たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

下御井神社

2022-10-31 05:14:25 | 猿田彦


外宮の一番奥になるのですね。

といっても、土宮、風宮のある広い場所から細い道を50mぐらい奥に行った所にあります。


小さな社


すぐ後ろを沢が流れています。このあたりで、鍛冶を行っていたのでしょうか。






多賀宮は、土宮、風宮のある広場から坂を登ります


多賀宮の写真撮るの忘れた・・・

帰りの画像


もう一度、下御井神社に戻り多賀宮の位置を確認すると


すぐ上にその場所があります。

やはり、見張るための場所でしょうか?





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度会国御神社

2022-10-30 05:20:37 | 猿田彦
外宮の北御門を通り、50mくらい行くと右に行く道があります。その先が、大津神社ですが

その途中にあります。


ここは、まったくのノーマークでした。後にどういう所か調べました。

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御祭神は彦國見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)。

鎮座地である度会国の守護神で、代々外宮の祭祀を務めてきた度会氏の始祖、

天日別命(あめのひわけのみこと)の子とされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

驚きましたね。天日別命は、伊勢津彦を追い出した人ですよ! なんでここに祀られているんだ?

最初の場所は、山田前田村とか。何処でしょう?山田駅のある所付近でしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中世には世義寺が境内に建てられたことにより一時祭祀が断絶するが、江戸時代の寛文年中(1661年 - 1672年)に世義寺が移転し、当社の神霊も同地に遷された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と言うことは、江戸時代にここに移って来たということでしょうか?

1500年近く過ぎてからこの地に来たということでしょうか。

それにしても、複雑な関係です。


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大津神社

2022-10-29 05:56:10 | 猿田彦

大津神社の祭神は葦原神(あしはらのかみ)です。もとは五十鈴川の河口にある港町の神社(かみやしろ)や大湊の守護神





周りには巨木がいっぱいです。


この先に上御井神社がありますけど、立ち入り禁止で行けません。




上御井神社を、鍛冶を行う場所とすると、大津神社は鉄製品、辰砂の保管場所でしょうか?


志等美神社から上御井神社は、950mぐらいの距離です。

上御井神社と大津神社の間は、200mぐらい。

伊勢津彦の住居が大津神社だろうか?
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志等美神社に行ってきました

2022-10-28 05:47:32 | 猿田彦




標高 約8.3m 湊ではないですね。



二の鳥居をくぐると、打掛神社があります。


すぐ隣に、志等美神社と大河内神社



この場所から、一段上がった所に上社があるのです


宮川の反対岸からの景色です。



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箸墓古墳

2022-10-27 06:03:34 | レイライン


とにかく大きい!遠くから見たら、普通の山と思いました。

車で、2回ほど周りました。


左下にある鳥居が正面です




後円部


よくこんなに大きいもの作ったなぁ・・・

こちら参考にしてください。

箸墓古墳その2
 斎宮歴史博物館に行ってきました
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牛頭天王

2022-10-25 05:44:48 | Weblog
前回、「牛頭天王」と言う人物の名前が出てきました。気になっていたので調べました。

時代はかなり後のようです。どうも、スサノヲに牛頭天王を、かぶせた物語のようですね。

物語については、長くなりますので、ウィキペディアの牛頭天王をご覧ください。

短めの説明がありました。日本大百科全書(ニッポニカ)「蘇民将来」の解説より引用です。
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蘇民将来
そみんしょうらい
説話の主人公の名、転じて護符の一種。『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文によると、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯(あわめし)などを御馳走(ごちそう)になった。そこでそのお礼にと、「蘇民将来之(の)子孫」といって茅(ち)の輪(わ)を腰に着けていれば厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。民俗ではこの神は祇園牛頭(ぎおんごず)天王とも習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也(なり)」などと書いた護符の類を蘇民将来といっている。伊勢(いせ)地方などでは家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連(しめ)をかけて災厄除(よ)けとしている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

茅の輪くぐりの習慣は、ここから出来たものらしいです。
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志等美神社

2022-10-24 08:40:15 | 猿田彦
以前、外宮の場所で書いていますが、志等美は、美濃、もしくは春日井の志段味と同じです。

「水に浸る」「水に浸かって濡れる」と言う意味だそうです。

美濃と春日井は、砂鉄が採れる所と思います。

伊勢の場所は、美濃、そして春日井から製鉄で出来た鉄の素材の保管場所でしょうか?

志等美神社の祭神は、久々能智神(くくのちのかみ)

大河内神社 は、 大山祇命(おおやまつみのみこと)=川上摩須(カワカミマス、サタヒコの母親の父)

打懸神社 は、 打懸名神  これは誰でしょう?  大山祇命の妻でしょうか? 

久々能智神がどういう神なのかは、やはり分かりませんね。


上社は、八王子社や牛頭社とも称されていたそうです。

牛頭天王(ごずてんのう)とは、スサノオの事です。つまり、彦坐王(サタヒコの父)です。

古事記では、 旦波比古多々須美知能宇斯王 タンバヒコタタスミチノウシ 

日本書紀では、 丹波道主王 タンバノミチノウシ と呼ばれています。

ひょっとすると、牛頭の「ウシ」の呼び方は、「ミチノウシ」から来ているのでしょうか?

彦坐王の棺のあった場所に、書いていますけど「天王社」の祭神は、牛頭天王・スサノオと言われます。おいらの推測では、スサノオ=彦坐王です。確率はかなり高いと思います。

すると、この「上社」一帯は彦坐王が築いた場所なのかもしれません。

残念ながら、その当時の場所は特定できていないようです。

乱暴な推測ですけど、久々能智神は、
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一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この家系の最初の人物である、「天香語山命」の事だろうか?
 




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久久能智神

2022-10-23 06:23:27 | 猿田彦
伊勢の話に戻ります。

上社、志等美神社、大河内神社、打懸神社について少し調べてみたいと思います。


上社と他の神社の違いが少しわからないのですけど、それはそのままにしておいて話を進めます。


祭神は、久々能智神・大山祇神・埴安神・宇迦之御魂神とされますが、古くは「八王子」または「牛頭社」と呼ばれたそうです。

國學院大學 古事記学センターより引用させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
久々能智神の名義は、ククを、茎の意と取る説と、「木木」の古形と取る説とがある。ノは助詞、チはヲロチ・イカヅチなどのチと同じとされ、精霊の意、あるいは霊力あるものの尊称などとされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

埴安神・宇迦之御魂神は、後から祭られたと思います。

大山祇神は、サタヒコのおじいさんであるカワカミマスでしたね。

でも、久々能智神が誰なのかが分からない。


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佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)のレイライン

2022-10-22 05:16:21 | レイライン
すでに、一度調べていますけど、もう一度検証してみましょうか。

以前は、愛知県春日井市にある高蔵神社からの冬至の日の入りのラインを調べましたけど

少しずれていました。今回は、その少し南にある「途中の祠」から見てみます。

上にある赤い地点が高蔵神社です。




佐紀石塚山古墳の真ん中を通っていますね。佐紀陵山古墳が、削られているそうなので

そちらの方が、数十年早いそうです。

まだ、この古墳が誰のものかは、はっきりしないようです。

おいらも、なんで途中の祠からのラインがここを通るのか、分かりません・・・



それにしても、すごい精度です。

高蔵神社の「途中の祠」から、佐紀陵山古墳まで、直線距離で約 131km。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)までは、162km。


青塚古墳が4世紀中ごろの築造なので、佐紀陵山古墳は、サタヒコより1~2世代後のように思います。

つまり、サタヒコの姉のヒバスヒメの古墳と言う可能性は低いです。


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ヒバスヒメの陵墓

2022-10-21 05:48:23 | 猿田彦
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)が、ヒバスヒメの古墳と言われます。


作られた時期は、4世紀後半~5世紀前半とされています。

しかし、ヒバスヒメは、306年ごろに亡くなっています。(44歳ぐらい)

時代が合わないですよね。それについては、ある指摘があります。

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タジマモリは、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「橘」を求めに常世の国に派遣された。
しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。
翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は「橘」を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺した
タジマモリはすでに崩御していた垂仁天皇の墓前に半分、もう半分をヒバスヒメに献上している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらは、景行天皇元年を310年頃と考えます。

ヒバスヒメは、306年ごろに亡くなっていると言われます。(44歳ぐらい)

これがおかしいということです。ヒバスヒメは、垂仁天皇よりも長生きしていなければ「橘」を受け取ることが出来ないはず。とのことです。

まあ、この説も、ヒバスヒメの墓前だったとも考えられますけどね。

310年には、ヒバスヒメは48歳と言うことになります。でも、佐紀陵山古墳のつくられた

4世紀後半とは、ずれがあります。古墳を作るのに20年かかったとしても、350~360年頃に

亡くなっていなければ時代が合いません。

これも、C14年代測定による年代の誤差なのでしょうか。

青塚古墳は、4世紀中頃に出来ていますので、ヒバスヒメの古墳もその頃でなければおかしいです。

それとも、ヒバスヒメはすごく長寿だったのでしょうか?・・・


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宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)

2022-10-20 04:59:56 | 猿田彦
宇迦之御魂神は、サタヒコの姉の「ヒバスヒメ」と言う意外な展開に驚いています。

宇迦之御魂神について、少し調べてみましょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウィキペディアより引用します
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである(後述)。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。

『古事記』では、須佐之男命の系譜において登場し、須佐之男命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれている。同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がいる。大年神は一年の収穫を表す年穀の神である。

平安時代の『延喜式』(大殿祭祝詞)には、トヨウケビメの別名ともされる

御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)。御稲御倉の守護神である。
平安時代の『大治御形記』には保食神(うけもちのかみ)とあり、鎌倉時代の『神名秘書』ではウカノミタマとする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「御倉神(みくらのかみ)として祀られた」 とありますけど、これが本来の呼び方でしょうね。

内宮の場所です


外宮には、宮川の西岸の「小俣神社(おばたじんじゃ)」に、祀られています。

トヨウケビメの別名とありますけど、

トヨウケヒメは、アジサハヒメ=アメノウズメ(サタヒコの妻)、と思いますので

サタヒコの姉である、ヒバスヒメと混同しているのではないかな?

「同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がいる」これは、兄と弟が入れ替わっていますね。

まあ、おいらの信じている説も本当に正しいのかと言われれば、

確かめようがないとしか言えませんけどね・・・

些細なことはともかく、おおざっぱな流れは、レイラインに沿って解釈しているので

それほど間違いはないと考えています。

現在言われている説とは大きく異なる所がありますけど。



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猿田彦の伊勢での時間 その12 誰の御霊

2022-10-19 05:19:53 | 猿田彦
八尺瓊勾玉に宿っているのは、誰の御霊でしょう?

気になるのは、御所の「剣璽の間(けんじのま)」に

神剣(天叢雲剣の形代)と神璽(八尺瓊勾玉)が安置されているということ。

セットになっています。

八尺瓊勾玉が、神器になったのは後の事らしいです。

それまでは、三種の神器ではなく二種の神器とのこと。神剣とセットとして扱われていたのかもしれない

サタヒコ達が伊勢に行った時、三種の神器は最初、斎宮のレイラインの交差する場所に置かれたかもしれません。

その後、飯野高宮神山神社に祀られたと考えます。

宿っている御霊は

八咫鏡は、天照大神=伊勢津彦=サホヒコ

天叢雲剣は、スサノヲ=彦坐王

以上の事を考えると、尺瓊勾玉の御霊は、サタヒコの母親しかいないでしょう。

何回もここで書いていますけど、サタヒコの父親である、彦坐王をスサノヲとするならば、

母親は、クシナダヒメになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本書紀では、須佐之男命(スサノオ)は、大山津見神の娘にあたる神大市比売(カムオオイチヒメ)も妻の一人とした。

その神大市比売(カムオオイチヒメ)は、稲の神である大年神(オオトシノカミ)と

食物の神様である宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を生んだと書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大年神=サタヒコです。

大御霊神社の祭神は、「大歳神之御子」

田縣神社の祭神は、御歳神(みとしのかみ)と玉姫命(たまひめのみこと)
 
御歳神は、大年神の子です。ですから、大年神=サタヒコで間違いないでしょう。

そのことから、神大市比売=クシナダヒメと考えていいと思います。

すると、大山津見神は、カワカミマスになります。




どうでしょう?これで。   尺瓊勾玉の御霊は、サタヒコの母親で、

クシナダヒメということでいいのでは?

ですから、いつもいっしょに祀られている。

さらに、伊勢の「櫛田川」の名前も、サタヒコの母、本人の名前が使ってあるということで

納得できます。

倭姫が、櫛を落としたからじゃありません・・・

もしかしたら、皇室の人々は、この事をご存じなのかもしれない。  
     

一つ気になる事があります。

神大市比売(カムオオイチヒメ)は、稲の神である大年神(オオトシノカミ)と

食物の神様である宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を生んだとありますが、

宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)は誰?

サタヒコのお姉さん?  ヒバスヒメ?


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猿田彦の伊勢での時間 その11 八尺瓊勾玉

2022-10-18 05:04:46 | 猿田彦
外宮については、以下のように言われています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
478年(皇紀1138)、雄略天皇 即位22年(崩御の前年)に伊勢神宮外宮を建立したと伝えられる。

豊受大神を丹波国の真奈井原(まないはら)から伊勢山田原へ、天照大御神の食事を司るための神として遷座したことが起源
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前にも書きましたけど、おいら、勘違いをしていたみたいです・・・

三種の神器で御霊を宿したのが

八咫鏡は、天照大神=伊勢津彦=サホヒコ(当時は、天照大神と言われていたのかどうかは不明です)

天叢雲剣は、スサノヲ=彦坐王

尺瓊勾玉ですけど、これをアジサハヒメと思っていましたけど、どうも違うようです。

アジサハヒメ(アメノウズメ)の御霊は、丹後に居たままだったようです。

そうすると、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)には誰の御霊が宿しているのでしょう?

以下、八尺瓊勾玉についていろいろ調べてみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
八尺瓊勾玉は、玉造部(たまつくりべ)の祖神である玉祖命(たまのおやのみこと)が

作ったものとされ、八咫鏡とともに榊(さかき)の木に掛けられた。


現在では、御所の天皇の寝室の隣に土壁に囲まれた塗り籠めの「剣璽の間(けんじのま)」があり、

そこに神剣(天叢雲剣の形代)と神璽(八尺瓊勾玉)が安置されている。


皇居・賢所にある鏡と御所にある剣は「形代(かたしろ)」ですけど、尺瓊勾玉は、本物。

大きさは、子供の頭ぐらい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうでしょう?    なにかわかります?

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猿田彦の伊勢での時間 その10

2022-10-17 05:14:27 | 猿田彦
以前、その6で本宮山山頂から坂田宮のラインの測量が、伊勢に行く前かもしれないと書いています。


そこで、ふと思いついたのですけど、稲沢市にある「大御霊神社」が、本宮山山頂から見た冬至の

日の入り上にあります。


この測量もこれでもかと言うくらい正確です。



驚きです

本題はこれからです。この大御霊神社から見た夏至の日の出のライン上に大縣神社の本殿があります。

本殿のど真ん中ですよね!


この測量の順番は、今書いた以外では出来ないと思うのです。

本宮山山頂は、場所を移動することが出来ないので、最初でしょう。

そして、そこからのライン上での大御霊神社以外の場所では

大縣神社の本殿のラインは出来ないと思うのです。

大縣神社は、伊勢から帰ってから出来たもの。

つまり、本宮山山頂からのラインはサタヒコが伊勢に行く前に出来ていたということになります。

そうすると、坂田宮は白髭神社が出来てから、サタヒコが尾張に帰ってくる間に出来た可能性が高いと思うのです。

大御霊神社については、あらかじめその場所に伊勢に行くときの、中継基地としての機能を持たせていたのかもしれません

名前がすごいですよね。「大御霊」ですからね。誰の御霊だろう?







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猿田彦の伊勢での時間 その9

2022-10-16 05:16:42 | 猿田彦
サタヒコ達は、籠神社からどのようなルートで犬山の東之宮に来たのでしょうか?

白髭神社から日本海への道はまだ出来ていないと思います。

古くからの道、彦坐王が通った道を進んだのでしょう。

川に沿っての道と思います。まず、野田川を遡ります。そこには、後に蛭子山古墳が出来ます。

さらに遡って峠に出ます。そこから今度は、「雲原川」を下ります。

宮川と合流する所に、「豊受大神社」があります。この神社は、雄略天皇の時に出来たもののようです

さらに進み「由良川」に出ます。そこを遡ります。

「高屋川」に分かれます。そこを進みます。その後が良くわからないのですが、「胡麻分水嶺」を通り

「桂川」に出ます。「大堰川(おおいがわ)」と名をかえます。

すると、「出雲大神宮」に到着です。

おそらく、このルートが、当たらずとも遠からずでしょう。途中、それらしき神社もあります。

出雲大神宮からの道が分かりません。今後の課題にしておきましょう。

その後のルートは、赤丸に近いルートと思います。







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