たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

茜部神社(あかなべじんじゃ)

2016-03-29 05:40:38 | 神社
茜部神社(あかなべじんじゃ)

主祭神 応神天皇 神功皇后 武内宿禰
社格等 式内社(小)、元郷社
創建 830年(天長7年)

正徳寺での会見を終えて斉藤道三が立ち寄ったところです

信長公記より引用

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あ か な べ と 申 す 所 に て 、 猪 子 兵 介 、 山 城 道 三 に 申 す 様 は 、

何 と 見 申 し 侯 て も 、 上 総 介 は た わ け に て 侯 。

と 申 し 侯 時 、 道 三 申 す 様 に 、 さ れ ば 無 念 な る 事 に 侯 。

山 城 が 子 供 、 た わ け が 門 外 に 馬 を 繋 べ き 事 、 案 の 内 に て 侯 と 計 り 申 し 侯

今 よ り 已 後 、 道 三 が 前 に て 、 た わ け 人 と 云 ふ 事 、 申 す 人 こ れ な し 。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






長い参道です



この先は境川で、そこで川を渡ったのではないでしょうか?

途中、現在は道が一部ないですけど田代城(跡地には白鬚神社)まで一直線です。


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正徳寺の会見 

2016-03-28 05:20:03 | Weblog

正徳寺の会見 とは


天文十八年(1549年)2月24日織田信長は、道三の娘・帰蝶(きちょう・濃姫)と結婚してますけど

その後、おそらく、はじめて信長と斉藤道三が顔合わせをすることです

道三が信長が「たわけ」かどうか確かめるつもりだったと言われます

それはともかく、道三は、信長の兵の武装のすごさに驚いたようです



信長公記から一部引用します

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道 三 と 信 長 御 参 会 の 事 一 、

四 月 下 旬 の 事 に 侯 。 斎 藤 山 城 道 三 、 富 田 の 寺 内 正 徳 寺 ま で 罷 り 出 づ べ く 侯

間 、 織 田 上 総 介 殿 も 是 れ ま で 御 出 で 侯 は ゞ 、 祝 着 た る べ く 侯

(これが、正徳寺の会見のことです)


御 伴 衆 七 、 八 百 、 甍 を 並 べ 、 健 者 先 に 走 ら か し 、

三 間 々 中 柄 の 朱 や り 五 百 本 ば か り 、 弓 、 鉄 炮 五 百 挺 も た せ ら れ

(兵の武装ですね)


廿 町(約 2.2km) 許 り 御 見 送 り 侯 。

(信長は道三を、正徳寺から約 20町ほど見送ったそうです)



其 の 時 、 美 濃 衆 の 鎗 は み じ か く 、 こ な た の 鎗 は 長 く 、

扣 き 立 ち 侯 て 参 ら る ゝ を 、 道 三 見 申 し 侯 て 、

興 を さ ま し た る 有 様 に て 、 有 無 を 申 さ ず 罷 り 帰 り 侯 。

(道三が驚いた様子でしょうか)



途 中 、 あ か な べ と 申 す 所 に て 、(あかなべ、というところこちらです

猪 子 兵 介 、 山 城 道 三 に 申 す 様 は 、

何 と 見 申 し 侯 て も 、 上 総 介 は た わ け に て 侯 。

と 申 し 侯 時 、

道 三 申 す 様 に 、 さ れ ば 無 念 な る 事 に 侯 。

山 城 が 子 供 、 た わ け が 門 外 に 馬 を 繋 べ き 事 、

案 の 内 に て 侯 と 計 り 申 し 侯 。

今 よ り 已 後 、 道 三 が 前 に て 、 た わ け 人 と 云 ふ 事 、 申 す 人 こ れ な し 。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この、正徳寺の場所は不明のようです

現在、旧跡地と言うところがありますけど、そこでは無いように思います


信長公記より引用です

・・・・・・・・・・・・・・・・・


上 総 介 公 、 御 用 捨 な く 御 請 け な さ れ 、

木 曾 川 ・ 飛 騨 川 、 大 河 の 舟 渡 し 打 ち 越 え 、 御 出 で 侯 。

富 田 と 申 す 所 は 、 在 家 七 百 間 も こ れ あ る 富 貴 の 所 な り

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木 曾 川 ・ 飛 騨 川 を舟で渡ったとありますけど、どういう意味?

まず、当時の木曽川の本流は伊木山の西あたりからやや北に進み

現在の航空自衛隊のあたりを通り、境川の流れになっていたようです

そして、今の木曽川にあたる流れは、犬山を過ぎたあたりから7~8本の支流

に分かれていたそうです

なので、おそらく正徳寺ちかくであると思われる現在の尾張猿田彦神社(愛知県一宮市)

の西にながれる当時の木曽川はそれほど広くはなく

川幅およそ80mくらいだったようです



信長は道三を、正徳寺から20町ほど見送ったとありますが、別れた場所はなんと、

おそらく森蘭丸が産まれた田代城(でんだいじょう)のようです。


跡地の白鬚神社







信長公記が正しいなら、おそらくここから2.2km南のあたりでしょう

その辺りに何があるかと言うと、鎌倉街道が1.6kmのところにあります

その付近に児神社(ちごじんじゃ)があります。そこまでは、1.9kmです。





神社のすぐ前を通ります



これが、鎌倉街道です



正徳寺はこのあたりなのでしょうか?

鎌倉街道を南に進むと現在の木曽川の中ですね

そこに、正徳寺があったことにすると手間が省けますけど・・・←おいっ!

いや、意外とそうかもしれません・・・へへ;

まだまだ、書きたいことはたくさんありますけど、長くなってしまうので

いったんここで、区切りをつけましょうか。



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瑞泉寺 

2016-03-22 07:13:40 | Weblog
瑞泉寺

愛知県犬山市犬山瑞泉寺7


日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派

応永22(1415)年に大伽藍を完成

永禄8(1565)年、兵火で焼失した

(はて?織田信長の犬山城攻略は、永禄7(1564)年8月なので、その時ではないことになります・・・?)

     PS  他説では、犬山城攻略が、永禄8(1565)年と言われるようです

        やはり、兵火で焼失というのは、織田信長の犬山城攻略の時のようです。




「鐘楼は明応3(1494)年建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。」


これがそうですね

三猿を見てません。ざんねん。


「山門は犬山城内田御門を移したものである。」




兼山城から移した一の門があった場所ですね

ざんねんながら、その山門は、江戸時代後期に老朽化のため造り直されたようです。

これがそれでしょうね



この場所から反対のほうを見ると





樹齢300年、まだまだ若い・・・へへ;

奥に進みます

門があります。これもそれほど古くはないですね




そして、さらに進み、右手を見ると



ありました



古い! 近寄るとその古さが良くわかります



これが兼山城にあった二の門ですね。  いい雰囲気~♪


ならば!


>

もとあった金山城の場所に置いてみました

もうひとつおまけ!



3DCGで描こうと思いましたけど、手間の割りに意味がないんで手抜きです・・ご容赦!



この場所から、北に向かい木曽川を渡るとすぐに右手に見えるのが、宇留間(鵜沼)城



私有地で立ち入りは出来ないようです
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金山城址(兼山城)

2016-03-13 06:53:14 | Weblog
築城主 斎藤正義
築城年 天文6年(1537年)

廃城年 慶長5年(1600年)

岐阜県可児市兼山字古城山

地図ですここが、一番城跡に近い駐車場です


そこから見た景色です



数十メートル登ると三の丸



その先は、何かの基礎でしょうか




反対方向に進み、二の丸を目指します



さらに進みます

何か立て札があります




この、右の二の門が犬山市の瑞泉寺に移築現存しているようです


こちらの画像が、その二の門があった場所です




瑞泉寺の門の画像をここに重ねたら面白いかも?




さらに、登ると石垣が




そして、最後の階段です












ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、

昭和36年(1961年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、

移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
犬山城の天守の話ですけど

最近では、使われたカンナの違いによって時代がわかるようで、天守の下の層は

室町時代の建築物と考えられ、

やはり兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという話もあるようです


ここにあった大手門は、犬山城へ移築されて内田御門に使用され、

その後、瑞泉寺に移築されたそうですけど、江戸時代後期に老朽化のため造り直されたようです。



実は、あまり期待してここの場所には来なかったんです

ところが、景色、雰囲気とても良いですね


でも



へへ;

さて、ここを調べると森蘭丸の名前が出てきます

永禄8年(1565年)に、織田信長の家臣である、森 可成(もり よしなり)は、

ここ、美濃金山城を与えられるのですけど、その三男が森蘭丸です


森蘭丸は、ここで産まれたと言う説も出てきますけど、どうなんでしょう?

ウィキによると、永禄8年(1565年)、織田信長の家臣・森可成の三男として尾張葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。とあります。

尾張葉栗郡蓮台は、父親の森可成の生まれた場所のようですけど、蘭丸もそこでの出生なのでしょうか?

微妙ですね・・・森可成が城を与えられた年と蘭丸が生まれた年が同じですね・・・



少し調べてみましょうか

金山城主   斎藤正義  斎藤道三の養子
      
             配下であった久々利城主である久々利頼興に酒宴に招かれて暗殺される

        ↓    正義は、斎藤道三と仲が悪く暗殺は、道三の陰謀とも言われます。

       

       土岐十郎左衛門が留守代     頼興の一族

        ↓
    
       長井隼人(長井 道利)斎藤氏の家臣
      
        ↓     


       森可成    1564年、美濃攻略戦の過程で、信長の命を受け、烏峰城(金山城)を攻撃。
       
              これを攻略する。

              1565年 城主となる



森可成が、金山城を攻略したのは、はっきりとした資料が無いようです。

織田信長の犬山城攻略は、永禄7(1564)年8月で、地理的に考えるとそれ以降のように恩われます。



翌年にあった、堂洞合戦には、(永禄8年8月28日)(1565年9月22日)長井隼人は、関城に居るので

おそらくは、森可成に金山城から追われ関城に移ったのかもしれません。

とにかく、そのような合戦のさなか、おなかの大きな婦人を金山城に呼び寄せるとは考えにくいですね。

ですから、おそらくは森蘭丸は、尾張葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)で生まれたように思います。


場所ですけど、見つけました。

地図です




おまけ

帰宅途中に、撮った画像です

猿啄城(さるばみじょう)です

地図です

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手力雄神社

2016-03-04 19:49:20 | 神社
時間の都合で、なかなかここUP出来ませんね・・・←言い訳してる

まあ、二つの組合長はもうじき終わるので、少しは時間と心の余裕が出来るかと・・・

さて、タイトルの手力雄神社ですけど、ざんねんながら現在修繕中です。地図です



ウィキペディアによると

貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられるとのこと

6世紀末期ごろ中里(現那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座を祀ったのが始まりだそうです。


本殿の後ろに磐座があります


その、左側にある一号古墳です


中に入ることが出来ます



おっと、境内の地図がありました


鳥居の奥にあるのが、稲荷社です


こちらが、二号古墳


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ウィキペディアより引用です

永禄10年(1567年)、織田信長は当社で稲葉山城攻めの戦勝祈願を行い、戦勝後は広大な社領を寄進したという。寺社勢力にも容赦ない攻撃で臨んだ信長にしては珍しいが、これは信長が各務原へ攻め入り、周囲の寺を焼き払って当社に迫ったところ、霧が立ち込め体の自由が利かなくなり落馬した。信長がこれを神罰と恐れ、以後崇敬し各務野原近里(現在の那加地区・尾崎団地・航空自衛隊岐阜基地・市役所一帯)千三百町歩を社領に付し、宝物等を寄進し文化財として今日に至る。


信長公が戦勝祈願したことから、今日では、勝運・開運の神としてスポーツ関係等各種団体の勝運・必勝祈願の参拝者で賑わう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


信長が崇敬しているこの神社パワースポットのようですね

落馬したのは、何時の戦いなのでしょう?

どうやら、少林寺と言うお寺がその時、信長により焼き討ちにあったらしいです


1563年(永禄6年)4月、新加納の戦い(しんかのうのたたかい)のことのようですね

稲葉山城攻略は、1567年 8~9月とのことですけど、その前には少林寺付近に攻め入ったのは

新加納の戦いしかないようです

おそらく、川島にある松倉城から出撃したと思われます



おっと、岐阜城ではなく稲葉山城が正解ですね。失礼!



その時、信長は30歳。清洲城から小牧山城に移った年です

どちらから出陣したのでしょうね?




PS  小牧城郭が完成して信長が清洲から移転したのは翌永禄7年頃とのこと
    
    
新加納の戦いは、清須からの出陣のようです








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