たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

倭姫命その13,そろそろ伊勢に向かいましょうか

2018-09-05 08:01:27 | 神社

なかなか、伊勢方面に出かけられないんで地元をウロウロしていたら

瑞龍寺遺跡やら象鼻山遺跡に出くわしたので、思わぬ収穫が得られました。

さらに、荒尾南遺跡というところにも出会いました。

ざんねんながら、場所はインターチェンジになっています





この荒尾南遺跡からは、3艘の船が描かれた土器が出土しています。

中央の船は82本のオールを持つ船で、船の船首と船尾は反り上がっています。

中央と船尾には2本ずつ旗があるようです。

画像は著作権があるようなので、こちら参考

時代が、彦坐王の移動時期と合うのでそのころにはすでにかなりの大きさの船があったのでしょう。


倭姫命は、倭姫命世記によると、岐阜県瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座して、

そこから船で伊勢に向かうことになっています。



でも、愛知県の一宮市には倭姫命にまつわる伝説がいくつかあることから考えると、やはり

倭姫命の母親である日葉酢媛(ヒバスヒメ)が育った、金華山付近から出発したとするのが、

地形的にも考えやすいと思います。



むしろ、岐阜県瑞穂市居倉から船で伊勢に向かったのは、彦坐王の関係する部隊かと思われます。

近くには、彦坐王の子である大根王(オオネノキミ)の古墳とされる

宗慶大塚古墳(そうけおおつかこふん)があります。




大和朝廷が伊勢に進出する時に、天日別命を派遣しています。

そして、伊勢の地を支配する豪族「伊勢津彦命」を追い出してその後、

伊勢の地を統治したと言われます。

そのことは、「倭姫命その11、なぜ伊勢?」で書いています。




彦坐王は、崇神天皇との間で皇位継承争いを行ったという説があります。

(崇神天皇と彦坐王は、腹違いの兄弟で崇神天皇が兄にあたります)


もしそうなら、崇神天皇に負けたということになります。

その影響で「彦坐王」の名前が歴史にあまり出てこないのかもしれません。

とにかく、不思議な人なのです。

しかし、かなりの武力と進んだ技術集団(主に伊福部氏)を従えていたようです。



少し妄想をすると、天日別命は、伊勢津彦命を追い出して、(殺害したとの説もあります)、

しかも、その娘との間に子を授かっているようです。

それが、どうのこうのということではありません。

天日別命を、彦坐王に当てはめることにすると違和感があるのです。

彦坐王にはそれだけの時間が無いように思います。

彦坐王は、居倉の場所から東にある金華山のあたりに進み、そこで、倭姫命の母親である

日葉酢媛をもうけているのですから。

しかも、さらに愛知県春日井市あたりに進出しているのです。

この地は、鉄の産地なのです。

ですから、天日別命と言う人物は彦坐王ではないでしょう。

想像上の人物、あるいは彦坐王の子のうちの一人かもしれません。

でも、彦坐王の部隊が伊勢に行き、丹生鉱山を支配下に置いたのは間違いないでしょう。

以前にも書きましたけど、伊勢までの船旅をするにあたって、

それらしき川の河口近くに基地を作り(水の確保のため)それが、後の神社になったと考えます。

ようやく、その可能性のある所に行くことが出来ました。ふう。。。


最初は、本当かなぁ?などと思いましたけど、数を重ねるごとに、おいらの思ってること

正しいんじゃないかなと確信まではいかないけど少し思いました。


次回からは、その神社や、その周辺を紹介していきたいと思います。










コメント
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