たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

倭姫命伊勢に行く その 15 中山大塚古墳の続き

2021-10-31 14:25:58 | レイライン
  倭姫命伊勢に行く その 13 中山大塚古墳に「猿投神社 二の鳥居の場所にも意味があるようです。」

と書きましたけど、それについて考えます。

というか、あまりに気になったので、昨日出かけてきました・・・へへ;

まず、二の鳥居

大和神社へのレイラインは、ここからではありませんでした。
その場所を特定したいと思い、出かけました

山門


本殿


滝があります


順を追って説明します。

まず、山門を出て 広沢川を「大碓命墓」方面に向かう途中に、広沢神社(広沢天神)があります。

参考までに、「大碓命墓」=猿田彦の最初の墓(後に青塚古墳に埋葬)

その広沢神社が秋分の日の日没の場所になるように、猿投神社のある場所を特定します



広沢神社です


他にどこかラインが無いかと調べると


驚きました。


伊久良河宮跡にピタリです。

きちんと当たるように調整した場所がここです


山門から見た本殿の方向(北)

しめ縄を張った杉の木がありますけど、その少し手前ぐらいの場所ではないでしょうか?

杉の木を通り過ぎて後ろを見た画像です。山門の方角ですね。


ちょうど、街灯のあるあたりです。

なにか、痕跡でもないか期待して出かけましたけど、その場所には何もありません。

少し残念ですね。でも、中山大塚古墳の近くの「大和神社」、「伊久良河宮跡」「広沢神社」

これだけのレイラインがピタリ合うということは、この場所には

1700年前にサタヒコに関する重要な「何か」があったと確定していいのではないでしょうか。

広沢神社(広沢天神)については、次回に書きたいと思います。














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倭姫命伊勢に行く その 14 倭姫は出雲に行ったのでしょうか

2021-10-29 14:00:23 | レイライン
おいらは、まだ出雲には行ったことがありません。

遠いもんね・・・

それを思うと、サホヒコやサタヒコはすごいですね。

あの時代に、美濃、尾張、諏訪、越、丹波、出雲、四国、さらに九州にも行っているだろうし

ひょっとすると韓国にも渡っているかもしれない。

すごい人たちだと思います。

さて、以前書きましたけど、八咫鏡に大国主の御霊を移す、つまり、御霊のコピーペーストですね。

これを行いに、出雲に行ったと考えることが適当でしょう。

足跡があるのだろうか?

さがしてみると、出雲大社のHPの「境内のご案内」のなかの摂末社と言う所に、境外の摂末社として

「下宮(しものみや)」と言う所があります。出雲大社のHPより、画像を拝借


ここが、倭姫を祀ったものではないだろうか? 

祭神は、天照大神ですけど、それが下宮となるのは不自然と思います。

倭姫の、父親である垂仁天皇は伊勢津彦(=サホヒコ=大国主)を伊勢から追い出した崇神天皇の子ですけど

母親は、サタヒコの姉と言う立場です。

境外の摂末社の一番末と言う立場でも、おかしくはないでしょう。

地図を出雲大社のHPからお借りします


左端にあるところですね。



そこを、右に出雲大社の方に行くと、すぐに「上宮(仮宮)かみのみや」があります。

御祭神は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)と、 御祭神八百萬神(やおよろづのかみ)です。

素戔鳴尊は、他に「素鵞社」と言う所にも祀られています。だから仮宮と書いてあるのでしょうか?



さらに進むと、大歳社(おおとしのやしろ) があります

御祭神は、大歳神(おおとしのかみ)

素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、五穀を守護される神です。


ここで気になるのは、「素鵞社」の説明の中に 

素戔鳴尊(すさのおのみこと)は、大国主大神の親神であられ、
大神に国づくりの大任を授けられました。

とあります。おいらは以前丹後半島のレイライン その 28 三種の神器で、スサノヲを「彦坐王」とすると、ヤマタノオロチは、「久我耳三笠」
となり、天叢雲剣が出てきたということは、製鉄が再開されたと置き換えられます。

と書いています。

素戔鳴尊(すさのおのみこと)=彦坐王 とすると

      大国主=サホヒコ=伊勢津彦

      大歳神=サタヒコ=朝廷別王

この関係がピタリと来ます。いかがでしょうか?
(サホヒコと、サタヒコの父親は、彦坐王です。母親は違います。)

倭姫は、出雲に来ていると思います。















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倭姫命伊勢に行く その 13 中山大塚古墳

2021-10-27 14:13:28 | レイライン
以前、中山大塚古墳は被葬者が、河上摩須郎女命(倭姫のおばあちゃん)ではないかと言うことを書きました。(倭姫命伊勢に行く その 11  倭姫の母)

レイラインが無いかと

ありましたね。やはりサタヒコが関係するようです。

さらに

これは何を意味するのかわからない・・・


まさかと思いますけど、猿投神社本殿からのラインです

少し誤差があります。でも、猿投神社の二の鳥居からレイラインを見ると、




ピタリです


大和神社そのものは、後の時代にこの地に引っ越ししてきたそうです。

と言うことは、それ以前は別の何かが存在していたことになります。

とにかく、これで中山大塚古墳の被葬者は、河上摩須郎女命としていいと思います。

教えてもらえたブログの管理者さんに伝えたいんだけどなぁ・・・



それから、猿投神社 二の鳥居の場所にも意味があるようです。

つい先ほど分かりました。。。

それについては、後ほど紐解いていきましょう。。。


全体のレイラインです


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倭姫命伊勢に行く その 12 佐紀陵山古墳のレイライン

2021-10-26 08:05:38 | レイライン
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は、倭姫の母親である、
ヒバスヒメの眠る古墳とされています。


しかし、幕末まで神功皇后陵とされていたそうです。

明治の初めに垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命陵に治定替えされ、現在にいたっているとのこと。

作られた時期は、4世紀後半~5世紀前半とされているようです。

愛知県春日井市にある高蔵神社からの冬至の日の入りのラインに大仙古墳(仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵)

があることは、以前書きました。見てみましょう


そのラインが、日葉酢媛命陵、の近くを通るのです。
書き込んではありませんけど、その左側の古墳は、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)です。



高蔵神社から、日葉酢媛命陵まで、直線距離で約 131km。そのせいで、誤差があるのでしょうか

神功皇后陵も、近くにあります。

何処が関係しているのかわからないですね。

でも、日葉酢媛命陵から冬至の日の入りを見ると


悩ましいですね。

まず、大仙古墳(仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵)は、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)からの冬至の日の入りと

考えて、良いと思います。

そして、高座神社からのラインは、日葉酢媛命陵、成務天皇陵、

もしくは神功皇后陵に関係するとしか言えませんね。

ですから、以前書いた 高座神社→仁徳天皇陵 のラインは、2つのラインで出来ていると考えるのが

正しいのかもしれません。

気になるのは、高座神社と、日葉酢媛命の関係です。その理由が分からない。

一応、父親の彦坐王と弟のサタヒコが関係しているので理由が何もないわけではありませんけど、

少し弱い。日葉酢媛命は、高座神社に行ったことは無いのじゃないかな。

日葉酢媛命薨去は、306年頃と思いますので(44歳ぐらい)もしそうなら、古墳の製造年も4世紀前半になると思います。

さらに、仁徳天皇との関係も世代がだいぶ違います。

いかがでしょうか?












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倭姫命伊勢に行く その 11  倭姫の母

2021-10-25 08:03:39 | レイライン
倭姫の母親は、「日葉酢媛命(ひばすひめ)」といいます。

サタヒコの姉です。配偶者は、垂仁天皇。

子は、五十瓊敷入彦命、景行天皇、大中姫命、、倭姫命、稚城瓊入彦命 

日葉酢媛命の葬儀の時から、殉死をやめ、生きた人間の代わりに埴輪を埋納するようになったと言われています。

生ま育ったれた場所は、たぶんここ。

方県津神社の古墳が、春分の日の日没のラインにあります。

古墳の被葬者は、河上摩須郎女命 (サタヒコ、ヒバスヒメの母親)と思います。

倭姫のおばあちゃんですね。

でも、調べるとこの古墳は、5世紀頃のものと言われます。ならば違いますね・・・

でも、主祭神が「河上摩須郎女命」です。

あるブログによると、河上摩須郎女命の古墳は奈良にある「中山大塚古墳」ではないかと書かれていました。

そのブログを探したのですけど、見つからない・・・

つたない記憶をたどると、その近くに「大和神社」と言う所があってそこには「ちゃんちゃん祭り」

と言うお祭りがあり、大和神社から中山大塚古墳の御旅所までを往復するとのこと。

それが、ヒバスヒメが母親のお墓に行って、お参りをして、帰ってくるという行為を表しているのではないかと言うことを書いておられたように記憶しています。


岐阜の「方県津神社」は、古墳が出来るまでの仮の場所。

後に岐阜から奈良の「中山大塚古墳」へ、被葬者が移動した。

サタヒコも彦坐王もそうでしたから。

現在の、方県津神社古墳は、後に他の被葬者が入った可能性が高いです。

方県津神社の祭神が、「河上摩須郎女命」なのでそう解釈するのが適当かと思います。

奈良へは、ヒバスヒメが呼び寄せたのでしょうか?



ヒバスヒメは、306年ごろに亡くなっています。(44歳ぐらい)「佐紀陵山古墳」墳丘長207メートルの前方後円墳。

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美女なでしこ(ダイアンサス)・ジョルト ピンクマジック

2021-10-24 15:28:18 | 植物
ちょうど2鉢だけ咲いてました。


以外にも、茎が伸びるのです。

どうやって仕上げようか?

最近気温が下がってきたら、ピンクの色がきれいになりました。

咲き始めは、白っぽい花びらがあります。次第に色がピンクに代わります。
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水耕栽培

2021-10-24 06:45:09 | 植物

撫子の発根状況を調べようと始めましたけど、順調に生育しています。

途中で、肥料もやりました。ロングトータル花卉1号180日タイプと言うもの。

瓶の中に入っています。

美女なでしこ(ダイアンサス)・ジョルト ピンクマジック


このまま水耕栽培を続けようと思います。なかなか面白い。



面白そうだから、昨日ラセンイ(ジュンカス エフサス スパイラルス )の、根を洗って

水耕栽培始めました。どうなるでしょう。

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倭姫命伊勢に行く その 10 レイラインの測量者

2021-10-23 07:24:19 | レイライン
レイラインの測量者は誰?

今までで、わかっていることは、サタヒコと共に行動をしているということ。

おいらが調べた内で、初めての測量は、伊勢津彦(さほひこ)と合流した後、諏訪に向かう途中。

その技術は継承されているということ。

おそらくは、星の位置を測量しているのではないかと言うこと。

数人(10人ぐらい)の規模のようです。

たぶん、サタヒコの母親 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と共に丹波から岐阜にやって来た。

サタヒコと共に行動している人たちは、その子と考えられます。


最近、この集団は、もしかして「暦」を作ることもやっているのではないかな?

というより、そちらが本業じゃないかな。

稲を育てるためには、正確な「暦」が必要ですし、それに合わせていろいろな行事もできる。


冬至、春分、夏至、秋分を知るには天体観測をするのが最適でしょう。

潮の満ち引きを調べるには、月の観測もしなければならない。

航海や陸地の移動の時も、位置や方向を導くことが出来るでしょう。

ただし、地球の歳差運動があるためそれほど古い技術ではない。


当時の技術は現在では使えないでしょう。だから技術として残っていないと思います。

冬至、春分、夏至、秋分の日の出、日の入りの場所の特定をしているのは、今のところ

サタヒコが関係する場所です。

これはどういうことかと考えると、サタヒコが、その観測技術からレイラインを導き出せることを

知り、活用したということになります。

おかげで、彼の足どりや、時代の背景が分かってきました。

さて、この測量集団はだれ?

思いつくのが、「月夜見」です。

かぐや姫のおとぎ話はその人たちに関係するでしょう。

月の輪田、坂田宮の近くの「天野川」、天女伝説、住吉三神もそうでしょう。

日本書紀では、月夜見尊は、保食神を剣で刺し殺してしまうことになっていますけど、

これは、あり得ないでしょう。彼らの名誉のために断言しておきます!








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倭姫命伊勢に行く その 9 八尺瓊勾玉

2021-10-21 19:49:03 | レイライン
現在、三種の神器は、どうなっているのかというと

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「八咫鏡」は宮中三殿の「賢所」、「八尺瓊勾玉」と「草薙剣」は皇居の「剣璽の間」と呼ばれる場所に奉納されている


剣と曲玉は合わせて「剣璽(けんじ)」と呼ばれ、天皇の位と一体のものとされ、皇室経済法が定める「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置づけられています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


天叢雲剣は、形代(コピー)で、八尺瓊勾玉は本物とのこと。

まあ、誰も見てはいけないそうですし、仮に見ても本物かどうかは誰にも分らないでしょう。

それよりも、同じところに置いてあるということが、うれしい!

これだけでも、天叢雲剣には、サタヒコ(猿田彦、山代之大筒木真若王)

そして、八尺瓊勾玉には、丹波能阿治佐波毘売(天鈿女命 アメノウズメ)の御霊が

宿っている ← PS これ間違っています。サタヒコの父と母です。

八坂瓊勾玉が、何処で作られたのか?

材料は「出雲石」で、出雲で作られたという話もあります。

竹野川流域に「奈具神社」というところがあります。


羽衣伝説があります
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。
天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも
と詠い、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祭神は、豊宇賀売命。ここで言う「天女」=アジサハヒメ=豊宇賀売命でしょう。

この地には、奈具岡遺跡があり(弥生時代中期末~後期)に、鉄生産、水晶玉の加工などを行っていたそうです。

でも、この地は「久我耳三笠」に侵略されるのですよね。

このようだったと推測します


サタヒコの父親の、彦坐王が、久我耳三笠を退治してこの地を元通りにします。

サタヒコがやって来た時には、奈具岡遺跡付近には製鉄や玉つくりなどの技術者が戻っていたのかもしれません。

そう考えると、「八咫鏡」と、「八尺瓊勾玉」は、ここで作られたのかもしれません。

八尺瓊勾玉は奈具神社で、倭姫により阿治佐波毘売(アジサハヒメ)の御霊を移したのでしょう。

その後2年間、籠神社奥宮の眞名井神社に八咫鏡と共に祀られます。

PS  八咫鏡は2年ぐらいですけど、八尺瓊勾玉はもう少し長いかもしれません。


 






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倭姫命伊勢に行く その 8 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

2021-10-20 06:22:55 | レイライン
天叢雲剣については、丹後半島のレイライン その 28 三種の神器に書いていますので、参考にしてください。

その中では、中を見た人の話が描いてありますけど、「全体が白く、錆はなかった 」とのこと。

とすると、銅剣と推定されるとのことです。

色が白いということから、錫の添加量が多いとのこと。

しかし、次のような説明もあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じながら緑青となる。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり青銅色になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本当に白い色だったのだろうか?

「錆はなかった」とのことなので、何か加工でもしてあるのだろうか?専門外なので分かりません。



三種の神器(さんしゅのじんぎ)についてですけど、

日本神話では、天孫降臨の際に天照大神がニニギ(瓊瓊杵尊)に授けた三種類の宝物

すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉のこと。

ニニギが、その後どうしたかは書かれていないようです。


古語拾遺(平安時代の神道資料、807年)では、

天目一箇神とイシコリドメの子孫が「神鏡」と「形代の剣」を作ったと書かれているようです。

またまた、石凝姥命(いしこりどめ)が出てきましたね。今回は、本人ではなく子孫ですね。


「形代の剣」と、形代と言う言葉が使ってあります。

「コピー」と言う意味だろうか?それとも、魂が宿るという意味だろうか?

「コピー製品」と言う意味が強いように感じます。

ウィキペデイア見たら同じことが書いてありました。レプリカを作ったようです。



日本書紀では、「崇神天皇の時代に、皇女である豊鍬入姫命により、

八咫鏡とともに皇居の外の笠縫邑で祀られるようになった」とあります。

その後、倭姫に渡されます。これって嘘ですよね。

元々宮中には無かったのですから、それをごまかそうとしている。

倭姫に渡したところで、つじつまを合わせているのでしょう。

そして、伊勢に運ばれ、後にヤマトタケルにより、ミヤズ姫に渡されその後、熱田神宮に祀られます。

ヤマトタケルは架空の人物です。この場合、景行天皇でしょう。



天叢雲剣とは何だろうと考えたとき、最初はこれに丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)

の御霊を移したのかなと思いましたけど、女性の御霊を武器に憑けるのはおかしいですね。

これからは、妄想になりますけど、天叢雲剣は、八咫鏡と一緒に伊勢に行ってるので、サタヒコの分身か?

もしかすると、サタヒコが愛用していた「剣」が、天叢雲剣かもしれない。

そうすると、アジサハヒメの御霊を憑けた物はなんだろう?

もうひとつありましたね。

八尺瓊勾玉。























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倭姫命伊勢に行く その 7 鉄剣、鉄刀

2021-10-19 13:34:59 | レイライン
サタヒコは、伊勢に行くとき多くの兵を従えたと思います。

伊勢だけではなく、新しい地に行くときは何処でも同じでしょう。

そして、武器も必要です。

当然、丹後半島で作った鉄製の剣、刀を携帯したと推測します。

「剣」と「刀」どう違うの?おいら知らなかった。

「剣」とは、まっすぐな形で両方に刃がつけてあるもの。

「刀」は、片方のみに刃があるものだそうです。

愛知県犬山市にある「東之宮古墳」からは、次のようなものが出土しています


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石製品(石釧3・鍬形石1・車輪石1・合子2)
玉類140
鏡11
鉄製品(鉄剣4・鉄刀9)
鉄剣鉄槍17・鉄鏃6
Y字形鉄器2・刀子1
鉄斧6・針筒1・やりがんな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鉄鏃とは何だろう?調べると、鉄製の鏃(やじり)のことだそうです。



Y字形鉄器はわかりません。

刀子は、小刀のことだそうです。

鉄製品のほとんどが、武器のようです。





これらは、もしかするとサタヒコが伊勢に行ったときに持って行った武器の一部じゃないのだろうか?

何処の鉄を使ったのかわかるといいですね。




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倭姫命伊勢に行く その 6  内宮のレイライン

2021-10-18 06:34:52 | レイライン
この,砥鹿神社奥社~斎宮~飯野高宮神山神社のレイライン上の何処かに、

伊勢津彦の関係のある場所,おそらく、信仰の場所もしくは住んでいたところが存在するのでしょう。



サタヒコ、倭姫も最初はこの付近に滞在したと思います。

「天日別命」については、資料が見つかりません。なのでわかりませんけど、

サタヒコ達は、わりとすんなりと伊勢に上陸できたのではないかな?


さて、この砥鹿神社奥社~斎宮~飯野高宮神山神社のレイラインですが、

どういう順番で測量したのかと言う疑問があります。

今までの流れですと、レイラインの測量集団はサタヒコと共に行動をしています。

ブレーンなのでしょう。

そうすると、サタヒコ、倭姫と一緒に伊勢にやって来て、伊勢津彦にとって斎宮のどこかにあった

重要な場所から飯野高宮神山神社の場所を決めたと考えるのが適当と思います。

これで、飯野高宮神山神社と、斎宮の場所のデーターが手に入るので、後に砥鹿神社奥宮から

飯野高宮神山神社~斎宮のラインに繋げればできると思います。


しかし、この測量集団が伊勢津彦と共に伊勢から砥鹿神社奥宮に移動したならば、

その時にすでにレイラインが出来ていたことになります。


伊勢津彦が伊勢に居たときのレイラインが見つかれば後の説になりますけど、

今の所見つけていません。おそらくは最初の説の可能性が高いです。



さて、何度も見ているレイラインですけどもう一度



拡大します


非常に正確に、向かって左の社殿のおそらくは、八咫鏡が祀ってある位置にピタリ!

最初、このラインを見つけた時は、本当にこんなことがあっていいものなのか?と思いましたね。

でも、それからどんどんレイライン探しにはまっていきました。。。

それはさておき、倭姫命世記によれば、「飯野の高宮で四年間天照大神を奉斎された」とのこと。

当時は1年に2回年をとるので、今でいう2年間は、神山神社で八咫鏡を祀ったのでしょう。


その2年間で、内宮と、外宮(正確には御食殿)を建て八咫鏡を移動させます。

ここで、疑問が一つ。八咫鏡(やたのかがみ)は、内宮で祀られますけど、

天叢雲剣と八尺瓊勾玉はどうなっているのでしょうか?

外宮には何があるのか?

いかがでしょう?









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倭姫命伊勢に行く その 5 伊勢に到着

2021-10-17 06:25:30 | レイライン
当時(300年頃)の伊勢の様子は今の海面を3~5m上げたときと似ていると思います。
4m上げてみました。


斎宮~外宮~内宮は、船で移動したと考えるのが適当でしょう。

砥鹿神社 奧宮からのレイラインです。

詳しくは、「砥鹿神社~斎宮~神山神社のレイライン」で書いていますのでそちらをご覧ください。


拡大します

さらに



斎宮を通ります


神山神社本殿


なぜ、砥鹿神社 奧宮からのレイラインなのかについて、少し説明しましょう。

265年頃、伊勢津彦は美濃から伊勢にやってきました。

そして、伊勢を発展させました。

ところが、281年頃「天日別命」(アメノヒワケノミコト)がやってきて、伊勢を追い出されます。
こちら参考にしてください。伊勢津彦は誰?

伊勢津彦が去った後の伊勢 その1
(曙立王、その他について、少し間違っています。)


伊勢津彦は、船に乗り、伊勢から見た夏至の日の出の見える場所を目指して進みます。

たどり着いたところが、「御津神社(みとじんじゃ)」

こちら参考にしてください御津神社

一方サタヒコは、愛知県春日井市にある「高蔵神社」付近にいましたが、

伊勢津彦に合流するために出かけます。

二人は合流して、サタヒコが落ち着いた場所が「御舳玉神社」

位置関係はこのようになります。


その後、伊勢から見た夏至の日の出の見える場所に移動した場所が、砥鹿神社奥宮。

その山の名前が「本宮山」。

愛知県犬山市にある「大縣神社」の山の名前も「本宮山」です。

どちらもサタヒコが名付けたのではないかな?













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倭姫命伊勢に行く その4 さらに伊勢に向かって進みます

2021-10-16 05:50:40 | レイライン
次は、移田神社


そして、鬼太神社酒井神社川併神社、最後に斎宮に到着です。


川併神社には、後に再度訪問しています。ここにも山神様が居られたような記憶があります。

これらの場所をどうやって特定したかと言うと、川を探しました。

宿泊するには、飲み水が必要と思い海岸線から近い神社で、古い所を探します。

あれこれ捜していると、およそ20kmごとにそれらしき神社があることに気が付き、

それも踏まえて、絞り込んでいきました。もちろん他の所にもいろいろ訪問しましたけどね。

楽しかった~♪







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倭姫命伊勢に行く その3 津島神社、宇賀神社

2021-10-15 07:38:18 | レイライン

倭姫が伊勢に行く頃の海の状態はどうなっていたのでしょう?

まず、いつ頃なのか?前回、垂仁天皇の22年に犬山を出発したと書きましたけど、それはいつか?

302年頃と推測します。こちらを参考にしてください。まだ情報が少なかったころの記事ですので、間違ったところもあるかもしれません。ご容赦。

当時と今の海面の高さはほとんど変わらないそうです。でも、川が山から土砂を運び陸地が出来たため

海岸線は現在だいぶ沖に移動しています。

いつもの方法ですけど、海面を3~5mほど上げた状態が当時の海岸線と似ているようなので

その画像を見てみましょう。場所によって状態が違いますけどおおむねこんな感じです。

今回は控えめに3mだけ上げてみました。でも、今と全然違いますね。

犬山の出発地点から、大御霊神社までおよそ22km。

川を下るのでそれほど時間はかからないでしょう。

大御霊神社から津島神社まで約12km。もうここは海ですね。


地図の左下に 宇賀神社とありますけど、実際はもう少し南にあります。ちょっとだけ足らず・・・

津島神社から、宇賀神社までは、8.5kmぐらい。


当時、船を漕いで一日に進む距離は、20kmぐらいなのだそうです。

ちょうど、大御霊神社から宇賀神社までの距離になります。

津島神社は当時は本当に「島」なので、水の確保が出来ないかもしれません。

ならば、宿泊は無理だったかもしれませんね。休息のため立ち寄る場所かもしれません。

宇賀神社は、以前行きました。こちらどうぞ

ここから伊勢までは、すでに伊勢津彦が美濃から伊勢まで行くのに立ち寄った場所があるので

そこを利用したと思います。


グーグルの地図見られるでしょうか?
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