今回は食に関する事、一切ありまへんので!
電車通勤の私には本や、ちょっと最近調子の悪い動画プレーヤで映画を
観ることも退屈なそして貴重な自由時間を過ごすという意味では欠かせない。
外国人との仕事では営業中お客さん以外で日本人と会話するのは近隣の店舗
の人達や仕入れ業者だけ。
だからそうでない時間は、いっそ別世界へ入り込みたい。
綺麗な日本語や深く考えさせられる内容の物で頭を刺激したい。
ま、なんやかや理由をつけて興味のある本を3ヶ月に一度位本屋や古本屋で
漁りまくる。
映画はツタヤで毎週金曜日に新作三本と旧作4本を借りる。
最近読み終わった本をちょっとご紹介。
「男たちの大和」辺見じゅん
「ケースオフィサー」麻生 幾
「人間の証明」森村誠一
「伊号艦長 潜行記」荒木浅吉
どの本も色々考えさせられる事があった。
様々なジャンルというような気がするが、読み終えると自分の中で共通点を感じた。
震災後の世界で、また、直接的な被害と呼べるようなものに出会わなかった自分だが
色々な面で思うところがあった時期。(続いておりますが)
その時期にこれらの本と共に過ごした時間はより一層、今とクロスさせて考えさせられることになった。
その中でも印象に残った一冊を紹介したい。
男たちの大和
戦艦大和の開発から訓練、そして実戦、沈没、生還後の人々の様子などからして、
戦争の悲惨さなどという形容はまさに、軽く感じられるものだった。
戦地へ赴き、兵士それぞれが考えた事は国の行く末だけではなかったはず。
決して、美談として語るなかれという感を受けた。
凄惨な戦闘より本を読み終えて思うのは、生きて帰った事が罪と感じる世界や、結局、人は
生きるために人を押しのける現実もあるという、いわば人間の心の本質の深淵をぶつけられたような
そんな衝撃を受けた。
映画化されて、一時話題になったが、全く異質の内容であり、映画が実戦という節を切り取った
ものであるならば、この本はまさに生還した人々の記憶、そして様々な文献からの記録から成る
ノンフィクションであり、そして読む者に投げかけられるものはとてつもなく大きい。
国が国として始めた戦争であるが、戦後の国の対応を見れば、国の為に働いた兵士への対応は正に”愚策”そのものであり、今、震災の後の国の政策如何によっては重なるように思う。
戦前、戦中と日本は”様々な大義名分”の基、人をある方向へ導いていたと思う。
国が国であるという理由は何なのか。
国民の為に国という統治機構があるのがベストではないかと思うが、まるで国の為に国民があるといったビジョンであったようでならない。
確かに欧米諸国からの圧力などの問題もあったろうし、一概に問題は片付かなかったとも思う。
でも、日本が戦争に突入する時点で”開戦”を願ってしまった人々に国力などの現実が見えるように
政策をして来たのかと言えば、決してそうではないと思う。
故に国が国民の(決して一部の人の為でなく)未来の為のビジョンが明確であることや、それに対して
今、行うべきこと全てが包括的に考えられているのか、とても心配になった。
この大和の話に戻るが、戦争というものを人それぞれが捉えるとき、それがどのようなものであれ、
その瞬間に立ち会うことになった人々には、世代の違う我々には感じることのできないものがあること
やそれら全てを打ち消すことはできないのではないかと思った。
ただ、戦争行為そのものを私は容認するわけではない。
従事させられた人達の過ごした時間の中には人の営みもあったのだ。
歌を歌い、恋をして、肉親を思い、そして国の将来を憂え、時として嘆くなど、我々と同じく個人の感情もそこに当然あったのだから。
そして人権を踏みにじるような風習が、正義という言葉さえも消してしまっていたのだ。
若い彼らには同じ時期に過ごした人達との連帯感や出来事は彼らの青春そのものでもあるということ。
戦争をただ、批判することは簡単だが、それらに従事した人達の全てが間違っていたのではない。
そのような方向性を見出した全てが愚行であっただけだ。
と、とても考えさせられる事が多い、読み応えのある一冊(上下巻)だった。
その内容から思ったことと現実をオーバーラップして考えてみた。
震災と戦争とでは根本的に起源が違う。
でも、震災の中で”あきらかに人災”となる部分が存在する以上、それらの責任を負うのもまた始めてしまった人達だろう。
原子力の取り扱いについて、真に国民のために扱っているのか。
原子力というビジネスを通じて、一部の組織や人間が私腹を肥やすために全てが方向性を見出していなかったか。
原子力を扱う、電力会社に関係した人間全てに比があるのか。
原子力はコストが低いとする見解は、今日崩れ去っている気がする。
問題が発生した後の社会的なコストが莫大で、結局、関係した人の命や生活を犠牲にすることだ。
安全だと豪語してきた割にあっさりとケタ違いの混乱を世界中にバラ巻いてる。
これだけの結果が出ているのに、平然と同じ歩みを進めようとするなら、救いようがない位、この世の中は病んでいる。
現状を見れば、改めて新しい世界を模索しつつ政治主導で正しい方向へ持っていかなければならない。
今までの既得権益にどっぷり浸った世界観をぶち壊すには強烈な覚悟が必要であると思う。
それでも、結論を導き出し、揺らぎないビジョンの基、政府は走り続けてほしい。
今までどれだけ国民を欺き、必要に応じて既得権益を守るための様々な対策が練られ、実際に行われてきたか。
マスコミも今や大衆の一意見に等しく、全てが信じられるわけではない。
政府が発表したことさえ、裏をとるように皆が真実を求めて情報の海を漂っている。
ただ、日本が民主主義経済である以上、民間の会社が事業を運営する上で未来永劫、収益を生み、守り続けて行く為に何かを行う行為は至極、当然である。
ただ、モラルある考え方が事業運営のコアな部分にあるか否かが大切なんだけど。
あと一つ言いたい。
それらに従事する人全てが悪いわけではない。
私が当の電力会社の関連会社に居たときに従事していたのは”社会福祉事業”だった。
それらの会社でさえ、嫌がらせがあるという。
彼らは親会社ほどの収入があるわけでもないし、社会的意義のある仕事に従事している。
そんな彼らに原子力の恩恵など、クソ程にも受けているわけではない。
そしてそれらの愚行を正す為に、正しい方向性を見出す政治家を選ぶのは我々、有権者なのだ。
T電力を解体して、国有化することは、その第一歩のようにも感じたが、それは震災復興に関わる電力会社の責任をウヤムヤにさせるだけだ。
健全な経営体制をあるべき姿で行わせてこそ、被災された地域への補償などができるというもの。
政府与党には命に掛けて日本という船を直し、正しい海原へ導いてほしい。
民主党政治が終わりを告げても、引き継いだ政党は国民のための政治を行ってほしいものだ。
にほんブログ村
三回クリックしてみてください!
電車通勤の私には本や、ちょっと最近調子の悪い動画プレーヤで映画を
観ることも退屈なそして貴重な自由時間を過ごすという意味では欠かせない。
外国人との仕事では営業中お客さん以外で日本人と会話するのは近隣の店舗
の人達や仕入れ業者だけ。
だからそうでない時間は、いっそ別世界へ入り込みたい。
綺麗な日本語や深く考えさせられる内容の物で頭を刺激したい。
ま、なんやかや理由をつけて興味のある本を3ヶ月に一度位本屋や古本屋で
漁りまくる。
映画はツタヤで毎週金曜日に新作三本と旧作4本を借りる。
最近読み終わった本をちょっとご紹介。
「男たちの大和」辺見じゅん
「ケースオフィサー」麻生 幾
「人間の証明」森村誠一
「伊号艦長 潜行記」荒木浅吉
どの本も色々考えさせられる事があった。
様々なジャンルというような気がするが、読み終えると自分の中で共通点を感じた。
震災後の世界で、また、直接的な被害と呼べるようなものに出会わなかった自分だが
色々な面で思うところがあった時期。(続いておりますが)
その時期にこれらの本と共に過ごした時間はより一層、今とクロスさせて考えさせられることになった。
その中でも印象に残った一冊を紹介したい。
男たちの大和
戦艦大和の開発から訓練、そして実戦、沈没、生還後の人々の様子などからして、
戦争の悲惨さなどという形容はまさに、軽く感じられるものだった。
戦地へ赴き、兵士それぞれが考えた事は国の行く末だけではなかったはず。
決して、美談として語るなかれという感を受けた。
凄惨な戦闘より本を読み終えて思うのは、生きて帰った事が罪と感じる世界や、結局、人は
生きるために人を押しのける現実もあるという、いわば人間の心の本質の深淵をぶつけられたような
そんな衝撃を受けた。
映画化されて、一時話題になったが、全く異質の内容であり、映画が実戦という節を切り取った
ものであるならば、この本はまさに生還した人々の記憶、そして様々な文献からの記録から成る
ノンフィクションであり、そして読む者に投げかけられるものはとてつもなく大きい。
国が国として始めた戦争であるが、戦後の国の対応を見れば、国の為に働いた兵士への対応は正に”愚策”そのものであり、今、震災の後の国の政策如何によっては重なるように思う。
戦前、戦中と日本は”様々な大義名分”の基、人をある方向へ導いていたと思う。
国が国であるという理由は何なのか。
国民の為に国という統治機構があるのがベストではないかと思うが、まるで国の為に国民があるといったビジョンであったようでならない。
確かに欧米諸国からの圧力などの問題もあったろうし、一概に問題は片付かなかったとも思う。
でも、日本が戦争に突入する時点で”開戦”を願ってしまった人々に国力などの現実が見えるように
政策をして来たのかと言えば、決してそうではないと思う。
故に国が国民の(決して一部の人の為でなく)未来の為のビジョンが明確であることや、それに対して
今、行うべきこと全てが包括的に考えられているのか、とても心配になった。
この大和の話に戻るが、戦争というものを人それぞれが捉えるとき、それがどのようなものであれ、
その瞬間に立ち会うことになった人々には、世代の違う我々には感じることのできないものがあること
やそれら全てを打ち消すことはできないのではないかと思った。
ただ、戦争行為そのものを私は容認するわけではない。
従事させられた人達の過ごした時間の中には人の営みもあったのだ。
歌を歌い、恋をして、肉親を思い、そして国の将来を憂え、時として嘆くなど、我々と同じく個人の感情もそこに当然あったのだから。
そして人権を踏みにじるような風習が、正義という言葉さえも消してしまっていたのだ。
若い彼らには同じ時期に過ごした人達との連帯感や出来事は彼らの青春そのものでもあるということ。
戦争をただ、批判することは簡単だが、それらに従事した人達の全てが間違っていたのではない。
そのような方向性を見出した全てが愚行であっただけだ。
と、とても考えさせられる事が多い、読み応えのある一冊(上下巻)だった。
その内容から思ったことと現実をオーバーラップして考えてみた。
震災と戦争とでは根本的に起源が違う。
でも、震災の中で”あきらかに人災”となる部分が存在する以上、それらの責任を負うのもまた始めてしまった人達だろう。
原子力の取り扱いについて、真に国民のために扱っているのか。
原子力というビジネスを通じて、一部の組織や人間が私腹を肥やすために全てが方向性を見出していなかったか。
原子力を扱う、電力会社に関係した人間全てに比があるのか。
原子力はコストが低いとする見解は、今日崩れ去っている気がする。
問題が発生した後の社会的なコストが莫大で、結局、関係した人の命や生活を犠牲にすることだ。
安全だと豪語してきた割にあっさりとケタ違いの混乱を世界中にバラ巻いてる。
これだけの結果が出ているのに、平然と同じ歩みを進めようとするなら、救いようがない位、この世の中は病んでいる。
現状を見れば、改めて新しい世界を模索しつつ政治主導で正しい方向へ持っていかなければならない。
今までの既得権益にどっぷり浸った世界観をぶち壊すには強烈な覚悟が必要であると思う。
それでも、結論を導き出し、揺らぎないビジョンの基、政府は走り続けてほしい。
今までどれだけ国民を欺き、必要に応じて既得権益を守るための様々な対策が練られ、実際に行われてきたか。
マスコミも今や大衆の一意見に等しく、全てが信じられるわけではない。
政府が発表したことさえ、裏をとるように皆が真実を求めて情報の海を漂っている。
ただ、日本が民主主義経済である以上、民間の会社が事業を運営する上で未来永劫、収益を生み、守り続けて行く為に何かを行う行為は至極、当然である。
ただ、モラルある考え方が事業運営のコアな部分にあるか否かが大切なんだけど。
あと一つ言いたい。
それらに従事する人全てが悪いわけではない。
私が当の電力会社の関連会社に居たときに従事していたのは”社会福祉事業”だった。
それらの会社でさえ、嫌がらせがあるという。
彼らは親会社ほどの収入があるわけでもないし、社会的意義のある仕事に従事している。
そんな彼らに原子力の恩恵など、クソ程にも受けているわけではない。
そしてそれらの愚行を正す為に、正しい方向性を見出す政治家を選ぶのは我々、有権者なのだ。
T電力を解体して、国有化することは、その第一歩のようにも感じたが、それは震災復興に関わる電力会社の責任をウヤムヤにさせるだけだ。
健全な経営体制をあるべき姿で行わせてこそ、被災された地域への補償などができるというもの。
政府与党には命に掛けて日本という船を直し、正しい海原へ導いてほしい。
民主党政治が終わりを告げても、引き継いだ政党は国民のための政治を行ってほしいものだ。
にほんブログ村
三回クリックしてみてください!