たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

彦坐王の子孫

2019-06-07 06:56:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

次のようになります

彦坐王=丹波道主として書いたものです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  「妻」             「子」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

荏名津比売(苅幡戸弁)    大俣王、小俣王、志夫美宿禰王


沙本之大闇見戸売       沙本毘古王、袁耶本王、沙本毘売命(佐波遅比売)、室毘古王


息長水依比売         丹波比古多々須美知能宇斯王、水穂之真若王、
    
               神大根王(八瓜入日子王)

                水穂五百依比売、御井津比売


袁祁都比売命         大筒木真若王、比古意須王、伊理泥王


丹波之河上之摩須郎女     比婆須比売命・真砥野比売命・弟比売命・朝廷別王

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大俣王の子には、曙立王(あけたつのみこ)伊勢の品遅部君、佐那造の祖


        菟上王 (うなかみのみこ)比売陀君の祖   がいます。


    曙立王は、伊勢に派遣されており、三重県多気郡多気町の佐那神社に祀られています。




沙本毘古王(さほひこのみこ)は、日下部連・甲斐国造の祖

      垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。

      叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。

沙本毘売命(さほひめ)垂仁天皇皇后




神大根王(かむおおねのみこ)は三野(美濃)・本巣の国造



妃である袁祁都比売命は、彦坐王の母の意祁都比売命の妹(そのまま解釈して良いのか?)

  子孫に息長帯比売命(神功皇后)がいます。





 比婆須比売命は、垂仁天皇の皇后
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大縣神社奥宮

2019-06-04 06:31:24 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の頂上からはどんな景色が見られるのか、気になったので出かけました。

6年ぶりの訪問です。




三の鳥居まで、大縣神社より15分くらいかかるでしょうか、坂道がややきついです。




その鳥居の東側に、古道らしき道があります。



この道が、東山道から来る道と思われます。



地図には載っていないので、以前、ほかの道をこの道と勘違いして歩き回ったことがあります。

ですから、この道は、まだ探索していません。

今日も時間的に無理のようです。次回ですね。

目指すは、頂上です。



最初に、到着するのがここです。








次は、山姥の祠(やまんばのほこら)・・・・これって何だろう?






最後に、数分で到着です



祠が新しくなっている?







南東に目を向けると




少し大きくして



真ん中やや右の山が東谷山でしょう。

その左が、猿投山ではないでしょうか

なんとその後ろには、三河の本宮山が見えます。

尾張の本宮山から三河の本宮山が見えるのですね!

肉眼で、頂上の鉄塔も確認できます。

風がすごく心地よいです。。。

しばらく景色を見て、のんびりしていました。




犬山の方を見ると


東之宮古墳のある山も近くに見えます


金華山も見えますね



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張戸神社からの景色

2019-06-02 05:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

 尾張戸神社から見る山はどのように見えるのか?

今まで、何度も出かけているのにあまり気にしたことがない




展望台があるのですけど、西の方しか見られません。

あいにく、もやがかかっていて遠くは視界がよくいありません。

神社の東側は、最近いすやテーブルが出来てしかも良い景色が楽しめます。

こんな感じ


この山は、猿投山ですね。

こんなに近くに見えるんだ。

そりゃぁ、出かけたくなるはずだ!

少し右の方の奥を見ると、


わかりますかね?

肉眼だとよくわかるのですけど、高い山が見えます。

おそらく、三河の本宮山と思われます。

ここから、見えていたんだ!

朝廷別王は、穂国造といわれ東三河一帯を支配したと言われています。

尾張は、自分の子や孫にまかせたのでしょうか?

東三河の開拓は、「大国主命=伊勢津彦」と一緒におこなったのでしょうか?

さらに、豊橋には「高師小僧」という褐鉄鉱の団塊が産出するそうですけど、それを使って製鉄をしたのでしょうか?

高師とはこのあたりなのでしょう


高師小僧とは、すず鉄と同じようなものなのでまず、間違いなく製鉄を行っていると思われます。



一説には、その褐鉄鉱、もしくは砂鉄を探し求めて、天竜川をさかのぼっていって、

たどり着いたのが諏訪だったという話もあり、非常に興味深いです。



ここからは、妄想です。

彦坐王ファミリーは砂鉄を使って製鉄をしていたとすると、原料は尾張戸神社の北側、

愛知県の春日井市高蔵寺付近から小牧市桃花台にかけての場所で、砂鉄が採れたようです。

砂鉄から出来た鉄は、褐鉄鉱からできたものより硬いそうで、武器に使用した場合

砂鉄から出来たものの方が有利になります。


草薙の剣は、もしかすると砂鉄から出来ているのでしょうか?

彦坐王ファミリーが制作したものならば、熱田神宮にあるというのもうなずけます。



ここまで書いた、「美濃、尾張、三河の神社とレイライン」を読むと、出雲の国譲りの場所が

出雲ではなく、伊勢ではないかとも思えてきます。

あまりにも話が似ていますよね。


それと、伊勢津彦は誰なのか?

彦坐王ファミリーの誰かなのか? 朝廷別王と、三河の本宮山で合流することを考えると

そう考えるのがすんなり来るのです。

次回からは、伊勢津彦は誰なのかを、考えていきたいと思います。


以上、妄想を終わります・・・



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする