地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道六十九次を行く-16-

2008年10月29日 | 【17】中山道(予備)
(10月26日~28日)
いよいよ近江路へ
美江寺宿から赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、
     醒井宿、番場宿、鳥居本宿へ




「ムーンライトながら」を使ったので、終点の大垣で早朝の短時間、大垣城に寄って見た。

【関が原の合戦と大垣城 】
1600年(慶長5)、石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため東上して美濃の国に入った。
時の大垣城主・伊藤盛宗は豊臣家の家臣で西軍に属していた。そこで、三成は、大垣城に入城して
西軍の本拠とし、付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集まるのを待った。
ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、大垣城から見下ろす西北の赤坂・
岡山を中心に布陣したため、西軍の動揺は大きかった。
9月14日、三成の謀将・嶋左近(しまのさこん)はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、
予め配置した伏兵と呼応し、笠木村にて、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊に奇勝を得た。
(これを“杭瀬川の戦い” という)
そのため、一時は西軍の士気は上がったが、東軍徳川方の策戦におびき出され、大垣城に兵7,500
を残して関が原に移動し、翌15日、両軍が関が原の原野で激突する一大決戦となった。
関が原での本戦後も大垣城の攻防戦は三日三夜つづき、城内に裏切りが出たため、遂に落城した。
この戦いで、城下町は東軍に火をかけられ、三日にわたり燃え続け、凄惨を極めたという。


今回の旅の始まり、江戸から55番目の宿、美江寺宿


鷺田橋から鷺が見えた。



【小簾(おず)紅園】
皇女和宮の歌碑がある。(舟で揖斐川を渡る時、馬淵家の庭の美しい紅葉をみながら)  
  落ちてゆく 身としりながら もみぢ葉の 人なつかしく こがれこそすれ


【聖観音道標】
三ツ屋町に入り十字路の右角に小さな祠とその前に『道標聖観世音菩薩』の標石がある。
祠の中の聖観世音菩薩は古いもので、像の両側に『右ぜんこうじ道、左谷汲山、ごうど、いび近道』
と彫ってあって道標の役割もしたと。







【安楽寺】(赤坂宿)
聖徳太子が創建し、672年の壬申の乱の時、大海人皇子が戦勝を祈願し、戦後は、大友皇子の冥福
を祈った寺と伝えられている。




【お茶屋屋敷跡】
家康が上洛の時の休憩施設。中山道に残る「お茶屋」としては唯一の遺構で重要な遺跡。





【南宮大社】(垂井宿)
初代神武天皇時代(約2650年前)の創建といわれ、祭神の金山彦命は金属・鉱山の神といわれている。
金山彦命を祀る全国約3000社の総本宮。延喜式の名神大社で、美濃国一の宮。


笹尾山から関ヶ原を望む。



【笹尾山】三成の本陣(関ヶ原宿)


関ヶ原から笹尾山を望む。


【関ヶ原古戦場跡】


柿を狙う猿。シーと云ったら、敵愾心むき出しになって、身を乗り出してきた。



【不破の関跡】(今須宿)
日本三関のひとつ
壬申の乱の翌年、天武天皇(大海人皇子)はここに不破関をおき、天下の変乱に備えるとともに
通行人たちを調べました。
越前の愛発、伊勢の鈴鹿とならんで重要な関所でした。
当時の総敷地面積は約120,000平方メートル余り(37,300坪)。中央を東山道(のちの中山道)
が通り、通行人は目的地や携行品などを書いた証明書を見せて通らなければなりませんでした。
関所の機能は延暦8年(789)まで続きました。
ちなみに、この不破関を境に関東、関西の呼称が使われるようになりました。
三輪家の庭園が関所跡の一角で、鎌倉時代以後歌枕として名が知れ渡りました。
芭蕉をはじめとする俳人や歌人が立ち寄っていて、句碑や碑文が多数あります。
(関ヶ原町観光ホームページより)


写真不調、岐阜(美濃)と滋賀(近江)の県境が、小さな溝で区切られている。
【寝物語の里】これより近江に入る
 
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
・・・「ねものがたりの里」など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、・・・
近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。・・・
江戸では「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」というように、銀本位制・・・
方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったとも
いえる。・・・





【円乗寺】(寂照山円乗寺成菩提院)(柏原宿)
天台宗の古刹。織田信長は、浅井長政と佐和山城で会見する前、ここに泊まっている(1568年)。
足利義明を伴って京に行くときも泊まった。秀吉もそれに習いここに宿泊した。
成菩提院の20世の住持は、家康・秀忠・家光の三代の各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・
黒衣の宰相として尽力した天海大僧正。
最盛期は160石、64坊と僧侶103人、末寺80を抱える大寺院だったという。

写真撮りそこねにつき商店のHPより。
【伊吹艾(もぐさ)の亀屋左京商店】

司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
伊吹山は、胆吹山とも書く。古語で呼吸のことを息吹という。伊吹山は絶えず風や雲を息吹い
いる。
標高1377mである。近江第一の高山で、古代の人々がこの山を絶えず息吹いている精霊と見た
だけでなく、不思議の薬草が多く、いかにも奇(く)すしき山とみていた。・・・
中でも、灸のもぐさが代表的である。
江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は1軒きりになっ
てしまったが、江戸期はどの店も繁盛していた。
面白いことに、どのもぐさ屋も「亀屋」という屋号を名乗っていた。鶴は千年、亀は万年という、
その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。また、このことは、近江商人が互いに足を
引っ張りあわないという気風と関わりがあるとみてよい。
伊吹もぐさが結構なものだということは、奈良朝のころから定評があったとはいえ、
世々の遷りによって一般には忘れられたかのようであったとき、この伊吹山麓の柏原の人で
松浦七兵衛(亀屋左京)という怪傑が出た。彼が大いに中興する。
亀屋左京の店の昔は、安藤広重の「木曾街道69次」の「柏原」の絵で見ることができる。
画面いっぱい、亀屋左京の店頭風景になっている。
亀屋左京家は、そのまま残っていた。長大な間口は、広重の絵以上の規模である。
ただ広重の絵のように間口がすべて開放されておらず、半ばは京格子で覆われている。


柏原宿歴史観の隣、「くつろぎの里」で名物「やいと」を食べた。
中山道柏原宿として、もぐさ(伊吹もぐさ)にこだわっている。
中身は、とろろ昆布をもぐさに見立て、白い肌(ゆでたまごの半切り)の上に乗せ、
その上に紅しょうがで火を表しているんだと。うまかった。


【加茂神社】(醒ヶ井宿)
「ヤマトタケルノミコト」像がある。その昔、伊吹山に住みついた大蛇を日本武尊が退治した。
しかし、大蛇の猛毒に苦しめられてしまう。やっとのことで醒井の地で清水で体を冷やすと
高熱がとれ、回復したという。


ようやく柿にありつけた。計ったように4個の柿がダンボールの中に入れてあった。
素朴な味であったが提供してくれた、旅人思いの方感謝します。






【居醒の清水】
醒井宿を流れる地蔵川の源流、居醒の清水は古くから中山道を往来した旅人の憩いの場所でもあり、
数々の歌にも詠まれている。
「古事記」「日本書紀」には日本武尊が伊吹山の大蛇を退治した際、毒気にあたり、
命からがらこの泉にたどり着き、清水で体をいやしたところ、高熱がさめたという話が伝わっている。
 それゆえ「居醒の清水」と呼ばれ、また醒井という地名もこの話が発端になったといわれている。
【醒井七湧水】十王水、天神水、西行水・・・・


【摺針(すりばり)峠】よりの夕焼け(鳥居本宿)
残念ながら、【望湖堂】から琵琶湖を見ることは出来なかった。望湖堂自体どこにある
のか分からなかった。夕方になり、少し気が急いていたのかもしれない。残念。
天気次第では、次回「中山道17」で行ってみるか。


広重が描いた「鳥居本」
広重の絵には峠の下に、すぐ琵琶湖が広がっているが、今は、新田開発がすすみ内湖の姿は
みられず、琵琶湖の姿はかなり先にしか見られないという。

【今回の旅】
・実施日 平成20年(08)10月26日(日)は夜行列車「ムーンライトながら」
       28日(火)は夜行バス「びわこドリーム2号」にて。
・天 候 初日26日は美江寺宿に到着、歩き始めたら雨が降り出し、悪い予感。降り止んだり、
      暑かったり寒かったり、不安定な天候。翌日は朝から雨。
      しばらくしたら曇り空ではあったが安定した天気になって「ホッ」という感じであった。
      まあいい方か。

・メンバー4人(65歳2人、64歳2人)

・距 離 
     1日目・・・36,381歩( 27,29Km)
     2日目・・・41,019歩( 30,76Km)
    
・見 所
     ・大垣城(桜の時か紅葉のときはもっといいかも。以下同じ)
     ・安楽寺
     ・南宮大社
     ・笹尾山
     ・円乗寺  
     ・居醒の清水・七湧水
 
・食 事(うまかった、よかった)
     ・魚しげの夕食(関ヶ原)
     ・旅館神山の朝食(関ヶ原)
     ・くつろぎの里(柏原)の名物「やいと」
・ビックリ
     予約しておいた、つるや旅館のおばあさん(80数歳)の健康状態悪しによる旅館変更。
      (結果的に美味しい夕食と朝食にありつけ良かったが、ビックリ)

・満足度 天候に変化はあったが、2日間何とか歩き続け目的地に到達。
      見所も結構あり、満足の部類。不満なことは、「富有柿」を食べたかったなーということと、美    
      濃路であまり上手い酒には逢わなかったなーということか。

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、63番目の宿(鳥居本宿)
・距離 :534Km中、473Km

【俳句駄作集】
 富有柿 横目に歩く 美濃路かな
 揖斐川や 秋日に光る 2羽の鷺
 静けさや 秋気が包む 安楽寺
 朝霧や 軍旗さびしき 関ヶ原
 秋近江 寝物語や 溝一つ
 富有柿 脇を固める 円乗寺
 秋の昼 もぐさ見立ての やいとかな
 近江入り 旅人思いの 柿4つ
 摺針の 峠の秋や 空赤く

次回中山道17は、紅葉の近江路を南下、

  彦根に寄り道、鳥居本宿、高宮宿、愛知川(えちがわ)宿、
  武佐宿、守山宿までか、京まであと一歩のところまで。


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援農ボランティア作業日誌ー135-

2008年10月22日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)


08-10-22
【今日の作業】
・トマトの収穫と出荷準備
・さつま芋収穫

体を動かすと汗ばむ陽気で、丁度いい日和だった。トマトは結構割れが目だった。
また、さつま芋も割れているものがあった。多雨など気候のせいだそうだ。
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08秋 舞子行2

2008年10月21日 | 【2】舞子ライフ

08-10-18
八海山ロープウェイ山頂から。快晴ではあるが、残念ながら日本海、佐渡は見えず。


山々が紅葉してきている。


ほうき草(コキア)紅葉。



秋のスキー場の花々。
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援農ボランティア作業日誌ー134-

2008年10月15日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)



08-10-15
【今日の作業】
1.トマトの手入れ(割れてしまっては売りものにならない)
2.柿の間引きと鳥対策(紐張り) もう少しで収穫だ。

さわやかな作業日よりであった。こういう日はなぜか鼻歌がでてくるのだ。


ブロッコリーはもう大丈夫だろう。害虫には気を使ったが。



 
S氏宅の金木犀。我が家もそうだが、街のいたるところで金木犀の花が落ちている。
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おくのほそ道~大垣

2008年10月12日 |    街道歩きの調査

08-10-12
先月八重洲のブックセンターで、久しぶりに買った本を読み始めた。
これは解りやすくて読みやすい。(萩原恭男監修・青春出版社1,080円)

内容(「MARC」データベースより)
隅田川を船で旅立ち、奥州平泉から金沢を経て、大垣に着くまでの476里・156日間。
芭蕉は何を思い、そして何を伝えようとしたのか…。「おくのほそ道」の世界観をわかりやすく図解。

<序段>
・伊賀上野で若き主君と共に俳諧を学ぶ松尾芭蕉
・江戸での名声と苦悩 真の俳諧の道を求め続ける
・・・
・旅における四つの楽しみを実現した「おくのほそ道」

<第四段 大垣>
・曾良もかけつけ大垣の人々と無事を喜ぶ
・名残を惜しみつつ伊勢へ船出する
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援農ボランティア作業日誌ー134-

2008年10月11日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)


 
【今日の作業】
・トマトの枝支え修正
 雨模様の日だった。気温は作業に丁度良かった。順調に実を付けている。


 

 
ボランティア仲間での共同野菜も、何とか育っている。ただ、ブロッコリーは少し気になる。
明日、臨時に出て、雑草取りと消毒をする予定。




 
弁天様。相当の数の鯉が泳いでいる。
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08秋 舞子行1

2008年10月07日 | 【2】舞子ライフ

08-10-4
初秋の大源太山と大源太湖  右手奥には、谷川岳連邦が連なる。

 
 
木々、草花の葉が少しずつ色づき始めている。



 
稲田が黄金色に光る。もう刈り取りの時期だ。豊作だ。

 
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近江散歩・・・

2008年10月06日 | 【13】図書館活用

08-10-6
街道をゆく<24>近江散歩、奈良散歩 (司馬遼太郎)
初めて「大活字版」という図書を借りて読んだ。字が大きい。計ったら一文字約8mmある。
最初、目線との距離が掴めず戸惑ったが、慣れればこれはこれでいいが、これで慣れて
しまうと後が困ることになる。
それにしてもこの大活字本は、どのように活用されているんだろうかと思ったりした。
さて、この本に出てきている、中山道関連の項目をメモ。

○五個荘町(ごかしょうまち)の金堂という集落
 ・・・どの家も成金趣味がかけらもなく、どれもが数奇屋普請の正統をいちぶも はずさず、
 しかもそれぞれ好もしい個性があった。金のかけ方に感心したのではい。・・・
 たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒な建物をたてるあたり、・・・近江という
 地の文化の土壌のふかさに感じ入ったのである。
○芭蕉
 ・・・奥の細道の旅を終え、・・・いったん故郷の伊賀に帰ったものの、春にはふたたび
 近江に出てきて、琵琶湖の南岸、石山の奥の山中の幻住庵に入り・・・
 膳所(ぜぜ)藩重臣・菅沼曲翠(通称外記)・・・行春を近江の人とおしみける
○寝物語の里(今須宿)
 ・・・「ねものがたりの里」など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、・・・
 近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。
 ・・・江戸では「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」と いうように、
 銀本位制・・・さらには二十軒が近江弁で、五軒が美濃弁を使っていた。
 方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったとも
 いえる。・・・長久寺・・・
・多賀大社
○関ヶ原の関 不破の関(壬申の乱)
・伊吹のもぐさ 柳沢淇園
○柏原宿 伊吹山の南麓(薬草多し)
 松浦七兵衛(亀屋左京) 安藤広重の絵で店頭風景がある。・・・
○彦根へ
 武田家が勝頼の代でほろんだとき、家康は織田信長のゆるしをえて武田家のめぼしい将士を
 大量に吸収した。
 しかもそのほとんどを直政の家来にした。武田家は、赤備(あかぞなえ)といわれた。・・・
 「井伊の赤備」とよばれるようになった。・・・
 佐和山城 ・・・戦後、直政が近江における三成の旧領をひきついだとき、この一点に気を使った。
 ・・・彦根城の築城は、家康の意図から出た。・・・
 金阿弥 一遍上人(時宗の開祖) 直政一代は佐和山城に居た。
○井伊直孝(本人は庶子と云うことで固辞)・・・家康が介入して後継に決めた。(異例)・・・
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中山道を歩くー資料編⑤ー

2008年10月01日 |  ・同上ー資料編ー


08-9-28(日 )~30(火)
中山道15 見る所

28日(日)JR新宿駅(新南口)発23:20(中央ライナー203号)
29日(月)6:33「新可児市役所前」着、徒歩で新可児駅へ(名鉄広見線)10~15分歩く
        駅近辺で朝食・出発準備後、8:09分発で御嶽駅へ(8:21着)
 
■御岳(みたけ)宿(江戸から49番目の宿場)
【愚渓寺】
臨済宗妙心寺派の古刹。後に京都妙心寺五世となった「義天玄承」が開山。
臥龍(がりょう)石庭は竜安寺(細川勝元創建―室町時代)の原型とされる。
【鬼の首塚】

■伏見宿(江戸から50番目の宿場)
(【金山城(鳥峰城)址】)
 ・斉藤道三の養子斉藤正義が築く。
 ・美濃に進攻してきた織田信長は、重臣・森三左衛門可成にこの城を与える。
 ・可成の三男は、森長定(森蘭丸)
 ・城郭の解体の部材は、犬山城の拡張、修復に使われた。
(【女郎塚】)
【今戸の渡し】

■太田宿(江戸から51番目の宿場)
【太田の渡し】
  木曽の桟(かけはし) 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい
   当時急流であった木曽川を渡る中山道の三大難所の一つ。
(太田橋ができる昭和2年まで、木曽川を渡る手段となっていたそうな)
  日本ライン(美濃加茂市から犬山市までの木曽川13キロ)
【祐泉寺】
 ・臨済宗妙心寺派 文明6年(1474)の創建(聖観音菩薩は7年毎にご開帳)
    春なれや 名もなき山の 朝がすみ(芭蕉)
    坪内逍遥の歌碑(美濃加茂市出身、尾張藩太田代官所の役人の子)
 ・太田稲荷 槍ヶ岳を開山した播隆上人の墓碑
【小松屋】地図、案内書をくれるそうだ。
【脇本陣林家】(中山道随一の脇本陣遺構といわれる。板垣退助泊)
【太田宿中山道会館】
【本陣福田家・表門】
【端林寺】
 ・別名 柿寺
 ・創建した仁和和尚がこの地方特産の蜂屋柿という干し柿を、10代将軍足利義植に献上、寺領
  10石のほか「柿寺」の称号を与えられたんだと。「堂上(殿上)蜂屋柿」と呼ばれた。
 ・蜂屋柿は平安時代に遡る。源頼朝、秀吉、家康・・・諸役免除など明治時代までその特典は続く。

■鵜沼宿(江戸から52番目の宿場)
(【貞照寺】)川上貞奴(日本の女優第1号・・・三留野宿で出てきた)が昭和8年建立
【うとう坂(峠)の一里塚】うとう坂再び。ここは軽そうだ。

 時間を見て、鵜沼駅から犬山城へタクシー利用(犬山城には4:30までに入る)
                            TEL:0568-61-1711
【犬山城】http://www.inuyamajohb.org/
・国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿だが木曽
川の河原より見る天守は実に絵になると。(現存最古と言われる)
・犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康が築いた。この城は、信長の美濃攻略、秀吉と家康
の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。
文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山に築城する。 
慶長5年、清洲城主松平忠吉の付家老 小笠原吉次が入り、次いで名古屋城主徳川義直の付家老平岩親吉が入った。
親吉没後、成瀬正成が3万石で元和3年に入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至った。

今日の宿泊 犬山国際ユースホステル「リバーサイド犬山」(0568)61-1111
     http://www.inuyama-iyh.com/

【本陣跡】
【脇本陣坂井家跡】芭蕉(野ざらし紀行、更科日記)
   汲留の 水泡立つや 蝉の声
   ふぐ汁も 食えば喰わせよ 菊の酒
   送られつ 送りて果ては 木曽の秋

■加納宿(江戸から53番目の宿場)
【手力雄(たぢからお)神社】貞観2年(860)創建
 祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。その岩戸を取って遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになったとさ。
 (毎年4月第二土曜日に行われる火祭りは、全国的に有名だと)

戸隠山は、標高1,904メートル。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、力のある神様・
天手力雄命(たじからをのみこと)がその岩戸を投げたのが、戸隠山だったという伝説が残されている。
戸隠神社(奥社)は、その戸隠山の中腹にあり、天手力雄命を祀っている。戸隠山は、新しい道に進むときに訪れると、強い山と大自然の力からのパワーをもらえる、と伝えられている。
就職を決めるときや、定年退職後の第二の人生を迎える前に最適の場所。
 (第三の人生を迎える前に、皆でお参りに行こうかな?)
   天照大御神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
   天岩戸
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8C

【伊豆神社】
祭神は、大山祗神の娘・石長姫命で、健康長寿の神。男の荒神の天手力雄命を諌める役?
【細畑一里塚】両側にあり
【加納八幡神社】 ※だんご屋の裏手
【本陣跡】(和宮の歌碑) 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
【加納天満宮】加納の傘・・・播州明石から傘職人を連れてきたのが始まり。
(【光国寺】・【盛徳寺】)家康の娘・亀姫
【岐阜城】(稲葉山城)
   岐阜城は、かつて稲葉山城と称していた。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政。戦国時代には、斎藤道三(国盗り物語)の居城でもあった。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)8月、織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてから。しかし、慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移された。

  時間によっては寄らない。眺望はいいらしく、天守に上ってみたいが。(昭和31年復元)

■河渡(ごうど)宿(江戸から54番目の宿場)
【乙津寺(おっしんじ)】
創建は奈良時代、聖武天皇・天平10年(738)に名僧・行基が十一面千手観世音を自ら刻み「乙津島」のお堂に安置。
【小紅(おべに)の渡し】乙津寺の裏手
名前の由来・・・昔、信濃の一日市場(安曇野三郷村)の農家の娘が、美濃の商家に嫁ついで来る時のことでした・・・・

「渡し」で長良川を渡るよー 
(対岸の小屋の船頭へ手を振ると、迎えにきてくれるんだと。県道扱い。無料)
小船から金華山の岐阜城はみえるか?

■美江寺(みえじ)宿(江戸から55番目の宿場)
 美江寺駅から電車でJR岐阜駅へ 

美江寺発17:18(18:32) 大垣乗換え 岐阜着17:46(19:07)
  (JR岐阜駅で下車、銭湯へ行くか。時間はある。「大垣城」は次回寄る。)
 
小田急ハイウエイバス「パピヨン号」名鉄「新岐阜駅」前   23:00発

新宿駅西口小田急ハルク前          10月1日(水)5:50着

【要検討】
 30日(火)は歩く距離が長い。(鵜沼宿から美江寺宿まで28Km。)
 天候や疲れ具合によっては、小紅の渡しを渡ってから、JR穂積駅に向かうか、
 あるいは、もっと手前で、渡しを渡る前でJR西岐阜駅に向かうか。
 この場合、夜行バスに乗るとなると、時間が余り過ぎる。切符は購入済み。

 次回、中山道16((10月26日~)で、関ヶ原宿に泊まりたいので、なんとか美江寺宿にたどり着きたい。パピヨン号に乗るとなると時間はタップリある。
峠もないので、ユックリ歩いてでも美江寺宿まで歩きたいと思うのだが、どうなるか。


「関が原」(司馬遼太郎)を読み返すんであれば、新潮文庫(上中下)平成15年版以降は字が大きくて読みやすい。来年のNHK大河ドラマ「天地人」(直江兼続)を見るにも参考になる。・・・石田三成の重臣島左近は、会津の上杉景勝の家老直江兼続と家康挟み撃ちの作戦を練る。左近は中山道を行き来し、近江佐和山にいる三成に報告する・・・
 関が原の戦いが始まったのは、慶長5年9月15日午前8時(1600年10月21日)

2008/08/20

08-10-26(日 )~28(火)
中山道16 見る所

26日(日)ムーンライトながらJR東京駅(9番線)発23:10 
27日(月)朝、大垣着6:52
   主な停車駅と停車時間:静岡20分、浜松24分(駅前にコンビにあり)豊橋53分(ここから自由席に)、名古屋7分
 大垣駅近辺で朝食・出発準備。大垣城までタクシーで往復する。
大垣城は9:00開城なので城中の見学はなし。周りで写真を撮る位か。また、大垣は芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた「むすびの地」ともいわれている。何時か再訪する価値はありそうだ。
大垣発9:07(樽見鉄道)美江寺着9:19(この後は、10:37発)
 
関が原の合戦と大垣城 
1600年(慶長5)、石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため東上して美濃の国に入った。 時の大垣城主・伊藤盛宗は豊臣家の家臣で西軍に属していた。そこで、三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集まるのを待った。 ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、大垣城から見下ろす西北の赤坂・岡山を中心に布陣したため、西軍の動揺は大きかった。
9月14日、三成の謀将・嶋左近(しまのさこん)はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、予め配置した伏兵と呼応し、笠木村にて、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊に奇勝を得た。(これを“杭瀬川の戦い” という)
そのため、一時は西軍の士気は上がったが、東軍徳川方の策戦におびき出され、大垣城に兵7,500を残して関が原に移動し、翌15日、両軍が関が原の原野で激突する一大決戦となった。
  関が原での本戦後も大垣城の攻防戦は三日三夜つづき、城内に裏切りが出たため、遂に落城した。
  この戦いで、城下町は東軍に火をかけられ、三日にわたり燃え続け、凄惨を極めたという。

■美江寺(みえじ)宿(江戸から55番目の宿場)
【美江神社】【美江寺観音堂】
 昔、伊賀からこの地に観音像を移し祀ったところ、木曽川の氾濫が治まって美しい江になった。・・
【船頭頭・馬淵家】
【小簾(おず)紅園】
  皇女和宮の歌碑(舟で揖斐川を渡る時、馬淵家の庭の美しい紅葉をみながら)  落ちてゆく 身としりながら もみぢ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
【道標】(京都から向って)左木曽路、右 墨俣宿(木下藤吉郎の一夜城で有名)

■赤坂宿(江戸から56番目の宿場)
【安楽寺】
  聖徳太子が創建し、672年の壬申の乱の時、大海人皇子が戦勝を祈願し、戦後は、大友皇子の冥福を祈った寺と伝えられている。
【岡山】安楽寺裏手の丘の上
  関ヶ原の戦いの時に、家康が最初に「岡山」の本陣を敷いたところ。 (軍艦本多忠勝と井伊直政が相談して決めた。家康が到着するまでの約20日間、東軍の将は砦を築いて大垣城を本拠とする石田三成らの西軍と対峙した。東軍勝利の後、岡山は「勝山」と呼ばれるようになった。
【お茶屋屋敷跡】
 家康が上洛の時の休憩施設。中山道に残る「お茶屋」としては唯一の遺構で重要な遺跡。
 
■垂井宿(江戸から57番目の宿場)
【中山道ミニ博物館】
【南宮大社】
  初代神武天皇時代(約2650年前)の創建といわれ、祭神の金山彦命は金属・鉱山の神といわれている。金山彦命を祀る全国約3000社の総本宮。延喜式の名神大社で、美濃国一の宮。
【垂井一里塚】
  左側のみ残しているが、当時とほぼ同じ姿のため、中山道としては二つある国史跡の一里塚の一つ。もう一つは板橋の志村一里塚

■関ヶ原宿(江戸から58番目の宿場)
【松並木】
【桃配山(ももくばりやま)】
六部地蔵の後方の山
   関ヶ原の合戦の時、家康が最初に本陣を構えた場所
【若宮八幡宮】

◎本日の宿泊 つるや 関ヶ原町大字関ヶ原3316-3 TEL0584-43-0386
       の予定が、宿屋の亭主のおばあさんの体調不良につき、急遽宿屋を神山に変更することになった。TEL 0584-43-0369

【笹尾山】三成の本陣
【関ヶ原歴史民俗資料館】0584-43-2665 朝9時開館 ゆっくり見学したい。
【不破関資料館】0584-43-2611

■今須宿(江戸から59番目の宿場)
【不破の関跡】
【常盤御前の墓】
【車返しの坂】
  伝説では文明の頃、二条良基(にじょうよしもと)が不破の関の荒れたひさしからもれる月の風情のウワサを聞き都からはるばる車に乗ってやってきた。ところが不破の関では壊れたひさしをすでに修理してしまったことをこの地で聞き、興ざめしてここから京に引き返してしまったということ。      
ふきかへて月こそもらね板庇 とく住みあらせ 不破関守
【寝物語の里】これより近江に入る
  司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
・・・「ねものがたりの里」など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、・・・近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。・・・江戸では「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」というように、銀本位制・・・方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったともいえる。・・・

■柏原宿(江戸から60番目の宿場)
【円乗寺】(寂照山円乗寺成菩提院)
  天台宗の古刹。織田信長は、浅井長政と佐和山城で会見する前、ここに泊まっている(1568年)。足利義明を伴って京に行くときも泊まった。秀吉もそれに習いここに宿泊した。
  成菩提院の20世の住持は、家康・秀忠・家光の三代の各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として尽力した天海大僧正。
最盛期は160石、64坊と僧侶103人、末寺80を抱える大寺院だったという。
【伊吹艾(もぐさ)の亀屋左京商店】
  司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
伊吹山は、胆吹山とも書く。古語で呼吸のことを息吹という。伊吹山は絶えず風や雲を息吹い
いる。標高1377mである。近江第一の高山で、古代の人々がこの山を絶えず息吹いている精霊と見ただけでなく、不思議の薬草が多く、いかにも奇(く)すしき山とみていた。・・・中でも、灸のもぐさが代表的である。
江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は1軒きりになってしまったが、江戸期はどの店も繁盛していた。
面白いことに、どのもぐさ屋も「亀屋」という屋号を名乗っていた。鶴は千年、亀は万年という、その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。また、このことは、近江商人が互いに足を引っ張りあわないという気風と関わりがあるとみてよい。
伊吹もぐさが結構なものだということは、奈良朝のころから定評があったとはいえ、世々の遷りによって一般には忘れられたかのようであったとき、この伊吹山麓の柏原の人で松浦七兵衛(亀屋左京)という怪傑が出た。彼が大いに中興する。
亀屋左京の店の昔は、安藤広重の「木曾街道69次」の「柏原」の絵で見ることができる。画面いっぱい、亀屋左京の店頭風景になっている。
亀屋左京家は、そのまま残っていた。長大な間口は、広重の絵以上の規模である。ただ広重の絵のように間口がすべて開放されておらず、半ばは京格子で覆われている。
【柏原宿歴史舘】
 「くつろぎの里」で「やいと」を食べるか。

■醒井(さめがい)宿(江戸から61番目の宿場)
【八幡神社】
【賀茂神社】加茂神社?
  「ヤマトタケルノミコト」像がある。その昔、伊吹山に住みついた大蛇を日本武尊が退治した。しかし、大蛇の猛毒に苦しめられてしまう。やっとのことで醒井の地で清水で体を冷やすと高熱がとれ、回復したという。

【居醒の清水】
  醒井宿を流れる地蔵川の源流、居醒の清水は古くから中山道を往来した旅人の憩いの場所でもあり、数々の歌にも詠まれている。「古事記」「日本書紀」には日本武尊が伊吹山の大蛇を退治した際、毒気にあたり、命からがらこの泉にたどり着き、清水で体をいやしたところ、高熱がさめたという話が伝わっている。 それゆえ「居醒の清水」と呼ばれ、また醒井という地名もこの話が発端になったといわれている。
【醒井七湧水】十王水、天神水、西行水・・・・
【六軒茶屋】

■番場宿(江戸から62番目の宿場)
【蓮華寺】
  聖徳太子の創建と伝えられる古刹であるが、鎌倉幕府崩壊の端緒となった六波羅探題北条仲時以下432人が自刃した悲劇の古戦場であり、更に戯曲「瞼の母」(番場の忠太郎)(長谷川伸)の舞台になったことでも有名である。(この時の死者の名前を記した過去帳は重文)

■鳥居本(とりいもと)宿(江戸から63番目の宿場)
【摺針(すりばり)峠】
【望湖堂】
  広重の絵には峠の下に、すぐ琵琶湖が広がっているが、今は、新田開発がすすみ内湖の姿はみられず、琵琶湖の姿はかなり先にしか見られないという。茶屋があったら摺針餅でも食おう。
【赤玉神教丸本舗】腹痛や下痢止め薬
【本家合羽所木綿屋嘉衛門】和紙に柿の渋で防水
【上品寺】
 歌舞伎で演じられる「法界坊和尚」の鐘が残る上品寺がある。遠い江戸から大八車に乗せて、
  その鐘には、遊女たちを含めた寄進者たちの名前が刻まれている。歌舞伎での法界坊は、破戒坊 
として演じられているが、じっさいは全く逆で、遊女を救った良いお坊さんだったと。この地まで運んだという鐘は、吉原の花魁(おいらん)たちの浄財を受け、悲運の遊女たちを供養するために作られたという。
時間によっては上品寺は、次回中山道17に回す。

◎鳥居本駅(近江鉄道)より、電車かタクシーか歩きかでJR彦根駅へ(彦根城は中山道17)
(電車で5分17:14、18:14 160円 近江鉄道)

びわこドリーム2号(西武バスー3列)
JR彦根駅前発23:20(バス停を確認 料金は運転手に)
29日(水)池袋駅東口着6:20

極楽湯 彦根店0749-26-2926 滋賀県彦根市西沼波町175-1 650円 食事処あり
(全国チェーン展開、前回と違って、安心してゆったりできそうだ。)

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中山道六十九次を行く-15-

2008年10月01日 | 【17】中山道(予備)
(9月29日~10月1日)

雨の中、御嵩宿から伏見宿、太田宿、鵜沼宿
       加納宿、河渡宿、美江寺宿へ

江戸を出て430Km,55番目の宿、美江寺宿をめざして!!



【愚渓寺】(御嵩宿)
臨済宗妙心寺派の古刹。後に京都妙心寺五世となった「義天玄承」が開山。
臥龍(がりょう)石庭は竜安寺(細川勝元創建―室町時代)の原型とされる。

「ホー」、見事な波打つ石庭に感心、皆でしばし見とれた。
1ヶ月ほど前、多分住職さんに見学の申し出をしたら、「見せられるところは何も無い」
とおっしゃっていたが。
それにしても、庭を見ながらお茶でも一服欲しかったなーとは、皆の思いだったのでは。
最初に訪れたこの石庭に、夜行バスでの寝不足を忘れた。


【太田宿】


【脇本陣林家】(中山道随一の脇本陣遺構といわれる。板垣退助泊)
月曜日は休館ということで、中を見学できなかった。残念。


【脇本陣林家】うだつ
「うだつ」 とは、木造建築で棟木(むなぎ)をささえるために梁(はり)の上に立てる
短い柱のこと。
この「うだつ」が梁の上に立たなければ、棟木をすえることができずに家はできあがらない。
転じて、立身出世ができないことや地位や境遇などがよくならないことの意味になった。

うだつ(卯建)は建築用語で「宇立」とも書かれる。平安時代は「うだち」とよばれたが、
室町以後うだつと訛った。防火壁の役目がある。


 飾り瓦


【うとう坂(峠)】
しょぼしょぼ雨が降り続く、暗い峠を無言で登ってゆく。こういう峠はいい感じなのだ。
少しだけ汗をかいた。





【犬山城】http://www.inuyamajohb.org/
・国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿
だが木曽川の河原より見る天守は実に絵になると。(現存最古と言われる)
・犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康が築いた。この城は、信長の美濃攻略、
秀吉と家康の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。
文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山に築城する。 
慶長5年、清洲城主松平忠吉の付家老 小笠原吉次が入り、次いで名古屋城主徳川義直の
付家老平岩親吉が入った。
親吉没後、成瀬正成が3万石で元和3年に入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至った。

急な板階段を上りながら、昔の武士の大変さを思ったりした。それにしてもこういう木造の城は
何か「ホッ」とするものがあるのはなぜだろうか。
関ヶ原の戦いの時、山内一豊はこの城から出陣したそうだ。



【赤坂神社】
2日目の30日早朝、雨は上がっている。今日はここがスタート地点、しっかり拝んだ。


【鵜沼宿町屋(武藤家)】


【二ノ宮神社(鵜沼)】
赤坂神社もそうだが、立派な神社が同じ宿に2つあった。大切にしているようだ。


いろんな飾り瓦(留蓋、隅蓋、巴蓋)


【少林寺】
臨済宗妙心寺派の寺院。山号は竜慶山。本尊は聖観世音菩薩。
美濃四国札所第二十八札所。美濃四観音の一つ。




君が代にある「さざれ石」
【手力雄(たぢからお)神社】(加納宿)
貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。
その岩戸を取って遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、
もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるように
なったとさ。(毎年4月第二土曜日に行われる火祭りは、全国的に有名だと)

戸隠山は、標高1,904メートル。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、力のある
神様・天手力雄命(たじからをのみこと)がその岩戸を投げたのが、戸隠山だったという
伝説が残されている。
戸隠神社(奥社)は、その戸隠山の中腹にあり、天手力雄命を祀っている。戸隠山は、
新しい道に進むときに訪れると、強い山と大自然の力からのパワーをもらえる、と伝え
られている。
就職を決めるときや、定年退職後の第二の人生を迎える前に最適の場所だとさ。
 (第三の人生を迎える前に、皆でお参りに行こうかな?)
    天照大御神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
    天岩戸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8C


【本陣跡】
(和宮の歌碑) 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり


【加納天満宮】
文安2年(1445年)斎藤利永が沓井城(旧加納城)を築き、その守護神として天満宮
を勧請しました。古記によれば創始は更に百余年以前で、上加納に祭祀せられていました。
その後城主斎藤利政(道三)が稲葉山城に移り、沓井城が廃城となった後も天満宮は住民
たちによって守られました。




【小紅(おべに)の渡し】(河渡宿)
乙津寺の裏手
名前の由来・・・昔、信濃の一日市場(安曇野三郷村)の農家の娘が、美濃の商家に嫁つ
いで来る時のことでした・・・・

中山道歩きで初めて渡しで川を渡る。
船着場に到着があと15分遅れたら、おじさんが家に帰ってしまうところだった。
対岸の小屋に向け、大きな声で叫んだらようやく、もっそりとして迎えに着てくれた。
危なかったなー、「ホッ」

夕方の長良川は波はなく、魚が沢山泳いでいた。鵜飼はもう少し下流で行われているそうだ。
天気がよければ、稲葉山城(岐阜城)が見えるそうだ。(岐阜城はまたいつか)
この渡し舟は県道扱いということで、無料だった。
晴れていればいい夕陽が見られたかも知れない。

川を渡ってから、小雨降る夕暮れの道を、黙々と美江寺宿に向かう。長かったなー。
限界に近い距離か。背中のリュックがいやに重かった。
今日一日で45,000歩、34Km、今迄で最高記録だった。
岐阜に戻って、銭湯に入る。今夜も夜行バスだ。今度のバスは3列でユックリしていそうだ。


【今回の旅】
・実施日 平成20年(08)9月28日(日)の夜行バス~30日(火)の夜行バス
・天 候 初日29日は朝から小雨。30日は雨が上がり、夕方までは傘が要らなかった。
     もうかったような気分だった。
・メンバー4人(65歳2人、64歳2人)

・距 離 
     1日目・・・33,912歩( 25,48Km)
     2日目・・・45,469歩( 34,10Km)最高記録
    
・見 所
     ・愚渓寺の石庭
     ・犬山城(春か秋はもっといいかも)
     ・手力雄(たぢからお)神社
     
・食 事(うまかった、よかった)
     ・そば道場のそば(太田宿)

・満足度 2日間雨を覚悟していたが、2日目の曇り空で何とか目標地点に到達。
      見所も見たし、まあまあか。で、中程度。だが、車の多い国道、県道歩きが多
      く「参ったなー」ということと、小紅の渡しがモーターだったことが残念だった。
      6年前発行の案内書では、櫓をこいでいるおじさんの姿があったのにナー。
      こういうところにも高齢化の影響が押し寄せているんだ。

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、55番目の宿(美江寺宿)
・距離 :534Km中、431Km

【俳句駄作】
 秋の朝 愚渓寺石庭 波静か
 秋曇り うだつの上がる 太田宿
 薄暗き うとうの坂や 秋の雨
 木曽川や 犬山城より 秋の風
 手力雄 狛犬並ぶ 秋神社
 小紅にて 長良を渡る 秋気かな


 次回、中山道16では、関ヶ原宿を経て近江路に入る。
     京都まであと3回、いよいよ近づいてきた。

  
 中山道17で、秋の近江路を歩き、
   京の三条大橋には、来春、桜の季節に到達予定。


関ヶ原の戦いが始まったのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の午前8時頃。
丁度次回の旅の頃だ。赤備えの井伊直政の隊が、味方の福島正則を出し抜き、
西軍との最初の戦端を開いた・・・(司馬遼太郎「関ヶ原」「街道をゆく<24>近江散歩」)

【番外:県民性】
■岐阜県は飛騨と美濃地域の二つに大別される。
「美濃を制する者は天下を制す」ともいわれ,天下とりの場ともなった。
こうした風土で, 『輪中根性』とも呼ばれる美濃の人柄を表す言葉が生まれた。
同じ輪中(グループ間)では団結するが,他の輪中のことは眼中になく一切構わない。
見た目は柔和だが芯は閉鎖的で自己中心的。金銭に厳しい合理主義者。
 対して,飛騨の人は勤勉で素朴な性格を持つという。
■滋賀県:京都に接するという地域性からか,洗練された都会的な感性を持つ。
また,この地は天秤棒に象徴される近江商人の地でもある。
商才にたけ計算高いが,本質的に自らを律し,勤勉と禁欲を心がけている。
そして,計画性があって,合理的な考えをする人が多い。

  
  
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