たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

 倭姫命伊勢に行く その2 中島宮

2021-10-14 07:02:24 | レイライン
  犬山から船で行くときの中継地(中島宮)は何処でしょうか?

その前に、当時の木曽川は今と流れが違うようです。

詳しくはわかりませんけど、大江川の流れがそれに近いようです。

以前少し調べましたので、参考までにこちらをどうぞ。



中継地点(中島宮)は何処かと言うと

大御霊神社です。

どんぴしゃりのレイラインです。


もう一つレイラインがあります。  とりあえず、今年(2021)の秋分の日のラインです


尾張部神社古墳を通ります。

ここは、彦坐王の最初の古墳。後に、白鳥塚古墳に移動します。(おそらく、子であるサタヒコ =猿田彦によると思います)

「大御霊神社」とは、この二つのレイラインが重なる場所なのです。

重要な場所です。

最初は、サタヒコの子が居たかもと思いましたけど、そのような情報は今のところありません。

丹後の竹野川流域の、誰か(伊福部氏と思うのですけど)がこの地を引き継いで、

その後に、「国府宮」となったのでしょう。

もう一つ、大御霊神社から見た夏至の日の出が、大縣神社になっています。

これはどういうことかと言うと、

本宮山山頂→冬至の日の入り→「大御霊神社」→夏至の日の出→大縣神社ということ。

日の出は太陽が出始めたときで、日の入りは太陽が全部隠れたときなので、太陽一つ分の時間のずれが出来ます。


それが、本宮山山頂と、大縣神社の場所のずれになります。


時間については、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サタヒコが倭姫を伊勢に連れて行ったのが

「垂仁天皇の22年に「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りした」(倭姫命世記)

大縣神社が出来たのが

「垂仁天皇27年に、本宮山の山頂から現在地に移転した」(社伝)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この二つの年代をそのまま鵜吞みにすることは乱暴かもしれませんけど、

そのまま鵜呑みにしますと(←おいっ!)・・・5年の差つまり、当時は今の1年に2回年をとるので

2年半の時差が出ます。

以上のことから、妄想すると・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
垂仁天皇の22年に犬山から伊勢に向かい、2年かけて内宮と外宮を建て、その半年ぐらい後に

サタヒコは犬山に帰ります。途中、大御霊神社で夏至の日の出を観測してそこに大縣神社を

建てることにする。そして、犬山の東之宮古墳の埋葬者であろう、尾張大印岐(おわりのおおいみき)

の娘の真敷刀俾命(ましきとべ)を妻にして、そこに住む。生まれた子が「玉姫」おそらく

玉姫=みやずひめでしょう。

サタヒコと真敷刀俾命の婚姻はすでに伊勢に行く前に決まっていたのかもしれませんね。


倭姫とは関係がありませんけど、新しくレイラインを発見しました。

少し前に、仁徳天皇陵のレイラインをご紹介しましたけど、その改訂版になりそうです。

近いうちに載せたいと思います。



何度も書きますけど、このレイラインの測量技術はどうやっているのか分かりません

でも、すごい技術と思います。  水平線から見た日の出日の入りです。

おそらく、航海の時に使う星を読む技術ではないかと思うのです。

それが、仁徳天皇の時代にも技術が継承されていることに驚きます。

でも、現在はどうなんだろう?

その道に詳しい人のお話を聞きたいなぁ。








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倭姫命伊勢に行く その1

2021-10-13 06:44:26 | レイライン
以前にも、倭姫について書きましたけど、その時よりも情報量が多くなってきましたので、

もう一度、レイラインなどを検証しながらいろいろ探っていこうと思います。


まず、倭姫が奈良を出発したのは、295年頃。12歳ぐらいです。

日本書紀などでは各地を旅することになっていますけど、おいらが思うには、

奈良から直接「比沼麻奈為神社」に行ったと思います。

坂田神明宮に2年間滞在したことになっていますけど、

その神社が出来たのはサタヒコの妻の「たにはのあじさはびめ」が亡くなってからのこと。

境内の端に真名井池があります。これは、籠神社と同じです。

祭神が、 天照大御神 豊受毘売命 ですので、そのことからも、籠神社から伊勢に行く途中の

場所と推測できます。

さらに、レイラインも

尾張の犬山にある本宮山山頂からの春分の日の日の入りの位置にあります。

これはどういうことかと言うと、サタヒコと倭姫が出雲から伊勢津彦(=大国主)の御霊を移した

八咫鏡を持って籠神社に帰ります。 そして、そこから伊勢への移動の準備をします。

伊勢にはまだ、伊勢津彦を追い出した天日別命がいるかもしれません。

そのため、かなりの武力をもって行かなければなりません。

それなりの人数と武器、それを運ぶ船がいります。

その計画を実行するために時間をかけて準備をしたのでしょう。

籠神社から、伊勢までいくつかの中継地を確保するのに、レイラインの測量者がかかわっていたことは確実ですね。

というより、その技術者集団とサタヒコは、ほとんど行動を共にしますので、サタヒコが指揮をしていたのでしょう。

なぜ、犬山の本宮山なのか?

すでに、サタヒコの父親である、彦坐王の時代には、本宮山の山頂に神社があり、そこから狼煙で連絡を取っていたことが推測されます。

山頂からは、岐阜、大垣、桑名、四日市までぐらいは目視できるでしょう。(今は木にさえぎられて見えません)

狼煙なら、もしかすると伊勢も確認できるかもしれない。

それともう一つ、犬山の東之宮古墳の埋葬者であろう尾張大印岐とサタヒコは、顔見知りと言うこと。

岐阜から、春日井に行く途中の場所に当たるので当然知り合いでしょう。

尾張大印岐の娘の敷刀婢命(マシキトベ)を妻にするのは、伊勢から帰ってきてからのようです。

このことが分かってから、ようやく、サタヒコの足どりが推測できるようになりました。

それについては後ほど。。。

以上の理由で、船で伊勢に向かう最初の場所は、犬山でしょう。

日本書紀には  「更に還りて近江国に入りて,東 美濃を廻りて、伊勢国に到る」とあるようですけど

「東 美濃」は、犬山でしょう。このような不自然な表現は、やはり何かを隠そうとしているように思います。

船を建造するにも、東之宮古墳付近は良い場所でしょう。

地形的にも、ちょうどここから川の流れがゆるやかになります。

船の材料にする太い木もあったと思います。



もしかすると、桃太郎神社が船の建造場所だったかもしれません。

これから、鬼退治に行くのですから。。。

きびだんごは何処にある?


この船を作る集団(船大工と言っていいのだろうか)は、岡山でも船を建造していたかもしれませんね。



そうすると、この人たちが桃太郎伝説を広めた可能性が出てきます。(かなり、妄想状態です・・・)

船の建造にも人が大勢いるでしょう。

あらかじめ、田を作っておいて食料の確保もしたかもしれない。(キビ団子ではなくおむすびか?)

                                    ↑
                                 まだこだわっている










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丹後半島のレイライン その 30  まとめ

2021-10-12 07:08:18 | レイライン
丹後半島のレイラインを調べて、意外と数が少ないなぁと思いました。

おいらの捜し方が悪くてまだたくさん見つかってないだけかもしれません。



今回は収穫が多かったです。開化天皇、彦坐王、サタヒコ、神大根王と、この人たち全員が

丹後半島の天火明命の家系の従妹婚と言うことは驚きでした。探せばもっとあるでしょう。

天火明命
  ↓
一御子・天香語山命
  ↓
二御子・天村雲命

となりますけど、

天香語山命(あめのかごやま)の、「かご」と、籠神社の「籠」は同じものだろうか?

天村雲命(あめのむらくも)の「むらくも」と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは、

どういう関係なのだろう?

もっと言えば、天火明命(あめのほあかり)の「天」(あめ)と、海部氏の(あま)は、関係があるのだろうか?

などと、分からないことが出てきます。


籠神社のレイラインの発見は、驚きました。また、それでいろいろなことが分かりました。

今後に繋げていきたいです。


一番驚いたのは、なんといっても天照大神=(伊勢津彦=大国主=サホヒコ)です。

何気なくサホヒコの年齢を調べて物語を組み立てたら、サタヒコと倭姫の伊勢に行く理由と

内宮のレイラインの意味がぴしゃりと一致しました。

まあ、これだけの理由でこの結果が正しいということは証明できないかもしれませんけど、

レイラインだけは、正しいです。


籠神社に伝わる「勘注系図」を見ると、「オトヨ」の扱いに混乱しているようです。

オトヨ=サタヒコなので、籠神社建てた本人をわからないはずがないでしょう。

これも、何かを隠そうとしているかのように見えます。


もう一度、丹後半島に行きたいですけどなかなか時間が取れません。

何とかして、行こうとは思っています。

伊勢も行きたいなぁ。。。







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丹後半島のレイライン その 29 倭姫

2021-10-11 06:06:06 | レイライン
レイラインが分かると、今までわからなかったことの裏付けがある程度できるので面白いです。

そこから、現在ある情報と照らし合わせ考えているつもりです。

倭姫についてのレイラインで、今わかっているのは、坂田神明宮からですけど、それについても

現在言われているような「2年間奉斎した」ということは無いと思います。

それについては、今後説明していきたいと思います。


倭姫の、それ以前からの動きを考えてみたいと思います。

まず、生まれたのは、280~285年頃と推測します。283年にしましょうか。

母親は、サタヒコの姉のヒバスヒメ、父親は垂仁天皇です。

崇神天皇は、彦坐王が亡くなった弱みに付け入り、伊勢津彦を伊勢から追い出し、

ヒバスヒメを人質として奈良に連れて行ったと推測します。

しかし、以前にも書きましたけど、ヒバスヒメは聡明な人で、上手に垂仁天皇を操り

子の景行天皇、倭姫を彦坐王ファミリーに敵対心を抱かないように教育していたようです。


話を倭姫に戻します。

295年頃に奈良を出発しています。12歳ぐらいです。

日本書紀などでは各地を旅することになっていますけど、おいらが思うには、

奈良から直接「比沼麻奈為神社」に行ったと思います。

そこで、サタヒコそして、アメノウズメと一緒に暮らしていたのでしょう。

月の輪田でもわかるように、アメノウズメは、二人にすごく、かわいがられていたと思います。

何のために奈良から来たのか?

大国主とサタヒコの作った奈良の包囲網を解くための人質かもしれません。

もしかすると、大国主の妻になるとの約束があったかもしれません。(妄想です)

しかし、大国主はこの時45歳ぐらい。倭姫はまだ12歳。どう考えても無理だわなぁ。


それはさておき、アメノウズメ(丹波能阿治佐波毘売は、迦邇米雷王を生んだ後に

亡くなってしまいます。(295~300年の間くらい。)

サタヒコは、追悼のため籠神社を建て、そこに迦邇米雷王と共に移り住みます。倭姫も一緒でしょう。

さらに、300年頃には、大国主(サホヒコ、伊勢津彦)が亡くなります。50歳ぐらいでしょう。


ここからは、完全に妄想ですのでよろしく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サタヒコは、大きな鏡を作らせてそれを携えて、倭姫と共に出雲に行きます。

倭姫は巫女ですので、大国主の御霊をコピーして鏡に移します。(もう少しいい表現があるかもしれませんけど思いつかない)

その鏡と共に、籠神社に帰りそれを伊勢に祀る計画を立てます。

302年に伊勢に向かって出かけます。


飯野高宮神山神社に鏡、そして、丹波能阿治佐波毘売を祀ります。

304年に飯野高宮神山神社からの冬至の日の出のラインに内宮を建て鏡を祀ります。





同時に外宮を建て、そこに「丹波能阿治佐波毘売」を祀ります。

天照大神=伊勢津彦=サホヒコ=大国主になります。

豊受大神=丹波能阿治佐波毘売=アメノウズメになります。

これならば、サタヒコが伊勢に行った理由がピタリとはまります。

伊勢津彦の魂を伊勢に連れて帰ったのでしょう。

ですから、内宮も外宮もすんなり建てることが出来たと思います。

(伊勢津彦は伊勢の人には好かれていたのでしょう。)

そしてサタヒコはその地に、妻であった丹波能阿治佐波毘売も祀ったことになります。

倭姫の御陵は、外宮の御食殿の春分の日の、日の出のラインがある場所です。


この御食殿に、丹波能阿治佐波毘売が祀られていたのではないでしょうか。


さらに、御陵からの夏至の日の入りのラインには、斎宮の竹神社跡があります。


これが何を意味するのか分かりませんけど、伊勢津彦が最初にいたのはこの付近でしょう。















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インパチェンス・アテナ オレンジフラッシュ

2021-10-10 06:20:39 | 植物
オレンジと白のコントラストがきれいで、どうしても栽培したかったもの。



違う個体ですけどアップで


環境により、白色が多くなったりします。

その原因が、光なのか温度なのかまだきちんとわからない。

もう少し様子見です。

一つだけ、葉まで斑入りのものが出ました。消えなければいいのですけど・・・

うまく増殖できないかなぁ。。。

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丹後半島のレイライン その 28 三種の神器

2021-10-09 07:19:40 | レイライン
三種の神器とは、ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


八尺瓊勾玉について調べましたけどあまりよくわからない。

とりあえず、説明を

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本書紀によればスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したあと、玉造の地にさしかかります。その際、玉作湯神社の御祭神である櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)に出雲石を使用し製作した「八尺瓊勾玉」を献上しました。それが天照大神に献上され、三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」になったと伝えられています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次に、天叢雲剣(草薙剣)についてです。これも、ヤマタノオロチの物語に出てきます。

スサノヲが、ヤマタノオロチを切り刻んだ時に尻尾から出てきます。←信じてはいけません(笑)



おいらの妄想ですけど、スサノヲを「彦坐王」とすると、ヤマタノオロチは、「久我耳三笠」

となり、天叢雲剣が出てきたということは、製鉄が再開されたと置き換えられます。

櫛名田比売(くしなだひめ)が、スサノヲ(彦坐王)の妻になったということは、

櫛名田比売=河上麻須郎女(カワカミノマスノイラツメ)つまり、サタヒコの母親になります。

天叢雲剣が、尾張の熱田神宮にあるのも何か関係がありそうに思うのですけどいかがでしょう?


江戸時代、 熱田神宮の神官 数人 が、 御神体の草薙剣を盗み見たそうです。

五尺( 約 一・五 メートル)ほどの木箱のなかに朱が敷き詰められ、石の箱があった。
石の箱のなかも朱が敷き詰められ、樟の箱があった。
樟の箱のなかに御神体があっ た。
御神体は長さ二尺七 ~ 八寸(八〇 センチメートルあまり)の剣だった。
刃先が菖蒲の葉のようで、中ほどは厚みがあった。
全体が白く、錆はなかった。  

考古学 者は「 錆はなかった」との記録から、銅剣と推定しているとのこと。

さあ、何で出来ているのでしょう?




「八咫鏡(やたのかがみ)は、鉄でできている可能性がある」と書いてありましたね。

そしてそれを作ったのが、石凝姥命(石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女)鋳物の神・金属加工の神。

まず思うことは、老女がそんなことやるか?  

百歩譲ってそうだとしても、鋳造の技術が日本に入ってきたのは、たたら製鉄が始まったころじゃないのかな?

もしそうなら、もう少し後の時代になります。

そうすると、材料は鉄ではなく、青銅の可能性が高いと思います。

こちらも材料はわからないですね。

どちらも、最初のものは無くなってしまって、現在あるものは後に出来た複製品かもしれない。

まあ、世の中知らない方が良い、ということがいっぱいあるということにしておきましょうか。





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丹後半島のレイライン その 27 八咫鏡

2021-10-06 07:40:11 | レイライン
八咫鏡とは何だろう?調べます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
八咫鏡(やたのみかがみ)とは、天照大御神の御霊代(みたましろ)。

御霊代とは、神霊の代わりとして祭るもの。御神体。仏教のお位牌にあたるもの。





第10代崇神天皇の皇女 豊鍬入姫尊が 八咫鏡を奉じて大和の笠縫邑(奈良県櫻井市付近)

を出発し、丹波の国に巡幸され、吉佐宮に4年、再び大和に帰る。

そして垂仁天皇即位二十五年に豊鍬入姫命の意志を継いだ皇女倭姫命が、各地を巡幸した末、

伊勢の地に至り伊勢の神宮が鎮座した

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ウィキペディアでは

八咫鏡(やたのかがみ)は、記紀神話で、アマテラス(天照大神、天照大御神)が天岩戸に隠れた岩戸隠れの際、イシコリドメ(石凝姥命)が作ったという鏡。



天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、
裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
         「も【裳】 の解説(古代、腰から下にまとった衣服の総称)」


これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。


アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。

のちに鏡はアマテラスがニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けたといわれる。

三種の神器の一つである八咫鏡は、一般に「銅鏡」と解釈されているが、

材質が公開されているわけではなく、古事記では、「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、

川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されているので、

実際は「鉄鏡」(=黒い鏡)である可能性がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さらに

「私は有って有る者」という意味のヘブライ語が、八咫鏡の裏に刻まれている



古ユダヤ人が持って来たとか。

う~ん   話が多すぎてまとまらん!



気になるのが石凝姥命(いしこりどめ)

石凝姥命とは、石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女。鋳物の神・金属加工の神。

天糠戸命(あめのぬかどのみこと)の娘が、石凝姥命(いしこりどめ)

天火明命=天糠戸命 のようです。

その天火明命は、以前紹介しました伊富岐神社の祭神が=天火明命(多多美彦命)

子が「天香語山命」つまり、石凝姥命は天香語山命の姉か妹。


天火明命
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命
七御子・建諸隅命
八御子・倭得玉彦命                              
九御子・若都保命


若都保命の姉か妹が「丹波能阿治佐波毘売」=アメノウズメです。

古事記には、岩戸隠れの話で「石凝姥命」と「アメノウズメ」を同じ時代にしています。

実際は、だいぶ時代が違います。

やはり、誰かが何かを隠そうとして話をでっちあげているようです。

ちなみに、アメノウズメは、裸踊りはやってません! 

本人の名誉のために断言しておきます!(笑)










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門原神明神社のスギ

2021-10-04 18:51:28 | 巨樹、巨木
久しぶりの巨木巡りです。



かなり以前に、この杉を訪問しています。



このブログには記事が無いのでだいぶ前ですね。



樹高 36m
目通り幹囲 6.6m

樹齢はおいらが見るところかなりのものでしょう。400~600年かな?

ただし、合体木の可能性もあります。そうするともう少し若いかな?



鳥居は少し小さめです



ここを通り越して、国道156に出ようと思っていたのですけど、どうも通行止めのようなので

引き返しました・・・

最初ここを訪れた時、すごい山奥の印象があったけど、今回はそんな気がしない・・・

山奥に慣れたのだろうか?



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丹後半島のレイライン その 26 乎止与命

2021-10-04 17:53:42 | レイライン
さて、今までいろいろとレイラインを参考にして書いてきました。

その中でと言うより、サタヒコ全般に言える事は,誰かが、彼の存在を消そうとしているのじゃないかと思うのです。

名前もたくさんあります。朝廷別王などと言う名前は、後に誰かがつけた名前でしょう。

彼の子である、「迦邇米雷王」=神大根王は、父親である彦坐王の子になっています。

乎止与命にしても、「先代旧事本紀」や、「勘注系図」では、丹波の家系に組み込まれている。


妻の「丹波能阿治佐波毘売」も「アメノウズメ」とは分からないです。

古事記、日本書紀以前の段階でなにかの力が働いて、「サタヒコ」を歴史から消そうとしているように見えるのです。

おそらく、倭姫を伊勢に連れて行く頃には、サタヒコは日本で一番の権力者でしょう。

なのにそれを消そうとするとは、どういう力なのだろう?時代は?

おいらにはわかりません。

仁徳天皇陵の時代はまだ、サタヒコを祖先として敬っています。(仁徳天皇は、4世紀末から5世紀前半)

国譲りもでたらめなストーリーですし、大国主(サホヒコ)の出雲に行く方向も反対です。

少し前にも書きましたけど、八咫鏡を倭姫が伊勢の内宮に収めた話も、あり得るわけがない。


                PS  ありえました・・・へへ


垂仁天皇がいる奈良をサホヒコとサタヒコが出雲、岡山、四国、淡路島、熊野、と近江、美濃、尾張

で、囲んでしまって手も足も出なくなってしまった。

それが、「天岩戸神話」なのだと思います。

八咫鏡については、あるストーリを思いついたところです。

この後それについて考えてみたいと思います。







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挿し木のその後

2021-10-03 08:12:38 | 植物



左が撫子で、右がオステオスペルマム。

撫子の方は順調に根を伸ばしています。約3週間目ぐらいかな。

もう少し観察を続けよう。


オステオスペルマムは、まだ根が出ません。枯れもしません。

どうなるのだろう?

これも、もう少し様子見ですね。

でも、他の方法での試みが手ごたえありなのです。

別に特別なことを試したのではありませんけど、気候の影響かなぁ?

とにかく、とりあえず成功です。

現在、追加試験中です。

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仁徳天皇陵

2021-10-02 11:47:40 | レイライン
仁徳天皇陵が、2度目の発掘調査されるそうです。

機会があれば書こうと思っていたので、今回ちょうどよいタイミングなのでご紹介します。

まずは住吉大社から




応神天皇陵が、冬至の日の出を通ります



そして応神天皇陵からは





春分の日の入り



さて、もう一つすごいのがあるのです


何処だと思います?


もったいぶってる

高蔵神社(愛知県春日井市高座町)の磐座からのレイラインです


距離がありすぎて、届かないので中継します  163km離れています。


仁徳天皇陵が、冬至の日の入り


この測量技術、サタヒコの時からこの時代にも引き継がれているようです。

驚きました。。。


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丹後半島のレイライン その 25 月の輪田

2021-10-01 05:39:41 | レイライン
比沼麻奈為神社から1.2km離れたところに、「月の輪田」という田んぼがあります。

丹後半島のレイライン その 16で書いています。


googleで、月の輪田の画像を見てみましょう。

大きさを測りました。

およそ、20mX12mとすると、240㎡ですね。

これはどのくらいの人数が食べていけるのか調べます。

こちらから引用させていただきます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本人は、年間に自分の体重分(約65KG)の米を消費している。

そのために必要な田圃は、約120㎡(コンビ二の売り場面積)である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何を調べているのかって?

月の輪田は、倭姫の食べるお米を生産する田んぼだと思うのです。

現在の、月の輪田は、古来の場所ではないらしいですけど、広さは同じくらいとして

考えると、240㎡という広さは二人用になりますけど、当時の収穫量は今ほど多くないでしょう。

昔の人は現在よりも多くのお米を食べていたと言われますけど、それがどの時代なのかはわからない。

倭姫は、お米だけでなく他の例えば栗なども主食にしていたかもしれない。

体重がどれくらいかもわからないけど65kgもないでしょう。

おらのイメージでは、背が高く細く美人で色白で・・・妄想中・・・



240㎡は、一人分にしては広いですね。

あれこれ考えると、倭姫には、付き人がひとりいたのではないかと思われます。



八咫鏡を持参していたのなら付き人がいるでしょう。と考えたのですけど、

本当に、八咫鏡を持ってきたのでしょうか?

しかも、それを飯野高宮神山神社(祭神が、猿田彦命,天鈿女命)の冬至の日の出に位置する

伊勢神宮の内宮に奉安するなどとは考えにくいのです。

このことについては、機会があったら再度考えたいと思います。





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