たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

石切劔箭神社上之社

2024-04-27 15:06:53 | 神社




祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子
「石切大明神」と総称される。


ここに来るまでの道が狭いんです。古道らしい。古いところは、何処もそうなんですね。



大阪の中心部でしょうか

当時は、この少し西まで海だったようです。






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高蔵神社

2024-04-17 08:06:06 | 神社

訪問した時は、桜がきれいでした。。。



都美恵神社から、15kmほどです。



階段を登ると


2本の杉が出迎えてくれます


樹齢は、500年以上でしょうか?久しぶりの巨木です。



祭神は、倉庫・延命長寿の神である高倉下命(たかくらじのみこと)

この神様がよくわからない

色々調べてみます

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祭神は「高倉下命」で神武天皇の窮地を救った神様。
尾張にある熱田神宮の摂社「高座結御子神社」に祀られている尾張氏の祖である。

この地域は高倉下命の七代の後の子孫「倭得玉彦命」がこの地に移り住み氏神を祀ったことを起源とし、自信の氏神を祀った。
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記紀によれば、東征中の神武天皇は熊野で悪神の毒気により倒れたが、高倉下が剣を献上すると覚醒したとされます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
社伝によると、高倉下命より七代目の子 倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコノミコト)が伊賀国に一族とともに移住してきた

倭得玉彦命が祖神である天香語山命を祀ったとするのが当社創建由緒。

垂仁天皇の御宇(帝王が天下を治めている期間)とし、貞観三年(861年)に従五位下の神階を授かる国史顕在社である。

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ここで、おいらが作った家系図を見てみましょうか


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
八御子・倭得玉彦命  (日本 得 魂 命)=天之御影神=天目一箇神 
       妹が 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーーーーーーー彦坐王             
                               ↓                 
                             サタヒコ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここにやってきた人は、サタヒコの母親の兄弟でしょうか。

垂仁天皇は、306年ごろに亡くなっていると思います。

倭姫が伊勢に行ったのは、297年頃と推測しますので、

その間に日本 得 魂 命はここにやってきたことになります。













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都美恵神社 その2

2024-04-17 05:03:00 | 神社
前回、伊勢津彦(=サホヒコ)は、美濃に行くとき以外、ここに来ることはなかったと書きましたけれど、

そうではなく、伊勢にいるときに、彼の生まれ故郷である奈良に行くことがあったのではないだろうか?

そうすると、このルートを通って、都美恵神社に滞在しているかもしれない。

その時には伊勢の辰砂を持って行ったと考えるのは妥当でしょう。

それを、崇神天皇が知り、辰砂を自分のものにしようと、伊勢の乗っ取りを考えたのかもしれない。


由緒をもう一度見ましょうか

 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。

伊勢津彦が、ここに滞在したのは、270年~280年ごろと推測します。

都美恵神社の起源は、そのころでしょう。

でも、中継地点としての機能はすでにあったと思います。



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都美恵神社

2024-04-10 08:48:40 | 神社





彦座王、サホヒコが奈良から美濃に来た道は何処だろうと思って地図を見ると、

木津川、柘植川、加太川、鈴鹿川を通ったのではないかと思い確認のため出かけました。



このルートでしょうか?

青い線の右端には、鬼太神社があります。

そこから西に向かうと、都美恵神社があります。






久しぶりの訪問です。







御由緒
 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。
因りて名を為しき云々」とあるこ とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた 神であることは事実のようだ。
 この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、
寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、
種々の古文書から明ら かであるし、
その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、
即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。
 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く 祀りつぎたいものだと思う。
村主 種次郎 記



この中で、伊勢津彦の名前が出てきますよね。石で城を作った場所がここだとは今まで気が付きませんでした。

でも、伊勢津彦=サホヒコは、いつ頃ここにやってきたのだろう?

美濃に行く途中、ここを通ったとは思いますけど、そのとき彼は、10歳ぐらいなので城を作ったのはその後のようです。

というよりも、彼が城を作ったという話は本当だろうか?

彼の足取りをしらべても、この地に来ることは考えにくいのです。

さらに、「もとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。」とありますが、彼女はおそらくサタヒコの母親でしょう。

そうすると、石の城はサタヒコが作ったのでは?

神社は、それ以前からこの地にあったと思いますけど。












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富雄丸山古墳その3 武内宿禰

2024-04-05 05:39:13 | レイライン

武内宿禰、いろいろ読み方があるようですけど、おいらは(たけのうちすくね)と呼びます。

以前このブログで書きましたけど、武内宿禰の祖先がサタヒコが率いる製鉄およびレイラインの測量集団かもしれないと

思っています。見つけました。こちらこちらです。参考になさってください。

景行天皇14年~ 没年不詳

317年ごろの生まれと推測します。

時代的には、富雄丸山古墳の被葬者といっても違和感がありません。

レイラインが、彦座王や、その息子のサタヒコ(猿田彦=ミカドワケノミコト)と関係してもおかしくはありません。

武内宿禰は、景行天皇の時代から仕えているので古墳の大きさからも適当と思います。

製鉄の技術を持っていたので、蛇行剣が見つかってもおかしくありません。

どうでしょうか?まだ調査が続いているのかな?ニュースが楽しみです。。。
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