たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

丹後半島のレイライン その 24 古墳の関係

2021-09-30 06:29:47 | レイライン
さて、どう検証しましょうか?

まずはデーターを見ましょう

昼飯大塚古墳     150m    埴輪 、鉄製品
蛭子山1号墳     145m    埴輪 、鉄製品
網野銚子山古墳   201m     埴輪
神明山古墳      190m      埴輪

鉄製品については、見つかってないだけかもしれないので重要視しません。

単純に、古墳の長さで考えると昼飯大塚古墳と、蛭子山1号墳は似ていて

網野銚子山古墳と、神明山古墳 も似ています。

昼飯大塚古墳(美濃)を除いた、丹後半島の古墳の場所を考えましょうか。


https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1sSL0_yMku9wtn4hpPhuHHtWz6d7_VUTE&usp=sharing  クリックでたぶんは入れると思います。

時間がたつとアクセスできない場合があるようです。

まず、籠神社から南に行くと蛭子山古墳があります。

これはおそらく、丹波と、近江そして奈良を繋ぐ道沿いと思います。

彦坐王もこの道を通って丹波にやって来たのでしょう。

網野銚子山古墳と、神明山古墳は、海沿いです。

こちらには、 「埴輪と出土土器から見て、神明山古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけて築造されたものと考えられ、網野銚子山古墳よりもやや新しいと推定される。」 と書かれています。

これだけで事実が分かるなどとは思っちゃぁいませんけど、他に情報が無いので(さがせばあるでしょう)得意の妄想をしてみましょう・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アジサハヒメ(アメノウズメ)が、亡くなってから、サタヒコとその子である 迦邇米雷王は

籠神社で過ごします。その後、サタヒコは、倭姫と共に伊勢に行きます。

迦邇米雷王は、まだ生まれたばかりですけど、母アジサハヒメの兄弟(どちらか不明でした)

である「若都保命」の協力で育ち、大人になると「若都保命」の娘である「高材比賣(たかきひめ)」

を妻にします。

その地で子が出来ます。

その後、父親であるサタヒコに、大垣に鉄鉱石の産地があるので製鉄をするように言われ

長男と技術者を連れて、美濃にいく。

その長男が、「息長宿禰王」。

籠神社に残った次男が、蛭子山古墳の埋葬者。

網野銚子山古墳の埋葬者は、蛭子山古墳の子。

神明山古墳の埋葬者は、網野銚子山古墳の子、もしくは弟。

当たらずとも遠からず?









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挿し木

2021-09-29 14:09:04 | 植物
挿し木の技術を何とか向上させたいなと考えて夏からいろいろとやっています。

もう2か月ぐらいあれこれ

簡単にできる植物と、そうでないものがあります。

これは撫子の挿し木です。

2週間ぐらいで根が出てきました。

普通に土に挿しても根が出て活着します。

今挑戦しているのが「オステオスペルマム」というもの。


これは、その中でも変わった品種ですけど、他にもいろいろな色がありきれいなんです。

それを挿し木したいと思っているのですけど、出来ない・・・

切り口を消毒したり、水切りしたり、もちろん発根剤を使いますけど、根が出ない・・・

現在冷蔵庫の中にあるものは、2週間たっても腐らずに生きていますけど、根が出ない・・・

様子見です。

万策尽きようとしています。

何かアイデアを出さねば。。。

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丹後半島のレイライン その 23 迦邇米雷王の兄弟は?

2021-09-28 14:04:39 | レイライン
迦邇米雷王の兄弟はいたのでしょうか?

いろいろ調べても分かりません。

もしいたとするならば、網野銚子山古墳, 神明山古墳, 蛭子山1号墳 のどれかもしくは全部が兄弟で、

彼がひとりならば、それらの古墳の埋葬者は、子もしくは孫、曽孫の可能性が高いと思います。

それぞれの古墳のデーターを見比べてみましょうか。

およその年代 古墳の長さ 埋葬者(推定)

300-316 湧田山1号 |100m アメノウズメ
300-325 白鳥塚古墳 115m 彦坐王
325-375 青塚古墳 123m サタヒコ

340 宗慶大塚古墳 63m 神大根王
360 昼飯大塚古墳 150m 息長宿祢 埴輪 、鉄製品
4世紀末  蛭子山1号墳  145m         埴輪 、鉄製品
4世紀末  網野銚子山古墳 201m 埴輪
4世紀末 神明山古墳 190m 埴輪

見にくいですね。
以前作った表を載せましょうか。順番が少し違っていますので注意してください。


湧田山1号 古墳はサタヒコが作ったものでしょう。白鳥塚古墳もそうかもしれません。

青塚古墳 は、おそらくサタヒコの子の玉姫(ミヤズ姫)が作ったのでしょう。

宗慶大塚古墳 は、神大根王 の子の 息長宿祢が作ったと考えるのが適当と思います。

昼飯大塚古墳は、神功皇后が作ったのでしょう?たぶん。

その後が関係と時代がはっきりしませんね。

次回は、それについて考えてみたいと思います。

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丹後半島のレイライン その 22 湧田山一号墳冬至の日の出のライン

2021-09-27 07:43:05 | レイライン
以前書いた、「丹後半島のレイライン その2 湧田山一号墳のレイライン」にあるラインを
もう一度見てみましょうか。


籠神社本殿の真上を通ります。


これを発見した時には、ドキドキしましたね。ほんとに飛び上がりました。

籠神社が出来たのは、当然、湧田山一号墳の場所を特定した後と言うことになります。

建てたのは、もちろんサタヒコですね。もう疑う余地はないでしょう。

意外なのは、眞名井神社(籠神社奥宮)からのレイラインが無いこと。おいらが見つけられないだけかもしれませんけど。

それから推理できることは、眞名井神社(籠神社奥宮)が古いということではなく、

ほとんど、同じ時期に出来ているのではないかということ。

何のための場所? もちろんアジサハヒメを弔う場所でしょうね。

もしかすると、湧田山一号墳の出来るまでの殯(もがり)の場所かもしれない。

サタヒコと息子の迦邇米雷王はこの籠神社に住んだのかもしれない。

そして、迦邇米雷王はサタヒコが伊勢に行き、さらに尾張に帰った後でもこの場所にいて育てられたのかもしれない。

アジサハヒメの兄である、「若都保命」の協力があったのでしょう。

その後、若都保命の娘「高材比賣(たかきひめ)」は、迦邇米雷王の妻になっています。





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丹後半島のレイライン その 21 おとぎばなし

2021-09-26 07:53:04 | レイライン
サタヒコが関係するのではないかと思うおとぎ話について考えてみましょうか。

かぐやひめは、竹から生まれますよね。竹野と関係があるのでしょう。月も出て来るので、レイラインの観測集団もかかわっているかもしれない。

主人公は、「あじさはひめ」でしょう。月に帰ってしまいますよね。


一寸法師は、サタヒコ=スクナヒコナなので、これは彼が主人公でしょう。
一寸法師の刀は針ですよね。尾張の彼の係わる地名に「針」と言う名前が付くところが多いのは
そのせいかもしれない。持っている武器は小さいですよと言う意味なのだろか?
実際は、かなり強力な武力があったのじゃないのかな。


丹後半島の、天女伝説も「あじさはひめ」を天女にたとえたのかもしれない。


桃太郎伝説は、尾張の犬山と岡山の2か所で伝わりますけど、両方ともサタヒコと関係が深い場所です。
どちらが先かはわかりませんけど、同じ人物つまりサタヒコもしくはその関係者が伝えたのでしょう。

犬山市にある、「桃太郎神社」付近には、それに関係する場所があるそうです。
登場する犬は犬山、そして、「猿洞」「雉ヶ棚」と言う場所があるそうです。

おいらは、猿は猿啄(さるばみ)と言う場所と思っていました。今は山頂に城跡があります。

雉ですけど、雉ではなく鶏つまり「にわとり」と言う説もあるようです。
「にわとり」→丹羽郡というのはちょいと強引でしょうか?


網野銚子山古墳の近くに「浦島太郎出生地跡」と言う場所があります。
竜宮城での生活は、サタヒコがアジサハヒメと楽しく過ごした時間かも。
玉手箱を開けると白髪の老人になってしまいますよね。
白髪の老人→白鬚神社を連想します。


近江の坂田神明宮
の祭神は、
天照皇大神(坂田宮、内宮)向かって右側
豊受毘売命(岡神社、外宮)向かって左側

ですけど、これってサタヒコとアジサハヒメじゃないかって最近思うのです。

そして、1年に一度でもいいから、会いたいという願いを込めて、そこに流れる川の名を

「天野川」と呼んだのではないだろうか?
これも天体が関係しています。








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丹後半島のレイライン その 20 迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)

2021-09-25 07:18:37 | レイライン
迦邇米雷王=神大根王(古事記)

神大根王を調べると、彦坐王の子になっていますけどおいらは、サタヒコの子と思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)=サタヒコ=猿田彦=朝廷別王と

丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)=天鈿女命(アメノウズメ)の間に出来た子です。

いつ頃の生まれなのか。どこで育ったのか、いつ美濃に来たのか、全く分かりません。

気になるのはその名前  迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)

「かずち」というのは、「かぐづち」のことなのか?気のせいならばいいのですけど・・・

「かぐづち」とは、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この神話、誰が作ったのだろう?
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丹後半島のレイライン その 19 名木神社

2021-09-24 06:22:12 | レイライン
湧田山一号墳から南東に約7km離れたところにあります

まだ訪問していません。



説明です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
社名は比治山伝説の天女が木によりかかり哭いたことに由来し、哭木神社と記されたが、哭の字を忌みて名木とした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


コトバンクで「哭」を調べると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
哭(読み)こくする

声をあげて泣きさけぶ。
中国で、死者をとむらう礼として泣きさけぶ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


デジタル大辞泉 では
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[音]コク(呉)(漢) [訓]なく

大声で泣く。
・・・・・・・・・・・・・・・・
サタヒコはここで泣いていたのでしょうか・・・

古墳が出来るまでの仮の埋葬場所(殯宮)は何処か調べようとしましたけど、決定的な場所はわかりません。

この、名木神社を候補の一つにしておきます。

梛(ナギ)と言う木の名前と関係があるとも言われます。

こちらから引用させてもらいます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもちます。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。

葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました。また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとか。

それらのことから「梛」の字には良縁に恵まれますようにというような願いを込められるように思います。

穏やかな人生
梛という名は、凪(なぎ)に通じることから、漁師や船乗りにもその葉がお守りとされました。

人生という航海を平穏無事に送れますようにという願いを込められるように思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縁が切れないようにとの思いがあるのかもしれませんね

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丹後半島のレイライン その 18 湧田山一号墳の埋葬者

2021-09-23 10:31:36 | レイライン
丹後半島のレイライン その2 湧田山一号墳のレイラインで紹介しているこの古墳の埋葬者は誰でしょう?

もうお分かりですね。


衆良神社に関係している人物で、多久神社の主祭神が、「豊宇賀能売命(豊受大神)」=真名井伝説による天女 。

全長約100メートルの大型の前方後円墳で、この地方最古。もうこの人物しかいないでしょう。

丹波能阿治佐波毘売つまり、猿田彦(サタヒコ)の妻、天鈿女命(アメノウズメ)ですね。

気になる事があります。

丹後半島のレイライン その3 朝廷別王(サタヒコ)との関係のある古墳に書いています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

湧田山1号墳の作られた年代です。

埴輪が存在しなかった可能性が高いということは、

ヒバスヒメの古墳より古い、もしくは同じころと推測します。

主体部の発掘調査は行われていないので、確実な年代はわからないようです。

そのため、諸説あるようですけど、300年頃のようです。

ヒバスヒメは306年頃亡くなっているので、その付近より以前に亡くなった人の古墳と推測します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのころの、サタヒコに関する大まかな出来事を見てみましょうか。

推定年
302   倭姫伊勢に行く
304   白髭神社創建
305    椿大神社創建
305    大縣神社新宮を造営
305   佐田神社創建
306   ヒバスヒメ 亡くなる

気になるのは、305 年の 大縣神社新宮を造営 と言うことです。

おいら、最近までサタヒコの足どりを勘違いしていたかもしれない。

美濃の方々津神社から、尾張の高蔵神社に移動する途中に犬山の本宮山があるのですけど、その山頂にあるのが、大縣神社の古い神社です。

その神社が出来たときには、すでに犬山の東之宮古墳の埋葬者(尾張大印岐と推定します)の娘(真敷刀婢と推定します)を妻にしていたと思っていました。

ですけど、そうするとサホヒコと合流するのに砥鹿神社に出かけたり、諏訪に行ったり越に行き

さらに、丹後地方や出雲、岡山、四国、そしておそらくは淡路島にも行ってるようです。

このフットワークの軽さ、いくら時代が違うと言っても所帯持ちの行動じゃないですよね。

まだ、犬山の東之宮古墳の埋葬者の娘を妻にしていなかったと考えると、スッキリします。

本宮山山頂の大縣神社奥社は、中継地点の役割の場所だったのかもしれませんね。


そして、妻にした時期は「大縣神社新宮を造営」した時とするとこれも納得できます。

そこから推測できることは、それ以前に丹波能阿治佐波毘売=天鈿女命(アメノウズメ)は

亡くなっているということです。

それが、倭姫の伊勢に行く理由なのかどうかはわかりません。

いまだに何故、倭姫が伊勢に行ったのかは理由の糸口さえも分からないです。












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丹後半島のレイライン その 17  丹波能阿治佐波毘売

2021-09-22 06:37:22 | レイライン
伊勢神宮外宮について、神宮のHPより引用です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所のみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このような説明がありますけど、倭姫が伊勢に行かれた時代から「御饌殿」の前身はありました。


まず、伊勢の外宮にある御食殿から見た春分の日の出の位置に倭姫の御陵があります。

これだけでも、その証拠になりますね。


外宮と倭姫御陵のレイラインで紹介しています。



斎宮の場所もレイラインに沿っています。

そして伊勢の内宮の場所は 伊勢神宮内宮のレイラインに書いています。

飯野高宮神山神社から見た、冬至の日の出のレイラインの上です。

 今まで、飯野高宮神山神社は、サホヒコが建てたものだと思っていましたけど

そうではなく、サタヒコが建てたものと考えを改めます。

よく考えたら、御祭神は、猿田彦命,そして天鈿女命ですもんね。

ですから、天鈿女命は、伊勢神宮にとって非常に重要な立場にいるわけです。

ただし、天鈿女命が、伊勢に来たことがあるのかは分かりません。

おそらく、来ていないと思います。

そのことについては、次回から書いていきたいと思います。

 それから、伊勢津彦=サホヒコ=大国主(たぶん)が居たのは、おそらく斎宮の場所と思います。

当時の海岸線は今の海面を5mほど上げたものと似ていると思います。(この図)
海面は今と変わりませんけど、土砂の堆積で陸地が増えたということです。

流れを簡単に説明します。

伊勢津彦が居た場所は、斎宮の場所で、丹生水銀鉱から水銀を運ぶのに、櫛田川と祓川に沿って

移動します。ところが、天日別命に追い出され砥鹿神社に行きます。

その後、サタヒコが伊勢にやってきて、飯野高宮神山神社を建てます。

辰砂の加工を、久具都比賣神社で行うようになったので、そのルートは宮川を使うようになります。

その先にあるのは、外宮です。最初は、港の役割が主だったのでしょう。

そこに、倭姫が滞在したようです。外宮にある御食殿は、倭姫、サタヒコにとっても重要な場所なのでしょう。


PS 外宮から内宮への移動は、船で簡単に行けるようです。猿田彦神社がその位置(内宮の入り口)

にあるのもその理由からだと思います。









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丹後半島のレイライン その 16 比沼麻奈為神社のレイラインを考える

2021-09-21 07:58:00 | レイライン
丹後半島のレイライン その8 比沼麻奈為神社で、発見したレイラインをよく考えてみます。

こちらにも書いてますね
丹後半島のレイライン その9 途中ヶ丘遺跡、扇谷遺跡

比沼麻奈為神社からの夏至の日の出のラインです。


途中ヶ丘遺跡を通ります


当初、どう解釈して良いか分かりませんでした。

倭姫との関係は、途中ヶ丘遺跡にはありません。ですから、それ以外の関係です。

比沼麻奈為神社の境内社に、稲荷神社と佐田神社があり、稲荷神社は倉稲魂命を祀り、

佐田神社は猿田彦命を祀っています。

『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られています。

保食神(うけもちのかみ)です。


途中ヶ丘遺跡の事を考えてみましょうか。

このあたりです。


すぐ北には、鱒留川が流れています。

これを、遡ると 船岡神社、藤社神社、乙女神社があります。

天女に関係する場所ですね。

サタヒコの祖父つまり、母、川上摩須郎女の親の名の「摩須」は鱒留川の「ます」と言う説があります。

偶然ではないでしょう。たしかこのあたりは砂鉄が出るのじゃなかったのかな?資料を探しているのですけど見つからない・・・

まあそういうことにしておいて・・・



PS  このような情報があります。「磯砂山はまさに砂鉄の山であり、京都の大学の調査報告によると、山頂の風化花崗岩を分析した結果、十五%の砂鉄が確認された」


その砂鉄を利用して製鉄を行っていた場所が扇谷遺跡であり途中ヶ丘遺跡でしょう。

ここからは、おいらの妄想です。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その、途中ヶ丘遺跡に川上摩須は当初、住んでいた。ところが、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)に追われ、久美浜まで逃げた。

製鉄が行われず、鉄製品が奈良まで流通しなくなり、彦坐王が派遣される。

その後、彦坐王が、玖賀耳之御笠を殺してその勢力を無くした。

彦坐王の活躍以降、竹野川及び、鱒留川流域は、もとの勢力、つまり川上摩須の手に戻ったということになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうでしょうか?当たらずとも遠からずと思います。。。

その後に、竹野神社が出来たと考えるのが適当でしょう。

サタヒコがいつごろこの地に来たのかはまだ特定できていませんけど、

途中ヶ丘遺跡を通るライン上に比沼麻奈為神社を建てたということは確実でしょう。

正確なレイラインを測量して、その場所に神社を建てるという作業をするのは、

サタヒコの他に見当たらないのでそう判断します。

比沼麻奈為神社から1.2km離れたところに、「月の輪田」という田んぼがあります。
このあたりです。


こちら参考にさせて頂きました。

豊受大神(とようけのおおかみ)が天照大御神(あまてらすおおかみ)のために稲作を始めたとされる場所とのことです。

比沼麻奈為神社の境内社には、稲荷神社と佐田神社があります。

当然ですけど、佐田神社は猿田彦命(さたひこ)を祀っています。

この地に、サタヒコがいたということでいいでしょう。


稲荷神社に祀られている倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)とは、誰でしょう?

古事記では、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた子。

日本書紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子。

女性の神様のようですね。

単純に考えて、サタヒコが祀られているのだから、こちらは、彼の妻ではないのか?

丹波能阿治佐波毘売のこと?  途中ヶ丘遺跡とは当然関係があります。

比沼麻奈為神社の主祭神は五穀豊穣を願う最高神である豊受大神です。

豊受大神=倉稲魂命 と考えてもおかしくはありませんよね。


つまり、アメノウズメと言うことなのかな?  それ以外の答えが見つかりません。

意外な答えが出て来たので、驚いています。


そして、「月の輪田」がここにあるということは、

倭姫とサタヒコとアメノウズメが同時期に、この地に住んでいた可能性があります。

倭姫はおそらく一人では来ていないと思いますので、住居は別と考えます。


比沼麻奈為神社の本殿が神明造りなのもその繫がりなのかもしれない。


そうすると、伊勢の外宮の祭神は、アメノウズメ?  そうなります。 驚いた。。。
























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丹後半島のレイライン その 15  日女命

2021-09-20 05:03:42 | レイライン
もう一度、系図を見てみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),

                    ↓

七御子・建諸隅命 (川上摩須)    丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇  
                                  ↓                  

八御子・倭得玉彦命   川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王    (兄) 崇神天皇          
                              ↓ 

九御子・若都保命                  サタヒコ=朝廷別王 
      ↓                     ↓ 

   高材比売(たかきひめ)  ーーーーーー     迦邇米雷王
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう、お気づきでしょうか?

開化天皇、その息子の彦坐王、そして、迦邇米雷王と、皆同じところから妻を娶っています。

従妹婚ですね。ひょっとすると、開化天皇以前もそうかもしれませんけど、残念ながら調べる術が

ありません。

しかし、サタヒコもそうかもしれない.
九御子・若都保命 の兄弟を探してみましょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『勘注 系図』

乙彦命
日女命
玉勝山背根子命
若津保命
置津世襲命

意富那比命    ← この二人は時代が違うと思います。
葛木高千名姫命  ← この二人は時代が違うと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『先代旧事本紀』 尾張 氏 系譜

弟彦命
日女命
玉勝山代根古命
若都保命
置部與曾命
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

意富那比命と、葛木高千名姫命は姉妹のようです。
葛城高名姫命という人は、崇神天皇の妃になったとされる記録があるようですけど、
葛木高千名姫命と同人物かもしれません。

時代が違うと判断します。

すると、「日女命」と言う人がサタヒコの妃かもしれない。

日女命(ひめのみこと)と呼ばれる人物は他にもおられます。

卑弥呼もそう呼ばれたらしい。ひめのみこと→ひみこ と言う説があります。なるほど。

「姫」とは「日女」から来たようです。

ここでいう、「日女命」は、もちろん卑弥呼ではないですけど、だれでしょう?

もうお分かりですね。

山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の妻

丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)が、この人でしょう。

またの名を、天鈿女命、あめのうずめ。

猿田彦の奥さんですね。


ようやく、誰だかわかりました。。。





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丹後半島のレイライン その 14 由碁理

2021-09-19 05:03:02 | レイライン
勘注系図では由碁理は建諸隅命になっていますが、「丹後半島のレイライン その 13 」で、おいらは1世代違うと書きました。

由碁理の娘が、竹野姫で、開化天皇の后になるのですから、

一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),

                    

七御子・建諸隅命 (川上摩須)    丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇  
                                                    

八御子・倭得玉彦命   川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王    (兄) 崇神天皇          
                               

九御子・若都保命                  サタヒコ=朝廷別王 
                            

   高材比売(たかきひめ)  ーーーーーー     迦邇米雷王

と、このように「迦邇米雷王」の妻,高材比売(たかきひめ)の父親である丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)

は、若都保命とするとすべてピタリとなるのではないかな。







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伊冨利部(いふりべ)神社

2021-09-18 16:29:17 | 神社




行ってきました




以前は、この先700mに一の鳥居があったそうです。


御祭神  
若都保命(わかつほのみこと) 
応神天皇(おうじんてんのう)





伊冨利部天神社創建
延喜式(905~927年)神名帳に葉栗の一座伊冨利部天神と記載されている所謂式内社で、当地の豪族伊福部一族が祖神である若都保命を創祀したのが起源である。創建年月は詳らかではないが、延暦13年(794年)~弘仁元年(810年)のおよそ1200年前に創建されたものと思われる。若都保命は天孫瓊瓊杵命の御子なる天火明命九世の御孫、弟彦命の御弟神に座します。延喜式神祇巻九に葉栗群十座の内伊冨利部神社、本国帳に従三位伊冨利部天神と載録されている。


円墳です


古墳の上にも祠があります





神社の周りは川?




稲荷もありますね。


きれいです









福徳龍神社

手力雄神社にも祭られています。

おそらく、サタヒコと思います。

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古代米

2021-09-16 06:52:18 | 植物


「紅吉兆」と言う赤米です。

古代米と言っても、そのほとんどは品種改良されているようです。

これもそうです。

ポットで栽培しました。普通のポットではなく、穴の開いていないポリポットを下から15センチほどの所に横から穴をあけたもの。

バケツで栽培してもいいのですけどね。



まだ、気温が下がってないので赤色が薄いですね。

刈り取るのは、もう少し後にしようか。

葉が緑のうちに、刈り取って乾燥させると緑の藁が出来るそうです。

それで、しめ縄出来ないだろうか?

少しやってみよう。。。

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ジュンカス エフサス スパイラルス

2021-09-15 07:21:53 | 植物


通称、「ラセンイ」おそらく、「螺旋(ラセン)」と、「イグサ」を、合わせた名前と思います。

もちろん、イグサの仲間です。

現在、高さ50cmぐらい。

ここまで大きいと、迫力ありますね。

この夏も難なく乗り越えました。

10年ほど前にも栽培しましたけど、冬の低温にも負けないで育った記憶。

霜にあてたことはないので、今年の冬に試そう。

水切れには注意です。すぐに枯れることはありませんけど、葉先から枯れます。

気温が高い時期は、受け皿に水をためておけば良いでしょう。

冬は、受け皿を使わないほうが良さそう。その必要もないですしね。

直射日光でも、慣れていれば日焼けはしません。もちろん水切れは注意です。

室内でも、明るい所ならば生育します。





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