たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

美濃のレイラインと夕田茶臼山古墳 その2

2020-09-11 05:47:59 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
美濃観音寺山古墳には、もう一つレイラインがあります。



大矢田神社(遥拝所・御旅所)と言う場所からの冬至の日の出のラインが、美濃観音寺山古墳です。

目視とみられるので、少し誤差があります






現在の、大矢田神社はこの場所の奥になります。

大矢田神社の歴史を調べると、

第7代 孝霊天皇の御代の創祀と言われます。

ちなみに

第8代が、孝元天皇  

第9代は、開化天皇 (彦座王の父親) 

第10代が崇神天皇(彦座王の異母の兄) 

第11代は垂仁天皇(彦坐王の子である比婆須比売命(ヒバスヒメ)は、皇后)

欠史八代と言われているのが、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことで、

現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と言われます。

そのことについては、確かめようがないので、とりあえず、以前作製した年表から孝霊天皇のおよその年代を割り出してみます。

135年頃に孝霊天皇生誕、そして160年頃に天皇即位、170年頃崩御
          
とまあ、およそですけど、160年のから170年までの10年間と言うことになります。

これも、参考にした資料がどの程度正しいのかわからないのでとりあえずの目安にしかなりませんけど。

ちなみに、美濃観音寺山古墳の出土品に方格規矩四神鏡という鏡があります。

これは、中国で制作されたもので時代は西暦8〜23年とのこと。

それから考えると、それほど時代がずれているということにはならないようです。

もうひとつ、出土品には翡翠製の勾玉がありました。

この時代に、すでに糸魚川の翡翠がこの地に運ばれていたことになります。



一方、夕田茶臼山古墳の年代はと言うと、こちらはかなり正確にわかっているようです。

出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀中頃と判明

とすると、美濃観音寺山古墳と夕田茶臼山古墳の時代は100年ほど開きがあります。

意外でした。おいらはもっと近い年代と予測していました。

美濃観音寺山古墳付近にはほかにもいくつかの古墳があるので、その中のどなたかと

夕田茶臼山古墳の人物が関係していたと考えたほうが良さそうです。


久しぶりに、大矢田神社に行ってきたんで画像を載せます。
















中央の山頂あたりが、観音寺山古墳のあった場所と思います。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小滝川ヒスイ峡のレイライン

2020-09-07 13:39:50 | レイライン
小滝川ヒスイ峡とは、こちらの説明が見やすいと思います。



本来は、砥鹿神社 奧宮からの大国主(大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)

と、朝廷別王の足跡を説明しなければいけないのですけど、場所の特定がなかなか出来なくて

1年以上過ぎてしまっています。

簡単に言うと、天竜川をさかのぼって諏訪湖に着きます。

諏訪大社の前宮は、タケミナカタの住まいと考えます。

大国主は、さらに日本海に進み、高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われている奴奈川姫を妻にしています。

これって、一般に言われていることと進行方向が逆ですね。

古事記、日本書紀は、大和朝廷に都合のいいように書かれているようです。

大国主は、伊勢、そして三河本宮山 、諏訪を通り、高志国(糸魚川付近)に行ってるようです。

じゃあ、出雲はどうなってるのだ?とおしかりを受けると思いますけどそれについては後ほど・・・


まだ諏訪付近ではレイラインを見つけられずにいます。

佐久間ダム付近では確認できています。



朝廷別王が率いる測量集団の作るレイラインは、恵那山より北では見つけることが無いだろうと思っていました。

でも、翡翠の地でそれがあったので驚いています。

簡単に足どりを地図で見てみましょうか



当初、朝廷別王とレイライン測量集団は長野県飯田市府付近の天竜川から岐阜県中津川市にある木曽川

に行くため恵那山を越えたと考えていました。

その時に出来た道が、東山道の恵那山越えで、御坂神社はその中継点と思っていました。


ところが、砥鹿神社や、伊勢、尾張のレイラインを測量した技術集団は、

翡翠の産地である 新潟県糸魚川市の小滝付近で測量しているようなのです。



最初、このページの一番上にある地図の「小滝川硬玉産地」を基準に調べていたので、どうしても誤差が出ていました。

ですから、目視による誤差と思っていたのですけど、先日現地に行って考えが変わりました。

すごいスケールなんです

日本最大の石灰岩壁とのこと

画像ではわからないですね


400m以上の絶壁。フォッサマグナのために作られた地形のようです。

「小滝川硬玉産地」と言うのはまだ最近発見された場所なので、もう少し範囲を広げたところから見たレイラインがあるのじゃないかと思い、再度調べてみました

すると、驚くほどピタリと一致するレイラインが見つかりました!

小滝川ヒスイ峡から、小滝川を2.5キロほど下った所に、小滝 諏訪神社があります。

おそらくここが、小滝川ヒスイ峡へ行くための基地ではないかと思い出かけました。

細いですけどコンクリートで舗装されている道を行くと



グーグルの地図には道は載っていません。

鳥居をくぐると、右には階段があります



巨木も出迎えてくれます




ひすい峡の方角は?

木が無ければ見えるかも

裏に回ると、その上にさらに


昔からの祠の場所なのでしょう


レイラインを見てみましょう

A地点と言うのは、ヒスイ峡付近の場所で、夏至の日の出が小滝諏訪神社を通るところの起点です。





A地点より、直線で46kmほど東南に 伊豆毛神社 (長野県長野市豊野町豊野)と言う所が
あります。



地図を載せておきます。ですけど、こちらには名前が出ていません。参考までに。


そして、この伊豆毛神社の旧地からの夏至の日没のラインを見ると



さきほどのA地点にピタリと一致します。




伊豆毛神社南西に約10kmには、風間神社といって御祭神には伊勢津彦命が祀られています。

伊豆毛神社から別れた神社かもしれません。

なぜこの地なのかはわかりませんけど、推測すると諏訪から北上するのに「犀川」を来たのではないかと思うのです。

姫川には直接行くことは出来ません。ルートはわかりませんけど、ここから日本海へ向かっていると思います。

日本海側の何処にいたのか、いろいろと探しているとある伝説を見つけました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

権現(ごんげん)岳は、奴奈川姫の旧跡で、

今の宮地は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の住まれた所だという伝説があるそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮地を探しましたけどわかりません、でも、代わりに「五社神社」がありました。

五社神社は、朝廷別王とは関係の深い神社です。



きっと、ここに住んでいたのでしょう。大国主もきっとこの近くにいたと考えられます。

奴奈川姫の産所と言う場所もこの近くです。




話をもどして、A地点は何処なのか?

google地図の画像に場所を書き込むと



おそらく

ここの頂上では?

非常に納得のいく場所です。

もう一つ、レイラインを発見しました。

小滝 諏訪神社からのレイラインです。


小倉明神と書いておきました。ちゃんとした場所はわからないのですけどこの近くの「白池」

付近と言うことです。

どんなところかと言うと、式年薙鎌打神事といって、

古来より7年に1度、諏訪大社の御柱祭りの前年に行われてきた神事だそうです。

丑年は戸土中股、小倉明神、未年は戸土境の宮の神木に薙鎌を打ち込む。

これだけでは分かりませんよね。リンク先をいくつか

こちらも

御柱祭で使う木を見立て、薙鎌を打つと諏訪明神が宿り、ご神木になるとのこと。

小倉明神は、その行事の最初の場所と言うことのようです。

このレイラインを制作した時代は、285年頃かと推測します


薙鎌とはこちら参考にしてください

これを見て、猿投神社の左鎌を連想しませんか? 朝廷別王との関係があるように思います。

朝廷別王とレイラインの測量集団はおそらく行動を同じくしているものと思います。

まだ、朝廷別王は若いので測量集団がいろいろなことを教える教育係を兼ねているのではないでしょうか?

このころは、まだ彼は20歳になっていないでしょう。

彼はこの地から何処に向かったのでしょうか?




気になることが2つほどあります。

一つは、式年薙鎌打神事で、「猿田彦」が出てくるのです。

こちらの、中谷大宮諏訪神社にも出てきます

この時はまだ、倭姫は伊勢には行っていません。

まだ幼い頃でしょう。( 0~5歳ぐらいと考えます)

倭姫命が天照大御神を奉じて鎮座の地を求め伊勢に到ったおり、五十鈴川上の地を教えた神は、

大田命といって、猿田彦の子孫もしくは猿田彦の別名と言われています。

そして、左鎌の猿投神社。どちらも「猿」・・・偶然か?

猿田彦=朝廷別王 ならば、伊勢のレイラインはこの翡翠峡の後に、同じ測量集団が作成したものと

考えられます。



もう一つは、大国主の息子であるタケミナカタは、諏訪に住み着いていますけど、その兄である

事代主神(コトシロヌシ神)は何処にいる?

おそらくは、父である大国主と行動を同じにしているのではないかと考えます。

どちらのことも、推測に過ぎないのですけど何かわかることがあったらさらに楽しくなります。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする