地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

5月21日(月)は、金環日食。次回は、18年後。

2012年04月28日 | 【14】雑感

食の最大時刻は朝の7時半頃。朝晴れていれば、勤めている人は家を出るころか通勤途上か、太陽のほとんどが消え、金色の指輪を見ることになる。そして、会社に着く頃、食は終わる。

自由人はどうする?欠けていく太陽を見て、ノンビリ過ごすか。そういえば、家人がそれ専用のメガネを買ってあった。昔は、下敷きか、ガラスににろうそくのススか墨か。

地名食の始め金環日食の始め食の最大の時刻最大食分金環日食の終り食の終り
東京 6時19分02秒 7時31分59秒 7時34分30秒 0.969 7時37分00秒 9時02分37秒
静岡 6時17分43秒 7時29分44秒 7時32分13秒 0.969 7時34分42秒 8時59分10秒
京都 6時17分41秒 7時30分00秒 7時30分35秒 0.940 7時31分09秒 8時55分17秒
高知 6時15分24秒 7時25分11秒 7時26分46秒 0.946 7時28分21秒 8時49分35秒
鹿児島 6時12分49秒 7時20分05秒 7時22分11秒 0.954 7時24分17秒 8時42分26秒

金環日食

次回の金環日食は、2030年、北海道で。

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琉球新報「社説」

2012年04月27日 | 【14】雑感

社説  2012・4・27

 小沢判決/検察の「闇」が裁かれた 全面可視化しか道はない     

 裁かれたのは検察の深い闇だ。そう受け止めざるを得ない。政治資金規正法違反罪で強制起訴された小沢一郎民主党元代表への判決で、東京地裁は無罪を言い渡し、検察の手法を厳しく批判した。
 供述を検察が「ねつ造」したことが明らかになったからだ。大阪地検の証拠改ざんもあった。断罪されたのは検察の体質そのものと言える。もはや検察の調書は信頼できない。取り調べを全面可視化するほか信頼回復の道はない、と法務当局は認識すべきだ。
 今回、「ねつ造」された供述はそのまま検察審査会に送られ、強制起訴の根拠になった。検察審査会の在り方も議論すべきだろう。

証拠改ざんに通底
 この裁判の最も重要な瞬間は、小沢氏の弁論などではなく、むしろ田代政弘検事の証人尋問だった。昨年12月の公判で田代検事は、事実と異なる捜査報告書の作成を認めたのだ。
 2010年5月、田代氏は元小沢氏秘書の石川知裕衆院議員を再聴取した。その報告書には「あなたは国会議員。やくざの手下が親分を守るようなうそをついてはいけない」と検事に言われたのが効いた、と石川氏が述べ、小沢氏の関与を認めたかのように記した。
 だが石川氏はかばんに録音機をしのばせ、隠し録音していた。このため、そのような応答は全くなかったことが証明できた。
 田代氏は「過去の供述と記憶が混同した」と弁解したが、あまりに不自然だ。録音されていない「供述」はほかにも数多くある。裁判所が弁解を「にわかに信用できない」と退けたのも当然だ。
 取調室は密室である。隠し録音をしていなければ報告書が虚偽だとは証明できなかっただろう。ほかの調書類でも同様の「ねつ造」がないと信用できるだろうか。
 検察のストーリーに合わせて事実をねじ曲げた点は、大阪地検の証拠改ざんとも通底する。もはや検察の体質と化していた、と疑わざるを得ない。
 検察は取り調べの一部可視化を始めているが、全面可視化は拒んでいる。だが一部可視化は可視化しないのと同じだ。検察に都合のいい部分だけを公開し、ほかは隠しておける仕組みでは、可視化の意味がない。法務当局は、国民の信頼を取り戻したいなら、全面可視化を断行すべきだ。
 市民団体は田代検事を虚偽有印公文書作成・同行使罪で告発したが、検察は起訴を見送る方向という。大阪地検の証拠改ざんは最高検が捜査したが、今回は東京地検が担当だ。東京地検の犯罪を東京地検が捜査して、公正と言えるはずがない。最高検か他の地検、警察が捜査すべきではないか。

資料開示も必要
 検察審査会(検審)の仕組みもあらためて問われる。今回は検察が起訴を見送った事案だが、市民の告発を受けて検審が2回議決し、強制起訴となった。
 だが検審の仕組みもあまりに不透明だ。政治的に対立する人が恣意(しい)的に告発することは、いくらでもできる。審査が何回開かれたか、委員がどんなメンバーかも分からない。
 検審に開示する資料を検察が恣意的に選ぶことも可能だ。今回の審議も、くだんの捜査報告書を基にしていた。全面可視化と同時に全ての捜査資料を全面開示する仕組みでなければ、公正な審議はできないのではないか。これは裁判員裁判にも言えることだ。
 強制起訴が可能になったのは裁判員制度と同じ09年の司法改革からだ。それ以前、検審が起訴議決をしても、警察官や検察官が身内の犯罪をかばうかのような不自然な不起訴が続き、市民の不信感が高まったことが背景にある。
 だから強制起訴の仕組みの必要性にはうなずける点もある。だが政治家は起訴だけで議員辞職を迫られてしまう。特定の政治家を恣意的に排除できるかのような仕組みは改善の余地がある。国民的議論で改善策を導き出すべきだ。

 

日刊ゲンダイ
(大手新聞やテレビが、「小沢一郎」を恐れている理由は何か?自らの役割を忘れ、小沢一郎を貶めるために狂奔する理由は何か?要するに、彼らには都合が悪いのだ。国家権力におもねる新聞、テレビなどの報道の在り様を見ると、日本という国は、「これで大丈夫なのか?」と。

(東京新聞)  特報 社説

江川紹子氏1(晴耕雨読)

江川紹子氏2(晴耕雨読)

森ゆうこ議員(晴耕雨読)

永田町異聞

国会探検(田中良紹)

 

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キューリが終われば、あとはカボチャ。

2012年04月24日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)


12-4-24 援農311 今日の最高気温は25度。昨日より10度高い。キューリ植え、あと大物はかぼちゃ。


トマトの成長は早い。脇芽枝を取って上に引き上げる作業。

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春風 桜舞う 畑で。

2012年04月19日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)


12-4-19 援農310 ナス、ピーマン植え。春の 仕事のやりやすい日。今年の気候には、油断禁物か。


里芋植えは、終わっていた。

 

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新装 東京駅(丸の内側)

2012年04月16日 | 【14】雑感

             


12-4-10  新装 東京駅 6月完成とか。

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「塩の道」を歩く <1>

2012年04月14日 |   街道を歩く③塩の道

信州に海はない。信州では昔、漬物や味噌は命の綱だった。それらを作るために使う大量の「塩」は、太平洋側と日本海側から入ってきた。
日本海側からは、主に瀬戸内海で作られた塩が、糸魚川から千国街道(ちくにかいどう)を通って松本へ入ってきた。また、一部は信濃川を遡行して長野、上田、佐久盆地へ運ばれたり、直江津からのルートもあったという。
太平洋側から信州に入ってくるルートはいくつもあった。西は伊勢湾に注ぐ木曽川、三河湾に注ぐ矢作川(やはぎがわ)、駿河湾に注ぐ富士川、さらに東は利根川を遡って上流の倉賀野に陸揚げされて信州に入ってくるルートと多様だ。 
日本海側から入ってくる塩を総称して北塩(きたじお)、太平洋側からの塩を南塩(みなみじお)と呼んでいたそうだ。
今回の街道歩きのルートは、三河湾に注ぐ矢作川を遡り信州に入るルートを選択した。太平洋から日本海側(越後・糸魚川)に向け、日本列島を横断しながら、歴史や文化に触れ、大自然を堪能し歩きたい。

塩の道歩きの出発地は、三河の吉良町、昔、吉良上野介の所領地だ。



吉良の町は夏の観光地で、今の時期ほとんど人がいない。ホタテ貝を採る地元の数人と会うのみだ。静かな海に梶島とかいう島が浮かんでいる。浜辺に降りて、小さな器に太平洋の水を入れた。この水を日本海に注ぐのはいつになるか。
幡頭(はず)神社に参拝の後、歴史民俗資料館を見学。小さいながら、整理されていてなかなか気持ちがいい。何より、館長らしい人が積極的に話しかけて来ないことが、煩わしくなくていい。
吉良の塩田で作られた塩は饗庭塩(あいばじお)といって良質のものであったので徳川家でも使われ、また江戸の一流の町人や有名料理屋などもこの塩を使っていたという。一説によれば、この饗庭塩と新たに江戸に販路を開いた浅野家の「赤穂の塩」との諍いが、切傷沙汰の原因だとしているが、定かではない。

吉良の塩や瀬戸内海から運ばれた塩は、吉良を流れる矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされ、足助(あすけ)へ向かうことになる。

「塩の道」歩きの初回は、吉良の町から吉良家ゆかりの金蓮寺や華蔵寺、黄金堤を見て、岡崎に入り、徳川家ゆかりの六所神社や伊賀八幡宮をみて終わった。吉良から岡崎までは、昔、吉良街道という道があったというが今はわからない。
次回は岡崎より足助の町までの予定。三州街道で信州を目指す。三州街道は、武田信玄が上洛するために整備したといわれる街道だ。

【参考書籍等】
・古道紀行「塩の道」(小山和・保育社)
・塩の道ウォーク(井上如・日外アンソシエーツ)
・塩の道ウォーキング(静岡新聞社)
・吉良上野介を弁護する(岳真也・文藝春秋)
・通過市町村の観光案内

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塩の道を歩く①(資料・写真)

2012年04月13日 |    ・塩の道資料・写真

 

         

 塩の道を歩く① 発見と感動を求めて。

 日程 平成24410日(火)~12日(木)

4月10日(火)

 (東海道本線快速アクティー)東京駅発 915  三河鳥羽駅着1532
三河鳥羽までの乗車券を買って、10番ホーム中央あたりで、待ち合わせ。
指定券は無し(出発の340分前に集合)乗換案内は別紙(乗換5回)

     適当な駅で弁当購入、車内で。

 三河鳥羽駅より約5Km歩く
 名鉄蒲郡線
  
泊まり たか島(0563-32-1682)吉良温泉中、海より少し離れた高台にある。
 http://www.kira-takashima.jp/index.html

4月11日(水)

1.吉良宿
 

早朝散歩:太平洋から登る日の出が見られるか?
今日の目的地は、JR「岡崎駅」までの、おおよそ20Km

 【幡頭(はず)神社(本殿)】

                                   


三間社流造、桧皮葺。幡頭神社本殿は天正8年(1580)の建築で、桃山時代の様式を伝える。規模は大きくないが、手法が堅実で絵様は雄健な曲線を用い、蟇股(かえるまた)の形も内部の彫刻も素朴である。屋根は桧皮葺で大きく反りかえった庇が美しい。幡頭神社は大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)である。日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従った建稲種命は帰路駿河沖で遭難し、遺骸が宮崎海岸に漂着し当地に葬られたと伝えられる。(西尾市Hより)隣は、熊野社・神明社

【吉良町歴史民俗資料館】AM9;00~

県指定文化財の岩場古墳出土品などの考古資料、吉良上野介義央公の系譜、塩業の歴史ジオラマ、塩の道の展示。考古学発掘品。横穴式石室の岩谷山第二号墳の復元古墳もある。

塩田に関する展示は他の博物館にもあるが、ここの展示がもっとも充実している。
全国を見ると「塩の道」と云われる道はたくさんあるが、その一つ、塩尻まで続く塩の道の出発点となっている。
このあたりは塩田が発達しおり、饗場塩(あいばじお)というブランドの塩の産地だった。

【金蓮寺(こんれんじ)弥陀堂(国宝)】
  
金蓮寺弥陀堂は、県内最古の建築で、桁行三間、梁間三間、一重寄棟造で屋根は檜皮葺とする。軸部の柱、舟肘木、内部の小組格天井などに鎌倉時代の様式をよく表している。
源頼朝により、文治2年(1186)に建立されたと伝えられるが、様式的には若干新しいと考えられる。

 【華蔵寺(けぞうじ)】

華蔵寺は山号を片岡山(へんこうざん)といい、臨済宗妙心寺派の禅寺。忠臣蔵で有名な義央の曾祖父、義定によって慶長5年(1600年)に金星山華蔵寺から片岡山華蔵寺と改められ菩提寺とされた。華蔵寺の吉良家墓所には義安以下、代々の墓が建ち並んでいる。毎年、吉良公の命日である12月14日には毎歳忌法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れる。

【黄金堤】

義央(よしひさ)公の大部分の知行地は、吉良町にあった。言い伝えによると、当時岡山村から南の地域は、大水のたびに被害に苦しんでいた。義央公は、水害から領地を守るため、長さ約180m、高さ約4mの堤防を一夜で築いたといわる。その後は水害がなくなり、良田となったことから、人々はこれを「黄金堤(こがねづつみ)」と呼んで遺徳をたたえた。現在は、桜の名所としても知られる。

【東向寺】
東向寺は愛知県西尾市にある浄土宗西山深草派の寺院。正式名称は、石峰山来迎院東向寺今川義元の首塚と伝わる宝篋印塔がある。

【神明社】

西尾宿 歩くルートから外れており、また時間の関係で寄らない。(途中で考える)  
このあたりから岡崎駅までの約10Kmは、多分見るところはあまりないと思うので、最短のルートを歩こう!

 2.西尾宿

 3.岡崎・藤川宿

 泊まり マイホテル岡崎(0564-54-5544)JR岡崎駅西口徒歩2分 夕飯は外で。
   
http://www.my-hotel.jp/ 

4月12日(木)

早朝散歩を兼ね、できるだけ早く出発しよう!(朝食6:30)岡崎城でゆっくり。

【六所神社】

                                       


六所神社は家康公の産土神として、代々徳川家の崇敬が篤く、現在の社殿は寛永十一年(1634年)から寛永十三年にかけて三代将軍家光公が再建した。権現造で、彫刻や色彩が華やか。本殿・幣殿・拝殿・神供所・楼門が重要文化財に指定されている。

【岡崎城】岡崎城、家康館等900

          
岡崎城は別の呼び名では竜ヶ城ともいわわる。康生元年(1455年)に三河の守護代だった西郷弾正左衛門稠頼が建てたもの。大永四年(1524年)、松平清康が(家康の祖父)が攻め落とし、松平家の居城となった。家康がここ岡崎城で生まれたのは天文十一年(1542年)のことになる。桶狭間の戦いの後に、家康は増築を約10年の歳月を費やして行っている。
家康が居城を移したあとは、長男の信康。信康が亡くなったあとは、城守を置いていたが、徳川幕府を開いてからは、徳川家譜代大名たちが住んでいた。天守閣は元和三年(1617年)本多康紀のときに建てられている。
岡崎城は明治6年に破壊された。(廃城令)(昭和34年天守閣復元)

岡崎公園:日本の歴史公園100選、さくらの名所100選、日本の都市公園100選

【伊賀八幡宮】

               
伊賀八幡宮は、松平四代親忠(ちかただ)公が、松平家〔徳川家の祖〕の子孫繁栄の守護神『氏の神』として創建なされた神社。
徳川三代将軍の家光公が、岡崎の伝来の氏神守護神である伊賀八幡宮に、祖父である東照大権現〔徳川家康公〕をあわせて祀ることとした。

【大樹寺】
大樹寺は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたとき、今川軍についていた家康は、大高城から大樹寺へ逃げ帰えった場所。先祖の墓の前で自害を図ろうとした家康を思いとどめさせたのが、この寺の住職 登誉上人であったことは良く知られている話。
大樹寺は歴史的にもたいへん大きな役割を果たしている。
大樹寺は、松平家(徳川将軍家の祖)、徳川将軍家の菩提寺。

【信光明寺】
徳川将軍家ゆかりの名刹。往時壮麗を誇った堂宇は、伊勢新九郎(北条早雲)に放火され消失したが、焼け残った観音堂は室町中期の建築様式を今に伝え、国の重要文化財に指定されている。観音堂の屋根の軒先のそりの深さ、総門の屋根に上がっている鬼瓦などは他では見られないものだという。

東名ハイウェイJRバス(バス停確認)
バス停『東名岩津』1340発  東京駅(日本橋口)1858着  
    
東名ライナー54号1号車[ 1A][ 1B][ 1C]

【主な費用】
(交通費)
東京―三河鳥羽        5,640
東名岩津―東京        4,540

(宿泊)
たか島(1泊2食)       8,400円  (少し贅沢)
マイホテル岡崎(朝食付き)     5,000円

 【情報】
吉良町役場  0563-32-1111(代表)
岡崎市役所  0564-23-6000(代表)

【持ち物(追加)】
〇携帯ラジオ
〇ケータイ用充電器(コジマなどの携帯ショップにあり)

2012/03/17
 

【結果】

歩いた距離
  10日(晴れ~曇り)     9,991歩( 7.49Km)  
  
11日(小雨~風雨強し) 37,972歩(28,47Km) 最悪のコンデション。歩くしかなかった。修行。
  12日(晴れ)        21,440歩(16,08Km)

 

 

 

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匂い椿(舞姫)とゆすら梅(桜桃)

2012年04月07日 | 【4-2】庭を楽しむ


12-4-7 匂い椿(舞姫) いい匂いがする。春の匂いか。


ゆすら梅(桜桃) 小さい頃、この赤い実をよく食べたものだ。


ゆすら梅(白実) 今年、大きめな真珠のような実を沢山付けることを期待。今迄は最高10粒位。


白実ゆすら梅 撮影2008/7

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インゲン植えと「こぶとり」蒔き。

2012年04月05日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)


12-4-5 援農309  インゲンの植え付けと、こぶとり(だいこん)蒔き。気温がちょうどいい。やっと春か。

       なす 

                                            
                         きゅうりなど

 

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インカ帝国展(上野)。

2012年04月04日 | 【7】見る・観る・聴く

     
12/4/4  インカ帝国展。

         
          壮壮会。八重洲桜通り、満開。行きつけの立ち食い寿司「魚がし」閉店。

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