たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

丹後半島のレイライン その6  籠神社(このじんじゃ)

2021-08-31 05:13:16 | レイライン




写真撮影は禁止なんですね。だからこれ一枚だけです。

ここから歩いて、眞名井神社まで行きました。



ここも、撮影禁止のようです。



さて、もう一度レイラインを見てみましょうか


涌田山古墳より前の時代に籠神社があったとは考えにくいですね。

衆良神社からの夏至の日の出のレイラインが最初で、古くから関係のあった場所に

涌田山の古墳を造った。そこからの冬至の日の出のライン上に籠神社を建てた。

そう考えるのが矛盾が無いように思います。

おいらの考えが足りなくて、他の説明があるかもしれませんけど、

まあ、この流れで考えを進めていこうと思います。

眞名井神社の方には、レイラインが見つかりません。

というか、疑わしいのがあります。眞名井神社(籠神社奥宮)から見てみます。


船岡神社、比沼麻奈為神社の近くを通ります



春分の日のラインが通る場所ですけど、かなり広い地域を「五箇」と呼びます。


このラインの表すところのどこかに、何か関係する場所があるのかもしれません。









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丹後半島のレイライン その5

2021-08-30 05:54:13 | レイライン
丹後半島のそれぞれの古墳の位置を見てみましょうか。


網野銚子山古墳と、神明山古墳は海沿いにあります。

蛭子山古墳は、海に面していませんね。ひょっとすると陸路で近江、もしくは奈良方面に行く道沿い
かもしれない。

ざんねんながら、どの古墳もレイラインを見つけることはできませんでした。



以前の表と三大古墳を合わせてみます


いろいろな資料から、このような年代の順番としました。

網野銚子山古墳と、神明山古墳は順番が入れ替わるかもしれません。

とりあえず、これで推測すると、昼飯大塚古墳と、蛭子山古墳の被葬者は、兄弟かもしれない。

網野銚子山古墳と、神明山古墳の被葬者は、兄弟もしくは親子と推測します。

詳しい資料が無いので深くは踏み込めませんけど、血縁関係にあることは可能性として十分考えられるでしょう。











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白龍神社

2021-08-29 16:35:16 | 神社
息抜きに、行ってきました。

今回は、岐阜の白龍神社

岐阜県揖斐郡揖斐川町日坂1506




地図には、「白龍龍王大神」と表示されてますけど、白龍神社に祭られている神様が

「白龍龍王大神」ですね。白龍は女性の神様で、龍王は男性の神様のようです。




ちなみにここの標高は 606m。

このあたりは、巨木がいろいろあるので巨木巡りをしているときにうろうろしたことがあります。

白髭神社(しろひげじんじゃ)を探しているときに、字が似ているので印象に残っていて一度訪問したいと思っていました。

お金の神様と言うことなので、行かない手はありません!

かなり山奥のようなので、たどり着けるか心配でした。



でも、予想と違ってあっさりと到着。祠の前に車を止められます。

近くにも、数台駐車することが出来ます。




祭神の「白龍龍王大神」を調べてもよくわからないんです。

「白龍神社」で検索すると、名古屋にあります。名駅のすぐ近くのようです。

そこの祭神は、高龗神(たかおかみのかみ) 別名、闇淤加美神:(くらおかみのかみ)

そして、須佐之男命(すさのおのみこと)

コトバンクより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高龗(たかおかみ)

(「たか(高)」は山峰を意味し、「龗」は水をつかさどる蛇体の神のこと) 「日本書紀」一書に見える神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)がその子軻遇突智(かぐつち)を斬った時に、雷神・山神とともに出生した神。水をつかさどる神として、闇龗(くらおかみ)とともに、祈雨・止雨の信仰を受けた。たかおかみのかみ。
※書紀(720)神代上(兼方本訓)「其の一段は是れ、雷の神と為る。一段は是れ、大山祇(つみ)の神と為る。一段は是れ、高龗(タカヲカミ)と為る」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おかみ」

雨と龍の間に口が三つ
器を三つ並べて、龍神に雨乞いをしているとのこと

山に降る雨を司る龍神と言う意味なのだそうです。

以下玄松子の祭神記より引用させてもらいます


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊邪那岐神は、妻伊邪那美神が陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血や火神の体から神々が化生する。 『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。
これらは、火と鉄により生みだされた神々と考えられるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さらに

・・・・・・・・・・・・・・・・
生れてくる際、 母神伊邪那美神が苦しんで吐いたものから金山毘古・金山毘売、 屎から波邇夜須毘古・波邇夜巣毘売、尿(ゆまり)より弥都波能売が生れ、 次に和久産巣日の諸神が生れ、和久産巣日神より豊受氣毘売神が生れた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
製鉄の神様「金山毘古・金山毘売」にたどり着きました。

この中で、斬り殺されてしまった「迦具土神(カグツチ)」とは、記紀神話における火の神です。

全国の愛宕神社、秋葉神社などの祭神

愛宕神社(あたご)の「あた」とは熱くドロドロしたもの、つまり溶けた鉄。「ご」は道具とかいう意味じゃなかったかな?うろ覚えです・・・


なぜ斬り殺されたかと言うと、ウィキペディアより引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その、十拳剣の柄からの血より生成された神が、「高龗神」(日本書紀)、闇淤加美神(古事記)

と言うことのようです。


あれ?「お金の神様」はどこ?

おそらく、製鉄→鉄→金→お金 こうなったのでしょう。

富を生むことは同じでしょう。思わぬ大金を手に入れるには毎日お参りすることですね。

毎日行くことはできませんので、我が家の神棚に、「龗」の字を祀って毎日「卵」をお供えしようか。

雨乞いと勘違いされて、大雨が降っても知らんぞ!







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丹後半島のレイライン その4 丹後半島の前方後円墳

2021-08-26 10:32:42 | レイライン
丹後半島には、大型の前方後円墳がいくつかあります。

いろいろ調べていますけど、湧田山1号墳が一番古いようです。



以下の古墳は、「日本海三大古墳」と言われます。
すべて、埴輪があり4世紀末から5世紀初頭の築造

蛭子山(えびすやま)1号墳   全長 145m



訪問した時には、まだ知識が充分でなかったので画像はこれだけです。

もう一度訪れなければ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん) 全長 201m

ここはまだ訪問していません

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神明山古墳(しんめいやまこふん)   全長 190m 


大きすぎて、何処にあるのかわからない
近くの、竹野神社から行くことが出来ます。


頂上からは、周りが見渡せます





破壊された部分があるとのこと。ひょっとすると鉄製品もあったのかもしれませんね。
どの部分にどのようなものが収められているのかということが、おいらはまだわかっていません。
勉強不足ですね。


せっかくですので、竹野神社の画像もどうぞ

開化天皇の妃となった「竹野媛」が晩年帰郷した際に「天照皇大神」を祀って創建したといわれる神社
こちらの方が、神明山古墳より古いですね。


雨上がりの雰囲気はいいです

左側の本殿の祭神は、天照大神
右側が、斎宮神社。 祭神は、「竹野媛命」「日子坐王命」「建豊波豆羅和気命」 
























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丹後半島のレイライン その3 朝廷別王(サタヒコ)との関係のある古墳

2021-08-25 11:50:22 | レイライン
尾張と美濃の古墳に湧田山1号墳を入れて考えてみます。

すべて、前方後円墳で、サタヒコと関係のありそうな古墳と比較してみます。

湧田山1号墳の年代が古墳時代前期としかわかりません。しかし、埴輪が無かったようなので

ヒバスヒメの古墳より古い、もしくは同じころと推測します。

主体部の発掘調査は行われていないので、確実な年代はわからないようです。

そのため、諸説あるようですけど、300年頃のようです。

ヒバスヒメは306年頃亡くなっているので、その付近より以前に亡くなった人の古墳と推測します。

古墳が出来るのに10年かかったとすると、316年頃までと考えます。




埋葬者については、おいらの推測なので、どこを探しても分かりませんよ。。。あしからず

前方後円墳なので、サタヒコ以外に関係する人物が浮かび上がらない。

誰だろう?

丹後半島には、他にも大型の前方後円墳があるので、今後それを含めて考えていきたいと思います。






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もうそんなになるのですね

2021-08-25 05:36:54 | Weblog


前回、5555日を見逃したので、今回は気をつけていたので、get しました」!

この豚君の絵ずいぶん前に書いたもの。そういやぁ、最近、絵描いてませんね~。


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丹後半島のレイライン その2 湧田山一号墳のレイライン

2021-08-23 05:02:00 | レイライン

湧田山(わくたやま)一号墳に行こうと思って車を進めました。

多久神社から行けるようですけど、大雨・・・

それも時々すごく降る・・・断念しました。

近くには、扇谷遺跡という所もあるのですけど、そこも行けません。

地図の東側に流れる川が竹野川です。

この川沿いには古くからの遺跡が数多くあります。

まず、湧田山一号墳の説明を見てみましょう。

全長約100メートルの大型の前方後円墳で、時代は、諸説あるようですけど、3世紀後期から4世紀前半

とのこと。埴輪や葺石などの外表施設は存在しなかった可能性が高いそうです。

下層から弥生時代前期の土器が出土していることから、かつては、集落があったと言われます。



さて今回は、湧田山一号墳のレイラインですね。

驚きますよ。。。

衆良神社からの夏至の日の出のラインがここを通ります。




ピンの位置が湧田山一号墳です。

そこまでは行けないので、多久神社を参拝。

雨が降っています。



たしか、ここのしめ縄はプラスティックで出来たものだったような気がします。(違ってたらごめんなさい)  藁で作る人がいないのでしょうか? わが村も、おいらが作り方を覚えなかったら
消滅しています。現在後輩に伝授中。でもなかなかうまくいかない。


案内板読めますでしょうか


主祭神が、「豊宇賀能売命(豊受大神)」=真名井伝説による天女  

そう書かれています。伊勢の外宮の祭神ですね。

おいら、今まで古墳のことばかり気になっていて、今まで、この案内板読んでなかった。

先ほど読んだところです。

驚いた!  何に驚いたのかは、後ほど・・・

実は、この湧田山一号墳のレイラインは、もう一つあるのです。

湧田山一号墳から冬至の日の出を見ると


じゃ~ん


籠神社本殿ピッタリ!


どうです?

驚きでしょう!

今回はここまで。。。







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丹後半島のレイライン その1 衆良神社

2021-08-22 07:23:42 | レイライン
衆良神社  京都府京丹後市久美浜町須田132



道が細いので、ちょうど畑に女性がいらしたので、場所を尋ねました。

「スラ神社はこの先ですか?」と聞いたら、「シュラ神社ね。この先だよ。」と。

地元では、「衆良」を「シュラ」と発音するようです。


この神社は、何度もこのブログで取り上げています。

朝廷別王=(サタヒコ=猿田彦=スクナヒコナ=その他いろいろ)の母親の故郷です。

倭姫のおばあちゃんですね。


ようやく訪問することが出来ました。



ごく普通の神社と言う雰囲気です。





サタヒコの母親の住んでいた住居は、神社の北あたりだそうです。


神社の北東からの景色。集落の見えるところが住居のようです。

すでに紹介してあるレイラインですけど、諏訪湖の南東にある御上神社からの冬至の日の入りのラインがこの神社を通ります。



今までの検証から、御上神社はサタヒコが建てたと考えていいと思います。

最初の場所は、今の場所ではなく少し離れた場所と何かの資料で見たことがあります。

三上山の頂上にある奥宮ではなく、確か近くの田んぼの中と記憶しています。

その情報が正しいかどうかはわかりません。しかし、現在の場所ではないことは確かのようです。

それとなく近くの場所を探したら、妙見堂跡と言う所がありました。妙見信仰は日本に入ってくるのは

もっと後と思いますけど、北極星、北斗七星という星にかかわる意味があることから何か因縁があるかもしれないと思い、そこからのレイラインを見てみました。



距離が長すぎるので、途中で中継してラインを繋ぎます。

ピンのある所が衆良神社です。

赤い丸で示したところが、最初の画像の場所です。
これですね


115kmも離れているのに、この精度!

毎回驚きます。

いろいろ考えてみると、測量集団の人はここの出身で、冬至の日の入りはどの星が何処の位置に

あるのかを熟知しているのではないでしょうか?

だから、115kmも離れた場所でもピタリとそのレイラインを測量することが出来るのではないのでしょうか?

まあ、おいらの推測ですけど。。。










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金生山の鉄

2021-08-16 06:15:18 | レイライン
前回の、伊久良河宮の続きですけど、伊吹山での製鉄を行うための材料は、

金生山周辺の鉄鉱石です。




こちらの 古代の鉄生産についてが、非常に参考になります。

それによると、この地方で採れる鉄鉱石は、鉄の含有量が高く、砒素と銅を高濃度で含むそうです。

そして、この地方の4世紀後半から5世紀初頭にみられる古墳の出土遺物に見られる鉄製品には

砒素と銅を高濃度で含むものがあると言われます。


さらに、バナジュウムとチタンの割合が低いそうです。

それが示す意味は、砂鉄ではなく鉄鉱石からの製鉄であると書いておられます。

このことにより、昼飯大塚古墳の埋葬者である、おそらくは、「息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)」

の時代には、この金生山の鉄鉱石を使った製鉄を行ったことが裏付けられたと言えるでしょう。

参考にさせて頂いた「古代の鉄生産について] (八賀 晋) に書かれている

「金生山周辺古墳出土鉄製品分析表」に出て来る「遊塚古墳」、そして「中八幡古墳」ですが、

どちらも5世紀ごろの前方後円墳です。

気になったので、レイラインを調べました。

宗慶大塚古墳からの春分の日の日没に中八幡古墳があります。冬至の日没のラインに昼飯大塚古墳が
あるので、この二つの埋葬者は、兄弟と解釈していいと思います。

遊塚古墳はというと

昼飯大塚古墳からの夏至の日没のラインにあります。子になるのでしょう。

ということは、神功皇后の兄弟かもしれない。誰だろう?

分かりやすいように図にしてみました


猿田彦と天宇受売命(アメノウズメ)の子は、神大根王の他にもいるようです。そのことについては

今後、調べていきたいと思います。



さて、この金生山付近で、最初に製鉄を行ったのはサタヒコ(朝廷別王)だろうか?

それとも、息子だろうか?

宗慶大塚古墳がこの場所にあるということは、やはりサタヒコが・・・というより彼が連れて来た

製鉄に関する技術者が鉄鉱石に気が付いて、製鉄が始まった。

そして、その場所に住み着いたと考えるのが適当かと思います。それ以外の理由が見つからない・・・

伊久良河宮を拠点にして付近を捜索した結果、金生山(昼飯大塚古墳の北に位置)にたどり着いたのでしょう。

そこにある白髭神社は、鉄鉱石のある場所を探る最初のころの重要な場所だったのかもしれません。


南宮御旅神社の祭神は、金山姫神。 南宮大社の祭神は、金山彦命。 

どちらも製鉄の神様ですね。

その技術者たちが信仰していた神様,もしくは、彼らが神になったのかもしれません。




愛知県犬山市にある「東之宮古墳」から鉄製品 58点(鉄刀、鉄斧、針筒、鉄鏃など)が、副葬品にあります。

これらは何処の鉄を使ったのだろう?

時代的には、サタヒコが持ち込んだものと考えていいでしょう。

金生山の鉄なのか、それとも、それ以外の場所からのものなのか?

分析したデーターがあれば知りたいですね。

時代を検証してみましょうか。

 仮に、サタヒコの生まれを、ヒバスヒメより3年後の「265年」とします。

伊勢津彦が、伊勢から追い出されるのが、「281年」 その時、サタヒコは、16歳。


おいら、最初のころは、この時点でサタヒコはすでに妻と一緒に犬山の本宮山に住んでいたと考えてい

ましたけど、そうではなく、父親の彦坐王と一緒に春日井の東谷山付近に住んでいたと考えるのが

適当かと思います。


その後、各地にどれだけの期間滞在したかは分かりません。

仮に、三河に1年、諏訪に1年、越に1年居たとすると、尾張に帰ったのが19歳。



その後、東之宮古墳の埋葬者(尾張大印岐と推定します)の娘(真敷刀婢と推定します)を妻にしたと考えます。「284年ごろ」


その時、尾張大印岐の年齢は仮に、35歳とします。

サタヒコが、倭姫を伊勢に連れて行ったのが「302年」尾張大印岐の年齢は、53歳になります。

もう少し若いかもしれませんけど、どちらにせよ、当時としてはそろそろ寿命と言う年齢です。

サタヒコの状況から推測すると、まだこのころには伊吹山付近で製鉄を大規模で行うには無理があるように思います。

すると、「東之宮古墳」の副葬品である鉄製品は、どこかほかの地から持ってきたと考えるのが適当かと思います。

不思議なのは、白鳥塚古墳、青塚古墳、宗慶大塚古墳からは、鉄製品が出土していないということ。

昼飯大塚古墳からようやく鉄製品が出ているのです。

東之宮古墳と昼飯大塚古墳の間には、およそ、100年(4代ほどの世代)の違いがあります。不思議です。


春日井での製鉄は、この時期行っていたかどうかはわかりません。

彦坐王は、金生山付近の鉄を見逃してその地を通り過ぎているということは、

彼は、製鉄とは無関係かもしれない。











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