斎宮にも行ってきました。
斎宮歴史博物館に行くつもりでしたけど、月曜日で休刊日・・・
気を取り直して、近くの「竹神社跡」に行きます。
この先が、竹神社跡。
ここがそうです。
竹神社の「竹」=「多気」とのことです。
さらに、進むと、
その先の木が見えるところが、祓川のようです。
上の画像の真ん中に見える山の麓が「飯野高宮神山神社」です。
古くは、山の頂上にあったという話もあります。
愛知県犬山市にある「大縣神社」も同様ですね。
以前見たレイラインをもう一度見てみます。
砥鹿神社奥社から、飯野高宮神山神社が冬至の日の入りになるようにセットします。
すると、そのライン上に斎宮があるのです。
これは、偶然ではないでしょう。
拡大してみます
さらに、倭姫御陵から夏至の日の出のラインを見ると
そして
竹神社に行きつきます。
ただし、竹神社というのは、竹連(タケノムラジ)の祖・宇迦之日子の子の吉日子という人が、
倭姫命にお供してきて、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、
竹郡創建の際に、その末裔が当社を創祀したのが創始とのことです。
倭姫の御陵から竹神社のレイラインは、時代が少し後のもののようです。
倭姫が最初に住んでいたところはどこか探すつもりでしたけど、ざんねんながら、
これ以上はわかりませんでした。
まあ、1,700年も前のことですから仕方がないでしょうね。
でも、竹神社の近くである可能性は高いのではないでしょうか。
そして、倭姫は、砥鹿神社からみた飯野高宮神山神社のレイラインと、
以前書いた、飯野高宮神山神社から見た冬至の日の出に見える内宮のレイラインを
知っていたことも充分考えられます。
このあとは、外宮に行き倭姫との関係を調べていきます。