たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿投神社について考える

2021-01-30 08:35:15 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
最初のころ、おいらは、朝廷別王(=猿田彦=すくなひこな)は、猿投神社に住んでいたと思っていました。   違いますね。



「創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀る」こう書いてありますね。

勅願によるということは、仲哀天皇が命じたということ。おそらく、神功皇后の意見でしょう。

仲哀天皇の妻である、神功皇后については、 神坂神社の祭神で、少し触れています。



それにしても、朝廷別王のころとは、だいぶ年月が開いています。神功皇后の曽祖父が

朝廷別王の時代です。


天皇にしても、崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀となります。

朝廷別王は、垂仁天皇と同じ世代です。

なぜ、こんなに時間がたってからの創祀なのか?謎です。

もう一つ謎なのは、氷上姉子神社に書いてありますけど、氷上姉子神社の本宮からのレイラインがこの猿投神社を通るということです。


(この、日の出日の入りマップには、ほんとお世話になっています。。。)

氷上姉子神社の時代を考えると、東谷山の尾張戸神社は、

第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます

成務天皇は、実在しないかもしれないという説もありますが、それでもあえて年代を推測すると、

325年ごろと思います。

そして、尾張戸神社を建てたのが、朝廷別王でなく宮簀媛命と言うことは、この時には朝廷別王は

もうこの世にはいないということでしょう。320年で彼は55才ぐらい。

没年はそのころと思います。

宮簀媛命とは誰かと言うことを考えると、朝廷別王の娘としか考えられません。

「玉姫」と言う娘が、建稲種命(たけいなだねのみこと)に嫁いでいます。

でも、この年代を考えるとかみ合わないのです。またまた誰かが物語を創作しているようです。

そのことについては、ここでは触れません。あしからず。


さらに、尾張戸神社の創建された325年頃とは、朝鳥名神のレイラインを測量した頃とほとんど同じ年代でしょう。

ということは、この氷上姉子神社の本宮から猿投神社のレイラインは、同じ技術者集団の仕事かもしれません。

この集団は、朝廷別王といつも一緒に行動していたように思います。


その測量技術が代々受け継がれて、その後の猿投神社創祀の時に場所を確定したとは

考えにくいのです。


どちらかは、分かりませんけど、おいらは、朝鳥名神のレイラインを測量した技術者たちが

場所を特定して、現在の猿投神社の場所になんだかの形あるものがあったと考えます。



ですから、案内板には「創祀」としてあり、「創建」と言う言葉を使っていないのかもしれません。



でもなんで、仲哀天皇のころの創祀なのだろう?やはりわからない。

神坂神社の祭神でも書いていますけど、

神功皇后の曽祖父の「山代之大筒木真若王」と言う人物は朝廷別王=(=猿田彦=すくなひこな)

かもしれない。この場所に、猿投神社を建てたということで、可能性が高くなりました。


その山代之大筒木真若王の、奥さんは丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)です。

これは誰だろうか?




妄想すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天宇受売命(アメノウズメ)?



妄想を終わります。。。




















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美濃のレイラインと夕田茶臼山古墳 その2

2020-09-11 05:47:59 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
美濃観音寺山古墳には、もう一つレイラインがあります。



大矢田神社(遥拝所・御旅所)と言う場所からの冬至の日の出のラインが、美濃観音寺山古墳です。

目視とみられるので、少し誤差があります






現在の、大矢田神社はこの場所の奥になります。

大矢田神社の歴史を調べると、

第7代 孝霊天皇の御代の創祀と言われます。

ちなみに

第8代が、孝元天皇  

第9代は、開化天皇 (彦座王の父親) 

第10代が崇神天皇(彦座王の異母の兄) 

第11代は垂仁天皇(彦坐王の子である比婆須比売命(ヒバスヒメ)は、皇后)

欠史八代と言われているのが、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことで、

現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と言われます。

そのことについては、確かめようがないので、とりあえず、以前作製した年表から孝霊天皇のおよその年代を割り出してみます。

135年頃に孝霊天皇生誕、そして160年頃に天皇即位、170年頃崩御
          
とまあ、およそですけど、160年のから170年までの10年間と言うことになります。

これも、参考にした資料がどの程度正しいのかわからないのでとりあえずの目安にしかなりませんけど。

ちなみに、美濃観音寺山古墳の出土品に方格規矩四神鏡という鏡があります。

これは、中国で制作されたもので時代は西暦8〜23年とのこと。

それから考えると、それほど時代がずれているということにはならないようです。

もうひとつ、出土品には翡翠製の勾玉がありました。

この時代に、すでに糸魚川の翡翠がこの地に運ばれていたことになります。



一方、夕田茶臼山古墳の年代はと言うと、こちらはかなり正確にわかっているようです。

出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀中頃と判明

とすると、美濃観音寺山古墳と夕田茶臼山古墳の時代は100年ほど開きがあります。

意外でした。おいらはもっと近い年代と予測していました。

美濃観音寺山古墳付近にはほかにもいくつかの古墳があるので、その中のどなたかと

夕田茶臼山古墳の人物が関係していたと考えたほうが良さそうです。


久しぶりに、大矢田神社に行ってきたんで画像を載せます。
















中央の山頂あたりが、観音寺山古墳のあった場所と思います。





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砥鹿神社~斎宮~神山神社のレイライン

2020-08-13 06:46:03 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
暑くなりました。

コロナも第二波なのでしょうか、感染が増えています。 気持ちが緩まないようにしたいものです。

出荷のついでに、足を延ばして、愛知県豊川市にある「砥鹿神社奥宮」に行ってきました。

三河の本宮山から犬山の本宮山は見えるのか? 伊勢の斎宮と神山神社は見えるのか?

それと、タイトルにある砥鹿神社~斎宮~神山神社のレイラインの観測場所は何処なのか?

調べてみましょう。

まず、砥鹿神社~斎宮~神山神社のレイラインです

砥鹿神社から見た冬至の日没の線上に斎宮と神山神社があります。

以前書いた「斎宮の場所」も合わせて参考にしてください。

斎宮のレイライン


神山神社のレイライン


そして、砥鹿神社奥宮

レイラインが神山神社を通るようにセットすると、砥鹿神社奥宮より北の場所になるのです。

どんなところか、現地に行って調べてみたかったのです。

地図です


まず、赤い大きな鳥居があり、そこを過ぎると


iPhoneの地図にあらかじめ場所をマークしてあります

近づくと、右の灯篭付近です。

その先を見ると


岩戸神社遥拝所(ようはいじょ)とあります。

境内図が砥鹿神社のHPにあったのでリンクしておきます

ここから、西にある岩戸神社に行けるようです。昔からの道なのでしょうか。

少し進むと、

10坪くらいの広場?と言うのか、木の無いところがあります。

ちょうど、レイラインの線上です。

ここですね!

まさに、ここから神山神社へのレイラインを観測したのですね。

この広場が残っているということは、なにか行事でもするのでしょうか?

それとも、特別な意味のある場所として残してあるのでしょうか?



伊勢の方向を見ても、木が邪魔で見えません・・・

それならば、本宮山の頂上に行きましょうか。

すぐ近くです。



コンパスと地図を見て、方向を定めます。

伊勢の方角ですけど、曇っていてわかりませんね。

以前、神山神社付近から、本宮山を見てみましたけど、その時も雲に隠れて見えませんでした。

でも、おそらく視界を遮るものは無いと思います。

それでは、犬山の「本宮山」は見ることが出来るでしょうか?



この山のどこかだと思います。

狼煙を上げれば十分に見ることが出来ますね。

古代では、そうやって連絡を取っていたのではないでしょうか。

山頂に神様が祀ってあるとは、そういう連絡を取る場所と関係があるかもしれません。


さて、まだ時間があるので、石座神社に行こうと思います。

この付近には、「石座神社」は、3か所あるのです。

本宮山の西にある、石座神社。 こちらは以前訪問しています。

そして、もう一方の石座神社。地図です。


ここに移る以前の場所が山の奥にあるということです。

林道を車で登っていきました。

すると・・・通行止め・・・

二又があったので違う方向に行くと・・・木が滑り落ちてきてこちらも通行できません。

戻るしかない・・・歩いて行こうかとも思ったのですけど、何も準備してなかったのであきらめます。



結局、地図にある石座神社に行くことに










石座神社遺跡は、朝廷別王 (みかどわけのみこ)そして、大国主の時代より、古いようですね。

* (大国主=伊勢津彦=狭穂彦王と考えます)


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美濃のレイラインと夕田茶臼山古墳 その1

2020-07-22 04:56:51 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
美濃のレイラインについてあまり書いてませんね。

以前、喪山ではご紹介しました。

観音寺山古墳については、こんな感じです


おそらく、目視なので標高差による誤差があると思われます。

どういう事かと言うと



お分かりいただけたでしょうか?

ですけど、今まで尾張でご紹介してきたレイラインについては、このように直接見るという観測の仕方では無いようなのです。

おいらが、ここで使わせてもらってる「日の出日の入りマップ」は、おそらく

水平線からの日の出,日の入りだと思います。

尾張のレイラインについては、そのマップと全く一緒の結果が出ます。

古代において、すでにそのような水平線から日の出,日の入りを観測できる技術を持った集団がいたようです。

古代の、航海するために考えられた技術でしょうか?

どのように計測しているのだろうか?

全く分かりません。  

星を使っているのかなとも推測しますけど、それ以上は進めません・・・

もしそうなら、地球の歳差運動のため、数百年後には誤差が生じて使えなくなることも考えられます。



今までの流れで推測すると、その集団は、彦坐王と共に移動していたようです。

以前書いた「伊勢神宮内宮のレイライン」もその集団が測量したものでしょう。

その後、彼の子である 朝廷別王 (みかどわけのみこ)とも一緒に行動していたようです。

以前書いた 「斎宮の場所」 にある、 砥鹿神社奥社→斎宮→飯野高宮神山神社のレイラインもこの集団によるものでしょう。

おいらが今まで調べた内で、この技術を使った最後のレイラインは、氷上姉御神社から見た猿投神社です。時代は、景行天皇のころと推測します。


伊勢津彦(おそらく狭穂彦王)が、砥鹿神社奥社から天竜川を登り諏訪に至る途中までこの集団の足跡があります。朝廷別王もいっしょに居たのかもしれません。



さて、話をもどしましょう。

前回は、 岐阜県美濃市大矢田にある喪山天神社からの冬至の日の入り線上に

岐阜県不破郡垂井町の、喪山古墳があるということをご紹介しました。

これも、目視のため標高の誤差があります。

でも、かなりの精度と思います。

さて、ようやくタイトルに出てきた、夕田茶臼山古墳ですけど、これも大矢田の喪山天神からの冬至の日の出の線上にあります。


喪山天神からの計測の場所は







ここです

喪山天神の本殿ですね。

夕田茶臼山古墳の地図です



夕田茶臼山古墳の画像です







夕田茶臼山古墳については、最初おいらは彦坐王と同じ時代ではないかと思っていたのですけど

どうも違うようです。

それより少し時代をさかのぼるようです。

さて、少し長くなったのでいったん筆を置き、

次回では時代、そして地形、東山道とも絡めて考えたいと思います。
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倭姫の美濃からの足どりを推測してみましょうか

2020-02-12 07:57:52 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
倭姫は美濃のどこに滞在したのでしょうか?

以前紹介した「おばあちゃんがいたところ」に書いた五社神社付近と思うのです。



少し北に行くと、「諏訪神社」があります。

最初、なんで大和朝廷の関係のところに諏訪神社があるのか不思議でした。

でも、このブログで今までに推測してきたように、国譲り神話は出雲ではなく伊勢で、

伊勢津彦=沙本毘古王、なおかつ伊勢津彦=大国主神とするとここに諏訪神社があることの

意味が自然のことと考えられます。

参考までに、伊久良河宮 は、彦坐王が伊勢津彦(=沙本毘古王)と伊勢に向かった時に滞在したところと推測します。

砥鹿神社で伊勢津彦と合流した、朝廷別王(みかどわけのみこ)は、ここで生まれたと思います。

話を戻します。

倭姫の足跡は、愛知県の一宮市にいくつかあります。

とりあえず、神社(緑)、古墳(青)、製鉄と関係のある地名(赤)を地図に書き込みます。



googleマップが張り付けられないので、こちらからご覧ください

これを見て、大江川沿いにいくらかの場所があるようです。紫が今の大江川です。

どうも、倭姫のころから流れがそんなに変わっていないようです。

濱神明社には、「御舟繋ぎ松」と言って、倭姫命の御舟を繋いだ松があったという言い伝えがあります。

倭姫の移動は、船で行われたと考えていいと思います。


一方、赤色で書いた日光川に沿っても色々ありそうですけど、少し流れが変わっているように見えます。

酒見神社、中嶋宮は元伊勢かもしれないと言われます。

さて、それでは倭姫一行は船をどこで調達したのでしょうか?

五社神社付近は、長良川が流れていますので直接一宮に来ることができません。

木曽川の流れまで歩いたと想像します。

その付近の地図を見てみましょう


もう一度こちらから見てください


手力雄神社があります。おそらくすぐ南を木曽川が流れていたと思います。

でも、倭姫の時代にはまだ手力雄神社は無かったのではないかな。

じゃあ、どこで船を調達したのか?

東山道を木曽川の上流に向かって行くと、衣裳塚古墳があります。この古墳はまだ倭姫の時代には

ありませんけど、近くに「一輪山古墳」という円墳があったそうです。4世紀全般のものと推測されています。

時代は、倭姫とピタリ一致します。この埋葬者はどのような人なのでしょうか?

彦坐王と一緒に、丹波もしくは奈良から来た伊福部氏なのでしょうか?

それとも、この地に昔から住んでいた人なのか?

一輪山古墳からは三角縁神獣鏡が出土しているそうです。

はたして、伊福部氏の古墳から三角縁神獣鏡が出るものなのか?

今後の課題にしておきます

時代は不明ですけど、その付近の八木山あたりには伊福部氏が住んでいたようです。

それと、木曽川の対岸には東之宮古墳があります。

おいらの推測ですけど、ここの姫が朝廷別王の妻の可能性が高いと思います。

朝廷別王は、倭姫の母親である、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の弟です。

船を調達するには、このあたりが適当かと思うのです。

そして、そこから木曽川を下って大江川に至ると考えることが川の流れからもすんなり行くのではないでしょうか。

当時の木曽川はどのような流れであったかは、推測出来ませんけど、おそらく何本もの支流があったと

言われます。

東之宮古墳から西に行くと、「山名」と書いて「やな」と呼ぶところがありますけど、その語源は、

「八つの流れ」から来たともいわれます。

今でも、この付近は数本小さな川や、川の痕跡がありますね。

さて、元伊勢と言われる酒見神社、中嶋宮はどうなんだと?

おそらくは、時代が少し下ったころ、手力雄神社もしくはその少し上流の加佐美神社あたりから船を出して

日光川に至る川筋に出来た神社などではないかと推測します。

それと、一つの疑問ですけど、倭姫は伊勢に行きっぱなしだったのか?

伊勢と岐阜を往復していたとは考えられないだろうか?

ならば、酒見神社も、中島宮も通っている可能性があります。

まあこれは完全においらの妄想ですけどね。。。

一宮を大江川沿いに通過した倭姫は、「大御霊神社」に到着します。

以前にも書きましたけど、ここは、朝廷別王の息子が居た可能性が高いのです。

当時すでに住んでいたかどうかはわかりませんけど、滞在するには身内(いとこになるのかな)

ということなので、可能性が高いと思います。

ですから、ここが元伊勢であると推測します。

ここから、さらに南下して二ツ寺神明社古墳を過ぎると、もうそこは海岸だったのでしょう。

津島神社経由で、宇賀神社まで行ったのでしょう。

宇賀神社の近くに多度大社が出来たのは雄略天皇の時代と言われています。

その頃は、伊勢と尾張、美濃の行き来が頻繁に行われていたのでしょう。

最初の方で紹介した「諏訪神社」は、日本海からの翡翠を流通させるための基地だったかもしれません。

そのことについては、これから検討していこうと思います。





















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二ツ寺神明社古墳

2020-02-05 08:03:30 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
愛知県あま市二ツ寺屋敷



この神社にあります



古墳の上に神社があります




向かって左には「風の宮」があります



前方後円墳との説明がありますけど、前方部は別のもので、神社下にある円墳がすべてという説もあるよです。

古墳時代前期の前方後円墳というと祭られているのは誰だろうとわくわくして訪問しましたけど、

その頃の地形を考えると、天皇の血筋の人物がこの場所に住んでいたとは考えにくいのです。

現在でも、標高は低く、説明の看板にも書かれているようにゼロメートル地帯なのです

当時は海岸沿いだった可能性があります。

ちなみに、1m海面を上昇させた画像を見てみましょうか



津島神社はその名の通り、「島」ですね。

この少し西にも、円墳があります。

築山古墳、 愛知県稲沢市込野町元屋敷492−8444





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

麻積冨士社古墳  愛知県稲沢市南麻績町郷前




ここから、津島神社に向かって進むと、奥津社古墳があります。

まだここは、訪問していませんが、3面の三角縁神獣鏡が奉納されているそうです。

ということは、元々この地域に住んでいた人なのか?

それとも、ほかの地で三角縁神獣鏡を彦坐王から賜った人物がこの地に移動したか?

どちらかといえば、後者かと推測します。

この付近、当時はまだ陸地が出来つつある時期で、河川の氾濫があれば家など簡単に流されてしまうでしょう。

そのような場所に人がもともと住んでいたと考えるのは無理があると思います


地図を作製したんで載せてみます


さらに、西に進むと 諸鍬神社そして満成寺(黄色のマーク)があります。

このあたりは、あれこれ車で移動しましたけど、道が狭いので、駐車できず

前を通るだけになってしまいました。まあ、雰囲気はつかめましたけど。

さてそこはどんなところかというと、天保9年(1838年)に古船が出土したそうです

その古船の木片は、現在も残存しているようで、名古屋大学で、C14年代測定がされたとのこと。

材質は、楠の木。 複材刳船の構造を有していたと推測できると言われます。


詳しくはこちら

一部引用してみます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
、天保9年閏4月3日から同5日にかけて、中島郡(正確には海
束郡)の諸桑村の満成寺の裏辺にて、長さ11間2尺程、差口5尺余の大きな楠製の船
発掘、丸木を2つに割って中を則り抜いた船で梁木の穴もあり、「甚だ古代の物」
であるという。この船が発掘された場所からは、同時に銭や素焼の物が掘り出されて
おり、同月8日に再度発掘したところ仏像のごときものを出土したとある。


この発掘された古船は樟製で、史料によってやはり若干差異がみられるが、
およそ長さ60~80尺(約18~24メートル)、巾5~7尺[約1・5~2・]メートル)とい
う非常に大きな船で、前出の石井謙治氏らの研究にしたがえば、門式の複材刳船の構
造を有していたものと推測できる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時代について、木片の一つは、7~9世紀頃に新旧の各材を利用して造られた船の物

別の木片からは、弥生中期頃に造られた船の物と言われます

これが何を意味するのかは、どうもよくわからないみたいです。

pdfに書かれている図を見ると、300年頃の値が真ん中に来るようです。

でも、古銭が出てきたということはどうなんだろう? 300年頃には古銭はないでしょう。

やはり、7~9世紀頃の船でしょうか?


どうして、埋まっていたのか?

嵐で難破したのでしょうか? でも、木でできているから沈まないですよね。

それならば、地震による津波のせいなのでしょうか?




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大御霊神社に行ってきました。

2019-11-04 08:34:39 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
すでに、大御霊神社については、ご紹介していますけど、訪問をしていないので

なんか、心に引っかかっていました。

ようやく、訪問が出来ました。






以前の、記事はこちらです。

地図を載せておきます



裸祭りで有名なのは、尾張大国霊神社  (国府宮)こうのみやと地元では呼んでいます。

大御霊神社は、その別宮といわれています。歩いて数分のところにあります。



国府宮です。こちらの方が圧倒的に有名です。







ストーンサークルが、あるらしいです。本殿の隣にあるとのこと

見えません・・・


さて、どちらの神社が最初の地でしょうか?

レイラインを見ると、大御霊神社からの夏至の日の出が、

犬山市にある大縣神社の本殿にピタリとヒットするのです。




しかも、秋分、春分の日の出が東谷山の尾張部神社古墳にヒットです。

以前の記事でご確認ください。


春分、秋分の日の出のラインは年によって少しずれるようですので、

そのうちのどこかかもしれません。


この大御霊神社の場所を選択した理由は、レイラインで決めたとしか考えられませんね。

それらのことから推測すると、この大御霊神社の初代は、

大縣神社の初代である「朝廷別王」の息子ということも考えられますけど、当時はただ単に中継地点だったのかもしれません。



この「朝廷別王」の「別」とは、たしか天皇にはなれないという意味と

どこかで聞いたことがあります。

ということは、かなり天皇に近い存在と考えていいのではないでしょうか。

そのことについては、これ以上踏み込むだけの資料がないのでここまでとしておきます。



話が少しそれますけど、倭姫が伊勢に行く途中に中島宮という場所が出てきます。

当時の、神社らしきところはそれほど多くはないでしょう。

この、大御霊神社がその場所ではないかと推測します。

他にも候補地はいくらかあるようですので、何とも言えませんけど

朝廷別王の息子と倭姫は「いとこ」の関係になるのです。

かなり現実味があるのでは。。。























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伊勢津彦は誰?

2019-08-22 10:15:43 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
ようやくここまでたどり着くことができました。。。

伊勢津彦について、ウィキペディアはこちら

おいらのブログではこちら

さらにこちら

天日別命と倭姫命伊勢に向かうシリーズで、その場所を探っています。

ざんねんながら、天日別命が大和王権として、最初に伊勢に行った人物ではなく

しかも、天日別命は、彦坐王の子でもないです



でも、彦坐王の子の一人が伊勢の辰砂を求めて出かけているのは確かと思います


おそらく、彦坐王もその子といっしょに大垣付近から船で伊勢まで行ってるでしょう。

その人物が、伊勢津彦のようです


さて、本題の伊勢津彦は誰?ですが、彦坐王の子を調べていくと、あれ?という人物がいました。

ずばり、「沙本毘古王」または、「狭穂彦王」とも書きます。(さほひこのみこ)

沙本毘古王を調べると、「沙本毘古の謀反」ということが出てきますけど、

これは、まったくの作り話です。

さて、沙本毘古王の足跡をたどってみましょうか


彦坐王の年表を見てみましょう



沙本毘古王の生まれは250年ごろと思われます

彦坐王の最後の子である朝廷別王の生まれは268年頃と推測します。

それから、伊勢に出かけたとすると、沙本毘古王は18歳。彦坐王は、38歳。

一番脂ののった年齢ですね。

話は少し脱線しますけど、武埴安彦の反乱という出来事があります。

時代は、四道将軍の時です。

この時負けた武埴安彦の兵士を彦坐王が、引き取り自分の支配下に置いたという話があります。

そこで、ふと思いついたのが、「移田神社」です。

天日別命と倭姫命伊勢に向かうその3、移田神社で書いていますけど、移田神社の本来の祭神は 「埴安姫神」

もしかすると、武埴安彦の兵士たちはここに移住したのかもしれませんね。

そして、それが出来たということは、彦坐王が、その場所に居た可能性が高いと思うのです。

岐阜の大垣から伊勢までおおよそ20kmごとに中継基地があります。

画像があったはずなんでさがしてみます



こんな感じです。  大垣の出発地点が書き込んでありませんね。

大垣と地図に書かれているやや岐阜よりと思ってください。

これらの場所は、一か所ずつきちんと開拓しながら進んでいったことでしょう。

数年という時間がかかったと思います

ですから、今でもちゃんと神社として残っているのでしょう。

伊勢に渡ったのは、沙本毘古王と彦坐王、そして丹波から来た伊福部氏の兵と技術者たちと思います

レイラインの技術者も伊勢まで同行しているようです。←間違いかもしれません
(PS この時点では、まだレイラインは測量していないようです
測量したのは、倭姫が伊勢に行った時のように思います。訂正です。)

そして、飯野高宮神山神社から内宮のレイラインをこの時すでに測量していたと考えます
                       ↑
              (測量したのは、倭姫が伊勢に行った時です。訂正です。)

その後彦坐王は伊勢にとどまらないで、岐阜に戻っています。







日本書紀には、「崇神48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、

一種の夢占いをして、4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた」

とあります。

活目命とは、後の垂仁天皇です。

豊城命は、垂仁天皇(第11代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄です。

この豊城命が、伊勢津彦を追放した天日別命ではないでしょうか


豊城命の年齢を推測すると、大俣王とおなじくらいと思うので、248年ぐらいの生まれかな?

すると、崇神48年は、西暦にすると280年、豊城命の年齢は32歳

沙本毘古王もそれほど離れていないでしょう。仮に30歳としておきましょうか。

その時、彦坐王は、50歳ぐらい。

当時では、もう高齢者ですね。このころに亡くなったかもしれません。

だから、崇神天皇は、この時がチャンスとばかり、

伊勢の辰砂を手に入れようと武力をもって伊勢津彦を追い出したのではないでしょうか?


「沙本毘古の謀反」は、実は朝廷側の伊勢への侵略であり、それを隠すための作り話と思います。

その後の伊勢津彦の足跡はこちらこちらに書いてあります

伊勢津彦が去った伊勢はどうなったのか?

次回、推理したいと思います






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彦坐王の年齢と出来事と西暦

2019-08-16 07:01:58 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
およその数字ですけど、推測してみました

こちらを基本にした数字です。

彦坐王=丹波道主としています






たったこれだけのものを作るのに、かなり時間がかかってしまいました

しかもきちんとした裏付けがあるわけでもないしね

以前、倭姫は何歳では、282年生まれと書いていますけど、もう少し遅いと思われます

286年と変更しました。そうすると、16~17歳ぐらいに伊勢に行ったことになります。

まあ、大きな外れはないと考えます


でも、この中で一つだけ矛盾するものがあります

それは、「沙本毘売命 第11代垂仁天皇の后となる 292年」と言う所です

記紀では、垂仁天皇2年2月9日立后とあります

でも、彦坐王の子たちの年代から考えると、年齢が合わないのです

 沙本毘売命は、垂仁天皇5年10月に亡くなっています。

その後、比婆須比売命が、垂仁天皇の后になっていることからも時代がおかしいのです。

おそらく、「沙本毘売命」という人物は架空の人と思います。


「沙本毘古王 謀反を起こす」と書きましたけど、こちらの方の説明がよくわかると思います

物語の内容を考えても、明らかに事実ではないなと皆さん思われるのではないでしょうか

したがって、「誉津別命」という人物も、架空の人でしょう。


それから、矛盾ではないのですけど、袁祁都比売命(オケツヒメノミコト)の足跡が全く分からないのです

しかも、彦坐王の母親の妹なんですよ?ほんとうかよ?

神功皇后の血筋なので、それに関係すると思われますけど、ここでは取り上げません。あしからず・・・



彦坐王の最初の妻である、「山代之荏名津比売」の「山代」は、

「山城」ではないかという説があり、その場所は「山城国」とすると



赤いところがその場所です。京都ですね


そして、次の妻の沙本之大闇見戸売の親は、大和盆地北部の豪族です

その次の息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親は、天之御影命(天目一箇神)

御上神社の祭神です



最後は、丹波之河上之摩須郎女(たにわのかわかみのますのいらつめ)

倭姫のおばあちゃんです。



衆良神社 おいら、ここへは、まだ行っていません。

祭神は、父親の河上摩須

彦坐王が、四道将軍として丹波に遠征に来た時、妻になっています

水石亭主さんのブログにはその時の彦坐王の館の場所まで特定されています。

その場所が、元伊勢与佐宮つまり外宮の故郷ですね。

一般には、籠神社が、元伊勢与佐宮と言われていますけど・・・

まあ、ここではそれには触れません


さて、これまでの中で、息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親が祭神の

御神神社のレイラインを調べたら、驚きましたね。

最初は、偶然なのかと思い取り上げもしなかったのですけど、

では、見てみましょうか



夏至の日没





数10mぐらいの誤差はありましたけれど、そもそも、

どこを起点にしたかもわからないので問題ないでしょう。

距離を測ったら、115km。


これが偶然でなければ、息長水依比賣と丹波之河上之摩須郎女は、姉妹もしくは、従妹の可能性が出てきます。

そうなると、今までわからなかったことがスッキリします。

たとえば、奈良で鏡を作っていた人たちの一部は、息長水依比賣と一緒にやってきた製鉄の技術者

もしかすると、丹波に居た伊福部氏の可能性があると思います

そして、丹波之河上之摩須郎女の居た丹波に玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という集団が

侵略してきたので、奈良の伊福部に助けを求めた。それが、彦坐王の四道将軍としての

丹波への遠征かもしれない・・・何の証拠もないですけどね。

もう一つ、妄想をすると、彦坐王の集団は、奈良には、山代之荏名津比売とその子が残り

沙本之大闇見戸売、息長水依比賣、丹波之河上之摩須郎女とその子たちと、一緒に居た兵

技術者などが、琵琶湖周辺、大垣の金生山周辺、そして岐阜に移動しています。

御上神社は、その移動の途中に出来たのかもしれません。

移動部隊の中には、レイラインの技術者がいたということは確実と思います。

次は、誰が伊勢に行ったのかを推理します。










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崇神天皇と彦坐王

2019-07-20 07:08:24 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
どちらも、父親は開化天皇です。


崇神天皇は、開化天皇の第2皇子。

開化10年、皇后である、伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)との間に

御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと、崇神天皇)が誕生。

開化28年1月5日、齢19歳の御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)を立てて皇太子とされる。



彦坐王は、 開化天皇の第3皇子。

妃・姥津媛(ははつひめ)との間に第三皇子として彦坐王(ひこいますおう)が誕生。



この二人、年齢はそれほど差がないようです。詳しい資料がないので、

断定はできませんけど。

開化天皇の第1王子はというと、

妃・丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。

との間にできた、第一皇子:彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)



いろいろと説があるのですけど、この第一皇子:彦湯産隅命の子が

「彦坐王」とも言われます。


でも、そうすると彦坐王の子供たちの年代がおかしくなるので、これは違うと思うのです。


さらには、彦湯産隅命 = 彦坐王  という説もあるようです。

こうなってくると、わけわからん・・・


この兄弟、生まれは九州で、崇神天応と彦坐王が大和まで移動したとする説が

有力のように思います。


    



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彦坐王の子孫

2019-06-07 06:56:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

次のようになります

彦坐王=丹波道主として書いたものです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  「妻」             「子」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

荏名津比売(苅幡戸弁)    大俣王、小俣王、志夫美宿禰王


沙本之大闇見戸売       沙本毘古王、袁耶本王、沙本毘売命(佐波遅比売)、室毘古王


息長水依比売         丹波比古多々須美知能宇斯王、水穂之真若王、
    
               神大根王(八瓜入日子王)

                水穂五百依比売、御井津比売


袁祁都比売命         大筒木真若王、比古意須王、伊理泥王


丹波之河上之摩須郎女     比婆須比売命・真砥野比売命・弟比売命・朝廷別王

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大俣王の子には、曙立王(あけたつのみこ)伊勢の品遅部君、佐那造の祖


        菟上王 (うなかみのみこ)比売陀君の祖   がいます。


    曙立王は、伊勢に派遣されており、三重県多気郡多気町の佐那神社に祀られています。




沙本毘古王(さほひこのみこ)は、日下部連・甲斐国造の祖

      垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。

      叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。

沙本毘売命(さほひめ)垂仁天皇皇后




神大根王(かむおおねのみこ)は三野(美濃)・本巣の国造



妃である袁祁都比売命は、彦坐王の母の意祁都比売命の妹(そのまま解釈して良いのか?)

  子孫に息長帯比売命(神功皇后)がいます。





 比婆須比売命は、垂仁天皇の皇后
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大縣神社奥宮

2019-06-04 06:31:24 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の頂上からはどんな景色が見られるのか、気になったので出かけました。

6年ぶりの訪問です。




三の鳥居まで、大縣神社より15分くらいかかるでしょうか、坂道がややきついです。




その鳥居の東側に、古道らしき道があります。



この道が、東山道から来る道と思われます。



地図には載っていないので、以前、ほかの道をこの道と勘違いして歩き回ったことがあります。

ですから、この道は、まだ探索していません。

今日も時間的に無理のようです。次回ですね。

目指すは、頂上です。



最初に、到着するのがここです。








次は、山姥の祠(やまんばのほこら)・・・・これって何だろう?






最後に、数分で到着です



祠が新しくなっている?







南東に目を向けると




少し大きくして



真ん中やや右の山が東谷山でしょう。

その左が、猿投山ではないでしょうか

なんとその後ろには、三河の本宮山が見えます。

尾張の本宮山から三河の本宮山が見えるのですね!

肉眼で、頂上の鉄塔も確認できます。

風がすごく心地よいです。。。

しばらく景色を見て、のんびりしていました。




犬山の方を見ると


東之宮古墳のある山も近くに見えます


金華山も見えますね



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尾張戸神社からの景色

2019-06-02 05:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

 尾張戸神社から見る山はどのように見えるのか?

今まで、何度も出かけているのにあまり気にしたことがない




展望台があるのですけど、西の方しか見られません。

あいにく、もやがかかっていて遠くは視界がよくいありません。

神社の東側は、最近いすやテーブルが出来てしかも良い景色が楽しめます。

こんな感じ


この山は、猿投山ですね。

こんなに近くに見えるんだ。

そりゃぁ、出かけたくなるはずだ!

少し右の方の奥を見ると、


わかりますかね?

肉眼だとよくわかるのですけど、高い山が見えます。

おそらく、三河の本宮山と思われます。

ここから、見えていたんだ!

朝廷別王は、穂国造といわれ東三河一帯を支配したと言われています。

尾張は、自分の子や孫にまかせたのでしょうか?

東三河の開拓は、「大国主命=伊勢津彦」と一緒におこなったのでしょうか?

さらに、豊橋には「高師小僧」という褐鉄鉱の団塊が産出するそうですけど、それを使って製鉄をしたのでしょうか?

高師とはこのあたりなのでしょう


高師小僧とは、すず鉄と同じようなものなのでまず、間違いなく製鉄を行っていると思われます。



一説には、その褐鉄鉱、もしくは砂鉄を探し求めて、天竜川をさかのぼっていって、

たどり着いたのが諏訪だったという話もあり、非常に興味深いです。



ここからは、妄想です。

彦坐王ファミリーは砂鉄を使って製鉄をしていたとすると、原料は尾張戸神社の北側、

愛知県の春日井市高蔵寺付近から小牧市桃花台にかけての場所で、砂鉄が採れたようです。

砂鉄から出来た鉄は、褐鉄鉱からできたものより硬いそうで、武器に使用した場合

砂鉄から出来たものの方が有利になります。


草薙の剣は、もしかすると砂鉄から出来ているのでしょうか?

彦坐王ファミリーが制作したものならば、熱田神宮にあるというのもうなずけます。



ここまで書いた、「美濃、尾張、三河の神社とレイライン」を読むと、出雲の国譲りの場所が

出雲ではなく、伊勢ではないかとも思えてきます。

あまりにも話が似ていますよね。


それと、伊勢津彦は誰なのか?

彦坐王ファミリーの誰かなのか? 朝廷別王と、三河の本宮山で合流することを考えると

そう考えるのがすんなり来るのです。

次回からは、伊勢津彦は誰なのかを、考えていきたいと思います。


以上、妄想を終わります・・・



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御津神社

2019-05-16 06:35:40 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

御津神社(みとじんじゃ)



祭神 大国主命

愛知県豊川市御津町広石祓田70




引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 創建は不明。『延喜式』では三河二六座の一つの「式内社」、

『神名帳』には「正三位御津大明神」とある。

伝承によれば、祭神は御舳玉・磯宮楫取・船津各大神等の随従で船津へ着いたとされています。

豊川市教育委員会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

祭神である大国主命ご本人が、船でここに来られたんですね。

まるで、誰かを、大国主命に仕立てているように思われます。



一の鳥居をくぐると、船の形をした石積みがあります





古代には、海岸線がこの近くまで来ており、神社の東を流れている御津川を遡ってきて

たどり着いたところがこの神社か、あるいはこの船の形をした石積みのあたりが

海岸線だったかもしれません。





階段を上がり、二の鳥居の手前を左に進むと

よくわかりませんね


船津社跡

これは、右側





さらに階段を登ると



広い境内


本殿です



左側には磯宮神社



そして右側は


その奥にも



本宮山がはっきりと見えます



神社入り口付近には楠の巨木があります


樹齢 1,000年

相当大きい巨木です







ここから少し離れたところに御舳玉神社があります。



これで、御舳玉・磯宮・船津の神社がそろいました。




砥鹿神社HPより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「但馬続風土記」によれば、

神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、

更に東方三河国に向かわれたとあり

社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、

この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大己貴命=大国主命と言わています

但馬国朝来郡赤淵宮とありますけど、時代が合わないような気がするのですけど。

しかし、「但馬」は、古くは丹波の一部であったようです。

但馬=たんぱと読めますね。

さらには、赤淵宮とされる赤淵神社の近くにある養父神社(やぶじんじゃ)には、

丹波道主命が祭られています。

彦坐王=丹波道主命ということで話を進めます

彦坐王は、丹波の久美浜で 朝廷別王の母である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)を

妻にした後、養父神社付近にとどまった時期があるようです。


以上のことから、この御津神社に上陸した祭神である「大国主命」は、

その後、砥鹿神社に移動したと考えてもいいと思います。

そして、朝廷別王は、本宮山山頂からこの「大国主命」を探し

合流しようとしたのではないかと推測します。



もしかすると、この「大国主命」と、朝廷別王は養父神社で、一緒に過ごしていたのではないでしょうか?

どれくらいの年月、その養父神社付近に滞在したかは不明ですが、

朝廷別王はそこで生まれた可能性がありますね。

まだ生まれていなくても、その母である川上摩須郎女とは面識があることになります。



それから、朝廷別王は、この「大国主命」が、伊勢から船で三河の地に来ることを知っていたかのようにも感じます。

いかがでしょうか?

次回は、この「大国主命」がどういう人なのか、検討してみたいと思います。
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砥鹿神社(奧宮)、岩戸神社 奥の院

2019-05-08 06:47:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の山頂に到着です





駐車場のすぐ奥に鳥居が見えます。



ここから、少し下ると岩戸神社 奥の院です。

地図に載っていませんね。

グーグル地図見てみましょうか。画像のみですけど。





国見岩です




そこからさらに階段を下ると




ここが、岩戸神社のようです。

この隙間の奥のようです。入れないこともないけど・・・やめました・・・

決しておいらは、太ってはいません・・・念のため。。。

特別、社があるわけではありません。



景色がよくわからないので、本宮山の山頂へ向かいます。



駐車場から、それほど時間がかかりません。

景色は


素晴らしいですね

渥美半島も確認できます

実は、この景色を確かめたかったんです。

なぜかというと、朝廷別王はおそらく緊急で誰かを迎えに、ここに来たのではないかと思うのです。

その誰かとは?



砥鹿神社 奥宮の祭神である大己貴命(別称大国主命)を信仰の対象とする人物であろうと推測します。

その人物については、まだ、情報収集に現地を訪問していないので後程検討していきたいと思います。

山頂の景色を見ながら、おにぎりを食べようと・・・あれ?

お茶はあるけど、おにぎりが無い!  車に忘れてきたようです・・・




さて、空腹ではありますが、砥鹿神社 奥宮に行ってみましょうか。

本宮山の頂上から降りてきて、そのまままっすぐに進むと5分ぐらいで到着です。




すばらしい杉の巨木です。



樹齢 1,000年と説明されていますけど、合体木でなければ、それ以上の樹齢と思います。

山の頂上という、水の供給が充分でないところなのに、この大きさには驚きです。


いよいよ本殿


その前には、階段があり、そちらから登ってこられる人もおられます。

どこから来られたのだろうと思いたずねると、どうも、麓から山登りしてこられたようです。

調べたら、往復で8.7km、4時間かかるようです。

おいらは、行きません!・・・笑










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