たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿田彦その 17 大宮諏訪神社はなぜその場所なのか

2021-12-27 15:56:13 | 歴史
その16の続きです。

伊勢津彦が伊勢を追われたのが、281年頃と推測します。

そしてすぐに、サタヒコの姉のヒバスヒメは垂仁天皇の妻になります。

倭姫の年齢から考えてみてもそう思います。

とすると、垂仁天皇は美濃に来ていることになります。攻め込まれたということですね。

そのころ、サタヒコと伊勢津彦たちは、この大宮諏訪神社付近に居たのではないかと思うのです。

ここから先は、おいらの妄想になります・・・


まず、美濃が攻め込まれたという連絡が誰かによってもたらされたということは、考えにくい。

でも、彼ら彦坐王ファミリーは、山頂で狼煙を上げることである程度の連絡をしていた可能性があります。

美濃の狼煙がいつもと違うということで、異変が分かったのでしょう。

その時点で、標高の高い場所に移動して基地を作った。その場所が、この「大宮諏訪神社」ではないだろうか?

そして急いで美濃に向かった。

でも、砥鹿神社経由で行くとかなり遠回りになります。

どうするか?近道を考えますよね。

それが、以前書いた恵那山越えになるのでしょう。

神坂神社は、その時に出来たかもしれないと書いていますけど、違いますね。

そんな余裕はないはずです。おそらく、サタヒコが伊勢から帰ってから出来たと思います。

そうすると、レイラインが熱田神宮を通るということも納得です。



サタヒコ達は木曽川を下り、美濃を目指しますけど、その前に犬山に着きます。

そう、東之宮古墳のある所ですね。すでに、そこの人達とは顔見知りなので、そこで情報を

得たのだと思います。

しかし、そこにたどり着く前には、大和朝廷の武装集団がいるかもしれないと考えるでしょうね。

どうするか?

少し手前で木曽川から上陸して、偵察に行くと考えるのが普通ですね。

その場所が、桃太郎神社付近でしょう。

桃太郎神社より上流に、「栗栖神社」と言う所があります。




その少し西に、瀬ノ上遺跡と言う所があります。この遺跡は少し時代が新しいのですけど

この付近が、栗栖神社の元の場所のようです。

このあたりです


この付近に上陸したのではないでしょうか。

そして、この場所は、後に伊勢に行くときの船を作った所がこのあたりだと思うのです。

そこから東之宮古墳の方を見ると


ちょうど右岸によって隠れます



栗栖神社の祭神は、宇麻志麻知命(うましまじのみこと)

  調べると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)の祖」とあります。

さらに

「宇麻志麻知命は邇芸速日命が登美毘古の妹・登美夜毘売を娶めとって生まれた神様。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇麻志麻知命については、調べている最中です。サタヒコとはかなり関係が深い人物と思います。


その後どうなったのでしょうか?美濃には行けないでしょう。

春日井の高蔵神社に向かったかもしれません。そして、そこに残っていた人たちと合流して

再び、大宮諏訪神社に戻り諏訪を目指したのではないでしょうか。












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猿田彦その 16 大宮諏訪神社

2021-12-25 18:12:25 | 歴史
猿田彦シリーズ、停止状態です・・・

なかなか難問です。数年前にはかなりの所を訪問しましたけど、はっきりしたことが分からず。

なので、ここにもあまり多くは書いていません。

と言うよりほとんど書いてないのかな?

今までの流れで、気になるところが「大宮諏訪神社」( 長野県飯田市宮の前4164−1)です。



天竜川から、直線で約4km弱あります。この距離に頭を悩ませていました。

でもすぐ近くを、「野底川」が流れていますので、天竜川から移動することは可能でしょう。

ここの、標高は、約 540mです。野底川を下り天竜川に出たところの標高は、390m。

150mの差があります。

訪問したことはあるのでつたない記憶をたどると、

ここの周りはかなり見晴らしの良い所だったと記憶しています。

神社の由緒によると

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
建御名方神が信濃に入り諏訪を統合する途中、当地に立ち寄られたのでこの地に祀られたとされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これが気になるのです。

まず、タケミナカタが諏訪に行く途中この地によられたということは、おいらの言っている

砥鹿神社から天竜川に向かい、その後,諏訪に行ったことの裏付けになると思います。

出雲から糸魚川経由で諏訪に行くとなると、ここは通らないでしょう。

それと「大宮諏訪神社」と言う呼び名です。

長野県北安曇郡小谷村にも「大宮諏訪神社」があります。

薙鎌打ち神事で、有名のようです。

この「薙鎌」と、猿投神社の「左鎌」とは、関係があると思います。

それと、もう一つ気になる事は、時間の事。

そのころ、彦坐王はもう50歳を越えているくらいの年齢です。

すでに亡くなっていたのかもしれません。だから、崇神天皇は、伊勢に攻め入り

伊勢津彦を追い出したのではないでしょうか?

伊勢津彦も大きな戦いもせず、わりとすんなりと伊勢から追放されているようです。

父親の後ろ盾がなかったことが理由かもしれません。


そしてさらに、サタヒコの姉のヒバスヒメが、垂仁天皇の妻になっています。

これはどう見ても、人質に取られたと思うのです。

なぜか理由を考えました。美人だから・・・たぶんそれもあるでしょう!

それとついでに、「伊勢と奈良の間の交通網の確保のために妻(人質)にした」という意味が大きいかと推測します。














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merry christmas

2021-12-24 11:10:04 | Weblog
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箸墓古墳その2

2021-12-23 14:13:14 | レイライン

この地図では、倭迹迹日百襲姫命の墓になっていますね・・・


箸墓古墳について、調べましたけどウィキペデイアが詳しいようです。


よく言われている、卑弥呼の墓とか倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓では

時代が合わないように思います。おいらは、レイラインから被葬者は「倭姫」と思います。

殉葬跡が存在しないということは、その理由の一つでしょう。

ウィキでは、「築造時期は3世紀後半以降から4世紀前半までと考えるのが一般的である。」と書かれています。

倭姫の生まれは、283年頃と推測しますので、4世紀前半ぴったりです。

兄、もしくは弟である、景行天皇の古墳は、 全長約300m。一方、箸墓古墳は、全長約280メートル。似てますね。

地理的に近くにある古墳も調べましたけど、倭姫に関係する所は見つけられませんでした。

彦坐王、サタヒコ、アジサハヒメと同様、亡くなってから古墳が出来るまでは別の場所、

倭姫の場合は、伊勢に御陵があります。そこから奈良まで運ばれたのでしょう。








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箸墓古墳

2021-12-22 14:35:15 | レイライン
箸墓古墳には、まだ行ったことがありません。

ですけど、レイラインを発見したのでご紹介したいと思います。

まずは、これから 箸墓古墳からです。



これで、ふと思ったのです。。。

秋分の日の出が、斎宮を通るのじゃぁ?




秋分、春分のレイラインは4年でひと回りするようです。なので、4年分を見てみます。

ピンの位置は、竹神社跡地です。倭姫の御陵からの夏至の日の出のライン上にあります。







これで、4年ひと回りです。次は元に戻ります。

いかがでしょうか?

ちなみに、砥鹿神社奥宮の岩戸神社遥拝所(ようはいじょ)からの冬至の日の入り(神山神社

を通ります)



たぶん、これで箸墓古墳の被葬者は決まり!

おいら一番乗りですよね!

ちょいと時間が無いので、今日はこれまで。。。




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水引

2021-12-12 08:43:29 | Weblog
久しぶりに、日曜の朝のんびりしています。。。

いつもは、出荷に追われていますけども、小休止です。

ふと、水引を作ろう!と思い、10年ぶりぐらいだろうか・・・

ほこりをかぶった箱の中から、水引を出してきた。

結び方を忘れてしまっているので、YouTubeを見て思い出しながら作っています。



上の方、蝶々に見えるだろうか?

一番下のものは、「叶結び」の輪が3つのもの。初めて作ったけど、間違えてます。

もう少し練習しなければ



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ジュンカスだいぶ大きくなりました

2021-12-08 06:08:05 | 植物


10.5cmのポットで栽培しました。かなりボリュウムがあります。

螺旋もきれいに出てますね。個体差があるようです。

きれいな螺旋を作る個体を選んでいます。

もう少し大きくしたいですね。すでに、5号のポット(直径15cm)に植えてあります。

18cmのポットで数株の寄せ植えを作ってみようかな。。。

ポップも作成しました。


サタヒコシリーズ書くこと止まっています・・・

以前書いたものを読み返していますけど、その時に調べた足どりに疑問が出てきました。

天竜川沿いに諏訪まで行ったのですけど、調べた場所は、川から距離がありすぎると思うのです

今ある国道152号線沿いに進んだのかもしれない可能性もあります。

でも、資料が無いので全く不明・・・

もう少し考えたいと思います。答えは出ないかもしれませんけど・・
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ひまわり

2021-12-06 08:19:25 | 
ここんところ、書き込みできてません・・・

本当に、たまにはぼそっと になっていますね・・・

ひまわりは、もう3回ほど栽培しています。矮性の高さ30cmぐらいのものですけどね。

欠点は、ピンチすると、その後うまくできないと言う所。葉っぱが出来ないんですよ。

だから、形が変になる。花は小さいのが出来ます。でも、商品としては落第です。

なので、もう栽培しないと思います。

さて、今日のタイトルの「ひまわり」は、植物ではなく、ゴッホの絵です。

検索すると、画像がたくさん出てきますけど、それぞれ、色が違うんですよね。

補色について勉強になるらしいので見てみましたけど、わからん!

まあ、専門家ではないのでしょうがないけど、植物を生産するときに鉢の色をどうするか

それに参考になればいいので、アバウトでいいのですけどね。

そこで、適当な画像を印刷して部屋に飾ってある


ある時、斜め上から見たときに、「あれ?・・・少し立体的に見える?」

そう見えたんです。おいらだけだろうか?

この画像では、分かりませんけど、他の人はどうなんだろう?

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天の羅摩船(あめのかがみのふね)

2021-12-02 10:27:17 | 歴史
猿田彦その 13 で少し書きました。スクナヒコナが乗っていた船です。

スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネに乗り、鵝(ヒムシ)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。
(古事記)

コトバンクには
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガガイモの実を割って作った舟。上代神話で少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗ってきたと伝える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、これは神話ですから横に置いておいて。。。

こちらの本では、それについて説明されておられます。

少し長くなりますけど引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「カガミ」は「鏡」を連想させると考えるのが自然ではなかろうか。少なくともピカピカ光るものである。

そこで顔を映す鏡もさることながら、たとえば、コクタンのような黒い堅い木をツルツルに磨き上
げた板などを考える。

おそらくはこのような黒光りする板なら、昔の人はカガミと形容したのでは
ないだろうか。

そのような板を船の中でどこかに飾っておいたりする船、そのようなものは考えら
れないか。

そこで出雲地方の神事の中に「カガミ」と名の付くそのような種類のものは伝えられていないか
を調べてみる。そうしたら果たせるかな、そのものズバリのものがあった。

四月七日の青柴垣の神事に、神掛りする人(当屋)の妻の後ろに飾る飾り板を「カガミ板」と呼んでいることがわかった。

現在では縁を黒漆で塗り、板面は金塗り、その表面には鳥居と松と、太陽と三本足の烏、裏面にも
鳥居と松があるのは同じだが、あとは月と兎とが描かれている。

昔だったらこれはどんな板でどのように作られたか、想像することは特に困難な問題ともいえないであろう。

そこでもう一つ考える。「羅摩」とあれば普通なら「ラマ」と読む。

これをわざわざ「カガミ」と読ませている点にも解決の鍵がひそんでいないか。

「独木舟」と書いて「マルキブネ」と読まされていたことを思い出す人も多いであろう。

Single-wood-boat だから Dug-out-canoe になる。

だから「マルキプネ」と読ませたのである。独をマルなどと読む訳では決してない。

それならば「羅摩船」も「ラマ材で作ったものを船の一部に鏡のように飾っておいた船」あたり
が語源ではないだろうか。

おそらく、ラマ材とはコクタンのように磨けば黒光りするような材質の木材ではないだろうか。

美保の関は黒潮分流が洗う所。

それならば黒潮の源流地の言葉ポリネシア系の言葉でラマとはどんな意味かを調べると、これまた、そのものズバリの言葉であるのに驚く。

ポリネシア語の分派ハワイ語では、
LAMA=Trees of the genus diospyros(ebony family.) Lama wood was used in building
temples, and a piece of it was placed on altars of the godess Laka.

すなわち「コクタンの一種の木であり、寺院の建築などの時に用いラカ女神の祭ダンに置く」とある。

しかもそのラカの神とは
LAKA=A god of canoe makers.

すなわち「カヌー作りの神」「船大工の神」ということである。解答は読者諸賢におまかせした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう一つ参考になるところを見つけました。

アロハかわら版と言う所から引用させてもらいます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
森の女神であるとともにフラの女神でもあるラカのキノ・ラウはラマという柿の仲間です。
(キノ・ラウとは、神が動植物や自然界のもの に姿を変えていることを言います。)

ラマは比較的湿気の多い森に生育します。

小さな実は日本の柿に近い味があり、完熟すると食べることができます。

ラマは、フラのハーラウ(修練所)に設置されるクアフ(祭壇)に置かれます。

ハーラウではこの木を、オーレナ(ターメリック)の根茎などで黄色に染めたカパで包むことが多いようです。

その理由は、ラマが光を表すためだと言われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらに画像がありました。

どうでしょう?

「青柴垣の神事」については、おいらは否定的ですけど、

「ラマ」と言う木が船のどこかに使われていたと考えるのが近いかな?



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猿田彦その 15 八坂神社

2021-12-01 14:02:00 | 歴史
三河に居たサホヒコとサタヒコ達は、その後諏訪を目指します。

なぜ諏訪なのかは、分かりませんけど、もしかすると最初から日本海を目指していたのかもしれない

そして、最後には奈良を取り囲むつもりだったのかもしれない。

最終的には、その通りになります。

出雲から先は、サタヒコが開拓したようです。そのことについては、まだ十分調べていないので

この先時間をかけてやりたいと思います。

さて、砥鹿神社からの足どりを見てみましょうか。まず、確実なのが、八坂神社です。



砥鹿神社から、豊川を遡り宇連川、亀淵川、分水嶺を通り、今度は相川を下り、大千瀬川が、天竜川に合流する所に八坂神社があります。

おいらが見つけたレイラインの中では、一番古いものです。







本宮山山頂を通ります。

本宮山から八坂神社までは40kmぐらいあるので、途中3か所ぐらい中継地があると思われます。

候補に挙がるのは、ちょうど分水嶺の場所にある池之神社です。

でも、神社としての歴史はそんなに古くはないです。

砥鹿神社から諏訪までは、2年ぐらいかけてあちこちで向きましたけど、決め手のある場所が

なかなか無いのです。ですからここにはあまり書いてありません。

おそらく、かなり速いスピードで諏訪まで行ったのではないだろうかと思います。






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