地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道を歩くー資料編①ー日本橋宿~本庄宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸を起点とする五つの陸上交通路。
慶長六年(1603年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、四代将軍家綱の代になって基幹街道に定められた。
【五街道】
整備として一里ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意した。
東海道
中山道 (中仙道ともいう)
甲州街道 (甲州道中)
奥州街道 (奥州道中)
日光街道 (日光道中)


【中山道を歩くに当って、参考にした書籍など】
1.中山道を歩く(山と渓谷社)2002・10刊
2.中山道 風の旅 3分冊 (テレビ埼玉・群馬テレビ編)2004・4
3.週刊 日本の街道「中山道」5分冊(講談社)2004・2~
4.広重・英泉の木曾街道六拾九次 旅景色(人文社)2001・7
5.望月物語(大澤洋三・ほうずき書籍)19907
6.蓼科物語(大澤洋三・信濃路)1971・10
7.佐久の道と歴史(大澤洋三・ほうずき書籍)1991・5
8.信州の城と古戦場(南原公平)令文社)1981・5
9.夜明け前(島崎藤村・ほるぷ出版)4分冊 1935・11
10.中山道ー美濃十六宿ー(太田三郎・大衆書房)1969・2

【中山道を歩くー資料編ー】


2007-4-30
中山道1 見る所  日本橋~
【日本橋】 
江戸五街道の基点(東海道―53次、中山道―69次、日光道中、奥州道中、甲州道中)道路元標(橋の中央部の道路に埋め込まれている。危ないので、レプリカで我慢)現在の橋は明治44年(1911)造られた。(関東大震災、第二次世界大戦に耐えた)
【中山道】 整備する必要性
東海道は、箱根峠の他、大井川、富士川、天竜川、相模川、多摩川など大河川が道路遮断。浜名湖の一里の渡し、伊勢の七里の渡しなど気候条件の条件に左右され、危険多し。中山道は、比較的難所少なし、日程どおりの行程を組める。特に女性が好んで往来した。人気の秘密、魅力は四季折々の風情を楽しみながら旅が出来たこと。
【三越】
江戸時代の三井越後屋。 三越の先に人形店、この辺りは「十軒店」五大将軍綱吉が、京都の雛人形氏師10人を招き、長屋10軒を与えて雛人形屋を開かせた。
【神田明神】 
平将門を祭る神社(平安中期の武士。天慶の乱―自らを親王と称して威を振るったーで、平貞盛、藤原秀郷らに討たれる。将門伝説は都内5ヶ所は下らず、全国23都道府県に及んでいる。本殿脇の資料館(銭形平次、八五郎の碑あるが、見ないーテレビ関係者が建てた。)
【湯島聖堂】
3度の江戸の大火、関東大震災、第2次世界大戦時の空襲によって焼失・改修を繰返して現在に至るが、もともとは1632年(寛永9年)徳川幕府の政治顧問であった林羅山が上野忍ヶ岡(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したもの。
【湯島昌平坂学問所】
湯島聖堂の森辺りが昌平坂学問所のあったところ(幕府直臣、御家人とその子弟の学校としてスタートした近代的学校の誕生地)
【東大の赤門】
加賀藩(石川県)百万石前田家の上屋敷があった。有名な赤門は、徳川11代将軍・家斉の娘溶姫が前田家に嫁いだ時に建てた朱塗りの門で、国の重要文化財。赤門から入って、三四郎池、安田講堂を一回り。
【高岩寺】
とげぬき地蔵。本尊(延命地蔵)の御影の護符を体の痛む部分に貼るか、水に溶かしてのむと痛みがトゲを抜くように引くといわれる。
【庚申塚】
中山道庚申塚、猿田彦大神庚申堂 青面金剛(庚申)を祀ってある塚。三猿の形の石塔が多い。
庚申(民間信仰の一つ) 江戸時代の立場(人夫、駕籠などの休憩所で賑わった)
■【板橋】
中山道最初の宿。江戸4宿(品川、内藤新宿、千住)の一つ。中山道に旅立つ人は、わざわざ日本橋まで行く人もいないので、板橋から出発し、見送る人も出迎える人もここまでが普通であった。遊女もいて、賑わいは中山道第一の宿場であった。「入り鉄砲に出女」は厳しく警戒された。
【縁切り榎】
いつの頃か、嫁入りや婿取り行列がこの下を通ると、不縁になると恐れられ、この木を誰言うことなく、「縁切り榎」と呼んだ。幕末の孝明天皇の妹和宮が徳川家茂に降嫁の際には、榎にコモが捲かれたという。
【志村の一里塚】
都営地下鉄志村坂上駅近く。日本橋から三里。志村の一里塚はほぼ昔のまま残っている。
【清水坂】中山道最初の難所清水坂を下る。昔は、この辺り唯一富士山が見える名所であった。
【戸田の渡し】現在は国道17号で戸田橋を渡り埼玉県、蕨宿へ。

07-5-20
中山道2 見る所
■蕨宿・・・歴史民俗資料館  本陣跡。宿泊した諸大名一覧、実物大の旅籠の様子、食事、大名の食事。
■浦和
【調(つき)神社】 平安時代の古社(謎の多い神社)
  ・鳥居がない
  ・狛犬の代りに兎が鎮座
  ・神社に必ず見られる松がない。
代わりにケヤキ。ケヤキの別名「槻木」(つきのき)ツキは待つ(松)のが嫌い?(月待ち信仰)調が月と転じて、うさぎを神の使い姫とする月神信仰と結びついた。
【玉蔵院】
山号 宝珠山延命寺 真言宗の古刹で弘法大使を開山とし、印融(横浜生まれ)を中興開山とす。
【見沼付近】   
パナマ運河と同じ仕組み。パナマ運河ができる180年前に完成。水位差3mを利用、延長96Kmの見沼代用水が引かれ、開発が進んだ。関東郡代・伊奈半十郎忠治によって八丁堤が築かれた。江戸中期、八代将軍・吉宗の名で幕府勘定方・井沢弥惣兵衛によって更に改良。
【二七市の跡碑】
御免 毎月二七市場定杭 天正十八年(1590)七月 小田原攻略に成功した、名実ともに天下統一を果たした豊臣秀吉。すぐに戦後処理に努め、家臣浅野長吉に市を開かせた。   
【一本杉】針ヶ谷仇討ち事件の舞台。
■大宮宿 
【大宮氷川神社】
参道(古中山道)~氷川神社~裏参道で中山道に合流するか。氷川神社 東京都と埼玉県、元荒川を東の限界とし、西は多摩川を限界鎌倉時代、源頼朝が社殿を再興し、また、足利・北条、徳川氏も造営整備に尽くした。
■上尾宿
【天神橋】・・・見つけにくい。
 小林一茶 五月雨や 胸につかえる 秩父山(江戸を発って、故郷越後柏原に向かう時の句だと)
【加茂神社】五穀豊穣の分雷神(わけいかずちのかみ)を祀ってある。
【井上脇本陣】   鬼瓦
【氷川鍬神社】ご神体が鍬二挺。
【尾郷二賢堂碑】上雲室上人(信州生まれ、浄土真宗の名僧)
   山崎武平次(国学者) 学校を開いた。
【上尾宿説明版】  
屋根に上尾宿の象徴・鐘馗様(しょうきさま) 中国より由来。五月人形に登場。

07-6-24
中山道3  見る所
■上尾宿(江戸から5番目の宿場)  駅を過ぎ右側に「文楽」(北西酒造)
上尾宿説明版・・・屋根に上尾宿の象徴・鐘馗(しょうき)様(鬼に対抗する神様)大火に悩まされたこの宿場では、屋根に災い除けのための鬼瓦を上げるようになった。すると、鬼瓦ににらまれると厄病がくるとか魔が差すとか言われることから、向かいの家では、鬼により強いという鐘馗様を屋根に上げて対抗するようになったそうな。(違う説もあり)
■桶川宿(江戸から、6番目の宿場―69宿中―)
【竹村旅館】(江戸時代後期の旅籠の面影)紙屋半兵衛の旅籠・・宿泊記録・・山岡鉄舟(※)
【本陣跡】
 皇女和宮一行宿泊。宿内の旅籠、商家、農家を問わず全ての屋敷が宿泊所で、用意された夜具蒲団だけでも日光道中の二宿一村に助けてもらい、なんと4050組という大変な負担であったそうな。(※)
【市神社跡の碑】     
桶川の特産物「桶川臙脂(えんじ)」(紅花・・・染料、薬・・・)米や麦の二倍から四倍位の高収入。中山道を通って、京都に運ばれた。出羽(山形)に次いでの産地。紅花・・紅花は、アザミに似た菊科の花で、古名を末摘花(すえつみばな)、紅藍(べにあい久礼奈為(くれない)とも呼ばれ、7月の梅雨の時期から梅雨明けにかけて、真黄色の花を咲かせる。原産地のエジプト・地中海沿岸からシルクロードを経て、飛鳥時代に渡来した紅花は山形で美しく花開きました。特に江戸時代においては、土も肥えて水はけもよい最上川流域は紅花の一大産地となり、山形の紅花は京都や大阪で大変重宝された。
【稲荷神社】紅花商人寄進の石灯籠。社殿右側手前に「大盤石」。三ノ宮卯之助という力士が持ち上げた。200貫(約750Kg)、力比べのイベントにも使ったと。
【大雲寺(禅寺)】石の地蔵三体。一体、背中にかすがい。(寺の若い僧への戒め?)
【多聞寺】県の天然記念物、ムクロジ(無患子)の実には中に黒い種があり、それが羽根つきの羽の先についている玉。
【馬室原の一里塚】
■鴻巣宿(江戸から7番目)
【雛屋歴史資料館(吉見屋)】江戸時代より、雛人形の産地で、江戸の十間店、武州越谷とともに「関東三大雛市」の一つとして繁栄。赤物(あかもの)・・縁起物の郷土玩具。
【勝願寺】
寺の屋根には、葵の紋瓦。家康の鷹狩り、御殿を建てて通ったそうな。初代関東郡代・伊奈忠次、忠治父子の墓。小松姫の墓・徳川四天王の一人、本多忠勝の長女。信州上田城の名将・真田昌幸の長男信之(幸村の兄)の妻。信之留守中、敵方となった昌幸、幸村を沼田城に入れず。陣を張った正覚寺に酒肴用意、夜、小松姫、孫とともに訪れた。中山道を通り鴻巣まで来た時、病に倒れ死去。享年49歳。遺骨は、勝願寺、沼田、上田の3ヶ所に分骨供養された。(上田は、上田公園西の芳泉寺に墓がある)
【鴻神社】境内に鴻巣という地名の由来あり。
【氷川八幡神社】
「綱八幡」といって、羅生門の鬼退治で活躍した「頼光四天王」の一人、渡辺綱が祀られているといわれている。入口に蓑田碑。この地に発祥した嵯峨天皇の流れを汲む蓑田源氏の由来を記した碑。
「JR北鴻巣駅」で、「中山道を行く」第3回は終了。(直線距離で、約16Km)(前回20Km)
○全員が、時間的・体力的に余裕があれば、次の駅「吹上駅」まで(+3Km)。途中見る所なし。逆に、気温が高過ぎたり、黄砂・光化学スモッグなど気候が歩くのに適さない場合、距離短縮。
※山岡鉄舟は、明治維新のハイライトといわれる江戸城無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた。また、剣・禅・書の達人として明治維新後の多くの人材に影響を与え、その中でも明治天皇の教育係として十年間仕え、日本の近代化(特に、精神教育や文化)に多大な影響を与えた。
※和宮以前も将軍婚姻のための宮家や公家の姫君の輿入れ道中には、中山道が利用されたそうだ。それは、東海道より天候に左右される難所が少なかったことと、東海道には「今切の渡し」と「薩多峠」の「切れること」、「去ること」を連想する縁起の悪い地名があり、これを避けたからとも云われている。
※中山道の各所に足跡を残す和宮の東下の行列は、空前絶後の規模で、駕籠の数800挺、その長さは50kmにも及び、各宿場では行列通過に前後4日かかったという。武装した護衛は一万を越え、あまたの食料、道具類、贈答品の荷馬の列には、江戸で組みたてるため解体された京風の家一式も加えられた。これは降嫁を承諾するにあたって和宮が出した五つの条件のうち二番目に相当するものである。(ドナルド・キーン作「明治天皇」より)

07-7-14(土)
中山道4 見る所
■間の宿・吹上宿(鴻巣宿と熊谷宿のほぼ中間) 皇女和宮も一休み
【久下(くげ)の権八地蔵】
歌舞伎(※)でお馴染み(白井権八)がここで上州の商人を殺して金を奪うが、見ていた地蔵に「このことは他言するなよ」と話しかけると、地蔵が「われは言わぬが、おぬしも言うなよ」と言ったところから、「物言い地蔵」と呼ばれている。
※歌舞伎「鈴が森」の中で、江戸の侠客・幡隋院長兵衛に「お若えの お待ちなせやし」の名台詞で呼び止められる美少年侍・白井権八(本名・平井権八)のこと。
故郷の因幡(鳥取)で父の友人と飼い犬のことで喧嘩、殺傷し、江戸に逃げた。
吉原の遊女・小紫・・・辻斬りなどして生活・・・大森の鈴が森の刑場で磔刑。
「久下の長土手、深谷の並木、さぞや寒かろ淋しかろ」(俗謡)
長土手は熊谷八丁堤といわれる荒川堤。(英泉画)
「熊谷の堤上がればけしの花」(森川許六)
■熊谷宿(江戸から8番目の宿) 
「中山道宿村大概帳」によると、熊谷宿は、本陣2、脇本陣1、総家数1075、人口3263、旅籠19で、中山道では3番目の規模を誇っていた。
熊谷大空襲  昭和20年8月14日、23時20分頃から翌日の午前4時半過ぎまで、5時間余り。歴史に「もしも・・・」「あと少し・・・」はないと云うけれど。
【東竹院】久下直光開基の寺
【高城神社】
熊谷氏の氏神 熊谷氏は桓武平氏の流れをくむ家柄。平安時代からの古社(社殿は天正18年(1591)豊臣軍の忍城攻めの兵火で類焼。現在の建物は江戸期のもの。赤石を沢山敷き詰めた祠がある。(子供の「お食い初め」に借りていき「立派な歯になるように」と願う。
【熊野神社】
境内入口左。直実の父・直貞がこの辺りを荒らしていた熊を退治して、熊野権現堂を築いた。このことから「熊谷」という地名が出たといわれている。
【熊谷寺(ゆうこくじ)】
境内に熊谷直実(※)の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。両脇に夫人と子供の墓。
※熊谷直実(くまがいなおざね)
 熊谷直定・直実父子は、源頼朝挙兵時には、平家方から源氏方について数々功。
 源平一ノ谷の合戦、鵯(ひよどり)越えの坂落しで平家の背後から戦いを仕掛ける義経、・・・源氏優勢の中、平氏敗走・・・。沖の味方の船に向かって愛馬を泳がせる平家の一人の武者。
 「敵に後ろを見せなさるな!お帰りあれ!」
  直実の招きの応じ引き返した武者、組み打ちし押さえ込まれ、直実が首を取ろうと顔を見ると、薄化粧した紅顔の美少年。同じ年頃の子・直家を持つ直実がどうして刃を当てられようか。
 「お名乗りください。お助けしましょう」
 「名乗らずとも、知る人がありましょう。首を取って聞いてください」
  ・・・・
 その若武者こそ、平清盛の甥・敦盛だった。
 その後、直実は蓮生坊と名乗り仏門に入り、高野山に敦盛の供養等を立てる。やがて、故郷の熊谷に戻り、草庵を結ぶ。その跡に戦国時代、熊谷寺(ゆうこくじ)が開かれた。
(平家物語においては、若い敦盛を討った際に、殺生の虚しさに気付き、敦盛の供養のために出家したとされているが、事実は叔父との領地を巡る訴訟に敗れた為とも言われている。)
※平敦盛(たいらのあつもり、嘉応元年(1169年) - 元暦元年2月7日(1184年3月20日))は、平安時代末期の武士。平経盛の末子。平清盛の甥。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。享年16。その後直実は出家する。淡路島南淡島に敦盛の史跡がある。
『平家物語』において敦盛が直実に討たれる場面が有名であり、謡曲『敦盛』、歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若『敦盛』の一節である。
横笛の名手として知られていた。討たれた時、鳥羽院より賜った『小枝の笛』(または『青葉の笛』とも)(謡曲では『若葉の笛』)を所持していた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【中山道記念碑】(八木橋でパート入口前)、
その横に、宮沢賢治が残した短歌碑
 熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅は はるばると泪あふれる
【本陣跡の碑】
【星渓園】 
竹井本陣の別邸といわれる。熊谷地方の産業経済の発展に貢献した竹井澹如(たんじょ)が慶応年間から明治初年にかけて造った回遊式の庭園。
【秩父道道標】
【植木の一里塚】
◎今回は順調にいって籠原(駅)までか。直線16Km。

07-8-18(土)
中山道5 見る所
■深谷宿(江戸から9番目の宿場)
【見返りの松】
【常夜灯】(深谷宿東入口の目印)
【三光院】(徳川家康の甥、深谷城主だった松平康直の墓がある)
【富士浅間神社・深谷城跡】
【渋沢栄一記念館】生家(どちらか見たいが、中山道から結構はずれるのでカット)
 ・・また千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に出入りし、勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から1863年に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。京都に向かい、一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる・・・。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
【深谷駅(ミニ東京駅)】
駅舎は東京駅の丸の内口駅舎を建築の際、当地に所在する日本煉瓦製造の製造した煉瓦を使用したことに因み、東京駅をモチーフにした造りとなっている。
【滝沢酒造】(古いレンガ造りの高い煙突 江戸時代に創業)
【常夜灯(田所町)】
【清心寺】
深谷市のお寺。荒川扇状地の末端で湧き水が豊富だったため、6~7世紀頃古墳が多く築かれた。戦国期深谷上杉氏の三宿老、皿沼城主岡谷清英(きよひで)が天文18(1549)年萬誉玄仙(まんよげんせん)和尚を招いて清心寺を開いた。境内には一の谷合戦で敗れた平家の大将、平忠度(たいらのただのり・平清盛の弟)を供養するため、岡部六弥太忠澄が建てた供養塔(五輪塔)がある。(市指定文化財)
・・・六弥太の問いに最後まで名を名乗らなかった 忠度 でしたが、箙(えびら:矢を入れる箱)の中に次の一首が入っていたことから、その名が分かったと云う。・・・ 
ゆき暮れて 木の下陰(したかげ)を 宿とせば 花やこよひの あるじならまし
血生臭い戦場においても、歌の心を忘れない風雅な平家・・・。このような逸話の数々が ゛
源平期" の魅力です。
  深谷市萱場の清心寺に、桜の古株があり、忠度桜といふ。忠度を討った岡部六弥太の何かのゆかりの地に、忠度の歌にちなんで桜が植えられたのだろう。清心寺は後世の創建である。
【普済寺】  
岡部六弥太忠澄は猪俣党の出身で、保元、平治の乱に参加勇戦、義経に従い壽永3年正月木曽義仲追討。一の谷の合戦で、平家の勇将平忠度討取りは、あまりに有名。墓地には忠澄、父行忠、忠澄夫人玉の井(畠山重忠の妹)の五輪塔が3基並んでいる。普済寺には入らず、寺の裏左手を進むと葱畑の一角に「岡部六弥太の墓」がある、だと。
墓石の粉を煎じて飲むと子のない婦人に子が出来るとか、乳が出ない婦人に乳が出るという迷信のため墓石がえぐられている。左は夫人の墓。夫人は一の谷の逆落としで愛馬を担いで降りた剛の者畠山重忠の妹である。
熊谷、深谷と隣り合わせの宿に、平治の乱で騎を並べ、一の谷で功名を誇った武将がいたのだ。
■本庄宿
【本庄城跡】  
天正八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにあって落城した。徳川家康の関東入国に伴い、信濃の国松尾の城主小笠原掃部太夫信嶺(かもんだゆうのぶみね)が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代になって古河城へ移封され本庄城は廃された。・・・
【城山稲荷(大ケヤキ)】
城址内にある城山稲荷神社は本庄新八景の一つで、神社前のケヤキは樹齢400年と推定される。
【田村本陣跡の門・歴史民俗資料館】(明治建築の旧本庄警察署を利用)
○籠原駅―本庄駅 直線15Km
 次回(案)
・安養院、金讃(かなさ)神社から。状況によっては、本庄城跡・城山稲荷(大ケヤキ)、田村本陣跡の門・歴史民俗資料館も次回に回そう。
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中山道を歩くー資料編②ー本庄宿~和田宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

07-9-2(日)
中山道6 見る所
■本庄宿(江戸から10番目の宿場)
【○歴史民俗資料館】
門は、田村本陣の門を移築
資料館本体は、元の本庄警察署(明治の洋風建築) 内容はどうか?
【○安養院】 
「小倉家の墓所」内に、江戸末期の文人碑が林立 加賀千代尼句碑、芭蕉画句碑、渡辺崋山書の嵐雪、其角の句碑など27基。木曾の御嶽山へ登拝する信仰登山の祖といわれる、木食普寛上人の墓がある。
【○金讃(かなさな)神社】
寛永16年(1639)、本庄城主の小笠原忠真が創建、神紋も小笠原氏の紋 本庄宿の総鎮守。 丹塗りの社殿は、極彩色の彫刻で飾られ実に美しい、と。
・千代田三丁目交差点を左に行く道は、下仁田街道とか追分街道とも呼ばれている。中山道の南をと通る脇往還で、藤岡、富岡を進み、和美峠を越え追分の手前で合流。天明三年の浅間山大噴火で中山道が閉鎖時に利用。「姫街道」とも呼ばれた。
【○陽雲寺】
武田信玄の奥方の墓や信玄自筆の起請文がある。(寺名は奥方の陽雲院の名に由来する) 武田氏は天正10年(1582)、天目山の戦いで織田・徳川軍に攻められて滅亡するが、武田信玄の甥・信俊は生き延び、その後徳川氏に仕え川窪与左衛門と名を替えこの地に領地を与えられた。(この辺のいきさつは知りたいね)養育してくれた叔母で信玄の夫人・陽雲院を呼び寄せ、住まわせた。
【大光寺】
【見透灯籠】
英泉の「・・・本庄宿 神流川渡場」の中で、参勤交代の大名行列が神流川を渡るのを、のんびりと待つ旅人が座っている絵に描かれている常夜燈。どうも形状が全然違うみたいだが。http://blog.goo.ne.jp/yoshi62_001/c/ab5bb57b13eaa817df1ba32088d2da2d
■新町宿(江戸から11番目)
神流川(かんながわ)を渡り、群馬県(上野の国)に入る。
【○神流川(かんながわ)古戦場跡の碑】
小田原北条軍と信長の家臣で関東管領・滝川一益軍との戦いで、信長が本能寺で討たれたのを機に始まる。北条軍5万と滝川方の上州軍1万6000の激戦で、滝川軍は戦死者3760名を出す戦史に残る大激戦であった。・・・合戦を物語る遺構は皆無に近く・
【見透灯籠】(複製で本物は高崎市にあると) 
【明和観音像】(古戦場跡の碑の左側の小さな観音像)「伝馬騒動」徳川家治(10代将軍)による無理な助郷の強制に対する蜂起 「山県大弐の幕府転覆騒動」いずれも神流川で阻止された・・で、新町宿の被害少・・・神流川合戦で戦死した武者たちの加護と信じ、感謝と供養のため観音像を建立したと。
【○芭蕉句碑(八坂神社脇)】
傘におしわけ見たる柳かな  昔、ここにはケヤキではなく、大きな柳の木が立ち柳茶屋という茶屋があったと。
【旅籠高瀬屋跡】
【小林本陣跡】弁天島、虚空蔵葉橋、いずれか・・・広重が新町宿の画材として取り上げた場所。
■倉賀野宿(江戸から12番目の宿)
追分(倉賀野宿の東の入口にある日光例幣使街道と中山道を分ける場所)
【○常夜燈】
正面には、日光道、右は中山道と彫られている。左に進む日光道が、例幣使街道(※)と呼ばれる。
(※)正保三年(1646)以来、日光の東照宮に朝廷から幣帛(へいはく)、貢物奉納の例幣使を毎年出すのが恒例となり、その例幣使が通る道を日光例幣使街道と呼ぶようになった。
 幣帛(へいはく)・・・神に奉献する物の総称 50~180人になる例幣使一行は、毎年4月1日に京都を出発して、中山道を経由して倉賀野から例幣使街道を通り、日光に向かった。 楡木で壬生街道と合流。この常夜燈を建設したのが、五料で旅籠を営んでいた高橋光賢、若い頃からの放蕩三昧の罪滅ぼしに常夜燈建設を思い立った。この常夜燈の台石には江戸人気力士の雷電為右衛門、柏戸、役者の市川団十郎、松本幸四郎などの賛助者の名前が刻まれているそうだ。その数312名。
光賢は、常夜燈を作り終えた四ヶ月後に亡くなったとか。
【○道標(常夜燈の前)】「これより右江戸道、左日光道」
【○閻魔堂(常夜燈の後ろ)】
【太鼓橋】(昔の石橋は、宿内の飯盛女たちの寄進で作られた、と云うが、主人からの強制だろう。源氏名の刻まれた石の一部は、倉賀野神社の玉垣に使われているそうだ。
今回はここまで行いけるかどうか。天気次第かな。前回よりは、少しは見るところがありそうだ。地図上での直線距離で、14.5Km

07-9-25(火)
中山道7 見る所
■高崎宿(江戸から13番目の宿場)
【◎常世(つねよ)神社】(佐野源左衛門常世遺跡の石碑、世阿弥の謡曲「鉢の木」の舞台)「いざ、鎌倉」という言葉の発祥地・・・佐野道は、鎌倉街道上道)
「鉢の木」そのストーリーは・・・鎌倉幕府の執権・北条(最明寺)時頼が民情視察のため旅僧に姿をやつして諸国行脚の途中大雪に難儀し、上州佐野の里で一夜の宿を乞う。宿の主人・佐野源左衛門常世(とこよ)は親族に所領を横領されて貧窮の極にあったが、時頼とは知らぬままに、秘蔵の梅・松・桜の三本の鉢植えの木を切って火にくべて時頼をもてなし「落ちぶれていても、いざ鎌倉のときは一番に馳せ参ずる覚悟だ」と語る。やがて鎌倉に帰った時頼が軍勢召集の触れを出すと、果たして常世は長刀をもち、やせ馬に鞭打ってかけつける。そこで時頼(後ワキ)は「諸国の軍勢の中でもっともみすぼらしい武士を連れてこい」と命ずる。呼び出された常世に時頼は過日の旅僧は自分であったといい、さらに鎌倉に馳せ参じた忠誠をほめ本領を安堵した上、「火にくべた鉢の木の礼」にと鉢の木に縁のある梅田・桜井・松井田の三ケ庄を与える。常世は「喜びの眉を開きつつ」喜び勇み立って安堵された本領の佐野へと帰ってゆく。
http://s42masa71.ld.infoseek.co.jp/tour/furoku/hachinoki.htm
【○定家神社】(学問の神様として・・・)
【・琴平神社】(佐野道にある)
以上3ヶ所は、倉賀野・高崎間の佐野道(新幹線沿い)にあるため、戻らないで先に進む。高崎宿の繁栄のあり様、江戸時代後期の狂歌師・大田南畝(蜀山人)は「江戸に帰りし心地ぞする」と。(壬戌紀行―じんじゅつきこう)
【◎大信寺】(高崎で最大の寺領107万石の古刹)
三代将軍家光の弟(秀忠の三男)忠長の墓がある・・・高崎城に幽閉・自刃、享年29歳、将軍継承問題・・・二代将軍秀忠の忠長偏愛を、家光の乳母・春日局が家康に直訴。家康は元和元年(1615)、家光を将軍の後継者に決定、翌年没した。その後、忠長はで非行があったという名目など、家光に疎んじられ・・・
寺には姉の千姫から贈られた硯箱などの遺品が残り、自刃した部屋は長松寺に移されている。
【◎諏訪神社】土蔵造りの小さな神社、建物は龍の絡まる鳥居が張り付けてある。信州諏訪より48の宝石を勘請した沼田城主真田氏が箕輪に祀うった2の宝石のうち1つが祀られている。
【○高崎城跡・櫓・東門】(井伊氏の城下町。本陣、脇本陣はない)
【頼政神社、内村鑑三記念碑】
【○長松寺】(忠長自刃の部屋、薬師如来像、本堂の龍など)
【高崎白衣大観音】(高崎の実業家・井上氏、高さ41.8m)が見える。
君が代橋(烏川)を渡る
【万日堂】(室町末期の作といわれる見返りの阿弥陀仏あり。全国で5体、関東ではここだけ)
【信州街道 分去れ(わかされ)の道標】
【若宮八幡宮】
奥州・安倍氏の反乱鎮圧に向かう源頼義・義家親子が戦勝祈願
【飯野家の屋敷】江戸時代、茶屋本陣を努めた。和宮、公家、大名が小休止
【藤塚の一里塚】日本橋から28番目、一対か? 
【小林山達磨寺】
開山は心越禅師、だるま作り指導。洗心亭(日本に亡命ブルーノ・タクト)中山道からは少し外れる。
【上野国一社・八幡宮参道】
神仏習合時代の形式残す。義家の甲冑を奉納 参道入口の鳥居の八幡宮の字は弁慶が書いたといわれる。神仏分離↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2%E4%BB%A4
■板鼻宿(江戸から14番目の宿場)
板鼻は関東と信濃の国境・碓氷峠の登り口に位置し、古来武将の往来も盛んで、源義経が金売吉次と奥州に下る途中、伊勢三郎と出合ったという伝説がある。
・かねつ橋供養塔(英泉の「木曾街道(中山道)六十九次」の「板鼻」の絵はこの附近か)
【双体道祖神】信州に多い、祝言像
【称名寺】(謡曲「鉢の木」で知られる佐野源左衛門の手植え伝わる楓がある。
【皇女和宮資料館】
木島本陣の書院(宿直(とのい)が隠れていたという、床下の小部屋を見られるか)見学は板鼻公民館へ電話で確認済み。公民館に寄って開けてもらう。
【花屋】
江戸末期の建物で、「てうちん屋」と呼ばれる土蔵造の家。屋根が浮く造りに注意
■安中宿(江戸から15番目の宿場) 江戸から118.5Km
【大泉寺】(井伊直政の正室の墓)
【旧安中藩奉行役宅・旧安中藩武家屋敷】(復元)
【新島襄旧宅】(安中藩三万石の藩士の子、脱藩、渡米、キリスト教、京都同志社英学校)
【安政の遠足】(マラソン)の記念碑
名君・板倉勝明侯が、安政2年(1855)、藩士の心身鍛錬のためと始めた、碓氷峠の熊野権現までの七里余りを走る競技で、日本マラソンの起源とされる。
【赤穂四十七士石造】(遠いので×。安中市街地から6Km)赤穂藩の片岡源五右衛門の下男・地元出身の元助が、主人の無念の供養のため、仏門に入り二十年の歳月をかけで石像を・・
【原市の杉並木】
植樹されたのは731本、日光の杉並木と並び称された。昭和8年321本、52年57本、現在は?
【原市高札場跡、明治天皇原市御小休止碑】
【八本木の立場茶屋(山田家)】
【原市八本木地蔵堂】(100年に一度ご開帳。日本三地蔵の一つ)
今回の目標 JR磯部駅まで、約16Km(場合によっては、手前、JR安中駅)
『恵みの湯』は、磯部温泉の中心部にある公営の温泉施設で、JR信越線磯部駅から歩いて5分の距離にある。(500円) 駅へ向かう途中。027-385-1126

07-10-29(月)-30(火)
中山道8 見る所
■安中宿(江戸から15番目の宿場)
【海雲寺】招き猫で知られる。
【妙義道常夜灯】
■松井田宿(江戸から16番目の宿場)
【不動寺】(仁王門が見事)
【松井田八幡宮】(本殿が見事)
【文化財資料館】
【補陀寺】(大導寺氏の菩提寺)
【五料の茶屋本陣の名主屋敷・中島家】(月曜日は休みなので、表のみ)ここから関所資料館を開けてくれ!のTEL(027-393-1111)文化財係・藤巻さん宛て
【五料の夜泣地蔵】(昔、馬方が荷物の平均を取るため落ちていた地蔵の首を馬の背につけて深谷まで行き、用済みとなった首を道端に捨てたところ夜な夜な「五料恋しや」と・・・、深谷の人が届けて胴の上に戻したと。)
【氷川神社】
【横川の関所跡(碓氷の関所)】
東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所)
【関所資料館】
■坂本宿(江戸から17番目の宿場)一泊 
碓氷峠くつろぎの郷(TEL 027-380-4180)塩原さん 食事(夕・朝)と温泉:峠の湯(TEL 027-380-4000)
○翌日の昼食・・・熊野神社近辺で食べるところがあるか、確認
【熊野神社】(日本武尊を祀る。上野国と信濃国の国境)
■軽井沢宿(江戸から18番目の宿場)
■沓掛宿(江戸から19番目の宿場)
【長倉神社】天長年間(824~834)の創建、沓掛時次郎の碑
○磯部から坂本まで約14Km(泊まり)、翌日、坂本から軽井沢まで10Km,軽井沢から沓掛(中軽井沢駅)まで4Km  

07-11-13(火)
中山道9 見る所
■沓掛宿(江戸から19番目の宿場)
 ※中軽井沢駅の旧駅名は、沓掛駅
【長倉神社】
 本殿は江戸時代の建築 沓掛の時次郎碑―長谷川伸が発表した戯曲の主人公
【土屋本陣跡】
【道祖神】
【遠近宮(おちこちのみや)】
(信濃なる浅間の獄に立つけふりをちこちの人の見やはとがめぬー在原業平)
■追分宿(江戸から20番目の宿場)
【浅間(せんげん)神社】【常夜燈】
  芭蕉句碑 吹き飛す石も浅間の野分けかな
【追分宿郷土館】(浅間神社裏)
【油屋旅館(旧脇本陣)】
【泉洞寺】
如意輪観音の半跏思惟像(地元では歯痛止めの仏様)・・堀辰雄
【追分の分去れ(わかされ)】
 北国街道と中山道の分岐点 北国街道道標  森羅亭万象の歌碑(平賀源内の門人・桂木甫燦三) 道しるべ石(さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿) 常夜燈(1789建立)
【御代田の一里塚跡】
 長野県下でも数少ない一里塚で、榎ではなく、枝垂桜だ。
■小田井宿(江戸から21番目の宿場)
【安川本陣跡】
■岩村田宿(江戸から22番目の宿場)
【龍雲寺】
曹洞宗の寺で、佐久に進攻した武田信玄が越後から北高禅師(越後・雲洞庵)を迎えて中興。伊那の駒場で病死した信玄の遺骨を持ち帰り、ここにひそかに埋葬したという。
【鼻顔(はなづら)稲荷神社】京都清水寺を彷彿させる景観とか
【西念寺(浄土宗)】
信玄が開基、または庇護、小諸藩仙石秀久など墓がある。 沓掛―(4Km)-追分―(5Km)-小田井―(5Km)-岩村田 計14Km

07-11-18(日)-19(月)-20(火)
中山道10 見る所
■岩村田宿(江戸から22番目の宿場)
【西念寺(浄土宗)】信玄が開基、または庇護、小諸藩仙石秀久など墓がある
【相生松】(皇女和宮が東下の折、野点をしたという。野点(のだて)・・野外で抹茶をたてること)
【駒形神社】牧に関連した神社 
■塩名田宿(江戸から23番目の宿場)
【本陣】
【御馬寄せの集落】(佐久三牧・望月の牧の馬を追い集めたことから付いた地名)
 塩名田騒動
■八幡宿(江戸から24番目の宿場)
・この辺は歩道が極端に狭く、大型車が遠慮なく突っ走るだと。注意!!
【大日如来坐像】
【八幡神社】(貞観元年859に望月の牧の管理をしていた、滋野貞秀が創設したとある)
【百沢・祝言道祖神】(宮廷貴族風で、他に例がないそうだ)
■望月宿(江戸から25番目の宿場)
望月は平安時代、朝廷に馬を献上した全国32牧の内、信濃の国16牧の筆頭に数えられていました。「駒牽(こまひき)の儀」が毎年旧歴の8月15日の夜に行なわれたことから、望月(満月)の地名が生まれたと言われています。望月の道の周辺には道祖神ほか庚申塔、馬頭観音、大日如来など様々な石仏が見受けられます。特に道祖神は140体もあるといわれています
 平安時代の歌人・紀貫之
  逢坂の関の清水に影見えて、今や引くらん望月の駒 
  (望月の駒が献馬中の駿馬であったことが、京人にも望月の地への思いを馳せさせたとか)
宮中の年中行事の一つとしての駒牽(こまひき)の儀は、他の諸牧の献馬が絶えた後も、望月の駒のみは南北朝時代までの五百五十余年間続けられたという。

生駒姫と月毛の恋の物語りhttp://homepage2.nifty.com/wildwind/ikomahime1.html 
④【弁天窟・豊川稲荷】
①【歴史民俗資料館】(17:00終了、月曜日は休み)天来記念館と共通500円
③【比田井天来記念館】(17:00終了、月曜日は休み)望月に生まれた近代書道の開拓者
②【旅籠大和屋(真山家)】(予約済み) 100円
 天明5年(1785)の建築 国の重要文化財指定
本日の泊まり・・・(佐久市望月188-1 TEL 0267-53-2014)
【山城屋】http://www.yamashiro-ya.com/  ※歴史民俗資料館の斜め前なので荷物を預けて見学する。中山道ウォークプラン(徒歩の方のみ:インターネットで申し込み済み) 一泊二食一人当たり6,800円(税・サービス料込み) 朝食:7:00(出来る限り早く頼む)
■望月宿 
【大伴神社】
毎年8月15日の「榊祭り」は、大伴神社により執り行われる。いつかまた、見に行きたいものだ。
■間の宿 茂田井(良質米の産地) 私の生まれ故郷
【武重本家酒造】(よく旅の本に出ている場所)
創業 慶応元年(1865) 地酒「御園竹」 若山牧水が愛飲。裏の方に藤沢周平「たそがれ清兵衛」の映画のセットまだあるかも知れない。見ない。
 ・若山牧水歌碑
【大沢酒造】
創業 元禄二年(1689) 地酒「大吉野」試飲? 民俗資料館(無休)
【諏訪神社】
【無量寺】
■芦田宿(江戸から26番目の宿場)
【本陣跡】
【金丸土屋旅館】
【津金寺】
大宝2年(702)大和薬師寺の僧・行基により、聖観音を安置し開山されたと伝えられる。現在日本で最も古い天台宗の談義所といわれる。寺の紋は武田菱。信玄ゆかりの遺物、遺跡、伝承が多く残っている。川中島へ向かう出陣の時、ここの聖観音に戦勝祈願をしたと伝えられる。
【笠取峠の松並木】(当初は、赤松753本植えたんだと)
■長久保宿(江戸から27番目の宿場)
【松尾神社】
京都の松尾神社と同様に酒の神を祀ってあるという。酒造家の信仰が厚い。
【長久保歴史資料館・一福処濱屋】
【本陣跡・石合宅】(「中山道最古の本陣」と賞賛を得ているだと)
【落合橋】広重が題材として選んだ。
■和田宿(江戸から28番目の宿場)
和田宿は中山道最大の難所「和田峠」を控え、賑わった宿。しかし文久元(1861)の大火で宿並の2/3が焼失、皇女和宮通行に差障りが無きよう、幕府の助成を得て四ヶ月で再興を果たした。
【八幡神社】入母屋造りで藁葺き めずらしい。
【歴史の道資料館・かわちや】
【長井本陣跡】
【信定寺】(信玄の信濃攻めで討ち死にした、和田城主大井信定の菩提をを弔っている寺)
【中山道和田宿、旅人御宿本亭】(元庄屋)長野県長和町
 本日の泊まり・・・TEL 0268-88-2515 一泊二食付で7,350円(税込み)/人、翌日の弁当(大きめのおにぎり2個と漬物)315円 合計7,665円
朝食:7:00(出来る限り早く頼む)
■和田宿
【和田峠】・・・道が分からない時は、国道を歩こう! 各自インターネットで研究のこと。
 ・和田宿 標高 831m位
 ・和田峠 標高1599m(碓氷峠は1195m)
 ・標高差 768m(碓氷峠は734m)
・峠までの距離 10.7Km(碓氷峠と比べ、標高差はほぼ同じ、距離は倍あるので、斜度は半分のイメージか) 峠から諏訪宿(下諏訪町)までの距離  10.8Km 
1日目 岩村田―(5Km)-塩名田―(3Km)-八幡―(3.5Km)-望月
 計11.5Km
2日目 望月―(5Km)-芦田―(6Km)-長久保―(8Km)-和田計19Km
3日目 和田―(22Km)―下諏訪
○湯泉ハウス児湯(共同風呂・年中無休・220円)か
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/simosuwa_koyu/simosuwa_koyu.htm
○下諏訪温泉「菅野(すげの)温泉」(共同風呂) 
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/simosuwa_sugenoyu/simosuwa_sugenoyu.htm 
 ○スーパーあずさ32号
  下諏訪17:39発  新 宿20:08着
 ○スーパーあずさ34号(指定を取る?)
下諏訪18:55発  新 宿21:05着
下諏訪到着の時間によっては、酒と夕飯(弁当)は、電車内か。
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中山道を歩くー資料編③ー下諏訪宿~野尻宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

08-4-20(月)~22(火)
中山道11 見る所
■下諏訪宿(江戸から29番目の宿場)・・・甲州道中との合流地
【諏訪大社下社秋宮】日本一大きい青銅製の狛犬やしめ縄が。
諏訪大社というのは、一つの社のことをいうのではなく、諏訪地方にある四つの社の総評。諏訪湖をはさんで北側の下諏訪町に秋宮と春宮からなる下社があり、南側の諏訪市には本宮と茅野市にある前宮からなる上社がある。一般には古くから、上社が男神様、下社が女神様といわれている。
「御神渡(おみわたり)」上社の男神が下社の女神に会いに行く道。道筋で作物の出来を占う。(気温がマイナス10度以下の日が続くと、全面が凍って膨張し、一部に帯のような亀裂が入ってその部分が両側から押されて盛り上がって道筋みたいなものでできる)諏訪大社の創建はあきらかではない。「御柱祭」寅年と申年の7毎に行われる。・・・・
【本陣跡(岩波家)】
皇女和宮宿泊 上段の間、参勤交代資料、庭園(中山道随一だと)。
【下諏訪町歴史民族資料館】
【道標】「右中山道左いな(伊那)みち」
【一里塚跡】
【茶屋本陣(今井家)】
【石船観音】金明水(霊水)として名が通った鳴沢の清水
【塩尻峠】
「絶景なり」とか。諏訪側からは、諏訪湖、八ヶ岳が、塩尻側からは、御岳、乗鞍、穂高の山々が望める。
宿泊 ホテルあさひ館(詳細は別紙計画表)
■塩尻宿(江戸から30番目の宿場)
 歩道がなく危険、注意!
【永福寺】
立派な楼門、本堂  朝日観音堂(茅葺屋根)・・・木曽義仲の子孫義人豊が義仲供養のため開山。建物は二代立川和四郎内匠富昌の再建(山車彫刻で名を馳せた。初代富棟は諏訪大社秋宮の総建築を任される)
【堀内家住宅】屋根に立派な「雀踊り」の棟飾り
【下大門交差点】
中山道と松本街道(塩の道)の追分・・・静岡や新潟からの塩を運んだ、終着点が塩尻。敵に塩を贈る」(川中島の合戦で、武田軍最大の戦力を持っていた高坂弾正は、双方戦死者8000とも言われる戦死者を敵味方関係なく手厚く葬ったそうな。今川、北条との開戦で、塩の搬入を禁止され、甲斐、信濃、上野の民は非常に困った。・・)
【平出一里塚】
■洗馬宿(江戸から31番目の宿場)
昭和7年の大火で宿内200軒が消失、当時の面影はないという
【細川幽細肘掛松】忠興の父、ガラシャの義父。松に肘をかけ、月を眺め歌を詠んだんだと。
【信濃分去されの道標】「右中山道」「左北国往還 善光寺道」
【太田の清水】
昔、木曽義仲の軍勢と出会った今井兼平が、この清水で義仲の馬を洗って疲れを癒したという。洗馬の地名の由来。
■本山宿(江戸から32番目の宿場)
「そば切り」の発祥地だと。
鉄道開設時に開発・発展から取り残されたことで、宿場風情が残っている。川口屋、池田屋・・・旅籠跡などで見かける軒看板・・・京都側はひらがな、江戸側は漢字だと。今度見てみよう。
■贄川(にえかわ)宿(江戸から33番目の宿場)
【茶屋本陣跡】
【贄川関所・木曽考古館】「上下女改め、御番所、ひの木細工改め」
【麻衣廼(あざぎぬの)神社】4本の御柱、朱漆塗りの見ごとな社殿、やはり7年毎に御柱祭
【諏訪神社】芭蕉句碑  
送られつ をくりつはては 木曽の秋 (更科紀行の折とか)
【間の宿・平沢】木曽漆器の町
漆器に欠かせない下地造りに大切な「錆土」という、すぐれた粘土の発見。丈夫で長持ち。
贄川小学校・・・校舎がヒノキ造り、給食の器は、木曽漆器だと。
宿泊 民宿 津ち川(詳細は別紙計画表)
■奈良井宿(江戸から34番目の宿場)
【八幡宮・二百地蔵】
【木曽の大橋】木橋では日本一、見事な太鼓橋 樹齢250~300年の木曽ヒノキを使用の贅沢
【平野酒造店】酒林(さかばやし)
【旅籠屋・徳利屋(内部は郷土館)】
街道風景・・・本陣、上問屋(手塚家)、越後屋、伊勢屋・・・江戸時代そのまま
【長泉寺】
お茶壷道中「ずいずい ずっころばし ごまみそずい・・・」
【楢川村立 歴史民族資料館】
【鎮神社】
これから難所、鳥居峠(標高1197m、奈良井から約2.5Km)へ 日本海へ向かって流れる奈良井川、太平洋に向かって流れる木曽川との分水嶺をなす。きついところ「くるみ坂」
【御岳遥拝所】
【丸山公園、義仲硯水】
■薮原宿(江戸から35番目の宿場)
【米屋】
【お六櫛】ミネバリの木
【極楽寺】雪舟、応挙・・・の書画
【宮川家 資料館】
◎馬籠・妻籠を訪ねる前に、島崎藤村の「夜明け前」は是非読んでおきたい。長編小説なので読みやすい本がいい。ほるぷ出版1~4巻お勧めしたい。
・活字が大きく、口語体なので読みやすい。
・買う必要はない。市の図書館にリクエストすれば、多分、奥のほうから出してきてくれるはずだ。1~2ヶ月あれば、4冊はゆっくり読める。
・幕末、維新後の中山道の様子や主人公青山半蔵が、中山道を何度も行き来した気分も味わって歩くのもいい。08-1-24

08-5-25(日 )~27(火)
中山道12 見る所
■薮原宿(江戸から35番目の宿場)
【巴ヶ淵】
■宮ノ越宿(江戸から36番目の宿場)
【徳音寺】
・木曾(源)義仲の菩提寺。義仲、母の小枝御前、巴御前らの墓がある。
・境内に「宣公郷土館」(義仲の守り本尊の兜観世音菩薩、愛蔵品、文化財など)
・木曾八景「徳音寺の晩鐘」
【義仲館】木曾義仲(きそよしなか)   
木曾義仲(1154~1184)は、武蔵の国(さいたま)大蔵で誕生。父・源義賢は源頼朝の父・義朝の弟で、義仲は源頼朝の従弟。幼少の時、父・義賢が甥の源義平(悪源太)に殺され、その後斎藤別当実盛らの情により、木曾の山中に匿われ成長。治承四年(1180)、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をし、寿永二年(1183)、砺波山で平維盛を敗り、入京。そこで後白河法皇からその功を賞して「朝日将軍」の称号を与えられた。ところが、その後の木曾義仲軍の粗暴な行為に困った後白河法皇は、とりあえず平家追討の院宣を義仲に与え都から遠ざけ、その隙に鎌倉の頼朝に上洛を促した。密かに頼朝に義仲追討命令をだした。寿永三年(1184)、義仲は頼朝が差し向けた源範頼、・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。
【本陣跡】
【林昌寺】・義仲の養父・中原兼遠の墓
【中山道東西中間之地】道の駅「日義木曽駒高原」京へ六十八里二十八町(266Km)、江戸へ六十八里二十八町(266Km)ようやくというか、ついにと言うか、半分まで来た。この碑の前に立つとバックに木曾駒ケ岳が見事な景観を見せると。晴れていればだが。木曾八景「駒ケ岳の夕照」 左手に木曾駒ケ岳をはじめ中央アルプスが美しい。
【手習天神】・義仲の勉学のため、京都の北野天満宮を迎えた。
【冠木門(かぶきもん)】・福島宿を象徴する関所の門をイメージしたもの。
■福島宿(江戸から37番目の宿場)
【福島関所跡】【同資料館】
当時、五街道に張り巡らした50ヶ所の関所のうち、同じ中山道の碓氷関所、東海道の箱根、新居の関所とともに江戸四大関所に数えられる。(関守は山村氏で、尾張藩の木曾代官として木曾の山林を預かり、その権力は非常に大きなものであったそうな。
島崎藤村「夜明け前」での描写。「そこは西の門から東の門まで一町程の広さがある。一方は傾斜の急な山林に倚り、一方は木曽川の断崖に望んだ位置にある。」
【高瀬家】(資料館)
 山村氏の家臣で代々関所番を勤めた。島崎藤村の姉・園が嫁いでいて、作品「家」のモデルになっている。
今日の宿泊 民宿むらちや(詳細は別紙計画表) TEL0264-22-3186
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/38418/38418.html
【興禅寺】【木曾福島郷土館】
 木曾信道が先祖の木曾義仲追善供養のため旧寺を改めた。木曾氏、山村氏の墓。山村氏の菩提寺
【山村代官屋敷跡】・駒ケ岳を借景にした泉水庭園が見事
【上の段】・福島宿の中で最も江戸の風情を残す。
【木曾義元の墓】・木曾義仲の末裔と云われるが。
【御嶽遥拝所】
■上松(あげまつ)宿(江戸から38番目の宿場)
【木曾の桟(かけはし)】
 桟や 命をからむ 蔦かずら(芭蕉)
 なかなかに 言ひもはなたで信濃なる 
    木曽路のはしのかけたるやなそ(源頼光)
 浪と見る 雲を分けてぞ漕ぎ渡る 
    木曾の桟底も見えねば(西行)
【玉林院】・木曾義元の二男玉林が創建
【本陣・脇本陣跡】
【越前屋】
【臨川寺】
【寝覚の床】(木曾八景のひとつ)
浦島太郎伝説の場所として有名。海岸端で玉手箱を開けずに、ここで開けた?
■須原宿(江戸から39番目の宿場)
今日の宿泊 民宿いとせ(詳細は別紙計画表) TEL0264-55-3686
【須原ばねそ(桜の花漬け】・すばらしいぞえ須原の桜 漬けて煮え湯の中で咲く
【水舟と正岡子規歌碑】・寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は 月出つるほどの 空たにもなし
【脇本陣跡】・西尾酒造
【定勝(禅)寺】
室町時代初期(1430)領主・木曽氏11代親豊が創建。秀吉の家臣 犬山城主石川備前守光吉が再建、山門・庫裏は国の重要文化財。本堂に残る桃山時代の千羽鶴や木曽のヒノキで造られた迫力満点の達磨像は見逃せないと。
【岩出観音堂】
【天長院】
■野尻宿(江戸から40番目の宿場)
【はずれ】(尾上家)
【本陣跡】
【妙覚寺】
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中山道を歩くー資料編④ー野尻宿~御嵩宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

08-6-22(日 )~24(火)
中山道13 見る所
■野尻宿(江戸から40番目の宿場)
【八人石】二十三夜様 月の信仰
【柿其(かきぞれ)水路橋】全長142m、鉄筋コンクリート造りの水路橋で、2連のアーチ橋。国の重要文化財
 福沢桃介(ももすけ)(福沢諭吉の次女の婿)
http://www.enasan-net.ne.jp/rekishi/haku/momosuke/momosuke.html
 柿其渓谷・・・南寝覚と呼ばれる美しい渓谷
今日の宿泊 民宿ほていや
   http://www13.plala.or.jp/hoteiya/
■三留野宿(江戸から41番目の宿場)
【等覚寺】
天神像韋駄天像(等覚寺韋駄天像)など三体の円空仏が安置。円空・・・美濃国生まれ。不幸な人々を救うため、12万体の仏像を残すことを誓い、旅に出て数多くの仏道を彫り続けた。一刀彫の手法。
【本陣跡・枝垂れ梅】
【桃介橋】【福沢桃介記念館(桃介の別荘跡)】
 桃介と川上貞奴(さだやっこ)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E8%B2%9E%E5%A5%B4
 三留野が明治の終わりから注目を浴びた。それは、木曽川の水力発電の基地になったから。
【和合】
むかし木曽の谷中に酒なし、和合の里人はじめて酒を造る。
【園原先生碣(けつ)】江戸時代の有数の学者で、尾張、美濃、信濃に多くの門人がいた。
【ふりそで松】義仲が弓を引くのに松の木が邪魔になり、巴御前が袖を振って倒したと。
【かぶと観音堂】
木曽義仲旗揚げの時、この先の妻籠に砦を築き、その鬼門に当るここに小祠を造り、義仲の兜に納められていた守り本尊の十一面観音像を納め祀ったのが始まりといわれる。
【一里塚】一対がしっかり残っていると。
江戸時代の宿場の街並みがそのまま息づく妻籠宿へ
■妻籠宿(江戸から42番目の宿場)
妻籠の集落保存計画・・・昭和43年、長野県の明治100年記念事業の一つとして採択。その後、「妻籠を愛する会」を地元住民が中心となって組織し、「売らない、貸さない、壊さない」の信条に基づき保存、復元された。
【高札場跡】
【水車】
【脇本陣林家】(奥谷郷土舘)
江戸時代には禁制であった木曽五木が解禁された後、明治10年に総ヒノキ造りで立て替えられた。木曽五木(ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林)「夜明け前」では、扇谷得右衛門の名で登場。
【本陣(復元)】(島崎家)青山半蔵のいとこに当る青山寿平次は、ここ妻籠宿の本陣の娘と結婚。
【光徳寺】枝垂桜は樹齢500年の巨木
【上丁字屋(元旅籠)】黒股屋・・・弥次喜多が京都から善光寺に向かう途中泊ったと。
【下嵯峨屋】
【生駒屋】
【上嵯峨屋】
【大妻籠集落】立派な家(元旅籠)が昔ながらに残っている、いい風情の家並み
【男滝】【女滝】吉川英治の「宮本武蔵」にある、武蔵とお通の出会った「男垂の滝」
【馬籠峠】
【一石栃番所跡】
【峠の茶屋】峠の頂上(海抜800m) 
・正岡子規「白雲や青葉若葉の30里」
・藤村「後ろは高い木曽の山々、前の方は“平らな野原の多い”」と書いた美濃の平地へ下って行く。左に見える山は「恵那山」
【熊野神社】
【峠の御頭の碑】夜明け前
木曽路は全て山の中である。中山道のハイライトをゆく
■馬籠宿(江戸から43番目の宿場)
 贄川に始まった木曽路最後の宿
【馬籠脇本陣資料館】
 蜂屋家、屋号屋八幡屋(酒造・金貸し)の古文書・民具、木曽五木実物見本
 夜明け前の貴重な資料
【大黒屋】
藤村の初恋の人おふゆの生家。本陣青山吉左衛門の親友、年寄役伏見屋金兵衛。大黒屋10代目大脇兵右衛門信興。この大黒屋日記を見て、「夜明け前」執筆を決意したんだと。
【島崎本陣跡】【藤村記念館】
今日の宿泊 永昌寺
http://www.mapple.net/spots/G02101095601.htm
【永昌寺】
臨済宗・福島長福寺に属す。夜明け前では、万福寺として登場、和尚は松雲だ。島崎家代々の墓、島崎正樹夫婦、藤村の遺髪など。遺骨は神奈川県大磯の地福寺。
【諏訪神社】
【島崎翁記念碑】藤村の父正樹を記念
【新茶屋集落】木曽路はここで終わり。
 芭蕉の句碑 送られつ送りつ果は木曽の秋
【これより北 木曽路 藤村老人】
十曲峠の急坂を下る。いよいよ美濃路(十六宿)へ 初めての道へ
■落合宿(江戸から44番目の宿場)【落合石畳】
【医王寺(山中薬師)】狐膏薬 日本三大薬師の一つ、浄土宗で京都知恩院の末寺。
【落合宿本陣跡】
■中津川宿(江戸から45番目の宿場)
【東円寺】(後ろ向き薬師)
本尊の薬師如来像は、この前を乗馬で通ると必ず落馬するということで、後ろ向きに安置されているそうな。国重要文化財
【間家大正の蔵】東濃随一の豪農
【中津川本陣跡】
中津川インターのバス停へ!インターチェンジの中の、駐車場の中にバス停があるらしいが、初めてのケースだ。
                              
08-7-27(日 )~29(火)
中山道14 見る所
■中津川宿(江戸から45番目の宿場)
【茶屋本陣・篠原家】
■大井宿(江戸から46番目の宿場)
【甚平坂】眺望よし 
【長国寺】行基の創建 
行基(668年~749年) 奈良時代の僧侶。河内国の生まれ。官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
 西行葬送の寺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
【上宿石仏群】悪病を食い止めるために立てられたという。
【大井宿本陣跡】
【中山道ひし屋資料館】
【市神神社】300余年の伝統 7日市 煙草
【中山道広重美術館】全国的に評価の高い美術館
今日の泊まり・・・エナプラザホテル(0573-25-6777)
【中野村庄屋・本酒屋】犬矢来に引き戸
【西行硯水公園】西行は大井宿で晩年の3年間を過ごしたという。
いよいよ十三峠がはじまるよ!
【西行塚】西行終焉の地は諸説あり。
【槙ヶ根追分】
【首なし地蔵】
【紅坂ぼたん岩】くれないざか?べにざか?
【神明神社 芭蕉句碑群】
 山路きて なにやらゆかし すみれ草   など
■大湫(おおくて)宿(江戸から47番目の宿場)
【観音坂霊場巡拝碑】
【大湫コミュニティセンター】ロービーに資料あり
【脇本陣・保々家】
【神明神社】大杉(推定樹齢1300年)・神明の泉
【観音堂】
付知(恵那市付知村)の画人「三尾暁俊峰(静)」の描いた60枚の絵天井
  花さかり 山は日頃の あさぼらけ(芭蕉)
【夫婦岩】烏帽子(えぼし)岩と母衣(ほろ)岩 中山道では有名な岩だそうだ 別名「弁慶岩」
次の峠は、難所、琵琶峠。
【琵琶峠】標高540m(美濃路の最高地点)
700mの石畳(この石畳は長い間土の下に埋もれていてその存在は知られていなかったが、昭和45年に地元の方の情熱により発見された。東海道の箱根峠、中山道の十曲峠(落合)の石畳をはるかに超して日本一長い石畳となっている。
昔、京へ琵琶の修行に行った信濃の法師が、その奥義を極められず失意の中、信濃へ帰る途中、琵琶峠で疲れてうとうとしていると、峠の松風の音が聞こえます。法師は「これこそ琵琶の音だ」と気づき、再び京に行き、ついに琵琶の奥義を極めるのです。(一説)
  住み慣れし 都路出でて けふいくひ 
   いそぐもつらき 東路のたび(皇女和宮顕彰歌碑) 
【八瀬沢の一里塚】江戸から九一里目の一里塚 双方、当時の姿のまま残る(高さ、塚周)
■細久手宿(江戸から48番目の宿場)
【北野坂の廻国塔】巡拝塔の一つ
【弁天池】杜若(かきつばた)
【庚申堂】
本日の泊まりは大黒屋。(0572-69-2518)
 大黒屋での朝食は6時。7時前に出発。
【大黒屋】http://www.tono-gifu.net/daikokuya/main/index.htm
細久手宿は、慶長15年(1610年)に新宿として設けられた。
江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、戸数65軒を数え、うち24軒が旅籠を営んでいた。その1軒が、『尾州家定本陣大黒屋』であった。
細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりである。
【津島神社】本来は防疫の大神だと
【秋葉坂三尊】馬頭観音、千手観世音、秋葉前立仏 道中安全祈願のため。
■御岳(みたけ)宿(江戸から49番目の宿場)
【御殿場跡】
【一呑の清水】
【謡坂(うとうざか)の石畳】
【七御前・キリシタン遺跡】
【和泉式部廟所】
・・・恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
  ひとりさへ 渡れば沈む うき橋に 
        あとなる人は しばしとどまれ
※次は、時間によっては次回まわし
【本陣跡】
【中山道みたけ舘】中山道にかんする豊富な資料
【願興寺】別名 蟹薬師
願興寺の門前町として栄えた御嵩宿は、江戸時代中山道の宿場として大いに栄えた。815年伝教大師最澄による開創と伝わる願興寺は、2度の兵火で焼失したが、その度に仏像など多くの文化財は難を逃れ、1581年には地区の多くの人たちによって再興され、現在の本堂はその時のものである。その造りは四周の回廊の広さに独特のものがあり、また材を持ち寄った痕跡が残る民の寺である。
【愚渓寺】
◎御嵩駅発11:13に間に合うように歩く。
名鉄広見線 新可児(しんかに)行きー各停― 290円  新可児11;24着
11:31発(太田線―多治見行きー各停―) 480円
多治見11:50着  12:07発(中央本線(東海)(中津川行き)快速
瑞浪(みずなみ)12:18着 
◎中央道瑞浪天徳バス停へ 歩きで20~30分か?(確認して昼飯)・・・4900円(乗車時支払い)
 中央ライナー6号 13:38発 新宿新南口着18:33
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中山道を歩くー資料編⑤ー御嵩宿~鳥居本宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

08-9-28(日 )~30(火)
中山道15 見る所
28日(日)JR新宿駅(新南口)発23:20(中央ライナー203号)
29日(月)6:33「新可児市役所前」着、徒歩で新可児駅へ(名鉄広見線)10~15分歩く 駅近辺で朝食・出発準備後、8:09分発で御嶽駅へ(8:21着)
■御岳(みたけ)宿(江戸から49番目の宿場)
【愚渓寺】
臨済宗妙心寺派の古刹。後に京都妙心寺五世となった「義天玄承」が開山。臥龍(がりょう)石庭は竜安寺(細川勝元創建―室町時代)の原型とされる。
【鬼の首塚】
■伏見宿(江戸から50番目の宿場)
(【金山城(鳥峰城)址】)
 ・斉藤道三の養子斉藤正義が築く。
 ・美濃に進攻してきた織田信長は、重臣・森三左衛門可成にこの城を与える。
 ・可成の三男は、森長定(森蘭丸)
 ・城郭の解体の部材は、犬山城の拡張、修復に使われた。
(【女郎塚】)
【今戸の渡し】
■太田宿(江戸から51番目の宿場)
【太田の渡し】
 木曽の桟(かけはし) 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい
当時急流であった木曽川を渡る中山道の三大難所の一つ。(太田橋ができる昭和2年まで、木曽川を渡る手段となっていたそうな)日本ライン(美濃加茂市から犬山市までの木曽川13キロ)
【祐泉寺】
 臨済宗妙心寺派 文明6年(1474)の創建(聖観音菩薩は7年毎にご開帳)
  春なれや 名もなき山の 朝がすみ(芭蕉)
 坪内逍遥の歌碑(美濃加茂市出身、尾張藩太田代官所の役人の子) 太田稲荷 槍ヶ岳を開山した播隆上人の墓碑
【小松屋】地図、案内書をくれるそうだ。
【脇本陣林家】(中山道随一の脇本陣遺構といわれる。板垣退助泊)
【太田宿中山道会館】
【本陣福田家・表門】
【端林寺】別名 柿寺
創建した仁和和尚がこの地方特産の蜂屋柿という干し柿を、10代将軍足利義植に献上、寺領10石のほか「柿寺」の称号を与えられたんだと。「堂上(殿上)蜂屋柿」と呼ばれた。蜂屋柿は平安時代に遡る。源頼朝、秀吉、家康・・・諸役免除など明治時代までその特典は続く。
■鵜沼宿(江戸から52番目の宿場)
(【貞照寺】)川上貞奴(日本の女優第1号・・・三留野宿で出てきた)が昭和8年建立
【うとう坂(峠)の一里塚】うとう坂再び。ここは軽そうだ。
時間を見て、鵜沼駅から犬山城へタクシー利用(犬山城には4:30までに入る)
【犬山城】http://www.inuyamajohb.org/
国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿だが木曽川の河原より見る天守は実に絵になると。(現存最古と言われる)
犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康が築いた。この城は、信長の美濃攻略、秀吉と家康の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山に築城する。 慶長5年、清洲城主松平忠吉の付家老 小笠原吉次が入り、次いで名古屋城主徳川義直の付家老平岩親吉が入った。
親吉没後、成瀬正成が3万石で元和3年に入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至った。
今日の宿泊 犬山国際ユースホステル「リバーサイド犬山」(0568)61-1111
【本陣跡】
【脇本陣坂井家跡】芭蕉(野ざらし紀行、更科日記)
  汲留の 水泡立つや 蝉の声
  ふぐ汁も 食えば喰わせよ 菊の酒
  送られつ 送りて果ては 木曽の秋
■加納宿(江戸から53番目の宿場)
【手力雄(たぢからお)神社】貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。その岩戸を取って遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになったとさ。(毎年4月第二土曜日に行われる火祭りは、全国的に有名だと) 戸隠山は、標高1,904メートル。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、力のある神様・天手力雄命(たじからをのみこと)がその岩戸を投げたのが、戸隠山だったという伝説が残されている。 戸隠神社(奥社)は、その戸隠山の中腹にあり、天手力雄命を祀っている。戸隠山は、新しい道に進むときに訪れると、強い山と大自然の力からのパワーをもらえる、と伝えられている。
就職を決めるときや、定年退職後の第二の人生を迎える前に最適の場所。
(第三の人生を迎える前に、皆でお参りに行こうかな?)
 天照大御神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
 天岩戸
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8C
【伊豆神社】
祭神は、大山祗神の娘・石長姫命で、健康長寿の神。男の荒神の天手力雄命を諌める役?
【細畑一里塚】両側にあり
【加納八幡神社】 ※だんご屋の裏手
【本陣跡】(和宮の歌碑) 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
【加納天満宮】加納の傘・・・播州明石から傘職人を連れてきたのが始まり。
【光国寺】・【盛徳寺】家康の娘・亀姫
【岐阜城】(稲葉山城)
岐阜城は、かつて稲葉山城と称していた。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政。戦国時代には、斎藤道三(国盗り物語)の居城でもあった。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)8月、織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてから。しかし、慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移された。
時間によっては寄らない。眺望はいいらしく、天守に上ってみたいが。(昭和31年復元)
■河渡(ごうど)宿(江戸から54番目の宿場)
【乙津寺(おっしんじ)】
創建は奈良時代、聖武天皇・天平10年(738)に名僧・行基が十一面千手観世音を自ら刻み「乙津島」のお堂に安置。
【小紅(おべに)の渡し】乙津寺の裏手
名前の由来・・・昔、信濃の一日市場(安曇野三郷村)の農家の娘が、美濃の商家に嫁ついで来る時のことでした・・・・
「渡し」で長良川を渡るよー (対岸の小屋の船頭へ手を振ると、迎えにきてくれるんだと。県道扱い。無料) 小船から金華山の岐阜城はみえるか?
■美江寺(みえじ)宿(江戸から55番目の宿場)
美江寺駅から電車でJR岐阜駅へ 
美江寺発17:18(18:32) 大垣乗換え 岐阜着17:46(19:07)
(JR岐阜駅で下車、銭湯へ行くか。時間はある。「大垣城」は次回寄る。)
 小田急ハイウエイバス「パピヨン号」名鉄「新岐阜駅」前   23:00発
新宿駅西口小田急ハルク前 10月1日(水)5:50着
【要検討】
30日(火)は歩く距離が長い。(鵜沼宿から美江寺宿まで28Km。)
天候や疲れ具合によっては、小紅の渡しを渡ってから、JR穂積駅に向かうか、あるいは、もっと手前で、渡しを渡る前でJR西岐阜駅に向かうか。この場合、夜行バスに乗るとなると、時間が余り過ぎる。切符は購入済み。
次回、中山道16((10月26日~)で、関ヶ原宿に泊まりたいので、なんとか美江寺宿にたどり着きたい。パピヨン号に乗るとなると時間はタップリある。
峠もないので、ユックリ歩いてでも美江寺宿まで歩きたいと思うのだが、どうなるか。
「関が原」(司馬遼太郎)を読み返すんであれば、新潮文庫(上中下)平成15年版以降は字が大きくて読みやすい。来年のNHK大河ドラマ「天地人」(直江兼続)を見るにも参考になる。・・・石田三成の重臣島左近は、会津の上杉景勝の家老直江兼続と家康挟み撃ちの作戦を練る。左近は中山道を行き来し、近江佐和山にいる三成に報告する・・・
関が原の戦いが始まったのは、慶長5年9月15日午前8時(1600年10月21日)

08-10-26(日 )~28(火)
中山道16 見る所
26日(日)ムーンライトながらJR東京駅(9番線)発23:10  27日(月)朝、大垣着6:52
主な停車駅と停車時間:静岡20分、浜松24分(駅前にコンビにあり)豊橋53分(ここから自由席に)、名古屋7分
大垣駅近辺で朝食・出発準備。大垣城までタクシーで往復する。
大垣城は9:00開城なので城中の見学はなし。周りで写真を撮る位か。また、大垣は芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた「むすびの地」ともいわれている。何時か再訪する価値はありそうだ。
大垣発9:07(樽見鉄道)美江寺着9:19(この後は、10:37発)
【関が原の合戦と大垣城】 
1600年(慶長5)、石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため東上して美濃の国に入った。 時の大垣城主・伊藤盛宗は豊臣家の家臣で西軍に属していた。そこで、三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集まるのを待った。 ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、大垣城から見下ろす西北の赤坂・岡山を中心に布陣したため、西軍の動揺は大きかった。9月14日、三成の謀将・嶋左近(しまのさこん)はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、予め配置した伏兵と呼応し、笠木村にて、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊に奇勝を得た。(これを“杭瀬川の戦い” という) そのため、一時は西軍の士気は上がったが、東軍徳川方の策戦におびき出され、大垣城に兵7,500を残して関が原に移動し、翌15日、両軍が関が原の原野で激突する一大決戦となった。
関が原での本戦後も大垣城の攻防戦は三日三夜つづき、城内に裏切りが出たため、遂に落城した。 この戦いで、城下町は東軍に火をかけられ、三日にわたり燃え続け、凄惨を極めたという。
■美江寺(みえじ)宿(江戸から55番目の宿場)
【美江神社】【美江寺観音堂】
昔、伊賀からこの地に観音像を移し祀ったところ、木曽川の氾濫が治まって美しい江になった。・・
【船頭頭・馬淵家】
【小簾(おず)紅園】
皇女和宮の歌碑(舟で揖斐川を渡る時、馬淵家の庭の美しい紅葉をみながら)     落ちてゆく 身としりながら 
      もみぢ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
【道標】(京都から向って)左木曽路、右 墨俣宿(木下藤吉郎の一夜城で有名)
■赤坂宿(江戸から56番目の宿場)
【安楽寺】
聖徳太子が創建し、672年の壬申の乱の時、大海人皇子が戦勝を祈願し、戦後は、大友皇子の冥福を祈った寺と伝えられている。
【岡山】安楽寺裏手の丘の上
関ヶ原の戦いの時に、家康が最初に「岡山」の本陣を敷いたところ。(軍艦本多忠勝と井伊直政が相談して決めた。家康が到着するまでの約20日間、東軍の将は砦を築いて大垣城を本拠とする石田三成らの西軍と対峙した。東軍勝利の後、岡山は「勝山」と呼ばれるようになった。
【お茶屋屋敷跡】
家康が上洛の時の休憩施設。中山道に残る「お茶屋」としては唯一の遺構で重要な遺跡。
■垂井宿(江戸から57番目の宿場)
【中山道ミニ博物館】
【南宮大社】
初代神武天皇時代(約2650年前)の創建といわれ、祭神の金山彦命は金属・鉱山の神といわれている。金山彦命を祀る全国約3000社の総本宮。延喜式の名神大社で、美濃国一の宮。
【垂井一里塚】
左側のみ残しているが、当時とほぼ同じ姿のため、中山道としては二つある国史跡の一里塚の一つ。もう一つは板橋の志村一里塚
■関ヶ原宿(江戸から58番目の宿場)
【松並木】
【桃配山(ももくばりやま)】六部地蔵の後方の山 関ヶ原の合戦の時、家康が最初に本陣を構えた場所
【若宮八幡宮】
◎本日の宿泊 つるや 関ヶ原町大字関ヶ原3316-3 TEL0584-43-0386
 の予定が、宿屋の亭主のおばあさんの体調不良につき、急遽宿屋を神山に変更することになった。TEL 0584-43-0369
【笹尾山】三成の本陣
【関ヶ原歴史民俗資料館】0584-43-2665 朝9時開館 ゆっくり見学したい。
【不破関資料館】0584-43-2611
■今須宿(江戸から59番目の宿場)
【不破の関跡】
【常盤御前の墓】
【車返しの坂】
伝説では文明の頃、二条良基(にじょうよしもと)が不破の関の荒れたひさしからもれる月の風情のウワサを聞き都からはるばる車に乗ってやってきた。ところが不破の関では壊れたひさしをすでに修理してしまったことをこの地で聞き、興ざめしてここから京に引き返してしまったということ。      
ふきかへて月こそもらね板庇 とく住みあらせ 不破関守
【寝物語の里】これより近江に入る
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
・・・「ねものがたりの里」など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、・・・近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。・・・江戸では「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」というように、銀本位制・・・方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったともいえる。・・・
■柏原宿(江戸から60番目の宿場)
【円乗寺】(寂照山円乗寺成菩提院)
天台宗の古刹。織田信長は、浅井長政と佐和山城で会見する前、ここに泊まっている(1568年)。足利義明を伴って京に行くときも泊まった。秀吉もそれに習いここに宿泊した。 成菩提院の20世の住持は、家康・秀忠・家光の三代の各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として尽力した天海大僧正。
最盛期は160石、64坊と僧侶103人、末寺80を抱える大寺院だったという。
【伊吹艾(もぐさ)の亀屋左京商店】
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
伊吹山は、胆吹山とも書く。古語で呼吸のことを息吹という。伊吹山は絶えず風や雲を息吹いいる。標高1377mである。近江第一の高山で、古代の人々がこの山を絶えず息吹いている精霊と見ただけでなく、不思議の薬草が多く、いかにも奇(く)すしき山とみていた。・・・中でも、灸のもぐさが代表的である。
江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は1軒きりになってしまったが、江戸期はどの店も繁盛していた。面白いことに、どのもぐさ屋も「亀屋」という屋号を名乗っていた。鶴は千年、亀は万年という、その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。また、このことは、近江商人が互いに足を引っ張りあわないという気風と関わりがあるとみてよい。伊吹もぐさが結構なものだということは、奈良朝のころから定評があったとはいえ、世々の遷りによって一般には忘れられたかのようであったとき、この伊吹山麓の柏原の人で松浦七兵衛(亀屋左京)という怪傑が出た。彼が大いに中興する。亀屋左京の店の昔は、安藤広重の「木曾街道69次」の「柏原」の絵で見ることができる。画面いっぱい、亀屋左京の店頭風景になっている。亀屋左京家は、そのまま残っていた。長大な間口は、広重の絵以上の規模である。ただ広重の絵のように間口がすべて開放されておらず、半ばは京格子で覆われている。
【柏原宿歴史舘】
「くつろぎの里」で「やいと」を食べるか。
■醒井(さめがい)宿(江戸から61番目の宿場)
【八幡神社】
【賀茂神社】加茂神社?
「ヤマトタケルノミコト」像がある。その昔、伊吹山に住みついた大蛇を日本武尊が退治した。しかし、大蛇の猛毒に苦しめられてしまう。やっとのことで醒井の地で清水で体を冷やすと高熱がとれ、回復したという。
【居醒の清水】
醒井宿を流れる地蔵川の源流、居醒の清水は古くから中山道を往来した旅人の憩いの場所でもあり、数々の歌にも詠まれている。「古事記」「日本書紀」には日本武尊が伊吹山の大蛇を退治した際、毒気にあたり、命からがらこの泉にたどり着き、清水で体をいやしたところ、高熱がさめたという話が伝わっている。 それゆえ「居醒の清水」と呼ばれ、また醒井という地名もこの話が発端になったといわれている。
【醒井七湧水】十王水、天神水、西行水・・・・
【六軒茶屋】
■番場宿(江戸から62番目の宿場)
【蓮華寺】
聖徳太子の創建と伝えられる古刹であるが、鎌倉幕府崩壊の端緒となった六波羅探題北条仲時以下432人が自刃した悲劇の古戦場であり、更に戯曲「瞼の母」(番場の忠太郎)(長谷川伸)の舞台になったことでも有名である。(この時の死者の名前を記した過去帳は重文)
■鳥居本(とりいもと)宿(江戸から63番目の宿場)
【摺針(すりばり)峠】
【望湖堂】
広重の絵には峠の下に、すぐ琵琶湖が広がっているが、今は、新田開発がすすみ内湖の姿はみられず、琵琶湖の姿はかなり先にしか見られないという。茶屋があったら摺針餅でも食おう。
【赤玉神教丸本舗】腹痛や下痢止め薬
【本家合羽所木綿屋嘉衛門】和紙に柿の渋で防水
【上品寺】
歌舞伎で演じられる「法界坊和尚」の鐘が残る上品寺がある。遠い江戸から大八車に乗せて、その鐘には、遊女たちを含めた寄進者たちの名前が刻まれている。歌舞伎での法界坊は、破戒坊として演じられているが、じっさいは全く逆で、遊女を救った良いお坊さんだったと。この地まで運んだという鐘は、吉原の花魁(おいらん)たちの浄財を受け、悲運の遊女たちを供養するために作られたという。時間によっては上品寺は、次回中山道17に回す。
◎鳥居本駅(近江鉄道)より、電車かタクシーか歩きかでJR彦根駅へ(彦根城は中山道17)
(電車で5分17:14、18:14 160円 近江鉄道)
びわこドリーム2号(西武バスー3列)
JR彦根駅前発23:20(バス停を確認 料金は運転手に)
29日(水)池袋駅東口着6:20
極楽湯 彦根店0749-26-2926 滋賀県彦根市西沼波町175-1 650円 食事処あり
(全国チェーン展開、前回と違って、安心してゆったりできそうだ。)
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中山道を歩くー資料編⑥ー鳥居本宿~守山宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

08-11-30(日 )~12月2日(水)
中山道17見る所
30日(日)ムーンライトながらJR東京駅(9番線)発23:10 
1日(月)朝、大垣駅着6:52 
   乗り換え(列車前方から階段を登ってホームを移動)
大垣駅発6:57発東海道本線(東海)(加古川行)(各停) 彦根駅着7:41
◎彦根駅近辺で朝食後、彦根城へ(開城 8:30) 徒歩15分
【彦根城】(国宝の一つ。後は、犬山城、姫路城、松本城)
姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。(滋賀県観光情報より)(天守、玄宮園、博物館見学セットで1000円。年中無休)
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
武田家が勝頼の代でほろんだとき、家康は織田信長のゆるしをえて武田家のめぼしい将士を大量に吸収した。しかもそのほとんどを直政の家来にした。武田家は、赤備(あかぞなえ)といわれた。・・・「井伊の赤備」とよばれるようになった。・・・佐和山城 ・・・戦後、直政が近江における三成の旧領をひきついだとき、この一点に気を使った。・・・彦根城の築城は、家康の意図から出た。・・・
金阿弥 一遍上人(時宗の開祖) 直政一代は佐和山城に居た。井伊直孝(庶子)
家康が介入して後継に決めた。(異例)
◎電車で鳥居本へ
■鳥居本(とりいもと)宿(江戸から63番目の宿)
【摺針峠・望湖堂】
天気、時間をみて、摺針峠・望湖堂まで行き琵琶湖を見るか。鳥居本駅にはタクシーの常駐なし。近江タクシー0749-22-0106(彦根)摺針峠往復約4000円(30位)とか。高い。
【上品寺(じょうぼんじ)】
歌舞伎で演じられる「法界坊和尚」の鐘が残る上品寺がある。遠い江戸から大八車に乗せてきた。その鐘には、遊女たちを含めた寄進者たちの名前が刻まれている。歌舞伎での法界坊は、破戒坊 として演じられているが、じっさいは全く逆で、遊女を救った良いお坊さんだったと。この地まで運んだという鐘は、吉原の花魁(おいらん)たちの浄財を受け、悲運の遊女たちを供養するために作られたという。
【本家合羽所】
神教丸の他、もう一つの名産は鳥居本合羽。桐油紙製の折り畳み式道中合羽で、雨具として必需品であった。雨の多い木曽山中へ向かう旅人達が盛んに買って行ったという。柿渋や紅殻も使い保温、防水、防湿を高めたらしい。
■高宮宿(江戸から64番目の宿場)
【多賀大社】近江鉄道多賀線 高宮駅から多賀大社前まで6分。(時刻表はエクセル資料にあり)多賀大社は「寿命長久」「縁むすび」の御霊徳高く、古くから「お多賀さん」と呼び親しまれた淡海国(近江国)第一の大社。
「お伊勢参らばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」
「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さんへは月まいり」
【高宮神社】
【円照寺】明治天皇安在所聖跡の碑
【本陣跡】【脇本陣跡】
■愛知川(えちがわ)宿(江戸から65番目の宿場)
【唯念寺】行基が49番目に建てたといわれる古刹。 
雄大な本堂、書院「芙蓉閣」、雨の前の日には紫になるという伝説を残す紫石のある庭園。
【伊藤忠兵衛記念館】
松尾寺道は湖東三山の一つ、金剛輪寺(松尾寺)に向かう。西明寺、百済寺など紅葉の真っ只中と思われる。どこかからか三山のうち一つでも回れるかどうか情報収集。街道沿いの小さなお寺の紅葉の方がいいかも知れないが。(平安、鎌倉時代の仏教美術の宝庫)
【常夜燈】御幸橋の前後にあり、規模大。二つが対峙、「睨み灯籠」とよばれる。
【近江商人亭】
【豊満寺】親鸞上人の手植えの紅梅が有名 四脚門は国重要文化財
【八幡神社】
 (今日の泊まり)  
  ビジネス旅館 近江屋(0749)42-2427  若そうなオジサンが電話口に出てきたので、前回のようなことはなさそうだ。
【五個荘(ごかしょう)】多くの近江商人を輩出した地として知られる。
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
・・どの家も成金趣味がかけらもなく、どれもが数奇屋普請の正統をいちぶもはずさず、しかもそれぞれ好もしい個性があった。金のかけ方に感心したのではない。・・・(ここで言っている場所は、少し街道から外れているので寄れないと思う。)
【西沢梵鐘】
■武佐宿(江戸から66番目の宿場)
【奥石(おいそ)神社】豪壮な檜皮葺きの本殿は信長の寄進で、天正年間の建築
【老蘇森(おいそのもり)】平家物語にも登場するなど古くからの文学の題材になった。
  世やはうき 霜より霜に 結びおく 
      おいその杜の もとのくち葉は (定家)
【鎌若宮神社】(もう一つの奥石(おいそ)神社)
【東光寺】六角氏ゆかりの寺
【長光寺(武佐寺)】本尊は、聖徳太子の持念仏といわれる千手観音
【本陣跡】
◎時間があれば、近江鉄道に乗って近江八幡(豊臣秀次が基盤築く)に行ってみるか。
【住蓮坊首洗池】
法然の弟子・住蓮坊が、後鳥羽上皇の后妃(?)を尼にした罪により、ここで斬首されたという。法然も連座、土佐に配流(承元の法難)
【鏡神社】
新羅から渡来してきた王族を祀るといわれ、その子孫がこの地に陶芸を伝えたとされる。神社入り口左手の松(上部なし)は、義経が鞍馬山を出て奥州に向かう途中、ここで元服した際に烏帽子を掛けた松といわれる松。その先の元服之池は、義経が前髪を落として元服したところだと。
【平宗盛終焉之地】
■守山宿(江戸から67番目の宿場)
守山宿は、「東下り」の場合に「京発ち守山泊まり」が一般的で、なかなかの賑わいを見せていたそうだ。
【八幡道(朝鮮人来朝道)】
【蓮照寺】
【近江富士(三上山)】俵藤太の百足退治で有名
【慈眼寺】伝教大師の創建と伝えられる古刹
【山中油店】清浄生掛の看板 
和ろうそくはハゼの木の実の油(木蝋)を固めて作る。清浄生掛(しょうじょうきがけ)というのは、一本一本手で作ることをいうのだと。記念に「和ろうそく」を買うか。  
【東門院守山寺】
守山の地名はこの寺によるといわれるが、この寺の名は、桓武天皇が「わが山を守り給う寺」という意味で名付けたという。東門院は延暦寺の東門の意で、「比叡山の東門として山を守る」ということになるそうだ。不動明王像と石造五重塔は、国重要文化財
JR守山駅に出て2駅目、草津駅へ 
○極楽湯(550円)南草津店
守山駅に出て、南草津駅下車
草津市野路町1015-1   077-569-2611
夜行バスは、草津駅東口発 22:10
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中山道を歩くー資料編⑦ー守山宿~大津宿

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

09-4-5(日 )~7日(火)
中山道18(最終回)見る所
5日(日)新幹線 
  東京駅発 8:33(ひかり405号)
  米原駅着10:49
     発11;00
    (東海道・山陽本線快速(網干行)(快速))
  野洲駅着11:34
■守山宿(江戸から67番目の宿場)
守山宿は、「東下り」の場合に「京発ち守山泊まり」が一般的で、なかなかの賑わいを見せていたそうだ。
【八幡道(朝鮮人来朝道)】
【蓮照寺】
【近江富士(三上山)】俵藤太の百足退治で有名
【慈眼寺】伝教大師の創建と伝えられる古刹
【山中油店】清浄生掛の看板 
和ろうそくはハゼの木の実の油(木蝋)を固めて作る。清浄生掛(しょうじょうきがけ)というのは、一本一本手で作ることをいうのだと。記念に和ろうそくを買うか。  
【東門院守山寺】
守山の地名はこの寺によるといわれるが、この寺の名は、桓武天皇が「わが山を守り給う寺」という意味で名付けたという。東門院は延暦寺の東門の意で、「比叡山の東門として山を守る」ということになるそうだ。不動明王像と石造五重塔は、国重要文化財
【今宿一里塚】滋賀県唯一の一里塚
■草津宿(江戸から68番目の宿場)
中山道、東海道合流地。本陣2、脇本陣2、旅籠70軒の規模があったそうだ。
【伊佐佐神社】
【本陣(田中七左衛門)】(現存する本陣としては最大級)
大名などの休泊所で、草津に2軒あったうちのひとつで田中七左衛門本陣と称す。約4,800平方メートルという広大な敷地に、畳敷268畳部屋数39室あまりを数え、本陣としては最大のクラスを誇る。書院造りで、表門、御除ヶ門、敷台のある玄関、上段の間、庭と一定の型を示し、東海道筋の本陣で、ほぼ完全に残るのは、ここだけである。建物のほかに、多数の関札、182冊にものぼる宿帳など、貴重な資料が数多くあり、一部は展示されている。大福帳には、浅野内匠頭、吉良上野介、新選(撰)組、皇女和宮、シーボルト一行、徳川慶喜などの休泊がしるされている。 
【立木神社】
【野路 萩の玉川】
本日の宿泊
 ニューびわこホテル 大津市月輪1-9-18 TEL 077-545-0101
■大津宿(江戸から69番目-中山道最終の宿場)
【近江国一ノ宮・建部大社】
近江一ノ宮といわれ、滋賀県では一番古いお宮さんということになっている。「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)が祭神。 源頼朝が京都から伊豆へ流される途中、武運を祈り、後年それが成就したことから、「出世開運」の神様として知られる。なぜか、商売繁盛、縁結び、医薬品、醸造の神様としても、人々の崇敬を受けている。
【瀬田の唐橋】
日本史に関わりが深い橋として、日本三名橋の一つになっている。天武天皇元年( 672)の壬申の乱に際して、大海人皇子軍と大友皇子軍の決戦場となった橋で、“唐橋を制するものは天下を制す”と言われ、京へ通じる軍事・交通の要衝として幾多の戦乱の舞台になった。橋は幾度となく破却・新設・架替を繰り返し、天正3年(1575)には、織田信長が幅四間・長さ百八十間余りで欄干付きの物を建設している。現在の橋は昭和54年に架け替えられたもので、鉄筋コンクリート製、欄干には擬宝珠をつけ、情緒豊かな外観となっている。琵琶湖の排水川は、湖南端から流れ出る瀬田川のみで、橋の付近は近江八景“瀬田の夕照り”として古くから知らている。
○瀬田の唐橋を渡り、京阪石山坂本線「唐橋前駅」から、「石山駅」(1駅)へ
石山駅から徒歩10分で石山寺へ(往復なので、荷物は駅に預けよう)
【石山寺】(境内図添付)
西国三十三カ所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている。国宝の本堂・多宝塔を始め漢書、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。
石山寺多宝塔
建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝えられる日本最古の多宝塔で国宝に指定されている。 均整のとれた優美な建築で、内部の柱や天井の廻りなどには仏像や草花などの絵が描かれている。
月見亭
近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設け られ、後白川天皇以下歴代天皇の玉座とされた。
石山寺豊浄殿
多宝塔の北西、石山寺の最も高いところに新設された宝物館。毎年春と秋の2回、石山寺に残されている宝物を紫式部などのテーマ別に一般に公開する。
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)である。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
平安時代には、宮廷の女人たちのあいだで、観音堂に参籠し読経しながら一夜を過ごすのが流行りました。紫式部はここに参籠して「源氏物語」の想を練り、また、清少納言、和泉式部、『蜻蛉日記』の藤原道綱の母、『更級日記』の菅原孝標の女なども石山寺のことを日記や随筆に記しています。石山寺は、芸術家や文人たちに深い感応を引き起こし、女流文学の開花の舞台となりました。その後も、松尾芭蕉や島崎藤村をはじめ、石山寺を慕う文人たちを多く集めています。
【義仲寺】
寿永4年(1185)木曽義仲は、源頼朝が遣わした源範頼・義経の軍勢とこの地で戦って敗死した。寺は義仲の菩提を弔って、愛妾の巴御前が建てた草庵が始まりとされている。のちの天文22年(1553)、近江源氏の流れをくむ佐々木高頼が、諸堂を建てて寺観を整えた。
日では埋め立てにより琵琶湖が遠のいたが、昔の寺域は粟津ヶ原と呼ばれ、湖畔をさざ波が洗う景勝地であった。この風光を愛した芭蕉は、大坂本願寺南御堂前の花屋仁左衛門の別宅で客死したが、遺言によりこの寺に葬られた。
境内には、本堂(朝日堂)・翁堂・無名庵・義仲墓・芭蕉墓・芭蕉句碑などがあり、全体が史跡指定になっている。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」芭蕉
○義仲寺を過ぎ、京阪石山坂本線「石場駅」から、「三井寺駅」へ(3つ目)へ
 三井寺駅から徒歩10分で三井寺へ(荷物は石場駅か三井寺駅で預けよう)
【三井寺(みいでら)】
天台寺門宗の総本山。境内には天智・天武・持統の3帝の御産湯に用いられた閼伽井(あかい)と呼ぶ井戸があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれており、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、釈迦堂、三重塔、唐院など諸堂が建ち並び、国宝、重要文化財は100余点を数える。三井寺は、正式名は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といい、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも有名。 奈良時代、壬申の乱に敗れた大友皇子の霊を弔うために創建された古刹で、大津に都があった時代からの歴史を誇る。(平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興された)。勧学院は学問所として、1312(正和元)年に創立されたもので、火災や秀吉の破却にあったが、慶長5年に再建。南列の一之間と広い二之間には、 狩野光信による華麗な障壁画が部屋を飾っている。
【琵琶湖疏水(びわこそすい)】
琵琶湖から京都へ続く人工水路。着工から約4年8カ月かけて、1890年(明治23)に完成した。流通経路として活躍しただけでなく、水力発電や上下水道も整備したことで京都の都市機能は著しく発展した。春になると、大津港近くの取水口からトンネルまでの疏水沿いに桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わう。
○「三井寺駅」から「石場駅」に戻り、街道を宿泊地に向け歩く。
【大津事件】
明治24年(1891年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で警備の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられました。幸いなことに津田巡査はすぐに取り押さえられ、皇太子も額に2ヶ所傷を負っただけで命に別状はありませんでしたが、一応大事をとり、そのあとの日程をキャンセルして数日後帰国の途に付きます。当時日本はまだ国際舞台に登場してから30年の弱小国、相手は大ロシア帝国ということで政府は震え上がり、明治天皇が事件の2日後には京都に駆けつけて皇太子の宿舎を訪問しお見舞いをするとともに、全国に鳴り物自粛の通達が出るなど、日本中が大騒ぎになります。全国からのニコライ皇太子へのお見舞いの手紙も1万通に及びました。政府は更にロシアに対して謝罪の意を明らかにするため、津田巡査を死刑にすべく裁判所に圧力を掛けます。しかし、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能でしたが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになります。従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理がありました。このため裁判を担当した大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治主義遵守の立場から政府の圧力をはねつけ、法定刑内で「無期懲役」の判決を下します。この事件はこのことにより、児島が司法の独立を守った事件として語り継がれることになりました。なお、このニコライ皇太子はこのあと悲惨な運命を背負っていました。この事件の3年後即位してニコライ2世となりますが、その10年後1904年にはこの日本と日露戦争を戦い、この戦争で、この地の果ての小さな島国に負けてしまいます。その戦争のさなか革命(ロシア第一革命)が起き、国内の舵取りに苦心することになり、宮廷内は怪僧ラスプーチンに荒され、最後1917年にロシア2月革命が起きると退位させられ、翌年家族ともどもレーニンらの革命政府に処刑されてしまいます。
本日の宿泊
  スーパーホテル大津駅前 大津市京町3-2-7  
             TEL 077-522-9000
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中山道を歩くー資料編⑧ー大津宿~京へ

2009年04月09日 |    ・中山道・資料編

7日スタート
【蝉丸神社】
JR大津駅から国道161号線に入り、京都方面にしばらくいくと、京阪電車の線路に横切られた参道が見えてきます。これが関蝉丸神社下社です。境内に入るとすぐに、紀貫之が
「逢坂の/関の清水にかげ見えて/今やひくらん/望月の駒」
と和歌に詠んだ「せきのしみづ」の泉と石碑が目につきます。こぢんまりとした拝殿の横には、「時雨燈籠」と呼ばれる六角形の重厚な石灯籠があり、国の重要文化財に指定されています。
関蝉丸は、百人一首にある
「これやこの/ゆくもかえるも/わかれては/知るも知らぬも/逢坂の関」
の和歌で知られる平安時代の歌人です。彼は琵琶の名手としても有名で、世阿弥の謡曲『蝉丸』にも登場しています。関蝉丸神社は、上社、下社、分社の3つがありますが、一般に関蝉丸神社といえば、この下社を指します。もともとの祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、嵯峨天皇でしたが、後に蝉丸も歌舞音曲の神として合祀されるようになり、音楽に関わる人々の信仰を集めています。
【謡曲『蝉丸』】
延喜帝(えんぎてい)の皇子であった蝉丸は、幼少の頃から盲目で、逢坂山に捨てられました。一方、蝉丸の姉である逆髪(さかがみ)も前世の業が深く、狂女となり徘徊していました。逢坂山で孤独の身を琵琶を弾じて慰めていた蝉丸は、偶然琵琶の音を聞いてやってきた逆髪と再会。お互いの運命を嘆き合いつつも、逆髪は心を残しながら別れていきます。蝉丸は平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、目が不自由であったにもかかわらず、音曲の神として崇められました。彼が詠んだ「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という和歌はあまりにも有名です。神社の入口に「せきのしみず」という石標があり、拝殿の横には時雨灯籠(しぐれとうろう)と呼ばれる六角形の灯籠があって、風情に満ちています。また、本殿裏の細い山道の入ロに、絶世の美女といわれた小野小町塚があります。
【逢坂の関】
江戸時代、京都と大津を結ぶ逢阪越は、東海道を往来する旅人で賑わっていました。大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた為登米(のぼせまい)の輸送でも重要な役割をはたしていました。これら物資の輸送に牛車が使用され、それを円滑にするため、逢阪越では車石の施設工事や常夜燈の設置、掘り下げ工事などが実施されました。その逢坂峠に「逢阪山関址」の碑とならんで建てられている常夜燈。刻銘から、寛政6年「大津米屋中」の寄進になることがわかります。
○中山道六十九次、25番目の宿 望月宿(再掲)
望月牧は朝廷の官牧。平安朝の初期、清和天皇の貞観七年(856)から、天皇が毎年、八月十五日、満月の日に、この御牧から献上される馬をご覧になる儀式があったので、望月の地名が起こったとされる。献上される馬は信濃十六牧八十四匹のうち、望月の駒が二十匹を占め、八月十五日京都到着を目指し、八月一日、千曲川西岸の御馬寄を出発した。京都では望月の駒のくる日を待ち構えていて、その日は左右馬寮の頭や宮廷の役人が逢坂の関まで出迎えることになっていた。(駒迎)
 逢坂の 関の清水に影見えて
       今や引くらん 望月の駒 (紀 貫之)
 望月の 駒引く時は逢坂の
       木の下闇も見えずぞ ありける(恵慶法師)
 あづま路を はるかに出づる望月の 
       駒に今宵や 逢坂の関(源 仲正)
○地下鉄東西線で「山科駅」から、「醍醐駅」へ(往復) 荷物は山科駅に預けよう。
【醍醐寺】
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。1939年夏、上醍醐を襲った山火事で短時間の間に、経蔵など点在する建築が焼失した。1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震の影響で、五重塔、金堂などの漆喰がはがれた。2008年8月24日の火災により、醍醐寺東側の山上にある西国三十三観音霊場第11番札所の「准胝(じゅんてい)観音堂」がほぼ全焼した。醍醐の花見で、もっと有名なのが1598(慶長3)年3月15日(旧暦)の宴。北の政所(ねね)や淀殿(織田信長の妹お市のかたの子供茶々)、その子・幼い秀頼を引き連れて開いたその宴では、女房衆が秀吉の何番目の連れあいかと言うことで言い争いになり「醍醐の花見の盃い」も庶民の噂になるほど。秀吉はその盛大な宴のあと5ヶ月後8月18日に他界。これが最後の花見となり、そのことで余計に「お花見」と言う文化が一般 に広がったかもしれない。醍醐寺の桜はこれだけではない。創建当時からの唯一の建築物、952(天暦6)年建立の五重の塔を臨むかのように咲く枝垂れ桜は、これまた「豪華絢爛」と言う言葉がぴったり。また、秀吉の醍醐の花見の際に建立された三宝院にも立派な枝垂れがある。 秀吉から日本人の桜好きが始まったと言っても過言ではない。秀吉の家臣も各地に素晴らしい桜を残している。
【三宝院】
醍醐寺総門を入ってすぐ左手に立つ。桃山時代の華麗な障壁画などで彩られた葵の間(重要文化財)や秋草の間(重要文化財)、勅使の間(重要文化財)を通り表書院(国宝)に続く。表書院からは秀吉が「醍醐の花見」の際に自ら設計したという庭園(特別名勝・特別史跡)を眺められる。聚楽第から移した藤戸石などの石組みと刈り込みが美しく、桃山時代を代表する庭園だ。三宝院南側に霊宝館があり、薬師堂の薬師如来像(国宝)などの寺宝を収蔵する。三宝院は永久3(1115)年、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3(1598)年、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。三宝院庭園は、この醍醐の花見に際して、豊臣秀吉が自らが基本設計を行ったものである。作庭は醍醐の花見が終わった4月から始められ、その年の8月に秀吉が死去した後は義演の指導のもとで続けられた。義演は秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を作庭に参画させた。庭師の中には「天下一の石組の名手」と称された賢庭もいた。作庭は義演が亡くなる1624年(元和10年)までの27年間にわたった。
【随心院】
随心院(ずいしんいん・ずいしんにん)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。随心院(ずいしんいん)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。空海の8代目の弟子にあたる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。寺名は「隨心院」とも表記する。  小野小町は、大同4年(809年)頃 - 延喜元年(901年)頃)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。出羽郡司小野良真(小野篁の息子)の娘といわれる。仁明天皇の更衣だったらしい。また文徳天皇の頃も仕えていたらしい。「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる。また彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われる。小野小町に材をとる作品を総称して「小町物」という。
昼飯・・・そば処萬寿亭橘 (随心院門近く)
○地下鉄東西線「小野駅」から「山科駅」へ戻る。
【岩屋寺】(今回寄らない)
曹洞宗永平寺派の寺院。大石内蔵助は、赤穂城退去後、赤穂藩士で山科出身の進藤源四郎の縁故によりここに家屋を建て、永住を装ったとされる。祇園や伏見で遊行にふけって世間の目を欺きながら、いよいよ仇討ちのために江戸へ出発するまでの1年余り、山科を一望できるこの景勝の地に過ごした。境内には、内蔵助ら四十七士の木像や遺品、内蔵助の遺髪塚等があるほか、当時の屋敷の古材で作られた茶室が建つ。
○山科駅から毘沙門堂まで徒歩15分 タクシーを使おう。
【毘沙門堂】
桜で知られる毘沙門堂は、毘沙門天を本尊とする天台宗の門跡寺院。寺の起こりは古く奈良時代に遡り、文武天皇の勅願で行基によって出雲路のあたりに開かれていたが、兵火にあって苦難の道をたどり、江戸初期に天海僧正により現在地に再興されて以来、門跡寺院となった。急な石段を上って仁王門をくぐると、木立に彩られて本殿、宸殿、霊殿などが並ぶ。宸殿は後西天皇の旧殿を賜ったもので、障壁画116面は狩野益信筆の山水画。晩翠園と名づけられた庭園には心字の池がある。春には樹齢150年のしだれ桜がみごと。本堂の意匠は、日光東照宮に酷似だと。
【天智天皇陵】
天智天皇が奈良・飛鳥に日本初の水時計台を造ったことにちなみ、参道入口には石の日時計が立つ。参道を進むと拝所へ至る。天智天皇は大化の改新を断行、近江大津宮で668年(天智7)に即位。3年後に死去し、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。松並木の途中に琵琶湖疏水の表示があり、石段を上がると疏水の流れが見える。
【山科疏水(やましなそすい)】
山科疏水は1890年(明治23)、琵琶湖の水を京都へ供給するために造られた琵琶湖疏水である。その脇には約2?に渡る遊歩道が整備されており、京都の人々の散歩コースとしても親しまれている道だ。春には桜が咲く乱れ、秋には紅葉が見事に紅く染まる。途中には稲荷社を祀った永興寺や、金箔に覆われた大梵鐘で有名な本圀寺など、お立ち寄りスポットが多数ある。
【南禅寺】
正応4年(1291)、亀山上皇が離宮を大明国師に与えて禅寺に改めたのが起こりです。また、京都五山の上に位置したという格式の高さを誇っており、当時最も傑出していて、日本文化史上重要な役割を果した禅僧が歴代住持として住山し五山文学の中心地として栄えました。歌舞伎「山門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と大見得を切る舞台となった山門があることで有名です。この山門は、2層からなる高さ22mの壮大な楼門で、その門前に建つ石燈篭も高さ6mを誇り、日本一大きいことで知られています。 寺内には日本を代表する見事な庭園が数多くあります。中でも「虎の子渡し」と呼ばれる庭園は、樹木と石組を1ヵ所にまとめて広い余白が楽しめるようになっており、小掘遠州作の枯山水庭園は見ごたえがあります。また大方丈(国宝)は、天正年間に豊臣秀吉が寄進した、御所の清涼殿を慶長16年(1611)に移したものです。この清涼殿に接続された後方の建物である小方丈(国宝)は桃山城の小書院を移したもので、大方丈・小方丈ともに、狩野探幽ら狩野派の筆による襖絵があり、小方丈の襖絵は「水呑みの虎」と呼ばれ特に有名です。 境内の南奥にある方丈から山手へ上るとたどり着く南禅院は亀山上皇の離宮・上の宮の跡に造られた別院で、南禅寺の名前はこの名に由来しているとのことです。 庭園は夢想国師作と伝わる池泉回遊式庭園で鎌倉時代の代表的なもので周囲は深い樹林に包まれ、離宮当時の面影を残しています。
【高山彦九郎像】
寛政の三奇人の一人高山彦九郎は、上野(こうずけ)国新田郡の出身、情熱家で涙もろく、短気でくそ真面目。勤王思想家として東北から鹿児島まで遊説に歩いた。農民の苦労は田舎出身だからよく知っている、これは幕府の政治に問題がある、朝廷の復権を願う・・・という考え方。この銅像は、彦九郎が18歳で京都に来たとき、御所の荒廃と若者たちの退廃を嘆き、御所に向かい土下座して泣いた姿である。今は京都の若者たちの待ち合わせ名所「土下座前」と呼ばれている。彦九郎の涙は今も止まらずに流れているかもしれない。
【三条大橋】(京の入り口。日本橋から百三十五里三十二丁。534Km)
鴨川にかかる、東海道、中山道の西の起点となる橋。1590年に豊臣秀吉が造営させたもので、このときの橋脚の一部が、西のたもとに残されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でおなじみの弥次さん喜多さんの像が西のたもとにあります。三条大橋のある三条通は、三条口、粟田口を経て、山科、大津へと通じます。ここで、「中山道六十九次を行く旅」は終了。乾杯!丸2年、長旅、お疲れ様でした。家族に感謝。(山科地区を重点にしたため、御所観覧の時間には多分、間に合いそうもないのであきらめる。)
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中山道歩き連絡メール集(1)

2009年04月04日 |    ・中山道・資料編
(幹事さんのための参考として)
【中山道 連絡1~5】2005-04-15~
先程はどうも。中山道も歩けばいいってもんでもないと思う。
発見や感動がないとなー。そのためには事前の準備が必要だし、その一つとして次のような本があるので、本屋に注文して読んでおいてほしいと思うんだが、どうだろう。旅は基本的には2~3日歩いて帰ってきて、また日程を決め現地集合して歩くというようなスタイルになるのかなー。
中山道69次、534Kmの踏破は、場合によっては2~3年かかるかもしれないが、人生いつまでもあるわけじゃなし、何か思いでつくりでもなればと。
本のことはS君にも話してみてくれ。「中山道を歩く」 山と渓谷社 1500円

2007-5-6
どうも。連休はどうしたかな?
さて、4月30日に、F君、A君と中仙道を歩いてみたよ。
日本橋から戸田橋を越えたところまで歩いたんだが、少し歩きすぎたかもしれない。
休日だったんで良かったが、平日だと車の排気ガスでやられてしまうな。
次回は5月20日(日)、6月24日(日)と云うことにしたんだが、都合はどうかな?
連絡を待っているよ。S君にも話てみてくれ。よろしく。

2007-06-04
中山道を歩く(その3)について、次のようにしたいと思ってます。
・集合場所:JR上尾駅開札口
・時  間 :10時
・見たいところのメモを添付しておきましたので、見ておいてください。
ところで、7,8月は暑いけれど、少しは歩かないと、と思っているので、都合のいい日曜日(土曜日)を分かる範囲で連絡ください。(24日に最終確認しましょう)熊が寄ってくる前に、何とか碓氷峠は越したいと思っているんですがね。このメール見たとの確認メールくださいな。

2007-6-17
暑いですなー。
「中山道を行く」のスケジュールについて、現在決定している内容を、念のため連絡します。
6月24日(日)
・集合場所:JR上尾駅開札口
・時  間 :10時集合
・目的地は一応の目処を、JR北鴻巣駅(鴻巣宿)にしておきましょう。
7月14日(土)
 集合場所、時間は未定
7月29日(日)
 集合場所、時間は未定
8月の予定は、どうするかを含め、今度集まったところで検討しましょう。以上。お互い、怪我などしないように。

【中山道 連絡6】2007-08-26
どうも。今度も涼しいといいねー。でも、「残暑厳し」っていうことを覚悟しよう!さて、とりあえず今回のスケジュールや資料を連絡します。地図は、Google Mapをブログのブックマークに付けてあるので、時間のある人は、見ておいたらいかがかな。
1.日   程  9月2日(日) 
2.集   合  JR本庄駅 改札口 10:00時集合
3.到達目標  倉賀野駅(状況によっては、手前の神保原駅か新町駅)(直線で、14.5Km)
資   料  右上クリップ

【中山道 連絡7】2007-09-15
どうも。残暑が厳しいねー。
今度も歩きやすい天候であることを祈ろう。
さて、今回のスケジュールや資料を連絡します。
(右上クリップ)
1.日   程  9月25日(火) 
2.集   合  JR高崎駅 改札口 10:00時集合
3.到達目標  磯部駅(状況によっては、手前の安中駅)
        (約16Km)
いよいよ碓氷峠や妙義山が近づいて来るねーお互い体調を整えておこう!

【中山道 連絡8】2007-10-19
どうも。このところめっきり涼しくなってきましたなー。さて、今回の中山道8のスケジュールや資料を連絡します。(右上クリップ)
1.日   程  10月29日(月)~30日(火)
2.集   合  信越本線磯部駅改札口
        (JR高崎駅発 10:17分発ー6番線ー
                磯部駅着10:35分)
3.宿   泊  場所:安中市松井田町大字坂本1258
        名称:碓氷峠くつろぎの郷コテージA棟 
              (TEL 027-380-4180)
            夕飯、朝食は、隣の「峠の湯」内 
              (TEL 027-380-4000)
費用:コテージ費用4人で14,500円(一人当たり3,625円)峠の湯3時間無料券付き
 (食事は別料金  朝食は予約済みで、朝8時より)
4.到達目標  沓掛宿(しなの鉄道中軽井沢駅)
5.歩く距離   磯部ー(約4Km)ー松井田ー(約10Km)ー坂本(泊まり)坂本ー(約10Km)-軽井沢ー(約4Km)-沓掛(中軽井沢)
6.諸 注 意 
  ・初めての峠の登り、下り・・・ひざを痛めないよう、ス   ピードや歩き方に注意しよう
・熊対策・・・鈴、ラジオ
  ・スズメ蜂対策・・・黒装束は避ける
  ・できれば峠の道順について、インターネットなどで事前   調査
  ・疲れ取りの湿布、塗り薬など
いよいよ信州路へ、紅葉は少しは見られるかな。
このメールは印刷して奥さんに。

【中山道 連絡9】2007-11-16
先日の碓氷越え、ご苦労様でした。最高の日和でした。皆、久しぶりに「信州の秋」に触れましたねーさて、今回の中山道ー9ーのスケジュールや資料を連絡します。(右上クリップ)
1.日   程  11月13日(火)
2.集   合  しなの鉄道「中軽井沢駅」改札口 10:05分 ※あさま509号に乗車
             東 京  8:40
             上 野  8:46
             大 宮  9:06
             高 崎  9:31
             軽井沢  9:48
          ※しなの鉄道 下り
             軽井沢発 10;00 小諸行き
             中軽井沢 10;05 着
3.到達目標  岩村田宿
         (JR小海線「岩村田駅」
・・・長野新幹線「佐久平駅」まで徒歩で20~30分位か)
4.歩く距離   中軽井沢(沓掛)ー(約4Km)ー追分ー(約5Km)ー小田井ー(5Km)-岩村田 合計14Km
5.参   考 
   ・前回渡した「パンフレット」に目を通しておいて下  さい。
   ・高崎からの上野行き「通勤快速」時刻表は、
        18:38発  19:34発  20:31発  
6.お 願 い  
今までの撮ってある写真は、適当に見繕って、12月の忘年会で交換会をやりたいので、時間を見て、写真屋に焼き増し(SDカードを持っていけば大丈夫)を頼んでおいてください。(有料で)
私の方は、どこかの場面のビデオをCD-ROMに焼いて配れないか、研究中。
A君へ 忘年会の日程は、2~3候補を挙げて下さい。
冷たい雨にならないよう、祈りましょう!!綺麗な浅間山を背に、佐久を歩きたいものですなー。

【中山道 連絡10】2007-11-16
先日はご苦労様でした。「晩秋の信州」もまた、良かったですなー
さて、今回の中山道ー10ーのスケジュールや資料を連絡します。(右上クリップ)
1.日   程  11月18(日),19(月)、20日(火)
2.集   合  
    18日、JR小海線「岩村田」駅前 9:50分頃
       ※あさま663号に乗車(前回より一本早い)
             東 京  8:16
             上 野  8:22
             大 宮  8:42
             高 崎  9:11
             佐久平  9:36
       ※歩きで、岩村田駅へ(小海線は連絡悪し)※私は、義兄の見舞い(佐久病院)の関係で17日(土)、岩村田の佐久セントラルホテルに泊まります。
3.到達目標  下諏訪宿
4.歩く距離 (詳細は別添資料参照)
        1日目 岩村田宿~望月宿(11,5Km)
        2日目 望月宿~和田宿(19Km)
        3日目 和田宿~下諏訪宿(22Km)
5.泊まりの費用等
        18日 望月宿・・・山城屋  
       (一泊二食、6800円)税・サービス料込み
        19日 和田宿・・・本亭旅館 
(一泊二食、7665円)多分、税・サービス料込み翌日のお昼のおにぎり代を含む)
※奥方には、別添の資料は印刷して渡しておいてくださいよ。(電話番号など)
        中央線  下諏訪ー新宿 乗車券3570円、特急券2410円
(今後は、夜行バスを研究する必要あり)
今年最後で、最大のしんどさの中山道歩きです。どうも和田峠は、道もしっかりしてないところもあるみたいなので、皆でよく見ながら、またペースを旨く取りながら歩きましょう。熊対策には、やっぱり鈴がいいかなー夜には、足腰の養生もしっかりやっておこう。整理体操も忘れず。ともかく天気が一番重要となりますなー。
特に、峠越えは何とか雨にならないよう、全員でしっかり祈りましょう。

【中山道 連絡11】2008-03-23
すっかり春めいてまいりましたなー。さて、いよいよ”中山道を行く”再始動の時期が近づいてきました。中山道11の連絡をします。(先日渡したものの修正版を添付します)
1.日程 
  4月20日(日)~22日(火)
2.出発時刻
  新宿高速バスターミナル・・・8時20分発
  (京王百貨店真向かいのMY新宿第二ビル裏)
3.集合
  バスターミナル入口近辺に8時前後に集合
  (昨日、乗車券は往復とも購入済みなので、バタバタしな   くて済む)
  ※JRハイウエイバスのターミナル(新宿駅新南口)と間   違わないように。)
4.歩きのポイント
  ・2日目の歩きが長い(25.5Km)ので、朝、早めに塩   尻宿を出発する。
  ・奈良井宿ではゆっくり、のんびり見学できる。
  ・きついと云われる鳥居峠は、和田峠や碓氷峠と比べれ   ば、さほどのことは無いと思うが。
5.費用の概算
  ・交通費・・・6,425円(行き2,750円、帰り3,675円・・
    ・回数券にして割引済み)
   (乗車券は立替購入済み。当日、私に下さい。)
  ・ホテルあさひ館(一泊朝食付きで 6,300円)
  ・民宿津ち川(一泊二食で7,500円)
   と云うことで、判っているもので、20,225円也。
お天気はA君に任せます。お互い、健康、怪我に注意して過ごしましょう。いい気分で、桜咲く信州路、木曽路を歩ければいいねー
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中山道歩き連絡メール集(2)

2009年04月03日 |    ・中山道・資料編
(幹事さんのための参考として)
【中山道 連絡12】2008-05-13
いよいよ若葉の萌える季節、木曽路も丁度いい季節だろうなーと思う。
中山道12の連絡をします。
1.日程 
  5月25日(日)~27日(火)
2.出発時刻
  新宿高速バスターミナル(前回と同じ)・・・・・・・・・・8時10分発
  ・新宿~木曽福島線で「やぶはら」到着予定・・・11時59分着
   昼飯は、「やぶはら食堂で」
3.集合
  バスターミナル入口近辺に8時前に集合
  (行きの乗車券は購入済み)
4.ポイント
  ・初日は少し歩く距離は長いが、峠も無いし、どうってこ   とはないと思う。
  ・宮ノ越宿でようやく中山道中間点。
  ・今回の旅のメインは木曽福島宿か。
5.費用の概算
  ・添付資料の通り。
  ・交通費・・・行きの乗車券 3,675円・・・回数券   にして割引済み)
   (乗車券は立替購入済み。当日、私に下さい。)
◎その他
  7月の日程は、27(日)28(月)29(火)ですが、都合を確認しておいて下さい。8月は夏休みとしましょう。お天気はA君に任せます。頼むよー。
お互い、健康、怪我に注意して過ごしましょう。緑一色の木曽路を、いい気分で歩ければいいねー

【中山道 連絡13】2008-06-14
中山道13の連絡をします。
いよいよ中山道歩きも、今回ハイライトを迎えることになる。
今回で「木曽路」は終わり、じっくり味わいたいねー。
お寺で泊まるのは初めてだね。
「夜明け前」の最終で、藤村の親父さんが火を付けたことになっているお寺さんだ。
1.日程 
  6月22日(日)~24日(火)
2.出発時刻
  新宿高速バスターミナル(前回と同じ)・・・・・・・・・・8時10分発(前回と同じ)
  ・JR木曽福島駅前到着予定・・・12時20分着
   昼飯は、駅前で適当に。
3.集合
  新宿バスターミナル入口近辺に、8時前に集合
  (行きの乗車券は当日、回数券で購入する)
4.添付資料(必ず目を通すこと)
 (1)木曽路12宿歩き計画表(エクセル)(2)中山道13見る所
6.費用の概算
  ・添付資料の通り
◎その他
  7月27(日)(大井宿)ビジネスエナプラザ予約済み
    28(月)(細久手宿)大黒屋予約済み
お天気はA君に任せます、頼むよー。記録が伸ばせるか。お互い、健康、怪我に注意して過ごしましょう。緑一色の最後の木曽路を、いい気分で歩ければいいねー

【中山道 連絡14】2008-07-13
暑いねー さて、中山道14の連絡をします。いよいよ中山道歩きも、後半戦、美濃路歩きが始まる。真夏の美濃路。十三峠など聞いただけでも暑そうな。でも、昔の中山道の雰囲気が残されているところも多いらしく、楽しみだ。道探しも、また、いつものように協力して歩きましょう。暑さ対策、雨対策もしておこうぜ。
1.日程 
  7月27日(日)~29日(火)
2.出発時刻
  新宿新南口・・・・10時40分発(中央ライナー3号)
    中津川インター到着予定・・・15時35分着
3.集合
  新南口高速バス待合室に10:15分前後に集合
・バス料金@4700(先に行って、まとめて買っておくよ)
・昼飯は、バスに乗り込む前に、各自用意(飲み物も)
4.添付資料(必ず目を通すこと)
  (1)美濃路16宿歩き計画表(エクセル)(2)中山道14見る所(ワード)
6.費用の概算
  ・添付計画表の通り
お天気はA君、頼むよー。雨は不要、涼しい位の日和を願いたい。お互い、健康、怪我に注意して過ごしましょう。

【中山道 連絡15】2008-09-07
まだ暑いねー  少し早いが、中山道15の連絡をします。今回は美濃路真っ只中、関が原の戦いに向け、各大名が右往左往していたいろんな宿場を通って近江路に向かう。山道、峠もなく、国道歩きが大半で、峠に慣れた身には少し物たり無いかも。
1.日程 
  9月28日(日)~10月1日(水)
        (新宿小田急ハルク前5時50分着)
2.出発時刻
  新宿新南口・23時20分発(中央ライナー203号)
    新可児市役所前到着予定・・・29日(月)6時33分着
3.集合
  新南口高速バス待合室に23時前に集合
 バス料金@5100(先に行ってまとめて買っておくよ) (帰りのバスの切符は購入済み@6600円、バスの中で下さい。)
4.添付資料(必ず目を通すこと)
  (1)美濃路16宿歩き計画表(エクセル)
  (2)中山道15見る所(ワード)
5.費用の概算
  ・添付計画表の通り
6.その他
  初めての夜行バス。アイマスクが必要な人は買ってお
いて。(次回は往復、夜行列車の予定)

【中山道 連絡16】2008-10-13
いい天気ですなーさて、中山道16の連絡をします。今回の旅では、先ずは、関ヶ原での戦いをユックリ振り返って見ましょうぞ。関が原を抜け、今須宿「寝物語の里」で、いよいよ最終コーナーの近江路に入る。摺針峠で、快晴の琵琶湖を望みたいものだねー。
1.日程 
  10月26日(日)~10月29日(水)
      (JR池袋駅東口に、朝6時20分着)
2.出発時刻
  JR東京駅・・23時10分発(ムーンライトながら号)
   大垣駅到着予定・・・27日(月)6時52分着
3.集合
  JR東京駅「丸の内中央口」改札口に、22:30に集合
      (下記、東京駅構内図参照)
・指定券(@510円)は買ってあるので、各自、大垣までの乗車券を買うこと。なお、「大人の休日クラブ」など、割引できる手段がある人は活用のこと。
4.添付資料(必ず目を通すこと)
  (1)美濃路16宿歩き計画表(エクセル)
  (2)中山道16見る所(ワード)
5.費用の概算
  ・添付計画表の通り
6.その他
・夜行バスと違って、夜は消灯されない。アイマスクが必要な人は買っておいて。(大型の100円ショップで売ってるよ)
・前回配った、「近江中山道中絵巻(一)柏原~高宮」はよく出来ているので携行いたい。
・帰りの高速バス代は、乗車する時に運転手に支払う。皆で「雨はもういいよ」と祈ろう。Aさん、しっかり頼むよ。

【中山道 連絡17】2008-11-13
ようやく秋の気温に戻ってきたねー。さて、今年最後の旅、中山道17の連絡をします。今回の旅は近江路なので、そう「つっけんどうな人」には逢わないかもしれない?気になるのは、紅葉がどうか、天気はどうかだねー先ずは、彦根城の天守閣に登り、広い琵琶湖を見るか。発見の旅、感動の旅でありたい。
1.日程 
  11月30日(日)~12月3日(水)
      (JR池袋駅東口に、朝6時20分着)
2.出発時刻
 JR東京駅・・23時10分発(ムーンライトながら号)
       大垣駅到着予定・・・1日(月)6時52分着
   (乗り換え)発           6時57分
     彦根駅着            7時41分
3.集合
  JR東京駅「丸の内中央口」改札口に、22:30に集合
      (前回と同じ。下記、東京駅構内図参照)
・指定券(@510円)は買う予定なので、各自、「彦根駅」までの乗車券を買うこと。
   なお、「大人の休日クラブ」など、割引できる手段がある人は活用のこと。
4.添付資料(○必ず目を通し、イメージし、検討すること)
  (1)近江路歩き計画表(エクセル)
  (2)中山道17見る所(ワード)
5.費用の概算
  ・添付計画表の通り
6.その他
・帰りのバス代は、「まとめて」運転手に支払う。(それぞれ丁度のお金を準備)
・お互い、暮れに向け、家の中・外の掃除とか年賀状の準備とかを少しずつやって、気持ちよく送り出してもらおうぞ。
JR東京駅構内図

【中山道 連絡18(最終回】2009-3-10
どうも。時間の経つのが早いねー。
中山道の旅も、とうとう最終回を迎えることになった。少し感慨深いものがありますな。
最終回は見所はありすぎて困るくらいだが、終着点の三条大橋まで絞り込んで歩こう。
例えば、
  ・今までの中で一番大きな本陣、草津宿の本陣
  ・石山寺
  ・三井寺
  ・醍醐寺と三宝院
  (テレビで宣伝してるから、結構混むだろうなーと思う)
  ・隋心院
  ・毘沙門堂 など
街道、各寺院、琵琶湖疏水、山科疏水など満開の桜の中を、発見と感動の旅としたいね。
1.日程 
  4月5日(日)~7日(火)、8日(水)
2.出発時刻
  JR東京駅・・・・・・・4月5日、朝の出発だよ!!
           8時33分発り505号) 7号車
     米原駅着・・・・・10時49分
(乗り換え)発・11時00分 (東海道(網干行)(快速))          
         野洲駅着・・・・・11時34分    
3.集合
  JR東京駅 車内(指定券場所)・・・少し余裕を持って乗り込もう。
4.添付資料(○必ず印刷し、目を通し、地図を見ながらイメージし、検討願いたい)
  (1)中山道18(最終回)見る所 (ワード)
    ・・・いろんな記事を寄せ集めたので長くなった)
  (2)中山道いよいよ京へ(エクセル)
  (3)いままでに歩いてきた歩数・距離表(エクセル)
  (4)石山寺境内図
  (5)山科疏水マップ
5.費用の概算
  ・添付「いよいよ京へ」計画表の通り
6.その他
・A君の帰りの夜行バス(4月7日)は指定券が取ってある。
 (ドリーム京都102号、京都駅烏丸口23:00発 
           東京駅八重洲口 8日6時25分着
・行きのJR指定券・乗車券代は、H君へ。夜行バス(A君用)
        ・・6,000円はCへ
・S君には、このメールの後、近日中に連絡をとる予定。(小宴会、銭湯、8日の予定等)
少し早めにメールするので、間違いとかがあるかもしれないが、連絡下さい。
体調に気をつけながら、また、お天気晴れ、を念じながら過ごしましょう。

【中山道18(最終回-追加-)】
4月7日(火)スケジュール・時間の目安
07:40 「スーパーホテル大津駅前」出発
08:00 蝉丸神社下社到着(発8:20)
10:00 地下鉄東西線山科駅到着(東西線:山科駅―醍醐寺駅)
10:45 醍醐寺到着
11:30 三宝院到着(醍醐寺のとなり)(発12:00)
12:30 そば処萬寿亭橘着 (昼飯) 
13:15 随心院到着(発13:45)(東西線:小野駅―山科駅)
14:30 毘沙門堂到着(山科駅からタクシー利用)(発15:00)
 ~ 山科疏水 ~
16:30 南禅寺到着(発16:50)
17:00 三条大橋到着(発17:20)
17:45 (本能寺経由)桜湯到着(発18:30)
18:50 坐・和民到着(中山道完歩お祝い会)
(三条木屋町店、Mさん)075-256-8897
6名(S君と後輩、我々4名で予約済み)
19:00~21:30 @4,000円
22:00 「スーパーホテル四条河原町」到着
A君  ドリーム京都102号 (JR京都 烏丸口) 23:00発
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