら」なりに訳して、褒めて貰った。色々と知りたいことも調べて、その方の考えを入れて記事にして頂いた。又、考えが足りない点は厳しく批判もされ、専門家にその様に厳しく批判されるのは心外であった。それで、遠のいてしまった。今も申し訳なく、反省している。そのブログは常連4人程のサロンであった。言葉の遊びが一番面白かった。四人集まれば一つの言葉であっても驚く程その感受性が違う。そこから、さらに面白い言葉が生まれる。そのブロガーさんは体調を崩され、仕事も多忙になられた。常連さんもいつの間にか閉鎖された。一瞬に咲くあだ花の様な宿命をブログは持っていることを実感したものだ。そして、今「さいら」も閉鎖しようとしている。
 これは最近の話である。珍しく本名で開設されていた。非常に真面目なブログで、自分の研究成果などを分かりやすく記事にされていた。プロフィールだったと思うが、「著作権は本人に属する」と明確に記載されていた。ところが、その記事が盗用されてしまった。記事の一部分ではなくて記事そのものが盗用されていた。一回や二回でない様だ。これはブログが持つ最大の危険性であると思った。他人の記事を盗用して、自分の成果の様にブログに掲載するのが何処が面白いのか理解に苦しむが、実際にあったことである。ブログ記事の著作権は有るのかどうか、有るとすれば何処まで有って、誰が保護するのかは多様なブログ記事がある現在、考えなければならない事柄であろう。それを回避する唯一の方法は「さいら」の様に「ブログ記事は当たり障りのないことしか書かないこと」であるが、それでは余りにも寂しすぎる話である。

社会規範コード違反
 ブロガリのブロガーさんであったが、少しエロい記事と写真を投稿する若い女性のブロガーさんだった。語り口も面白く、当然人気もあって、何時もナンバーワンを争っていた。そのブログ記事内容が、ブロガリの社会規範コード違反と認定された。会社には正に目の上のたんこぶであったのかも知れない。クレームを付ける訪問者も多々いたのかも知れない。警告を受けると直ちに自主的にそのブロガーさんは退会された。応援コメントがそれこそ山の様にされた。殆どが徹底的な抗戦の進めであった。これはブロガリの厳しさかも知れないが、他のブロバイダではそれ以上の本当の「エログ」が見られることを考えると、自主規制という検閲が現に存在することにそのエロいブログ以上に改めて危ない社会を痛感した。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。