23-11-30 紅葉 アジサイ
土佐みずき ブルーベリー
沙羅の木 イチョウ
紅葉 ぶどう
23-11-27 援農1006 今年の里芋は不作でした。
里芋の種芋を保存する 手前はむらさき白菜
ナスとピーマンの枝ををチップに
仙台藩は、石高のわりに武士人口が多い藩でした。伊達家が抱える武士は、幕末には総勢約3万3800人を数え(下級の陪臣を含めた場合)、これは平均的な藩の3倍から4倍ほどの多さになります。城下の武家屋敷と町屋敷の面積比から見ても、武家屋敷は7~8割を占めています。
当時の福井や鶴岡の城下町では、武家屋敷の割合は25%ほどであったことから考えても、仙台藩の武士の多さは歴然としています。
それにしても、なぜこれほどまで武士が多いのでしょうか。それは、仙台藩が大幅に領地を失っても家臣を減らさなかったからです。
ひとたびは120万石にまで領地を広げた仙台藩でしたが、秀吉に会津領を没収され、家康による「100万石のお墨付き」も反故にされてしまい、最盛期の半分ほどの62万石となりました。肥沃な会津や米沢の土地を失ったことは痛手でしたし、代わりに手に入れた大崎・葛西氏の所領には未開発の地が目立ちました。
攻略した地の武士を自らの陣営に加え、膨れ上がった人員に、多くの給料を払えるほど仙台藩の財政に余裕はありません。そこで、自給自足のために屋敷の庭への植樹を奨励しました。
武家屋敷は、下級武士でも1000㎡ほどの広さがありました。ここに、カキやクリなどの実がなる木や、建材として使えるスギやマツを植えさせたのです。落ち葉や枯れ枝も、燃料や肥料として余すところなく活用されました。この屋敷林こそが、時代を経て生長し「森の都」の「森」の由来となったのです。
仙台城下において、どこにどんな屋敷が配置されたのかを見てみましょう。
仙台城下町の建設にあたっては、政宗が自ら屋敷割図を描いて、奉行の川島豊前(かわしまぶぜん)・金森内膳(かなもりないぜん)に示したといいます。城下町は、城を中心に防御的役割をもたせながらも、交通の便をよくして商業や交通の拠点となるように設計されました。
まず、幹線道路である奥州街道と、それと直行するように仙台城大手門下からまっすぐ伸びる大通りを基軸に定めました。ここに、ほかの城下町と同様に、碁盤の目状に町割りを行いました。
【参考記事】
仙台が「杜の都」と言われる由来となった森はどこにある!? - まっぷるトラベルガイド (mapple.net) より、抜粋
写真 ブラタモリ2021/4/3 「杜の都 仙台」2015/7/18 放送のアンコールより
23-11-27
アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていました。 農事暦(The Old Farmer's Almanac)によると、アメリカでは11月の満月を「ビーバームーン(Beaver Moon/ビーバー月)」と呼ぶようです。
23-11-25 ビワの花
【季節の花300】より
・「桃栗3年、柿8年」ということわざがあるが さらに「ビワは9年でなりかねる」ということわざもあるらしい。(「実」は、できにくいらしいです)
・薬効 せきどめ、下痢止め ・薬用部位 葉 ・生薬名 「枇杷葉(びわよう)」
ハツユキカズラ
23-11-23
小兵翠富士が、どんな大型力士であろうと真正面からぶつかってゆく姿に、どうしても応援したくなる。弟弟子に熱海富士。
翠富士 一成 - 力士プロフィール - 日本相撲協会公式サイト (sumo.or.jp)
↓頑張れ!!
若元春
宇良
錦木