たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

美濃のレイラインと夕田茶臼山古墳 その1

2020-07-22 04:56:51 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
美濃のレイラインについてあまり書いてませんね。

以前、喪山ではご紹介しました。

観音寺山古墳については、こんな感じです


おそらく、目視なので標高差による誤差があると思われます。

どういう事かと言うと



お分かりいただけたでしょうか?

ですけど、今まで尾張でご紹介してきたレイラインについては、このように直接見るという観測の仕方では無いようなのです。

おいらが、ここで使わせてもらってる「日の出日の入りマップ」は、おそらく

水平線からの日の出,日の入りだと思います。

尾張のレイラインについては、そのマップと全く一緒の結果が出ます。

古代において、すでにそのような水平線から日の出,日の入りを観測できる技術を持った集団がいたようです。

古代の、航海するために考えられた技術でしょうか?

どのように計測しているのだろうか?

全く分かりません。  

星を使っているのかなとも推測しますけど、それ以上は進めません・・・

もしそうなら、地球の歳差運動のため、数百年後には誤差が生じて使えなくなることも考えられます。



今までの流れで推測すると、その集団は、彦坐王と共に移動していたようです。

以前書いた「伊勢神宮内宮のレイライン」もその集団が測量したものでしょう。

その後、彼の子である 朝廷別王 (みかどわけのみこ)とも一緒に行動していたようです。

以前書いた 「斎宮の場所」 にある、 砥鹿神社奥社→斎宮→飯野高宮神山神社のレイラインもこの集団によるものでしょう。

おいらが今まで調べた内で、この技術を使った最後のレイラインは、氷上姉御神社から見た猿投神社です。時代は、景行天皇のころと推測します。


伊勢津彦(おそらく狭穂彦王)が、砥鹿神社奥社から天竜川を登り諏訪に至る途中までこの集団の足跡があります。朝廷別王もいっしょに居たのかもしれません。



さて、話をもどしましょう。

前回は、 岐阜県美濃市大矢田にある喪山天神社からの冬至の日の入り線上に

岐阜県不破郡垂井町の、喪山古墳があるということをご紹介しました。

これも、目視のため標高の誤差があります。

でも、かなりの精度と思います。

さて、ようやくタイトルに出てきた、夕田茶臼山古墳ですけど、これも大矢田の喪山天神からの冬至の日の出の線上にあります。


喪山天神からの計測の場所は







ここです

喪山天神の本殿ですね。

夕田茶臼山古墳の地図です



夕田茶臼山古墳の画像です







夕田茶臼山古墳については、最初おいらは彦坐王と同じ時代ではないかと思っていたのですけど

どうも違うようです。

それより少し時代をさかのぼるようです。

さて、少し長くなったのでいったん筆を置き、

次回では時代、そして地形、東山道とも絡めて考えたいと思います。
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大湫神明神社の大杉が大雨の影響で倒れたようです

2020-07-12 18:16:44 | 巨樹、巨木
岐阜県瑞浪市の大湫神明神社の大杉が大雨の影響で倒れたようです


地図です



湫神明社は何度も訪問しています。

一番最初に見た大杉なんです。

元に戻せないか?・・・・無理だろうね・・・ お別れした巨木は、これで何本目だろう。 さみしいね。
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思わず笑ってしまった。。。

2020-07-11 15:00:21 | Weblog
ある本を読んでいたら、思わず笑ってしまいました。

以下の文章です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
子供 の とき に こんな 小話 が あり まし た。

小学生 の 友達 同士 の 会話 です。

「僕、 船乗り になり たい ん だ けど 泳げ ない ん だ よ なあ……」

「心配 ない よ。 僕 の お父さん、 パイロット だ けど 空 飛べ ない から」


細谷 功. メタ思考トレーニング 発想力が飛躍的にアップする34問 PHPビジネス新書より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

尾張、岐阜、美濃の古代についていろいろと面白いことが分かってきて、各地に出かけていますけど

なかなか筆が進みません。

そろそろ書かなければ・・・

東山道飛騨支路 についても、古道は今回の大雨で氾濫した飛騨川に沿った道と推測します。

船を使ったのかどうかまではわかりません。

その後、両面宿儺の話が出るころ(おそらく400~450年頃)

には、大和政権による東山道が出来たようです。

話を戻して、飛騨川沿いの古道は、糸魚川付近でとれる翡翠(ひすい)の流通のための道と考えられます。

飛騨川には「飛水峡」という場所があります。これって最初は「翡翠峡」じゃなかったのだろうかとも思うのです。

愛知県犬山市にある東之宮古墳からは、ひすい製勾玉3点が出土していることから、

ここを通り岐阜経由で関西に翡翠が流通した可能性もあります。

帰り道は、ショートカットしてもっと北を通ったかもしれません。

話をまとめたいのですけど、ストーリーが長すぎて・・・ 途中で予測してなかったことが分かったりして

現在再調査中です。
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