このブログで、過去に「伊勢津彦は誰?」と言うタイトルで記事を書いていますけど、今読むと
だいぶ間違えています・・・消そうかな・・・
あえてその中から参考になる事を書いてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「沙本毘古王」または、「狭穂彦王」(さほひこのみこ)=伊勢津彦 です。
岐阜の五社神社から伊勢に向かっています。
その時の年齢は、サホヒコ18歳。彦坐王は、38歳ぐらいです。
そして、サホヒコが伊勢から崇神天皇に追い出されたのが、サホヒコ31歳、彦坐王51歳ぐらい
サタヒコは、13歳ぐらい。まだ若いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
崇神天皇も彦坐王もほとんど年齢に違いはないようです。
当時の50歳は、そろそろ寿命と言ってもいいでしょう。
彦坐王が、亡くなった、もしくは、それに近い状態になったので、崇神天皇は伊勢を取に行ったと思います。
伊勢津彦は、追い出され、船で伊勢を出ます。
そして、愛知県豊川市の御津神社付近に上陸しています。
最初は、風に流されてそちらまで行ってしまったのかと思っていましたけど、
もしかすると、あえてそちらに向かったかもしれない。
何故かと言うと、彦坐王の居る場所を崇神天皇にわからないようにするためではないかと思うのです。
春日井の、高座神社付近の位置を探られないようにするために、あえて遠くに上陸した。
もし、春日井に行くならば、たとえ風に流されても知多半島付近に上陸して徒歩で向かうことを考えるでしょう。
彦坐王は、そのことを理解して、すぐにサタヒコを伊勢津彦と合流させるように派遣したと推測します。
猿田彦その 16 大宮諏訪神社 参考にしてください
ですから、天竜川沿いにある大宮諏訪神社まで意外と早い時間で移動したのかもしれません。
そこからの行動はこちら参考にしてください。猿田彦その 17 大宮諏訪神社はなぜその場所なのか
サタヒコ達は、その後春日井に行ったと思います。でも、彦坐王はすでに亡くなっていた。
その時に埋葬した場所が、春日井の高蔵神社に行く途中の祠 の場所と思うのです。
その場所のレイラインの意味することは
白山神社付近に居た技術者たちがその場所を決めた。そう推測します。
だいぶ間違えています・・・消そうかな・・・
あえてその中から参考になる事を書いてみます。
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「沙本毘古王」または、「狭穂彦王」(さほひこのみこ)=伊勢津彦 です。
岐阜の五社神社から伊勢に向かっています。
その時の年齢は、サホヒコ18歳。彦坐王は、38歳ぐらいです。
そして、サホヒコが伊勢から崇神天皇に追い出されたのが、サホヒコ31歳、彦坐王51歳ぐらい
サタヒコは、13歳ぐらい。まだ若いです。
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崇神天皇も彦坐王もほとんど年齢に違いはないようです。
当時の50歳は、そろそろ寿命と言ってもいいでしょう。
彦坐王が、亡くなった、もしくは、それに近い状態になったので、崇神天皇は伊勢を取に行ったと思います。
伊勢津彦は、追い出され、船で伊勢を出ます。
そして、愛知県豊川市の御津神社付近に上陸しています。
最初は、風に流されてそちらまで行ってしまったのかと思っていましたけど、
もしかすると、あえてそちらに向かったかもしれない。
何故かと言うと、彦坐王の居る場所を崇神天皇にわからないようにするためではないかと思うのです。
春日井の、高座神社付近の位置を探られないようにするために、あえて遠くに上陸した。
もし、春日井に行くならば、たとえ風に流されても知多半島付近に上陸して徒歩で向かうことを考えるでしょう。
彦坐王は、そのことを理解して、すぐにサタヒコを伊勢津彦と合流させるように派遣したと推測します。
猿田彦その 16 大宮諏訪神社 参考にしてください
ですから、天竜川沿いにある大宮諏訪神社まで意外と早い時間で移動したのかもしれません。
そこからの行動はこちら参考にしてください。猿田彦その 17 大宮諏訪神社はなぜその場所なのか
サタヒコ達は、その後春日井に行ったと思います。でも、彦坐王はすでに亡くなっていた。
その時に埋葬した場所が、春日井の高蔵神社に行く途中の祠 の場所と思うのです。
その場所のレイラインの意味することは
白山神社付近に居た技術者たちがその場所を決めた。そう推測します。