たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

下原古窯跡群

2022-03-27 13:07:04 | 遺跡

愛知県春日井市東山町 字 2336


以前からここに来たかったんですよ!  中には入れません。

この中の画像が見られますよ。https://r70548295.theta360.biz/t/48b45974-4d13-11ec-b3cd-0a45e0bc344d-1
図の赤い丸をクリックすると、そこのカメラからの画像が見られます。


時代は、サタヒコの時より後になります。

ここで作られた須恵器や埴輪が味美二子山古墳(あじよしふたごやまこふん)まで運ばれていたとのこと。

味美二子山古墳の築造時期は6世紀初頭ですので、サタヒコの時代より、200年後になります。

おそらく、サタヒコとは繫がりは無いでしょう。

ところがです。

砂鉄が採れるところは、この地方では、標高80m付近にあるということなのです。

以前、引用しました、「郷土誌かすがい 」というところの 小木曾正明さんと言う方が

書いておられます。こちらです


前回ご紹介しました、「瀬戸層群矢田川累層」の砂鉄が積もった層が現れる場所なのでしょう。



以前おいらが描いた画像をもう一度見てみましょうか



紫色が、その80mラインに沿っていると思います。

左端にある高根砂鉄産地は、おそらく高根神社の付近と思います。



標高 73.8m

西には、高根遺跡(58m)があり、南には、西山製鉄遺跡(47.4m)があります。

場所はわかりましたけど、現在は私有地のようで訪問できないようです。

製鉄をしていた場所は、砂鉄が採れる所より低い所のようです。

まあ、労力的に考えても当然ですよね。

ちなみに、下原古窯跡群の標高は、62mぐらいです。

そこの、東にある桃花園団地のどこかが砂鉄が採れたところのようですけど、現在では分かりません。

団地の中をうろうろしましたけど、不審者に見られそうなので早々と退散しました・・・

真ん中の上には、塩見坂と言う所があります。最初この場所が何処だかよくわからなかったので

出かけてみました。すると、何のことは無い、以前ここに書いていた「御嶽神社」(74.4m)付近の場所でした。
巨大な鬼板が置かれているとのことですけど、いまだ何処にあるのかわからない・・・

最後に、五社大明神社ですけど、製鉄に関する話はありません。でも標高が、76.3mなんです。

もしかすると、ここでも製鉄が行われていたかもしれないと妄想します・・・











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愛知県春日井市の砂鉄 その2

2022-03-21 08:55:35 | 遺跡
急に暖かくなったら、仕事がすごく忙しくなりました。

だいぶ更新をさぼっています・・・

でも、いくら忙しいと言ってもオフの時間は大事です。

なんとか時間を作って、色々出かけてきました。

以前載せた地図をもう一度見てみましょうか

こちら地図です

ほとんど全部、行ってきました。

それと、なぜ砂鉄がこの付近に出るのかを調べてみました。

650万年に愛知県から三重県にかけての地域に、東海湖という大きな湖があったそうです。

こちら参考にさせて頂きました。

そこに、いろいろなものが堆積してその中のある層が砂鉄を含んでいるようなのです。

濃尾平野東部では瀬戸層群、知多半島では常滑層群、三重県では奄芸層群と言われているとのこと。

瀬戸層群は、下位から上位へ瀬戸陶土層、矢田川累層(水野砂礫層・尾張夾炭相、猪高相)に区分できるとのことです。

鉄を含む層は、矢田川累層で、その下にある瀬戸陶土層は、焼き物に使う土のようです。

地質の事は詳しくないので、このあたりで筆を置くことにします。

今日は、春分の日なんですね。。。でも、仕事・・・

参考にさせて頂きました





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荒尾南遺跡

2020-12-31 08:09:26 | 遺跡

現在は、東海環状自動車道のインターチェンジが出来ています。

こちら参考にさせて頂きました。

その中から、一部引用させてもらいます。

まず、船の絵を描いた土器が発見されたということ。

このような絵だそうです


両側に82本のオールが描かれている船の絵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵画土器が作られた頃、弥生時代から古墳時代に移り変わる時期には、北陸地方南西部や東海地方西部に由来する土器が房総で急激に存在感を増すことがわかっています。おそらく、この土器に描かれた船の絵も、伊勢湾周辺から東京湾へと太平洋岸を渡ってきた文化の一つなのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弥生時代後期の広口壺に、細く鋭い線で3艘の船が描かれているとのこと。



こちら参照させていただきました

弥生時代後期とすると、彦座王の頃か? 3艘の船・・・伊勢に行った時も3隻の船・・・偶然だろうか?

それはともかく、この時代にすでに大型船があったと考えます。

北陸地方南西部の土器は、やはり琵琶湖経由で大垣に入ったのでしょう。

この船で、大垣から熱田神宮経由で伊勢そして、関東へ移動したと思います。

関東は、諏訪にいる建御名方命(タテミナカタノミコト)が、開拓しているので

そちらと交易が盛んになったと推測します。








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雪野山古墳

2020-11-16 08:30:24 | 遺跡


雪の山の頂上にある古墳とのことですけど、おいら現在足を負傷しているので、頂上までは行くことが出来ません。

さいわい、ほかにも古墳がたくさんあります。

とりあえず、入り口近くの古墳を見てみましょうか。









東近江市埋蔵文化センターのHPより

左を向くと川が流れています




この一帯は公園として整備されています

少し丘の上の方にも






雪野山古墳は、滋賀県最古(4世紀前半)の前方後円墳とのこと

朝廷別王とほぼ同じ世代ですね。

三角縁神獣鏡が副葬品にあります。前方後円墳から出て来るんですね・・・

どういう人なんだろう?

琵琶湖の南の地図です


御上神社は、天之御影神を祭神としています。

彦座王の妻である「息長水依比売」(おきながみずよりひめ)は、天之御影神の娘と言われています。

でも、御上神社のHPでは、天之御影神は孝霊天皇の時代と書かれています。

時代が少しずれていますね。まあ、孝霊天皇のことはひとまず考えないようにして次に進みましょう。

御神神社から雪野山古墳までの距離は、約11km。

当然、なにか影響があってもおかしくありません。

また、神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん)は、埋葬部付近から弥生時代後期の土器が検出されたことから、3世紀前半(220年頃)と推定されているとのこと。



あまりよく分かりませんね・・・ご容赦

日本最古級の前方後方墳と言うことです。

ここも、雪の山古墳から直線で11kmぐらい。

両方の影響を受けた人たちと考えたらいいのでしょうか。

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