史跡妻木晩田遺跡第4次発掘調査報告書から引用させていただきます。
少し長いですけど、非常に興味深い内容です。
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包含層出土の鉄滓は28.5gと小型のガラス質椀形鍛冶滓である。
鉄器製作に際しての素延べや火造りといった鍛錬鍛冶も後行程での排出滓に分類される。
該晶には滴下鉄粒を内蔵し、小粒ながら鉄中非金属介在物を含む。
介在物組成は27.5%A1203-56.7%TiO2組成、41.4%Fe0-34.0%TiO2組成など高チタン含有で、
前者のアルミニウム・チタン化合物など、過去にあまり類例のない鉱物組成であった。
ここで注目されるのが含チタンで、鍛冶に供された鉄素材の産地が大きな問題となる。
国産ならば列島内での砂鉄製錬開始時期が古墳時代初頭期まで遡る可能性が指摘される。
包含層の中の80点近くの鉄器に共伴した唯一の鉄滓である。
この鉄滓が古墳時代中期以降になると、幾分とも理解しやすくなって、
出雲市所在、古志本郷遺跡K区出土の沸かし鍛接系椀形鍛冶滓(Wiistite晶出)
(6)とも無理のない繋がりとなる。
一方、安来市所在、柳遺跡は弥生時代終末期に属し、
素延べ系鍛錬鍛冶津(Fayalite晶出)と共に遺構(炉跡)が検出されている(7)。
妻木晩田遺跡の滓は柳遺跡出土淳と並列に置けるものであろうか。
しかし、木次町所在の平田遺跡の鍛冶工房の存在は、また問題を複雑にする。
古墳時代初頭期に属する当工房には、羽口、鉄滓の出土はなくて、室状工具でもって鉄を切り、
その切片を残し、火爽り曲げ加工を連想させる焼土面があり、砥石研磨の仕上げといった原始鍛冶の世界を展開させる(8)。
次に鉄素材の産地を朝鮮半島に求めても、3世紀代の砂鉄製錬遺跡は現在のところ未検出である。
最古級製鉄遺跡は鎮川所在の石帳里遺跡(A区)の3~4世紀に属する炉跡であろうか(9)。
ただし、こちらは磁鉄鉱(岩石)原料である(10)。
更に朝鮮半島での砂鉄製錬の確認のとれるのは朝鮮時代以降であって、産地同定も一筋縄
では行かない(11)。
翻って遺構を伴わない砂鉄製錬滓で推定年代の遡るものを探ると、山陰側にも古墳時代初頭期に比定されるものが存在する。
石見町所在で古墳時代初頭(3世紀末)の湯谷悪谷遺跡の砂鉄製錬滓と精錬鍛冶滓の出土をどう整理してゆくか(12)。
更に同時期かとも考えられる頓原町の的場尻遺跡からも竪穴住居跡から数点の鉄器と共に
鉄滓の出土が報告されている(13)。
以上の如く弥生時代終末期から古墳時代前期初頭(2~3世紀)にかけての鍛冶の内容が鉄滓を排出するまでの作業があったのか否か、更には砂鉄製錬までに問題が波及していく。
鉄生産の問題は混沌とはしているが、視野を変えると或る収束を迎えているのだろう。
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まだまだ興味のある所はありますけど、長くなりますので後ほど。。。
これを読んでいて、最初理解に苦しんだことがあります。
後で分かったことですけど、pdfからコピーしてここに張り付けると、
「滓」と言う字が、「淳」や、「棒」に代わるのです。ですので、「鉄滓」と言う字が
「鉄淳」や、「鉄棒」に置き換わっていたので、最初は理解に苦しみました・・・
ほとんど直しましたけど、もし残っていたらご容赦。
pdfをコピーペーストするときは、気をつけよう。
ここで書かれている、高チタン含有の鉄滓について素人ながら調べました。
それについては、後ほど書きたいと思います。