たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

桃太郎  その 23 どちらが先?

2022-08-30 05:07:27 | 猿田彦
今までいろいろと書いてきましたけど、

まさかサホヒコの古墳までたどり着くとは思ってもみませんでした。

桃太郎の話については、

サタヒコと一緒に、岡山の尾針神社に居た船を造る技術者が、桃太郎伝説の原型を作り

その後、同じ人たちが、尾張にある桃太郎神社で伊勢に行くための船を造るときに再度、その伝説を

完成させて広めたと予測していました。

しかし、岡山の伝説を見ると、そちらの方が後のような気がします。

でも、尾針神社がそこにあり、そこを拠点に四国、九州、紀伊半島に行っていたということを考えると

やはり、桃太郎の話の原型は、そこで作られたのではないかと考えます。

結論は、どちらが先か分からない です。。。


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桃太郎  その 22 出雲大社はどうした?

2022-08-29 06:12:27 | 猿田彦
サホヒコ=大国主=伊勢津彦 とおいらは推測しています。

晩田山3号墳は全長60mの前期前方後円墳と言うことで、それをサホヒコのものとすると

出雲大社はどうなるのだ!と言う話になります。

「にほんの素: 古代史探求レポート」と言う本を書かれている 喜多暢之さんと言う方のメルマガを

読ませていただいていますけど、ある時、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「鳥越憲三郎さんという民族学者の方が、出雲大社ができたのも、8世紀初頭のことではないかと推測されています」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と書いておられることを見て、今までの疑問が解けたかのような気がしました。

出雲には、レイラインが見当たらないのです。おいらが見つけられないだけかもしれませんけど、

そして、以前にも書きましたけどサホヒコには、大国を作る時間があまり無いのではと言う疑問もありました。

出雲が出来た時代が違うのなら、納得です。

サホヒコ=伊勢津彦が、伊勢を追い出されて三河に着き、春日井から来たサタヒコと

砥鹿神社付近で出会い、諏訪に行き、そして、越しに行く。

さらに、丹後半島経由で鳥取に行き、そこで生涯を終える。

この動きは、一般に言われている反対の動きになります.

出雲におけるサホヒコ、サタヒコの足跡が全く分からなかったので、不思議だったのですけど

元々、出雲に行ってないのなら、あるはずがありませんよね。







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桃太郎  その 21  前方後円墳

2022-08-28 06:18:25 | 猿田彦


洞ノ原地区には、古墳群唯一の前方後円墳である晩田山3号墳があります。

海面上昇を5mにして拡大します

3号墳は全長60mの前期前方後円墳


史跡妻木晩田遺跡第4次発掘調査報告書によると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「3号墳は、副葬されていた鉄器の様相、晩田山10号境との位置関係から古墳時代前期後半の築造が推測される。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この古墳を、サホヒコの眠る古墳とすると、時代がピタリと合います。

唯一の前方後円墳ですからね。亡くなってから少し時間をおいて古墳が出来ているようです。

ざんねんながら、殯(もがり)の場所はわかりません。

作ったのはもちろん、サタヒコでしょう。

3号墳は、下層の集落跡を調査するために消滅したそうです。

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桃太郎  その 20   洞ノ原墳墓群

2022-08-27 12:53:16 | 猿田彦
妻木晩田遺跡の中の西側にあります。



地図です


左端の「洞ノ原地区」が、鉄滓が出た所です。この付近で鍛冶を行っていたのでしょう。



史跡妻木晩田遺跡第4次発掘調査報告書.より、表をお借りします

真ん中あたりに住居2がありますけど、その西側あたりで鉄滓が出たとのこと。

この付近で鍛冶を行っていたのでしょうか。

この洞ノ原地区が、サホヒコとサタヒコ達が拠点としていた場所と思います。



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桃太郎  その 19 チタン

2022-08-26 13:05:21 | 猿田彦
おいらミスをしていたかもしれません。

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)の鉄滓の成分表は、すごく小さい物の値なんですね。

それを、春日井の砂鉄とを比較すること自体間違っているような気がします。

やはり素人が頭を突っ込むことではないようです・・・

鉄に含まれるチタンの割合が多いとどういう性質があるのか調べましたけど、それも分からず。

春日井の他にチタン含有量の多い砂鉄は何処にあるのか?福島の太平洋側にあるようです。

それを運んだのだろうか?  これも分からず・・・


話はかなり飛躍しますけど、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)の話はご存じかと思います。

日本神話で、素戔嗚尊すさのおのみことが出雲国の簸川ひのかわ上流で八岐大蛇やまたのおろちを退治したときに、その尾から出たという剣。のちに、熱田神宮に祭られる。

以前書きましたけど、スサノオを彦坐王とすると、

ヤマタノオロチは玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)。舞台は丹後半島になります。

クシナダヒメはサタヒコの母親。  そして、天叢雲剣は、熱田神宮に祭られるのです。

天目一箇神とイシコリドメの子孫が「神鏡」と「形代(コピー)の剣」を作り、

現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されています。

熱田神宮にある、天叢雲剣(コピーではない方)を見た人が居るようで、全体的に白っぽく、錆はなかったという話からすると、白銅剣とも言われます。


さて、ここから先は、はまったくの妄想です。信用しないでください・・・へへ


天叢雲剣が、熱田神宮に祭られている理由は、サタヒコが関係しているのでしょう。

彼の率いる製鉄の技術者は、彦坐王の時代に春日井で製鉄をしていた可能性が高いです。

彼らの使用していた製鉄の炉はいまだ見つかっていませんが、それほど大きなものではないようです。

しかし、伊吹山での製鉄を参考にすると、自然の風をうまく利用していたのではないだろうか。

つまり、かなり高い温度を得ることが出来たかもしれない。

もう一つ、気になるのが燃料です。この時代は「木」が燃料として使われたのでしょうが、

春日井には、「亜炭」と言うものが産出します。

(亜炭とは、石炭の中でも、最も石炭化度が低いもの。得られる熱量が小さいとはいうものの

木材の代わりになるのでは?まあ、これが使われたかどうかはわかりませんけど参考までに。)

その結果、チタンを多く含む砂鉄を使って、製鉄をしていたと推測されます。

そうして出来た鉄が、普通のものより硬いものだったかもしれない。

それから出来た剣があるのかどうかはおいらは知りませんけど、それが錆びないで白い色をしていたら

問題はすべて解決するのですけど・・・

つまり、ヤマタノオロチの「尾」から出てきた「剣」である、天叢雲剣かもしれない。

それと、「尾」は、尾張と関係があるのでしょうか?

サタヒコの率いる技術者をあなどってはいけません。レイラインの測量でも100km以上の距離で

誤差がほとんどない計測をする集団ですから。










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桃太郎  その 18  鉄滓はどこから?

2022-08-25 17:15:36 | 猿田彦
妻木晩田遺跡のチタンの含有量の高い砂鉄は何処のもの?

素人のおいらには、ちょいとハードルが高すぎますね・・・

でも、調べてみましょうか。

古代生成鉄の元素分析による原料砂鉄の産地推定
と言う所を参考にさせて頂きます。

まず、奥出雲は低いです。ところが、日野川の砂鉄は5%以上とあります。


時代が違うので参考になるか分かりませんけど

丹後半島にある、遠所遺跡(6 世紀後半)で発見される砂鉄は、丹後半島で採取される砂鉄ではなく

極めて高いチタン酸化物を含んでいたそうです。

丹後地方の砂鉄はチタン酸化物量が少ないので、他の地域から砂鉄原料が持ち込まれているとのこと。

チタンの含有量が高いということには、意味があるようです。

もしかしてと思い、春日井の砂鉄を調べると、春日井の砂鉄は、チタンの含有量が多いそうです。

郷土誌かすがい 第8号の、西山古代製鉄址2 鉱滓(のろ)と砂鉄の分析所見  下原町 梶田元司さんと言う方の報告です。

その中に分析した表があったのでお借りします


砂鉄のチタン含有量が、31.4%あります。

前ページで、表が間違ったものを載せていました。訂正しておきましたけど、その表では

妻木遺跡の鉄滓のチタン含有量は、56.658%と、33.994%でした。

鉄滓になると、含有量は高くなるのでしょうか?

気になったので、他の成分も比べてみましたけど、残念ながらかなり違うようです。

同じ春日井の砂鉄ですけど場所により違うのでしょうか?

西山古代製鉄址と、白山神社は、距離にして、4.9kmほど離れています。

どちらの場所も、砂鉄が採れるようです。

残念ながら、おいらにはこれ以上前には進めません。



サタヒコとのつながりがあるのなら、春日井の砂鉄を使った可能性はあると思います。

時代は、古墳時代初頭期(明確ではないが,一応3世紀末ないし4世紀初頭頃)と、サタヒコの時代とピタリ合います。

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桃太郎  その 17 妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)

2022-08-23 08:21:22 | 猿田彦
史跡妻木晩田遺跡第4次発掘調査報告書から引用させていただきます。

少し長いですけど、非常に興味深い内容です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
包含層出土の鉄滓は28.5gと小型のガラス質椀形鍛冶滓である。

鉄器製作に際しての素延べや火造りといった鍛錬鍛冶も後行程での排出滓に分類される。

該晶には滴下鉄粒を内蔵し、小粒ながら鉄中非金属介在物を含む。

介在物組成は27.5%A1203-56.7%TiO2組成、41.4%Fe0-34.0%TiO2組成など高チタン含有で、

前者のアルミニウム・チタン化合物など、過去にあまり類例のない鉱物組成であった。

ここで注目されるのが含チタンで、鍛冶に供された鉄素材の産地が大きな問題となる。

国産ならば列島内での砂鉄製錬開始時期が古墳時代初頭期まで遡る可能性が指摘される。

包含層の中の80点近くの鉄器に共伴した唯一の鉄滓である。

この鉄滓が古墳時代中期以降になると、幾分とも理解しやすくなって、

出雲市所在、古志本郷遺跡K区出土の沸かし鍛接系椀形鍛冶滓(Wiistite晶出)

(6)とも無理のない繋がりとなる。

一方、安来市所在、柳遺跡は弥生時代終末期に属し、

素延べ系鍛錬鍛冶津(Fayalite晶出)と共に遺構(炉跡)が検出されている(7)。

妻木晩田遺跡の滓は柳遺跡出土淳と並列に置けるものであろうか。

しかし、木次町所在の平田遺跡の鍛冶工房の存在は、また問題を複雑にする。

古墳時代初頭期に属する当工房には、羽口、鉄滓の出土はなくて、室状工具でもって鉄を切り、
その切片を残し、火爽り曲げ加工を連想させる焼土面があり、砥石研磨の仕上げといった原始鍛冶の世界を展開させる(8)。

次に鉄素材の産地を朝鮮半島に求めても、3世紀代の砂鉄製錬遺跡は現在のところ未検出である。

最古級製鉄遺跡は鎮川所在の石帳里遺跡(A区)の3~4世紀に属する炉跡であろうか(9)。

ただし、こちらは磁鉄鉱(岩石)原料である(10)。

更に朝鮮半島での砂鉄製錬の確認のとれるのは朝鮮時代以降であって、産地同定も一筋縄
では行かない(11)。

翻って遺構を伴わない砂鉄製錬滓で推定年代の遡るものを探ると、山陰側にも古墳時代初頭期に比定されるものが存在する。

石見町所在で古墳時代初頭(3世紀末)の湯谷悪谷遺跡の砂鉄製錬滓と精錬鍛冶滓の出土をどう整理してゆくか(12)。

更に同時期かとも考えられる頓原町の的場尻遺跡からも竪穴住居跡から数点の鉄器と共に
鉄滓の出土が報告されている(13)。

以上の如く弥生時代終末期から古墳時代前期初頭(2~3世紀)にかけての鍛冶の内容が鉄滓を排出するまでの作業があったのか否か、更には砂鉄製錬までに問題が波及していく。

鉄生産の問題は混沌とはしているが、視野を変えると或る収束を迎えているのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まだまだ興味のある所はありますけど、長くなりますので後ほど。。。

これを読んでいて、最初理解に苦しんだことがあります。

後で分かったことですけど、pdfからコピーしてここに張り付けると、

「滓」と言う字が、「淳」や、「棒」に代わるのです。ですので、「鉄滓」と言う字が

「鉄淳」や、「鉄棒」に置き換わっていたので、最初は理解に苦しみました・・・

ほとんど直しましたけど、もし残っていたらご容赦。

pdfをコピーペーストするときは、気をつけよう。

ここで書かれている、高チタン含有の鉄滓について素人ながら調べました。

それについては、後ほど書きたいと思います。
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桃太郎  その 16

2022-08-22 07:08:07 | 猿田彦
安来市あたりをさがしていると、7m海面を上げた状態の地図に潟湖(せきこ)がありました。


その近くに、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)があります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今から約1900年前から1700年くらい前の弥生時代に大きな集落が存在した

竪穴式住居だけでも400棟以上、掘立柱建物跡も500棟以上も見つかり、当時の周りの規模から考えると、当遺跡を中心に一つのクニが作られていたのではないかとも考えられています。

弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

史跡妻木晩田遺跡第4次発掘調査報告書という

くわしく調べてある報告書があります。

それを見て驚きました。

鉄の出土の時期が、弥生後期~古墳時代前期と、サホヒコ、サタヒコの岡山遠征の時代とピタリと

重なります。


終末期がその時代ではないでしょうか。

それ以前にも、鉄製品が出ていますけど、どこの鉄だろう?

もしかしたら、丹後半島から持ってきているのかもしれない。

もしそうなら、かなり古くから交流があったと考えられます。

飯梨川の砂鉄をどこかで製鉄をしたものと言う考えも否定できませんけど、

後期後葉、終末期が圧倒的に多いということは、この場所がサホヒコ、サタヒコの拠点で

鉄素材は、丹後半島から来ているという可能性が高いのではないでしょうか。

とすると、五斗長垣内遺跡で使用していた鉄素材は、丹後から来たかもしれません。









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桃太郎  その 15

2022-08-19 06:36:59 | 猿田彦
蓑(みの)の試着の結果ですけど、雨の中での作業は快適です。。。

でも、まだサイズがピタリとこない。形も変えないといけません。

なかなか難しいです。

さて、サタヒコの足跡ですけど、紀伊半島の方へも行ってると思います。

本州の最南端にある、潮御崎神社


景行天皇が建てたと言われます。サタヒコが、この最南端の場所の事を話していたのではないだろうか?

そこからさらに、40kmで、神倉神社があります。そこには猿田彦神社もあります。



さらに、北東に進み「紀伊長島」付近で上陸して、宮川に出てそれを下ると、瀧原宮に行けます。





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蓑を作っています

2022-08-18 07:11:07 | Weblog
なかなかうまくいきませんけど


これはすでに、一度雨の中で着ています。なかなかいい感じなのですけど、幅が足りなかった。

なので、腰蓑にしようと考えています。つまり、腰に巻いて使うもの。

そして次に作ったのが

幅をもっと長く作りました。

体に取り付ける時に使う紐を、縄で作りたかったけどまだ出来てないので

急遽、ありあわせの紐を取り付けました。

しかし、本体の、両ふちが顔に当たるので何とかせねば!

紐を編み込みたいので、切るわけにはいきません・・・

とりあえず、今日これから試着です。
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桃太郎  その 14

2022-08-16 10:33:35 | 猿田彦
五斗長垣内遺跡のことが気になるのです。

弥生時代後期初頭に出現して後期末に終焉を迎えると書いてあります。

弥生時代後期は1世紀中頃から3世紀の中頃といわれます。

そうすると、後期初頭と言うのは、西暦50年ぐらいからのようなのですけど、その頃に人が居たということになります。

ただ、鍛冶を始めた年代が分からない。おいらが資料をきちんと読んでいないせいかもしれませんけど

サタヒコ達がくる以前から誰かが鍛冶を行っていたかもしれない。

この地図にある、西分増井遺跡(高知)は、かなり以前から鍛冶を行っていたようです。

そして、鍛冶をする鉄の原料(どのような形なのかよくわからない)は九州から来ていたそうです。

これ以上は、くわしい資料が無いので今までの状況から推測するほかありません。

少々強引ですけど、まあ、いつもの妄想と思ってお付き合いくだされ。。。


これは、日本海側の安来から岡山へのルートですが、





飯梨川流域には、砂鉄があります。大国主、サタヒコ達はそれを使って製鉄をした。

鍛冶をする前の鉄の材料、「銑(ずく)」と呼ばれる状態なのでしょうか?

それを作り、岡山から船で五斗長垣内遺跡、その他の場所に運んだ。

そう考えることはできないだろうか?

鍛冶をして出来た鉄製品を使い奈良を囲む地域の人を取り込んでいった。

その結果、垂仁天皇は降伏し出雲に使いを出した。

これがホムチワケの話になっていると思うのです。

ホムチワケは、架空の人物と思うのですが、補佐として出雲に行ったのが、曙立王(あけたつのみこ)

そして、弟の菟上王(うながみのみこ)。

彼らは、彦坐王の子なのです。

なので、交渉役に選ばれたのでしょう。その後すぐに、サタヒコのもとに垂仁天皇の娘である

倭姫が送られてきます。人質と言う意味なのだと思います。

そう考えると、五斗長垣内遺跡で、鍛冶を行っていたのは大国主やサタヒコ達で、

垂仁天皇が降伏してきて目的を達成できたので、引き上げた。


その後の鍛冶は、四国の 拝東遺跡や、西分増井遺跡で行ったのではないだろうか。













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桃太郎  その 13

2022-08-14 12:21:33 | 猿田彦
もう一度、出雲付近の海を7m上昇させた地図を見てみましょうか





安来市あたりを拡大して、海面上昇を4mにしてみます。

河口付近は、土砂の堆積が多いので本当はもう少し海面が高いかもしれません。

湾が出来ていますね。これを、潟湖(せきこ)と呼ぶそうです。知らなかった。

潟湖(せきこ)コトバンクより

〘名〙 砂嘴(さし)、砂州、沿岸州などによって海の一部が外海と隔てられてできた湖沼。秋田県八郎潟、静岡県浜名湖など。潟(かた)。ラグーン。

日本海側に多いそうです。そうですね、今まで何か所も見てます。

昔から、港として利用されているそうです。

現在の地図を見てみましょう。


どうです?伊勢神社に猿田彦神社、そして諏訪神社。

どの神社も、詳しい由緒はわかりません。でも偶然にしてはあまりにも見事ですね。

ですけど、これらの神社はそれほど古くはないようです。海面を3mぐらい上げると

伊勢神社も、猿田彦神社も海の中になってしまうのです。後の時代に出来たことは明白です。

ですけど、この付近は丹後半島から来るとちょうどよい地形の港なのです。

そして、ここには飯梨川が流れています。

上流には、金屋子神社があります。この金屋子神社もサタヒコの時代より後の創建です。

3世代以上後でしょう。

ですけど、地理的に考えると、サホヒコ(大国主)、サタヒコ(猿田彦、少彦名)は、

この付近を起点にしたと思えるのです。







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桃太郎  その 12

2022-08-13 14:20:47 | 猿田彦

五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)の事を調べていたら、かなり重要な場所な場所の様なので

少し掘り下げてみます。

淡路市のHPに五斗長垣内遺跡発掘調査報告書についてと言う所があります。そこに、五斗長垣内遺跡発掘調査報告書ダウンロードと言う所がありますので、そこでPDFをダウンロードして調べました。

ところが、コピーペーストしようと思ったら出来ない・・・文字化けしてる

•–mn—˜A]✂N45¢>4IJmn7YAÈ14547{9・・・なんで?

しょうがないから、内容を自分なりにまとめてここに書いてみましょう。

まずは地図です


五斗長垣内遺跡、読めませんね・・・ごっさかいといせき   

弥生時代後期に突如として現れ、古墳時代に姿を消してしまう。

その後人の生活が始まるのは、平安時代になってからとのことです。

くわしくは、弥生時代後期初頭に出現して後期末に終焉を迎えると書いてあります。

これはいつ頃かと言うと、100~300年頃らしい。調べてもはっきりした区分が分からない。

しかし、初頭には石器製作に関する建物が確認され後期には、鍛冶が行われていたそうです。

ということは、何処からか鉄を運んで来ていたということ。

一般には、まだこのころは日本では製鉄が行われていないことになっていることから

朝鮮から運ばれてきたことになっていますけど、そんなことはありませんね。

丹後半島では、とっくの昔に砂鉄からの製鉄が行われていたことは

すでにこのブログでご紹介しています。

仮に朝鮮から鉄の素材を運んできたとしても、

わざわざここまでもってきて鍛冶するようなことしないでしょう。 ←PS しているみたい。

まあ、調査書をいろいろ読んでいたら、焼けた土から年代が分かると言う所がありました

土壌の磁気を測定して年代を特定するそうです。

仕組みはおいらにはさっぱりわかりませんけど、それによると焼土は250年~350年そして

1250~1350年に熱が加わったそうです。

250年~350年だと、ピタリですね。おいら、桃太郎  その7 拝東遺跡の所で、

サタヒコがこの地に来たのは、290年頃と予測しています。

(今考えると、もう少し早いかもしれないと思っています。)

ただし、この磁気による測定法も100年ほどの誤差があるそうです。

う~ん。なかなかピタリと来ませんね。

まあ、自分に都合の良いようにバイアスをかけておきましょうか。。。

鍛冶は継続的に行われていたそうです。と言うことは、鉄の素材も継続的に供給されていたことになります。



さら弥生後期末には人が居なくなったとはなぜなのか?

自分に都合のいいようにバイアスをかけると、・・・へへ

294年ごろに、ホムチワケが出雲に行っています。

つまり、垂仁天皇の敗北宣言とおいらは思っていますけど、それが関係しているのかな?













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桃太郎  その 11

2022-08-12 11:14:27 | 猿田彦
どうやって、出雲から岡山まで行ったのでしょうか?

川沿いに移動したと言うことは、間違いないでしょう。ではどのようなルートだったのか調べました。

まず、例のごとく海面を7m上げてみます。

この地図の右の方ですけど、安来市と、米子市付近が湾になっています。

くわしく見てみましょうか


その付近で、それらしい川を探すと「日野川」があります。

それをさかのぼって行くと、旭川の源流近くに行きます。


全体の画像です


岡山の尾針神社付近の図です


それぞれの川の源流付近の地図です


「白髭」と言う地名があり、そこを流れる川にも、「白髭川」と言う名前がついています。

サタヒコに関係があると思いますね。もう、この時期から「白髭」を名乗っていたのでしょうか?

それとも後からついた名前なのでしょうか?


徳山神社と言う所があります。

神社庁から引用させていただきます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
旧社地の真嶋郡別所佐波良谷に鎮座し、佐波良神社と称した口碑がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
佐波良神社は何処かと調べましたが、良くわかりません。こちらでしょうか?


どちらにしても、旭川沿いです。中継地なのでしょうか。

徳山神社の御祭神は、 素盞嗚尊,少彦名命,大己貴命,事代主命 

これは、彦坐王ファミリーですね。

少彦名命=サタヒコ、 

大己貴命(大国主)=サホヒコ

事代主命=大国主の息子

そうすると、素盞嗚尊は、彦坐王とするのが適当かと思います。いかがでしょうか?




日野川をさかのぼり旭川を下ると全長160kmぐらいの距離です。












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桃太郎  その 10

2022-08-11 13:41:23 | 猿田彦
その8で、高松から道後まで船でおよそ10日かけて行っているように書きましたけど、

違ってるかもしれない。

以前、ある本で、当時の船の構造では瀬戸内海は航海できないと書いてあったことを思い出しました。

その本を探しているのですけど見つからない・・・

船の専門家の方が書かれた本だったと記憶しています。

もしそうなら、もう一度考え直してみたほうがいいですね。

このように考えます


なるほどこのように進めば、一筆書きで進めます。鳴門海峡も通りません。

西分増井遺跡にも行くことが出来ます。


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